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第三部

第十九章 野分、吹き荒ぶ 其の二

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 美津は家に入ると一瞬悩んだが、居間の端にとこを敷き、自分が月のものの時に使う敷物を引いた。さらにその上に、糸のおむつを何枚か拡げる。 
 別の部屋に寝かせようかとも考えたが、野分が近づいているだろう今、皆は居間で過ごす。静の様子をずっと見られるのはここだと、美津は判断したのだった。 

 嘉衛門よしえもんがだらりと抱かれたままの静を運び、布団にそっと降ろした。 
 静が入ってきてから、心配そうな美津の口は、「お静ちゃん、お静ちゃん」と繰り返し続けている。 
「糸も父上に見ていてもらおう。私と才兵衛さいべえは、もう少し周りを見てきておく。お静を頼むぞ。」 
「はい。」 
 美津は周りのふすまを締め切り、ぐずる糸を抱いた嘉衛門が出ていくのを見る。そして静から濡れた襦袢を取り除きにかかった。 
 気を失っている静の体は力が抜け、重い。小柄な静より少し背丈があるとはいえ、細身の美津はすぐに汗だくになった。それでもなんとか静を裸にし、ふわふわした肌を順々にきれいに拭いていった。 

 「お静ちゃん、お静ちゃん…」と呪文のように唱える美津の目に涙が滲む。 
 (またアタシ、力になってあげられなかった……ごめんね……) 
 静はなにかを悩んでいたのではないか、それで宿下がりをしてきたのではないか、今更ながら、そう考えていた。 
 (いつもそう。アタシが義姉上あねうえなんて……笑っちゃう……) 
 自分のきれいな浴衣をやっと着せつけ、静の手を握る。その冷たさが美津を不安にした。 
「お静ちゃん…」 
 何度そう呼び掛けても、紫色の唇も、ふくよかな体もピクリともしない。思わず静の胸に美津は耳をあてた。 
 (柔らっこい。) 
 気持ちが少し落ち着く。トクトクと波打つ音にホッと息を吐き、美津は静の体をさすった。 

「美津、入ってよいか?」 
 糸の泣き声と共に、栄嘉さかよしの声がする。 
「はい。」 
「糸が腹を空かせたようでの。」 
 心配そうな顔の栄嘉は、糸を預けると静を挟んで美津の真向かいへと座った。一緒に入ってきた栄太郎もおとなしく栄嘉の横に座り、静を見ている。 
 静を見たまま美津が乳房を出すと、糸はむしゃぶりつくようにくわえ、勢いよく飲み始めた。 
 栄嘉は苦いような辛いような、なんとも言えない顔をして静を黙って見ている。 

「おばうえ、ねてるの?」 
「叔母上はお腹いたいいたいなのよ。」 
「じゃぁ、なでなでしてあげなきゃ。」 
「そうじゃの。栄太郎はできるか。」 
「できる!」 
 栄太郎が布団の上から静のお腹を優しく撫で、栄嘉と美津はただじっとそれを見ていた。 


「雨が落ちてきた。」 
 手拭いで着物を払いながら嘉衛門が入ってくる。布団のそばに近づき、不安げな声で妻に尋ねた。 
「どうじゃ。」 
「大事ないと思うんですけど…」 
 赤い目で美津は静を見つめている。 
 嘉衛門も美津の横に腰を下ろして、静の様子をうかがった。 
 閉めきられた雨戸から、わずかに光が射しこむ。 

 ガサガサと音がして、みのと笠をまとった才兵衛が、ふすま近くに立った。 
「兄上、うちはもうよろしいでしょうか。」 
「ああ、もうよいだろう。」 
「ならば、私は親方のところへ参ります。」 
「うむ。ご苦労だな。気を付けるのだぞ。」 
「はい。」 
 あごの下の紐を固く結び直し、才兵衛は出ていこうとする。栄嘉が慌てて立ち上がり、懐から油紙あぶらがみに包んだ文を取り出した。 

「才兵衛、すまぬが親方のところへ行く前に、これを陣屋じんやへ届けてくれぬか。」 
 父から渡された文を才兵衛は怪訝けげんそうに見る。 
わしの名を名乗り、『御老中様への火急の文だ』と言えばよい。」 
「承知いたしました。」 
「それと、お静のことはきっと内密にいたせ。よいな。」 
「…はい。」 
 きりっとした栄嘉の命令に、深々と被った笠の下から才兵衛は返事をした。 
「では、行って参ります。」 
「ああ、気を付けてな。」 
 栄嘉は息子を見送りながら、(不憫ふびんな奴じゃ)と思った。 
 (嫁にしたいと思った女子が、子を水にした姿を見るなど……。お静が悪いわけでもないが……) 
 栄嘉は暗い顔で、静の元へと戻った。 

「才兵衛殿の様子が何やらおかしくはありませんか?」 
「そうか? 魂離たまがっているのであろう。儂でさえ落ち着いておらぬ。」 
 才兵衛の心のうちを思いやり、栄嘉はそう返事をした。 
「そうですね。アタシも……」 
 静が目覚める気配はまだない。栄嘉の頭も、嘉衛門の頭も、静の頭も混乱している。そして、どの頭の中にもある(誰の?)という問いを、誰も口にすることができなかった。 

「おばうえ、はやくおっきしておうたうたって?」 
「栄太郎。叔母上はお辛くて寝ていらっしゃるのです。」 
「だって。」 
「勝手を言うてはなりません。」 
 苛々している美津が厳しい口調で叱った 
 栄太郎が泣き、その声につられるように、糸も泣き声をあげた。 


 静は夢を見ていた。 

 山桃の木の下で小さな子供が泣いている。 
 (お美っちゃん、お美っちゃん、泣かないで。ほら、お手玉。) 
 静がたもとからお手玉を出すと、美津だと思ったその姿は、小さな男の子になった。 
 (まぁ、栄太ちゃん。ほらほら泣かないで、お歌歌ってあげましょう) 
 静が抱き上げると、その姿は糸のような赤子になり、きらめきの中に消えた。 
 探そうとするが、体が動かない。 

 静のまなじりから、一筋の涙が落ちる。 
「おばうえ、いたいいたい?」 
 栄嘉になだめられた栄太郎が、再び静を覗き込み、お腹をさすった。 
 優しい刺激が静の体に行き渡る。 
 『なにも考えず、ゆるりと休むがよい。な』 
 由良の声が響いた。 
 静は目を閉じたまま、深い眠りへと落ちていった。 



「降ってまいったな。」 
 それから半刻はんときほどして、雨音が次第に激しくなった。バラバラという音が雨戸を叩き、嘉衛門は縁側の雨戸を内側から見回る。 
「風が吹くまで一時いっときあろう。今のうちに少し腹ごしらえをするか。」 
 心許こころもとなげに退屈そうな孫を見て、栄嘉が中食ちゅうじきの宣言をする。栄太郎が、やっと嬉しそうに笑った。
 
「美津、なにかあるのか?」 
 朝からバタバタしていた妻を思い、嘉衛門が声をかける。 
「おむすびを……」 
 と言った美津が、大きな目を見開き、ハッとした顔をした。 
「才兵衛殿に持たせるのを忘れました。」 
「親方のところじゃ。案ずることはなかろう。」 
 若衆の見廻り組で詰めているとはいえ、いまや藤五の家は縁続きである。いや、縁続きでなくとも、あの藤五なら気にせず、ちゃんと食べさせてくれる。嘉衛門はそう思って美津を慰めた。 
 美津も夫の思いがわかったが、だからこそ心は沈む。 
 (またおじいさまに『いつまでも頼んねぇなぁ』って笑われるんだわ。きっと。) 
 美津の美しい顔が、悔しそうにうなだれた。 

「……持っておったぞ。」 
 首をひねっていた栄嘉が考え込むように言った。 
「え?」 
「うん。たぶん、持っておるぞ。ふみを渡したとき、竹包みを持っておった。三ヶ所もえらく不細工に止めてあったゆえ、自分で包んで行ったのであろう。」 
「そうなのですか? まぁよかった。見ればわかりますね。」 
 胸を撫で下ろした美津はお勝手に向かい、栄太郎が後ろを追いかけた。 

「才兵衛もしっかりしてまいったということかな。」 
「そうですね。」 
「よい嫁をもろうてやらねばの。」 
「はい。」 
 静を見ながら呟く栄嘉の言葉は、雨音に消されそうな哀しみを帯びている。 
 嘉衛門は父の横に黙って座った。 
 さらに激しく叩きつけるような雨の音が、ひっきりなしに響くようになった。 
「来たようですね。」 
「そうじゃな。」 
 嘉衛門は、先程から訊きたい言葉が口にできずにいる。 
 (父上も同じように思っておられるはず……)。 
「父上、先程の文は?」 
「ああ、大姥局おつぼね様にな。今しばらく預かると、取り急ぎな。」 
「御老中様への文ではなかったのですね。」 
「うむ。陣屋へそう言って持っていけば、大姥局おつぼね様へ届く手はずになっておる。」 
「そうでしたか。」 
「…明日戻ることになっておったゆえな。」 
 栄嘉は静の額をそっと撫でた。 
「……はたして戻してよいものやら……」 
 父の呟きに、嘉衛門が意を決したように向き直った。 

「父上、それは。」 
「……のう……」 
「城に上がって子を宿したということは。」 
「…のう…」 
 いとおしそうに悲しげな戸惑いの表情を栄嘉が浮かべている。 
 雨が一段と激しく雨戸を叩いた。 
 嘉衛門がゴクリと唾を飲み込み、張り付いた唇をこじ開ける。 
「……上様の、お手が…」 
 嘉衛門は、呟くようにそれだけ言うと静を見、ずっと静を見ていた栄嘉は溜め息をついた。 


*****
【陣屋】 色々な定義がありますが、ここでは代官所みたいなもの 
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