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第三部

第十九章 野分、吹き荒ぶ 其の四

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 夕刻になり、時々風が吹き始めた。締め切っている部屋は暗く、蒸し暑い。 
 風はゆっくりと激しくなり、子供たちをおびえさせた。家を揺らす風の中、栄太郎は親指を吸い、涙を流しながら眠りについた。 
 子供たちに団扇うちわで風を送っていた美津がホッと一息つく。 
 ほんのわずかな灯りの中、大人たちはミシミシいう家の音に耳を澄ませていた。 

「お静、横になっておれ。」 
 栄嘉さかよしとこの上に起きている静を優しく気遣う。 
「いえ、どうせ眠れませぬ。」 
「そうか……」 
 栄嘉は扇子せんすで静に、やわやわとした風を送った。 
「もったいのうございます。義父上ちちうえさま。」 
 静が、まだ弱々しい声で遠慮をする。 
「…静……」 
 静に背を向けるように座っていた嘉衛門よしえもんが、わずかに体をずらし、静の方へ顔を向けた。 
「……はい……」 
 静は、うつむいて小さな声で返事をした。気がついてから嘉衛門の顔を見られずにいる。迷子になった子供のように、静の心はしぼんでいた。 
 嘉衛門は何度か首を上下させ、なにか言おうとしていたが言えないでいる。 
「…いや。」 
 再び静に背を向け、子供たちを見た。 
「変なお前さま。」 
 美津が静の床の横へ座る。 
「お静ちゃん、寝た方がいいわ。一緒に寝ようか。」 
 美津がそう声をかけたとき、嘉衛門が再び静の方に体を向けた。眉間に皺を寄せ、目をしばたたかせて、あご辺りを何度か触っている。一文字に結ばれていた口がやっと開いた。 

「…お静、水になったのは、よもや上様の…」 
「お前さま! そのようなこと今言わずとも。」 
「いや、はっきりさせておかねばならぬことじゃ。水になったのは上様のお子か?」 
 美津に一喝され、嘉衛門は逆にはらが据わった。姿勢を正し、静をしっかりと見つめ、ずっと気になっていたことを問うた。 
 グオッという風の駆ける音が響く。 
 静は先程から嘉衛門を避けるように顔を伏せ、黙りこんでいる。 

「お静ちゃん、寝ていいから。寝ましょ。」 
「美津! 邪魔立てするな!」 
 静の夜具を整える美津を、今度は嘉衛門がひそやかに一喝した。キッとした目で美津は夫をにらむ。 
「…お美っちゃん……」 
 自分を守るように肩に手をおいた美津に、静は小さく首を振った。 
 夫婦の険悪な気が流れる中、黙っていた栄嘉が、そっと優しく静の手を取った。 
 静の体がピクリと動く。 
「…、お手が、ついたのか?」 
 静のふっくらした手をさすり、その手を見たまま、義父ちちはポツリとゆっくり訊いた。 
 静の返事はなく、うなるような風の音と雨戸の揺れる音が響く。 
 栄嘉はただ手をさすり、嘉衛門と美津はそれを見ていた。 

「………は…い………」 

 グゥオゥという風の音にかき消されるほどの小さな声であった。それでも、全身が耳になった者たちには十分届いた。 
 嘉衛門と美津は見開いた目を合わせたが、栄嘉はやはり静の手を撫でながら、ウンウンと頷いた。 
「城へ、戻りたいか?」 
 栄嘉が優しく尋ねる。 
 静は深く考えられずにいた。嘉衛門に清い体でなくなったと改めて告白したのである。それを知られて、嘉衛門の側にはいたくなかった。かといって、城へ戻り、また上様のお手がつくのも怖かった。 
 栄嘉の手に温かい静の涙が落ちた。手をさするのを止めて、義父ちち養女むすめの頭を優しく撫でる。 
「戻りたくないのであれば、才兵衛さいべえの嫁となってよいぞ?」 
 一瞬、涙に溢れた目で栄嘉を見た静だが、すぐに大きく首を振った。 
「お義父上ちちうえ?」 
「父上!」 
 それまで黙ってやり取りを見ていた息子夫婦は同時に声をあげた。美津はすっとんきょうな声を出し、嘉衛門は大きな声を出した。 

 子供たちが起きてないか、美津は思わず見やった。 
「父上、何を仰せです。やっと運が向いてきたのかもしれませんよ?」 
「お前さま?」 
 やや声をひそめた嘉衛門が、恐ろしい者であるように、その妻は美しい眼を見開いた。 
「静がお城へ戻り、また上様のお情けを受ければ……」 
「お前さま!」 
「われらの仕官が叶う。」 
「何を言うの!」 
 淡々と続ける夫の声に、美津は身を震わせて子どもを起こさないよう精一杯に声をあげる。 
 それでも嘉衛門は動じなかった。涼やかな目で妻をギリッと見据える。 
「ただの仕官などではない、徳川、いや、幕府に入り込めるかもしれぬ。」 
「そのためにお静ちゃんを人身御供ひとみごくうにするの?」 
 見たことない夫の獲物を狙うような眼に、美津は青ざめた。それでもひるまずに嘉衛門を睨み返す。 
「お静は今は私の義妹いもうと神尾かんおの娘だ。」 
 嘉衛門は落ち着いた低い声で、美津をいさめようとする。
 驚きが美津の顔中に現れ、声すら出せなかった。そのような妻を相手にせず、嘉衛門は父の方へ顔を向ける。 
「父上ならお分かりでしょう?」 
 昨夜、『まだわからぬ。太閤のように足軽から天下がとれるかもしれぬ』といった栄嘉を嘉衛門は思い出していた。 
「うーむ。」 
 あごの下の肉を摘まみ、栄嘉が言葉を濁すようにうなる。 
「お義父上ちちうえっ!」 
 栄嘉から否定する言葉が出てこないのが、美津には裏切りのように感じた。
 静は人形のように座ったままである。 
「アタシは嫌ですっ。」 
「美津、栄太郎や才兵衛のことも考えてみよ。栄太郎が幕府のかなめにつけるやもしれぬぞ。」 
「……でもっ!」 
 子供のことを考え、美津が怯んだように口ごもった。それでも、真っ青な顔をしている静を見ると、美津は夫に楯突かずにはいられなかった。 

 静はまた夢を見ているようであった。 
 出世のために自分を将軍に差し出そうとしている言葉が、あの優しい嘉衛門の口から出ているとは到底信じられなかった。 
 目の前で人が話しているのが静の眼に映ってはいるけれど、神尾の人々ではないような気がしている。 
 耳から入ってくる言葉を、静は捕らえたくなかった。なにも考えたくない静の意識は、再び遠退とおのいていった。 

「お静ちゃん?」 
 静の力ががっくり抜けて、座ったまま前のめりに倒れそうになる。美津が慌てて支え、自分も倒されそうになりながら、静を寝かせた。 
「大事ないか。」 
 嘉衛門が手を差し伸べた。 
「触んないで。」 
 キッとした顔を向け、美津は冷たく言い放つ。 
「お前さまが、そのような情けない方だとは思いませんでした。お静ちゃんがよくなるまで、お静ちゃんに近づかないでくださいっ。」 
 美津はキリキリした声で言い、夫を静の近くから追い払った。 


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