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第四部
第二十二章 紅梅、散り急ぐ 其の二
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◇◆◇
秀忠は着替えて、家康の居間で父と対峙している。利勝は秀忠から少し離れた後ろで控えていた。
先程のぼんやりしていた老人はどこへ行ったのか、圧倒的な存在感で家康は居間に座っていた。
まず秀忠が出したのは、市姫が担うはずであった、伊達への輿入れである。
他人の娘を使わずとも…と秀忠は思った。
「振姫はまだ三つ。勝は虎菊丸よりひとつ年下。」
「結城は前田封じの要じゃ。勝を嫁入りさせねばならぬこと、そなたもわかっておろう。それにのう……近頃は、忠直とあの忠輝がより近しゅうしておるようじゃ。」
忠輝は伊達の姫と結婚した家康の息子である。忠直の父、秀忠の兄であった結城秀康とも仲がよく、舅である伊達政宗の力を借り、あわよくば……と考える野心家であった。
そのことは、秀忠の耳にも入っている。
大御所がひとつ、溜め息をついた。
「ならば、こちらも勝を嫁入りさせて、珠と仲良うさせれば、前田への抑えとなるだけでない。忠直ばかりでなく、忠輝を押さえることができよう。忠輝には、越後をやっておけ。前田を押さえる自覚をつけさせるにもの。」
「では、松を伊達に。」
「たわけ。松は今までの姫とは違う、生まれながらの将軍の姫、しかも御台所が生んだ姫ぞ。さらに、北政所が姉。入内じゃ。入内させるのじゃ。信長様も太閤殿下も叶わなかった。」
家康が顔にグッと力を込め、皺を増やした。
「もう輝政には早馬をやった。振は儂の孫じゃが、徳川の姫とするなら、そちの養女にした方が三左も納得しよう。 振をそちの養女にしたら、市の葬式じゃ。伊達に他の者と縁組みをする隙を与えてはならぬ。支度ができ次第、振は駿府でお梶に育てさせる。」
家康の頭の中には、すでに全ての段取りが出来上がっていた。
「お梶も可哀想での。そちが側室を置いて、もう少し子を生ませておればのう。」
脇息に寄りかかり、チロリと息子を見た家康が小さな溜め息をつく。
「主上のようにですか。それとも父上のようにですか?」
秀忠は冷ややかに皮肉った。家康がフフフと含み笑いをする。
「まぁ、そちのような堅物にしか禁中はさばけぬやもしれぬな。それに、あの数が皆、無事に生まれ育っておるしの。よほどそなたと江の気の相性がよいのじゃろうて。」
自分を見て好色そうにニンマリと笑った父から、秀忠は慌てて目を逸らす。後ろで利勝が忍び笑う気配がした。
(どいつもこいつもっ。)
秀忠は軽く咳払いして、話題を変える。
「父上、先ほど父上は勝と珠、姉妹仲良うさせれば抑えとなると仰せられましたな」
「そうじゃ。もはや無用な争いはせぬが得策。」
「ならば、何故豊臣を追い詰められます。江と淀の方さまは、充分仲のよい姉妹でございましょう。江が徳川におるのです。淀の方様とて戦いたくはないはず。」
「淀の方様に夢から醒めてもらわねばのう。」
まっすぐに切り込んできた秀忠を、家康はとぼけるようにかわした。
「父上!」
真面目に取り合おうとしない父に、秀忠は大声をあげた。
(ここで止めねば、己の望みは叶わぬやもしれぬ。)
秀忠がキリッと唇を噛む。その様子を家康がおかしそうに見た。
膝をくるくると撫でると、大御所はゆっくり口を開く。
「のう、秀忠……、武家を率いるもの、日の本を統べるものは一人しか要らぬ。それは、そなたもわかっておろう。」
「それは……。では、公家を豊臣に統べてもらえれば。」
「甘いのう……。公家には主上がおろう。そして、猪熊事件の仕置きを儂に求めたは他ならぬ、主上じゃ。」
大御所は、ニヤリと微笑んだ。
「徳川は主上より任じられた征夷大将軍じゃ。その命に従えないのであれば、豊臣に謀反の考えありと思われても仕方がなかろうのぅ。」
「主上は親豊臣。そのようにお考えのことありましょうや。」
「ふふ、主上が親豊臣のう……。主上は、自分で日の本を統べたいだけじゃ。 まぁ、主上がどう考えようかなど、どうでもよいがの。」
大御所が目を細め、またもやニタッと笑う。
「無論、儂は太閤殿下に臣従しておった。そういう意味では、豊臣は主家じゃ。 しかし、そういえば、羽柴は織田に臣従しておったのう……。のう? …弟でも将軍になったら弟の方が上よ。のう、秀忠。」
家康は膝をパンと叩き、首を傾けて息子を見る。
秀忠はただ黙って座っていた。
「大坂城は天下を治る城じゃ。その城から動かんのは、動かんのは、じゃ、淀の方さまは、『豊臣が天下人』だと思うておられるのじゃ。天下は豊臣のものではない。」
「徳川のものですか。」
一息ついた大御所の言葉を、将軍がすかさず突いた。
「それほどまでに愛しておられたのじゃのう。」
家康が秀忠の向こう側のなにかを見つめて呟いた。
「はっ?」
「何故かのう。『仇じゃ』と申しておられたに。」
「父上?」
繰り返されるぼんやりとした父の言葉の意味が、秀忠にはわからなかった。
「ということじゃ。淀の方様にとって、江が一番ではない。太閤殿下が一番なのじゃ。大坂城より出ないのであれば、戦となるもやむをえまい。」
唇の片端を上げ、大御所は大きく息を吐いた。
「出てくだされば、戦にはなりませぬか?」
「そうじゃのう……ならぬやもしれぬのう……千に嫌われとうはないゆえ。」
窺うように問う秀忠の言葉に、大御所は髭を撫でる。千姫を思い出したのか、家康の目は穏やかになっていた。
外が次第に茜色に染まろうとしているのが障子を通してでも判る。
からすが一声、カアゥと啼いた。
秀忠が姿勢を正し、家康を一度まっすぐ見ると、ヒタと手をついて頭を下げた。
利勝が後ろで息をのむ。
「父上にお願いがございます。」
「なんじゃ。」
「国松に豊臣の奈阿姫を娶合わせること、お許しくださいませ。」
大御所は頭を下げる秀忠を見て、カリカリと頭を掻いた。
「考えたの。婚礼に淀の方様を付いてこさせるか。」
「はっ。」
さすがは家康である。秀忠の思いを即座に見抜いた。
家康は脇息を前にやり、手を組んで置いた。口許には面白そうな笑みが浮かんでいる。
握り拳をついた秀忠の視線は、まだ床板を向いていた。
「で、世子はどっちじゃ。」
「竹千代にございます。」
「ほっほぉぅ。江も承知か。」
迷いない秀忠の言葉に、大御所は目を丸くする。
「申し渡してございます。」
手をついたまま将軍は顔を上げ、大御所を見た。
「そうか。しかし、国松の嫁だけ先に決めるとまた家中がさざめこう。」
「竹千代には宮家か摂家の姫を。」
秀忠は姿勢を正し家康に答えた。
「まぁ、そうじゃな。九条の姫でももらうか。竹千代には姪になるがよかろう。あっ、姫はまだ生まれておらぬか。」
家康が楽しそうに軽口を叩き、「フォフォフォ」と笑う。
「いえ、摂家ならば、反徳川で主上に近い宮筋の摂家から。」
「そうじゃの。そなたもわかっておるではないか。」
将軍の生真面目な顔に、家康も真顔になった。
豊臣縁故のものばかりを徳川に入れることはない。今の九条にはすでに絆がある。
家康は秀忠の成長が嬉しく、うんうんと頷いた。父の様子に秀忠の心に希望が灯る。
「それが豊臣になると目が曇るのは、江ゆえか?」
父は再びにんまりして、息子を見た。
「いえ、そうではありませぬ。奈阿姫を娶とるご許可を。」
(あと一押しじゃ) 。
秀忠は憮然としながら、もう一度手をつき、頭を下げて、大御所に許しを乞うた。
息子をじっと見た家康が、脇息を横にどけ、太ももをパンと叩いた。
「まずは、豊臣を見てからじゃな。」
「父上!」
秀忠は跳ね起きるように顔をあげる。とぼけたような大御所の顔に、秀忠はギリッと奥歯を噛み締めた。
家康は足に腕を置き、前のめりになった。どこか面白そうな父の顔が秀忠に近づく。
「秀頼殿を一度大坂城から出してみよ。儂が伏見におるときに挨拶させにくるのじゃ。」
「そのような!」
家康の伏見城に秀頼を呼び出す。それは、徳川が格上で豊臣が格下であると暗に世に示す。それゆえ、今まで淀君は「そのようなことはさせぬ」と突っぱねてきた。
「儂は隠居じゃぁ。かわいい千の婿殿と仲良う語らいたいのじゃ。もう先は長うないじゃろうでのう。」
芝居がかった悲しい声で家康は言う。
(狸めっ。)
秀忠はキリッと奥歯を噛んだ。
「まっ、秀頼殿を見てから考えよう。 主上が春宮の元服と譲位を同時にと、しつこう言うておったが、まず元服だけさせる。市の喪中ゆえな。」
「市が死んだのを利用するのですか。」
息子は軽蔑を含んで父を見た。
「しかし、すでに今日ここへ来る前に、京へ譲位を承諾する文を出しましたぞ。」
将軍は、毅然と言った。
「止めればよい。喪中で穢れがあると言うて。」
大御所は蝿を払うように手を振り、少しも慌てず、そう返す。
「譲位は一年の喪が明ける来年の春じゃ。そのときに上洛するゆえ、秀頼殿に挨拶にこさせよ。しかと申し付けたぞ。」
「主上が…、主上が『一度は承諾された』と御譲位を決行なさるときは…」
言葉を失っていた秀忠が、譲位が、時期が、早まらないのか、なんとか探りを入れる。
「金を出さねばよい。」
大御所はしらっと言ってのけた。
「譲位は、来年の春じゃ。忠直と勝の祝言はそのあとにせよ。」
そう言われて秀忠はハッとする。勝の婚礼をすっかり己は忘れていた。
しかし、家康はそれをもすんなり変更し、きちんと段取りをとして頭の中に入れている。
大御所の頭の中には、いくつのことがどのように段取りされているのか、秀忠はその偉大さに、ギリリとまた奥歯を噛み締めた。
家康は家康で、息子の若さを眩しそうに見つめている。
市が早う死んだのは、自分の生気が弱くなっているからだろうと家康は思った。
若いお梶の方と釣り合う気が、命を作り出す気が、自分の中にもうないのかもしれぬ。
市は己の寿命を知らせるために生まれてきたのかもしれぬ。
ならば、ここで動かねば、市の死が無駄になってしまう。家康はそう考えていた。
早くせねば……
地ならしさえしておけば、後は秀忠が立派に使うと家康はわかっていた。
ただ、情に流されるのが急所じゃのう…。自分で気づいておるのかおらぬのか……。己の中にある激情にも……。
飼い慣らせよ、秀忠。己を。
家康は下がっていく息子を見ながら、どことなく心配そうな目で微笑んでいた。
*****
【振姫】池田輝政娘。母は家康の娘(秀忠の異母姉)督。
【虎菊丸】伊達政宗の嫡男
【入内】天皇(または春宮)の后にすること。
【三左】池田輝政
【羽柴】豊臣の姓をもらう前の秀吉の姓。
秀忠は着替えて、家康の居間で父と対峙している。利勝は秀忠から少し離れた後ろで控えていた。
先程のぼんやりしていた老人はどこへ行ったのか、圧倒的な存在感で家康は居間に座っていた。
まず秀忠が出したのは、市姫が担うはずであった、伊達への輿入れである。
他人の娘を使わずとも…と秀忠は思った。
「振姫はまだ三つ。勝は虎菊丸よりひとつ年下。」
「結城は前田封じの要じゃ。勝を嫁入りさせねばならぬこと、そなたもわかっておろう。それにのう……近頃は、忠直とあの忠輝がより近しゅうしておるようじゃ。」
忠輝は伊達の姫と結婚した家康の息子である。忠直の父、秀忠の兄であった結城秀康とも仲がよく、舅である伊達政宗の力を借り、あわよくば……と考える野心家であった。
そのことは、秀忠の耳にも入っている。
大御所がひとつ、溜め息をついた。
「ならば、こちらも勝を嫁入りさせて、珠と仲良うさせれば、前田への抑えとなるだけでない。忠直ばかりでなく、忠輝を押さえることができよう。忠輝には、越後をやっておけ。前田を押さえる自覚をつけさせるにもの。」
「では、松を伊達に。」
「たわけ。松は今までの姫とは違う、生まれながらの将軍の姫、しかも御台所が生んだ姫ぞ。さらに、北政所が姉。入内じゃ。入内させるのじゃ。信長様も太閤殿下も叶わなかった。」
家康が顔にグッと力を込め、皺を増やした。
「もう輝政には早馬をやった。振は儂の孫じゃが、徳川の姫とするなら、そちの養女にした方が三左も納得しよう。 振をそちの養女にしたら、市の葬式じゃ。伊達に他の者と縁組みをする隙を与えてはならぬ。支度ができ次第、振は駿府でお梶に育てさせる。」
家康の頭の中には、すでに全ての段取りが出来上がっていた。
「お梶も可哀想での。そちが側室を置いて、もう少し子を生ませておればのう。」
脇息に寄りかかり、チロリと息子を見た家康が小さな溜め息をつく。
「主上のようにですか。それとも父上のようにですか?」
秀忠は冷ややかに皮肉った。家康がフフフと含み笑いをする。
「まぁ、そちのような堅物にしか禁中はさばけぬやもしれぬな。それに、あの数が皆、無事に生まれ育っておるしの。よほどそなたと江の気の相性がよいのじゃろうて。」
自分を見て好色そうにニンマリと笑った父から、秀忠は慌てて目を逸らす。後ろで利勝が忍び笑う気配がした。
(どいつもこいつもっ。)
秀忠は軽く咳払いして、話題を変える。
「父上、先ほど父上は勝と珠、姉妹仲良うさせれば抑えとなると仰せられましたな」
「そうじゃ。もはや無用な争いはせぬが得策。」
「ならば、何故豊臣を追い詰められます。江と淀の方さまは、充分仲のよい姉妹でございましょう。江が徳川におるのです。淀の方様とて戦いたくはないはず。」
「淀の方様に夢から醒めてもらわねばのう。」
まっすぐに切り込んできた秀忠を、家康はとぼけるようにかわした。
「父上!」
真面目に取り合おうとしない父に、秀忠は大声をあげた。
(ここで止めねば、己の望みは叶わぬやもしれぬ。)
秀忠がキリッと唇を噛む。その様子を家康がおかしそうに見た。
膝をくるくると撫でると、大御所はゆっくり口を開く。
「のう、秀忠……、武家を率いるもの、日の本を統べるものは一人しか要らぬ。それは、そなたもわかっておろう。」
「それは……。では、公家を豊臣に統べてもらえれば。」
「甘いのう……。公家には主上がおろう。そして、猪熊事件の仕置きを儂に求めたは他ならぬ、主上じゃ。」
大御所は、ニヤリと微笑んだ。
「徳川は主上より任じられた征夷大将軍じゃ。その命に従えないのであれば、豊臣に謀反の考えありと思われても仕方がなかろうのぅ。」
「主上は親豊臣。そのようにお考えのことありましょうや。」
「ふふ、主上が親豊臣のう……。主上は、自分で日の本を統べたいだけじゃ。 まぁ、主上がどう考えようかなど、どうでもよいがの。」
大御所が目を細め、またもやニタッと笑う。
「無論、儂は太閤殿下に臣従しておった。そういう意味では、豊臣は主家じゃ。 しかし、そういえば、羽柴は織田に臣従しておったのう……。のう? …弟でも将軍になったら弟の方が上よ。のう、秀忠。」
家康は膝をパンと叩き、首を傾けて息子を見る。
秀忠はただ黙って座っていた。
「大坂城は天下を治る城じゃ。その城から動かんのは、動かんのは、じゃ、淀の方さまは、『豊臣が天下人』だと思うておられるのじゃ。天下は豊臣のものではない。」
「徳川のものですか。」
一息ついた大御所の言葉を、将軍がすかさず突いた。
「それほどまでに愛しておられたのじゃのう。」
家康が秀忠の向こう側のなにかを見つめて呟いた。
「はっ?」
「何故かのう。『仇じゃ』と申しておられたに。」
「父上?」
繰り返されるぼんやりとした父の言葉の意味が、秀忠にはわからなかった。
「ということじゃ。淀の方様にとって、江が一番ではない。太閤殿下が一番なのじゃ。大坂城より出ないのであれば、戦となるもやむをえまい。」
唇の片端を上げ、大御所は大きく息を吐いた。
「出てくだされば、戦にはなりませぬか?」
「そうじゃのう……ならぬやもしれぬのう……千に嫌われとうはないゆえ。」
窺うように問う秀忠の言葉に、大御所は髭を撫でる。千姫を思い出したのか、家康の目は穏やかになっていた。
外が次第に茜色に染まろうとしているのが障子を通してでも判る。
からすが一声、カアゥと啼いた。
秀忠が姿勢を正し、家康を一度まっすぐ見ると、ヒタと手をついて頭を下げた。
利勝が後ろで息をのむ。
「父上にお願いがございます。」
「なんじゃ。」
「国松に豊臣の奈阿姫を娶合わせること、お許しくださいませ。」
大御所は頭を下げる秀忠を見て、カリカリと頭を掻いた。
「考えたの。婚礼に淀の方様を付いてこさせるか。」
「はっ。」
さすがは家康である。秀忠の思いを即座に見抜いた。
家康は脇息を前にやり、手を組んで置いた。口許には面白そうな笑みが浮かんでいる。
握り拳をついた秀忠の視線は、まだ床板を向いていた。
「で、世子はどっちじゃ。」
「竹千代にございます。」
「ほっほぉぅ。江も承知か。」
迷いない秀忠の言葉に、大御所は目を丸くする。
「申し渡してございます。」
手をついたまま将軍は顔を上げ、大御所を見た。
「そうか。しかし、国松の嫁だけ先に決めるとまた家中がさざめこう。」
「竹千代には宮家か摂家の姫を。」
秀忠は姿勢を正し家康に答えた。
「まぁ、そうじゃな。九条の姫でももらうか。竹千代には姪になるがよかろう。あっ、姫はまだ生まれておらぬか。」
家康が楽しそうに軽口を叩き、「フォフォフォ」と笑う。
「いえ、摂家ならば、反徳川で主上に近い宮筋の摂家から。」
「そうじゃの。そなたもわかっておるではないか。」
将軍の生真面目な顔に、家康も真顔になった。
豊臣縁故のものばかりを徳川に入れることはない。今の九条にはすでに絆がある。
家康は秀忠の成長が嬉しく、うんうんと頷いた。父の様子に秀忠の心に希望が灯る。
「それが豊臣になると目が曇るのは、江ゆえか?」
父は再びにんまりして、息子を見た。
「いえ、そうではありませぬ。奈阿姫を娶とるご許可を。」
(あと一押しじゃ) 。
秀忠は憮然としながら、もう一度手をつき、頭を下げて、大御所に許しを乞うた。
息子をじっと見た家康が、脇息を横にどけ、太ももをパンと叩いた。
「まずは、豊臣を見てからじゃな。」
「父上!」
秀忠は跳ね起きるように顔をあげる。とぼけたような大御所の顔に、秀忠はギリッと奥歯を噛み締めた。
家康は足に腕を置き、前のめりになった。どこか面白そうな父の顔が秀忠に近づく。
「秀頼殿を一度大坂城から出してみよ。儂が伏見におるときに挨拶させにくるのじゃ。」
「そのような!」
家康の伏見城に秀頼を呼び出す。それは、徳川が格上で豊臣が格下であると暗に世に示す。それゆえ、今まで淀君は「そのようなことはさせぬ」と突っぱねてきた。
「儂は隠居じゃぁ。かわいい千の婿殿と仲良う語らいたいのじゃ。もう先は長うないじゃろうでのう。」
芝居がかった悲しい声で家康は言う。
(狸めっ。)
秀忠はキリッと奥歯を噛んだ。
「まっ、秀頼殿を見てから考えよう。 主上が春宮の元服と譲位を同時にと、しつこう言うておったが、まず元服だけさせる。市の喪中ゆえな。」
「市が死んだのを利用するのですか。」
息子は軽蔑を含んで父を見た。
「しかし、すでに今日ここへ来る前に、京へ譲位を承諾する文を出しましたぞ。」
将軍は、毅然と言った。
「止めればよい。喪中で穢れがあると言うて。」
大御所は蝿を払うように手を振り、少しも慌てず、そう返す。
「譲位は一年の喪が明ける来年の春じゃ。そのときに上洛するゆえ、秀頼殿に挨拶にこさせよ。しかと申し付けたぞ。」
「主上が…、主上が『一度は承諾された』と御譲位を決行なさるときは…」
言葉を失っていた秀忠が、譲位が、時期が、早まらないのか、なんとか探りを入れる。
「金を出さねばよい。」
大御所はしらっと言ってのけた。
「譲位は、来年の春じゃ。忠直と勝の祝言はそのあとにせよ。」
そう言われて秀忠はハッとする。勝の婚礼をすっかり己は忘れていた。
しかし、家康はそれをもすんなり変更し、きちんと段取りをとして頭の中に入れている。
大御所の頭の中には、いくつのことがどのように段取りされているのか、秀忠はその偉大さに、ギリリとまた奥歯を噛み締めた。
家康は家康で、息子の若さを眩しそうに見つめている。
市が早う死んだのは、自分の生気が弱くなっているからだろうと家康は思った。
若いお梶の方と釣り合う気が、命を作り出す気が、自分の中にもうないのかもしれぬ。
市は己の寿命を知らせるために生まれてきたのかもしれぬ。
ならば、ここで動かねば、市の死が無駄になってしまう。家康はそう考えていた。
早くせねば……
地ならしさえしておけば、後は秀忠が立派に使うと家康はわかっていた。
ただ、情に流されるのが急所じゃのう…。自分で気づいておるのかおらぬのか……。己の中にある激情にも……。
飼い慣らせよ、秀忠。己を。
家康は下がっていく息子を見ながら、どことなく心配そうな目で微笑んでいた。
*****
【振姫】池田輝政娘。母は家康の娘(秀忠の異母姉)督。
【虎菊丸】伊達政宗の嫡男
【入内】天皇(または春宮)の后にすること。
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