82 / 132
第四部
第二十一章 薄、尾花に変ず 其の五
しおりを挟む
◆◇◆
「母上、次はどういたしまする?」
江のぼんやりした頭に、勝の声が響いた。
「ん?ああ。そうじゃな。次は、こうして、こうじゃ。」
江は勝の手から布を取り、娘に分かりやすく見せながら、ゆっくり針を刺した。
「ここも同じようにな。やってみよ。」
「はい。」
布を受け取った勝は、針と一緒に顔も動かしながら、一目一目刺繍をしていく。
江はそのような娘をほほえましく、いとおしく見ていた。
「勝はなかなか上手じゃな。母はなかなか上手うなれなんだ。」
「でも、お上手にございます。」
勝が、母の手元をキラキラした目で見る。江が気恥ずかしそうに微笑んだ。
「そうか?巧うなりとうて励んだからかの。」
「何故でございまするか?」
「誉めていただきとうての。」
「父上にですか?」
「まぁ、……そうじゃ。」
少し言葉を濁しながら、ほんのりと頬を染め微笑む母に、勝姫は見とれた。
江はその娘の瞳に、羨ましさと不安が入り交じっているのを感じる。
「勝、父上と母上も最初から仲がよかったわけではないぞ。」
刺繍する手を動かしながら、さりげなく江は娘に話し出した。
「御台様っ、そのような。勝姫様が余計に気に病まれするぞ。」
「よい。教えておかねばならぬ」
民部卿が慌てて止めようとしたが、江はゆったりとそれを退けた。江は、針山に針を置くと、きちんと娘の方に向き直り、勝姫を見つめる。
勝姫は母譲りの美しい目をじっと江に返した。
「勝、母が父上の元へ嫁いだとき、年下の父上を母は邪険にした。ゆえに、父上の思いも母には見えなんだ。」
「それで、どうなったのでございますか?」
「ん?あるときな、父上の思いが見えたのじゃ。不器用じゃが母をよう想うてくれるお気持ちがの。」
また少し頬を染め、気恥ずかしそうに優しく江が微笑む。しかし、すぐになにやら悔いるような顔を見せた。
「じゃが、思えば私も不器用であった。いろいろな思い出もあって意地を張っておった。 ……そなたは、私によう似ておる。お転婆なところも、まっすぐなところも。ゆえに、意地の張り合いだけはしてはならぬぞ。」
江は、娘の艶やかな髪をなで、微笑んで言い聞かせた。
「忠直殿の父君の秀康様は、勇猛な武将であったらしい。忠直殿もそうじゃと聞き及んでおる。不器用なお方かもしれぬが、勝のまっすぐな心をぶつければよい。」
「諍いになりませぬか?」
勝が疑問をまっすぐ訊く。
「そうじゃのう。んー、なるじゃろうな。」
きれいな黒目をクリンと動かし、少しとぼけたように江が微笑む。
「母上」
それでは解決にならぬとばかりに、額にしわ寄せ、勝が困ったような声で江を責めた。
「謝ればよい。そのようなときはの。先に謝ってしまうのじゃ。」
少しいたずらっぽく微笑んだ江が、勝の手をとる。
「そして、寂しいときは忠直殿に素直に甘えなされ。素直にの。」
母親はもう片方の手で、娘の柔らかな頬を撫でた。
「そなたが物心ついたときには、千も珠も、もうここにはおらなんだ。ゆえに、そなたは一番上の姉として、育ったようなものじゃ。難しいかもしれぬが、まずは、たんと甘えるがよい。忠直殿を兄上じゃと思うてな。」
「兄上…」
長子のように育った勝は、今一つ思い描けないのか、不安げである。
「国松がそなたに甘えるように甘えればよいのじゃ。」
「はい。」
にっこり笑った勝の明るい返事に、江は頷いた。
「さぁ、続きをしてみよ。」
「はい。」
小さな手に針を持ち、勝姫はまた針と一緒に顔を動かし始めた。
江は、勝姫が心配であった。
千や初のように、姉の元へやるわけではない。珠も他家にやったが、秀忠の言う通り、物心つかぬうちであったゆえ、今は前田の姫として馴染んでいよう。
しかし、此度は違う。
忠直殿の父の秀康様は、兄である自分を差し置いて、秀忠様が嫡男となったことをずいぶん恨んでいたときく。
そのような思いを忠直殿が引き継いでいたとしたら……。
自分の方が将軍の筋だと想うていたら……、勝にどう接するであろう。
徳川の身内とはいえ、宗家を恨んでいたとしたら、この国のなかで一番危うい嫁入り先かもしれぬ。
その思いを解きほぐせるか、勝が愛されるかどうかは、もう勝自身に託すしか術がないのだ。まっすぐにいてほしい。
江は、そう願う。
そして、忠直がそろそろ大人の仲間入りをする歳を迎えているのに対し、乙女らしくなったとはいえ、勝はやっと十になろうとする少女であることも、江の心に影を落としていた。
(勝が大人になるまで忠直殿が待ってくださるとよいが……)
幼くして他家にやった娘たちのことを深く思う度、自分が幼い頃に嫁いだ一成を思い出す。
(あのように大事に待ってくださるだろうか……。そして、秀勝さまのように優しゅう教えてくだされるだろうか……)
江は、娘たちが何より女として幸せであってほしいと望んでいた。
(私は女としては幸せなのやも知れぬ。一成さまに無理強いされず、秀勝さまに優しゅうされ、秀忠さまには深く愛され、子もたんと成した。そして、今のところは皆、無事に育っている。)
せめて同じような幸せを娘達に得てほしい。と江は思う。
大名、いや将軍の娘として、政の渦の中に嫌でも放り込まれてしまうのだから。
江は、目の前の勝姫を見ながら、嫁ぐ日までにしてやれることをあれこれ考えていた。
十三夜の尾花で作られた梟が、回廊のあちらこちらに飾られている。
静がひとつ作ったものを、皆が「かわいい」と真似して作った。それを大姥局と民部卿が差配して飾らせたのである。
ふわふわとしたその風貌は、子供や侍女たちを喜ばせるだけでなく、江の憂いや勝姫の不安を和らげていた。
キャッキャッという笑い声と、トタトタという足音が聞こえる。
松姫が梟の前で立ち止まっては、息を吹き掛けて遊んでいた。
「かかしゃま。」
松姫は江を見つけると一目散に駆け寄り、ドンと抱きついた。
「あれあれ、元気なこと。」
江が優しい笑みをすると、松姫は母の膝の上に陣取った。
もうすぐ髪置きを迎えるとはいえ、まだ2回目の誕生月も迎えない松姫は、やっと最近言葉らしい言葉を話すようになった。
「ちい姫様が三の姫様の後を継ぎましょうな。」
民部卿おかしそうに口許を押さえながら、懐かしそうな顔で言う。
「私のあと?」
「お転婆に育つということじゃ。のっ。」
勝姫の問いに、江が答え、松姫のぷにぷにした頬をさわる。
「あーい。」
松姫の愛らしい声に、華やかな笑い声が起きた。
笑いながら、江は自分が守るべきものが増えたと、しみじみ思い至る。
(姉上も……)
茶々に、そして秀忠に、江は思いを寄せる。
風が尾花の梟から二粒ほど種を巻き上げた。
◆◇◆
大姥局は、静が尾花で作った梟にそっと手を合わせていたのを見ていた。静は、我が子の供養の思いで梟を作ったのである。
ただ、他の人に気づかせず、静は機嫌良く働いていた。
「旦那様、見ていただいてよろしゅうございましょうか。」
静が秀忠の鳶色の綿入れを持って入ってきた。
「もうできたのか?」
目が薄くなった大姥局は指先に神経を集め、仕上がりを確認する。指に触るようなところはなく、糸を使ってあるのかと思うほど、なめらかに縫い上がっていた。
「見事な出来じゃ。上様も喜ばれよう。」
「ありがとうござりまする。」
「しかし、昨日しつけていたのではないか。無理はならぬぞ。体は辛うないのか。」
「はい。もうすっかり。」
次々に心配する言葉を発する主人を安心させるように、静はにっこり笑った。
「宿直は止めてもよいのだぞ。」
皺を深めた大姥局が少し小声になる。
「いいえ、私が一番年若でございますのに。皆様にご負担はかけられませぬ。」
目に優しい光を称え、えくぼを浮かべた穏やかな微笑みのまま、静はきっぱりと言いきった。
「静…」
「よいのです、旦那様。私は旦那様に、しかとお仕えするのが幸せと思うておりまする。皆様が頼りにしてくださるのが嬉しいのでございます。」
頼りにされるところ、そこが自分の居場所と思うのは、大姥局もよく解る。
しかしあのようなことがあった後、笑顔で言い切るとは……。
大姥局はやはり静が無理をしているのではないかと思う。
「さようか。しかし、月に一度は見性院さまのところへ参れ。そして、赤子を供養してやるがよい。」
「はい。ありがとうござりまする。」
やはり小さな声での大姥局の命令に静は頭を下げた。その静の頭の上で、大姥局はどこか苦しそうな顔を見せ、小さく呟く。
「静…、お側には侍れぬぞ。」
頭をあげた静は、えくぼを浮かべて柔らかな笑みを返した。その微笑みに大姥局はドキリとする。
「はい。承知しておりまする。」
「さようか。」
「はい。」
仏のように慈愛に満ちた微笑みであった。
大姥局は秀忠の母、西郷局を思い出す。
(あの方も優しいお方であった。)
しかし、静の気持ちが大姥局には量りかねた。
これほど水になった赤子を思っているのなら、次に孕んだ時、自ら水にするとは考えにくい。
それはそれで大御所様の命を全うできるが……。
側に侍れぬというのがわかっていて、お情けをかけられてもよいと思うておるとは……。
役目だと割りきっておるのか、それとも、もう手がつかぬと思うているのだろうか。
(静、何を考えておる…。自分で自分を傷つけるのではないぞ。)
大姥局は下がっていく静を見て、眉間の皺を深めた。
(しかし、まぁなるようにしかならぬ。静が気持ちよう仕えてくれているのならば、まずはそれでよしとしておこう。)
大姥局もにこっと笑ってみた。
(女は愛嬌じゃ。)
脇息に置かれた尾花の梟も、愛嬌のある顔を見せている。大姥局がうんうんと頷いた。
(懸念ごとの多い上様のためにも、この局は明るうしておかねば。そのためには、静が必要じゃ。)
大姥局はもう一度、梟を見てにっこり笑ってみた。
「フフフフフ」
老乳母の頭にあどけない長丸の笑顔が浮かび、つい、嬉しそうな声を立てた。
侍女たちがそんな主人の笑い声に、一瞬驚いたが、遠慮なく高らかに笑い声を立てる。
今日も局は賑やかな笑い声に満ちていた。
*****
【鳶色】 鳶の羽のような赤みがかった濃茶色。小豆色に茶色を足したような色
「母上、次はどういたしまする?」
江のぼんやりした頭に、勝の声が響いた。
「ん?ああ。そうじゃな。次は、こうして、こうじゃ。」
江は勝の手から布を取り、娘に分かりやすく見せながら、ゆっくり針を刺した。
「ここも同じようにな。やってみよ。」
「はい。」
布を受け取った勝は、針と一緒に顔も動かしながら、一目一目刺繍をしていく。
江はそのような娘をほほえましく、いとおしく見ていた。
「勝はなかなか上手じゃな。母はなかなか上手うなれなんだ。」
「でも、お上手にございます。」
勝が、母の手元をキラキラした目で見る。江が気恥ずかしそうに微笑んだ。
「そうか?巧うなりとうて励んだからかの。」
「何故でございまするか?」
「誉めていただきとうての。」
「父上にですか?」
「まぁ、……そうじゃ。」
少し言葉を濁しながら、ほんのりと頬を染め微笑む母に、勝姫は見とれた。
江はその娘の瞳に、羨ましさと不安が入り交じっているのを感じる。
「勝、父上と母上も最初から仲がよかったわけではないぞ。」
刺繍する手を動かしながら、さりげなく江は娘に話し出した。
「御台様っ、そのような。勝姫様が余計に気に病まれするぞ。」
「よい。教えておかねばならぬ」
民部卿が慌てて止めようとしたが、江はゆったりとそれを退けた。江は、針山に針を置くと、きちんと娘の方に向き直り、勝姫を見つめる。
勝姫は母譲りの美しい目をじっと江に返した。
「勝、母が父上の元へ嫁いだとき、年下の父上を母は邪険にした。ゆえに、父上の思いも母には見えなんだ。」
「それで、どうなったのでございますか?」
「ん?あるときな、父上の思いが見えたのじゃ。不器用じゃが母をよう想うてくれるお気持ちがの。」
また少し頬を染め、気恥ずかしそうに優しく江が微笑む。しかし、すぐになにやら悔いるような顔を見せた。
「じゃが、思えば私も不器用であった。いろいろな思い出もあって意地を張っておった。 ……そなたは、私によう似ておる。お転婆なところも、まっすぐなところも。ゆえに、意地の張り合いだけはしてはならぬぞ。」
江は、娘の艶やかな髪をなで、微笑んで言い聞かせた。
「忠直殿の父君の秀康様は、勇猛な武将であったらしい。忠直殿もそうじゃと聞き及んでおる。不器用なお方かもしれぬが、勝のまっすぐな心をぶつければよい。」
「諍いになりませぬか?」
勝が疑問をまっすぐ訊く。
「そうじゃのう。んー、なるじゃろうな。」
きれいな黒目をクリンと動かし、少しとぼけたように江が微笑む。
「母上」
それでは解決にならぬとばかりに、額にしわ寄せ、勝が困ったような声で江を責めた。
「謝ればよい。そのようなときはの。先に謝ってしまうのじゃ。」
少しいたずらっぽく微笑んだ江が、勝の手をとる。
「そして、寂しいときは忠直殿に素直に甘えなされ。素直にの。」
母親はもう片方の手で、娘の柔らかな頬を撫でた。
「そなたが物心ついたときには、千も珠も、もうここにはおらなんだ。ゆえに、そなたは一番上の姉として、育ったようなものじゃ。難しいかもしれぬが、まずは、たんと甘えるがよい。忠直殿を兄上じゃと思うてな。」
「兄上…」
長子のように育った勝は、今一つ思い描けないのか、不安げである。
「国松がそなたに甘えるように甘えればよいのじゃ。」
「はい。」
にっこり笑った勝の明るい返事に、江は頷いた。
「さぁ、続きをしてみよ。」
「はい。」
小さな手に針を持ち、勝姫はまた針と一緒に顔を動かし始めた。
江は、勝姫が心配であった。
千や初のように、姉の元へやるわけではない。珠も他家にやったが、秀忠の言う通り、物心つかぬうちであったゆえ、今は前田の姫として馴染んでいよう。
しかし、此度は違う。
忠直殿の父の秀康様は、兄である自分を差し置いて、秀忠様が嫡男となったことをずいぶん恨んでいたときく。
そのような思いを忠直殿が引き継いでいたとしたら……。
自分の方が将軍の筋だと想うていたら……、勝にどう接するであろう。
徳川の身内とはいえ、宗家を恨んでいたとしたら、この国のなかで一番危うい嫁入り先かもしれぬ。
その思いを解きほぐせるか、勝が愛されるかどうかは、もう勝自身に託すしか術がないのだ。まっすぐにいてほしい。
江は、そう願う。
そして、忠直がそろそろ大人の仲間入りをする歳を迎えているのに対し、乙女らしくなったとはいえ、勝はやっと十になろうとする少女であることも、江の心に影を落としていた。
(勝が大人になるまで忠直殿が待ってくださるとよいが……)
幼くして他家にやった娘たちのことを深く思う度、自分が幼い頃に嫁いだ一成を思い出す。
(あのように大事に待ってくださるだろうか……。そして、秀勝さまのように優しゅう教えてくだされるだろうか……)
江は、娘たちが何より女として幸せであってほしいと望んでいた。
(私は女としては幸せなのやも知れぬ。一成さまに無理強いされず、秀勝さまに優しゅうされ、秀忠さまには深く愛され、子もたんと成した。そして、今のところは皆、無事に育っている。)
せめて同じような幸せを娘達に得てほしい。と江は思う。
大名、いや将軍の娘として、政の渦の中に嫌でも放り込まれてしまうのだから。
江は、目の前の勝姫を見ながら、嫁ぐ日までにしてやれることをあれこれ考えていた。
十三夜の尾花で作られた梟が、回廊のあちらこちらに飾られている。
静がひとつ作ったものを、皆が「かわいい」と真似して作った。それを大姥局と民部卿が差配して飾らせたのである。
ふわふわとしたその風貌は、子供や侍女たちを喜ばせるだけでなく、江の憂いや勝姫の不安を和らげていた。
キャッキャッという笑い声と、トタトタという足音が聞こえる。
松姫が梟の前で立ち止まっては、息を吹き掛けて遊んでいた。
「かかしゃま。」
松姫は江を見つけると一目散に駆け寄り、ドンと抱きついた。
「あれあれ、元気なこと。」
江が優しい笑みをすると、松姫は母の膝の上に陣取った。
もうすぐ髪置きを迎えるとはいえ、まだ2回目の誕生月も迎えない松姫は、やっと最近言葉らしい言葉を話すようになった。
「ちい姫様が三の姫様の後を継ぎましょうな。」
民部卿おかしそうに口許を押さえながら、懐かしそうな顔で言う。
「私のあと?」
「お転婆に育つということじゃ。のっ。」
勝姫の問いに、江が答え、松姫のぷにぷにした頬をさわる。
「あーい。」
松姫の愛らしい声に、華やかな笑い声が起きた。
笑いながら、江は自分が守るべきものが増えたと、しみじみ思い至る。
(姉上も……)
茶々に、そして秀忠に、江は思いを寄せる。
風が尾花の梟から二粒ほど種を巻き上げた。
◆◇◆
大姥局は、静が尾花で作った梟にそっと手を合わせていたのを見ていた。静は、我が子の供養の思いで梟を作ったのである。
ただ、他の人に気づかせず、静は機嫌良く働いていた。
「旦那様、見ていただいてよろしゅうございましょうか。」
静が秀忠の鳶色の綿入れを持って入ってきた。
「もうできたのか?」
目が薄くなった大姥局は指先に神経を集め、仕上がりを確認する。指に触るようなところはなく、糸を使ってあるのかと思うほど、なめらかに縫い上がっていた。
「見事な出来じゃ。上様も喜ばれよう。」
「ありがとうござりまする。」
「しかし、昨日しつけていたのではないか。無理はならぬぞ。体は辛うないのか。」
「はい。もうすっかり。」
次々に心配する言葉を発する主人を安心させるように、静はにっこり笑った。
「宿直は止めてもよいのだぞ。」
皺を深めた大姥局が少し小声になる。
「いいえ、私が一番年若でございますのに。皆様にご負担はかけられませぬ。」
目に優しい光を称え、えくぼを浮かべた穏やかな微笑みのまま、静はきっぱりと言いきった。
「静…」
「よいのです、旦那様。私は旦那様に、しかとお仕えするのが幸せと思うておりまする。皆様が頼りにしてくださるのが嬉しいのでございます。」
頼りにされるところ、そこが自分の居場所と思うのは、大姥局もよく解る。
しかしあのようなことがあった後、笑顔で言い切るとは……。
大姥局はやはり静が無理をしているのではないかと思う。
「さようか。しかし、月に一度は見性院さまのところへ参れ。そして、赤子を供養してやるがよい。」
「はい。ありがとうござりまする。」
やはり小さな声での大姥局の命令に静は頭を下げた。その静の頭の上で、大姥局はどこか苦しそうな顔を見せ、小さく呟く。
「静…、お側には侍れぬぞ。」
頭をあげた静は、えくぼを浮かべて柔らかな笑みを返した。その微笑みに大姥局はドキリとする。
「はい。承知しておりまする。」
「さようか。」
「はい。」
仏のように慈愛に満ちた微笑みであった。
大姥局は秀忠の母、西郷局を思い出す。
(あの方も優しいお方であった。)
しかし、静の気持ちが大姥局には量りかねた。
これほど水になった赤子を思っているのなら、次に孕んだ時、自ら水にするとは考えにくい。
それはそれで大御所様の命を全うできるが……。
側に侍れぬというのがわかっていて、お情けをかけられてもよいと思うておるとは……。
役目だと割りきっておるのか、それとも、もう手がつかぬと思うているのだろうか。
(静、何を考えておる…。自分で自分を傷つけるのではないぞ。)
大姥局は下がっていく静を見て、眉間の皺を深めた。
(しかし、まぁなるようにしかならぬ。静が気持ちよう仕えてくれているのならば、まずはそれでよしとしておこう。)
大姥局もにこっと笑ってみた。
(女は愛嬌じゃ。)
脇息に置かれた尾花の梟も、愛嬌のある顔を見せている。大姥局がうんうんと頷いた。
(懸念ごとの多い上様のためにも、この局は明るうしておかねば。そのためには、静が必要じゃ。)
大姥局はもう一度、梟を見てにっこり笑ってみた。
「フフフフフ」
老乳母の頭にあどけない長丸の笑顔が浮かび、つい、嬉しそうな声を立てた。
侍女たちがそんな主人の笑い声に、一瞬驚いたが、遠慮なく高らかに笑い声を立てる。
今日も局は賑やかな笑い声に満ちていた。
*****
【鳶色】 鳶の羽のような赤みがかった濃茶色。小豆色に茶色を足したような色
0
お気に入りに追加
41
あなたにおすすめの小説
【完結R18】三度目の結婚~江にございまする
みなわなみ
歴史・時代
江(&α)の一人語りを恋愛中心の軽い物語に。恋愛好きの女性向き。R18には【閨】と表記しています。
歴史小説「照葉輝く~静物語」の御台所、江の若い頃のお話。
最後の夫は二代目将軍徳川秀忠、伯父は信長、養父は秀吉、舅は家康。
なにげに凄い人です。
【R18・完結】鳳凰鳴けり~関白秀吉と茶々
みなわなみ
歴史・時代
時代小説「照葉輝く~静物語」のサイドストーリーです。
ほぼほぼR18ですので、お気をつけください。
秀吉と茶々の閨物語がメインです。
秀吉が茶々の心を開かせるまで。
歴史背景などは、それとなく踏まえていますが、基本妄想です。
短編集のような仕立てになっています
錦秋
uca
歴史・時代
いつか訪れる貴人のために処女を守り、且つほどよく淫蕩でなければならない。山深い里で独り暮らするいには悩みがあった。
「閨の手ほどきを、してください」
仇討ちから逃げる侍×忘れられた乙女。エロ時代小説イマジナリーNTR風味です。
※他サイトにも同内容の作品を投稿しています。
※終盤に残酷な描写(★印のエピソード/登場人物が暴行を受ける場面)があります。苦手なかたはご注意ください。
※全編通して性描写が多く、予告や警告なしで性描写があります。
千姫物語~大坂の陣篇~
翔子
歴史・時代
戦国乱世の真っ只中。
慎ましく、強く生きた姫がいた。
その人の名は『千姫』
徳川に生まれ、祖父の謀略によって豊臣家へ人質同然に嫁ぐ事となった。
伯母であり、義母となる淀殿との関係に軋轢が生じるも、夫・豊臣秀頼とは仲睦まじく暮らした。
ところが、それから数年後、豊臣家と徳川家との間に大きな確執が生まれ、半年にも及ぶ大戦・「大坂の陣」が勃発し、生家と婚家の間で板挟みに合ってしまう。
これは、徳川家に生まれ、悲劇的な運命を歩んで参った一人の姫が、女としての幸福を探す波乱万丈の物語である。
*この話は史実を元にしたフィクションです。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
女の子がひたすら気持ちよくさせられる短編集
春
恋愛
様々な設定で女の子がえっちな目に遭うお話。詳しくはタグご覧下さい。モロ語あり一話完結型。注意書きがない限り各話につながりはありませんのでどこからでも読めます。pixivにも同じものを掲載しております。
サディストの飼主さんに飼われてるマゾの日記。
風
恋愛
サディストの飼主さんに飼われてるマゾヒストのペット日記。
飼主さんが大好きです。
グロ表現、
性的表現もあります。
行為は「鬼畜系」なので苦手な人は見ないでください。
基本的に苦痛系のみですが
飼主さんとペットの関係は甘々です。
マゾ目線Only。
フィクションです。
※ノンフィクションの方にアップしてたけど、混乱させそうなので別にしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる