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第三部

第十六章 女郎花、露めく 其の三

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 少し立派になった門を見上げたあと、静は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。きりっと視線を定めると、玄関へ進んだ。 
「お世話になりまする。」 
 静の声に、姉さまかぶりの可愛らしい女が奥からバタバタと走ってきた。 
「お静ちゃん!」 
 そういうと裸足のまま、細身の女は飛び付くように静に抱きついた。 
「おかえり、お静ちゃん。」 
 静から手を離すと、女は頭の手拭いを取って美しい顔を見せ、クリクリした目を潤ませて言った。 
「お世話になります。義姉上あねうえさま。」 
 静はにっこりと微笑みながらも、武家の娘らしい挨拶をする。 
「いや~だ、もう。前みたいに『おっちゃん』って呼んで。」 
 軽やかな高い声に似合う、華やかな笑顔を美津みつは静に向けた。 

 美津は名主の孫娘である。名主の家は元々大工の棟梁の家系であり、静の父の柾吉まさきちもよく働いていた。 
 また、静より六つ下の妹と美津が同い年で、静の母が美津にも乳をやったため、二人は乳姉妹にも当たる。美津は同い年の静の妹より、自分の面倒を見てくれる静の方を気に入り、いつも一緒にいた。 

 奥から赤子あかごの泣き声がする。 
「あらやだ、起きちゃったんだ。」 
赤子ややが?」 
「うん。お静ちゃん、あがってあがって。」 
 美津は静の手をスッと引いて離すと、パタパタと奥へと消えた。 
 どうしようかと静が逡巡しゅんじゅんしていると、奥からにこやかな顔の栄嘉さかよしが出てきた。 
「お静、おかえり。」 
「旦那さま、ご無沙汰をいたしております。」 
 静は包みを持ったまま、きれいな礼をする。栄嘉さかよしがウンウンと頷いた。 
「とりあえず上がれ。自分の家に上がるのに遠慮はないぞ。」 
 栄嘉はニコニコと静を促すと、自分が先だって奥へと進んだ。 

 栄嘉さかよしとともに居間に落ち着いた静は、小さな扇子を前に置くと、両手をピタリと合わせ、にこやかな義父に改めて挨拶をした。 
此度こたびはご縁ありまして旦那さまの娘となりましたこと、嬉しゅう存じます。ふつつかものでございますが、幾久しゅうお導きいただきますようお願い申し上げます。」 
 述べ終わると静は深く礼をした。その見事な所作に、栄嘉は武士として惚れ惚れした。 
「お静、私こそありがたいことじゃと思うておる。美津もおるし、自分の家と思うて気楽に過ごすがよい。」 
 白髪混じりの栄嘉は、やはりニコニコとして静の緊張をほぐす。 
「それと……」栄嘉は自分の扇子をパッと開いて、口の横に立てた。「『旦那様』。は、なし。じゃ。」 
 栄嘉が目を剥いて、内緒話をするように、いたずらっぽく言う。静は思わずえくぼを見せ、 
「はい。義父上ちちうえさま。」 
 と返事をした。栄嘉が扇子でパタパタとあおぎ、うんうんと満足そうに頷く。 
夕餉ゆうげには柾吉たちも呼んである。」 
「え?」 
 静の小さな目がきらりと光を弾いた。 
「せっかく、ここまで帰ってきたのじゃ。会えぬというのは辛かろう。そなたが生家うちへ帰らねばよい。」 
「あ…」 
 静の細い目に、みるみる涙が盛り上がってくる。 
大姥局おつぼね様の文にそのように書いてあった。『昼間でも大工一家が自分が建てた離れに出入りするのはおかしくなかろう』と。」 
 静の頬に一筋、ありがたさが伝う。 
 (旦那さま、ありがとうございまする。) 
 静は、自分の下がる離れが、すべて主人の差配で整えられていたと解った。いや、離れだけでなく、少し広くなった敷地や立派になった門も、大姥局の思いやりによるものだと悟った。 
「ありがとうござりまする。楽しみにいたします。」 
 静は大姥局への感謝も込めて、丁寧に義父に頭を下げた。 
「よいよいよ~い よっこよっこよ~。」 
 外で子をあやす、美津のかわいい声がする。 
「ゆっくりするには、ちと、うるさいかもしれぬがな。」 
 栄嘉の人のよい笑い顔に、静はえくぼの浮いた幸せそうな微笑みを返し、ゆっくりと首を振った。 

◇◆◇

 その日は、夕暮れを待たず、夕餉が始まった。 
「静、達者かい?」 
 娘の姿を見つけ飛んできた母が、少しほっそりした静の顔を両手で包み、開口一番に言った。 
「はい。おっかさんこそ、お体は。」 
 静は最上の微笑みで答え、美しい眉をひそめている母を安心させる。 
「静がお城に上がったあと、よい御医師さまに診てもらえてね。もうすっかりいいんだよ。お前のお陰だ。」 
「よかった。」 
 静は目に涙を浮かべる。ふっくらとした母が娘の頭を抱き、小さな子を撫でるように優しく撫でた。 
「こら、お富、静を独り占めすんねぇ。」 
「はいはい。お前さん、すまないね。」 
 柾吉の声に、妻のとみは息のあった言葉を返す。賑やかな笑い声が響いた。 

 皆が座り、武士も大工も垣根のないうたげが始まった。
 美津は自分の乳つけ親一家のためにも、数日前から少しずつ準備をしており、静は今日着いてから、美津と共にごちそう作りに精を出した。 

まさおじちゃん、松吉まつきっつぁんの嫁取りはどうなってるんです?」 
 美津は親しみを込めて、柾吉のことを「柾おじちゃん」と呼ぶ。松吉まつきちは、静のすぐ下の弟であった。 
「嫁取り? 松吉が?」 
 目を丸くした静が、箸を置いて父を見た。 
「おぅ。こないだここの離れを作らせて、『お前もやっとまぁ一人前だな』って言うと、即『嫁取りしてぇ』って言いやがった。」 
 柾吉の威勢のいい話し方に、また、に笑い声が咲く。静は、自分が下がる離れを弟が作ったことに胸がじんわりした。 
「遅いくらいですよ。だって、松吉っつぁん、ずっとお八重やえちゃんと一緒になりたがってたじゃありませんか。五重塔も作りに行ったのに……。  柾おじちゃんが『一人前だ』って言ってくれるの待ってるのも、みんな知ってましたよ。ねぇ、お静ちゃん。」 
 きゃらきゃらと娘のような声で、美津はいつものように座の主導権を握っている。 
「そうね。」 
 静も、幼いときから仲がよかった松吉と八重の姿や、池上本門寺の塔が出来上がった時、心底がっくりした顔で『姉ちゃん、俺はいつになったら認めてもらえんだろう』と呟いていた弟を思い出す。 
「知らなかったのは柾おじちゃんだけ。」 
「何言ってんでぃ。惚れた女がいるなら、『俺が腕一本で食わせるから嫁取りさせてほしい』って言ってこその男じゃねぇか。」 
 小柄ながらガッチリした体の柾吉が、筋肉の浮かぶ自分の腕をパンパーンと叩いて、美津に親しげに返す。
 それまで穏やかな様子で座っていた、着流し姿の嘉衛門よしえもんが口を開いた。 
「なかなかそうは言えぬのが息子というもの。ことに柾吉殿のように腕の立つ親であればなおのこと。」 
 細身の体に柔らかな苦笑を浮かべて、嘉衛門は松吉の気持ちを思いやった。 
「えっ? へへへっ。そういうもんかねぇ。ねぇ、旦那。」 
 誉められてまんざらでもない柾吉が、大袈裟に首をひねりながら栄嘉に訊く。 

「おもしろいのぅ。柾吉殿とお富さんの掛け合いもなかなかじゃが、美津と柾吉殿の掛け合いは、またなおのこと愉快じゃ。」 
 フォッフォッと福々しい笑い声を間に挟みながら栄嘉が答える。 
「変なとこに感心しねぇでくだせえ。」 
「そうじゃのぅ。」 
 ブスッとした柾吉と、えびす顔の栄嘉の掛け合いに、また満開の笑い声が咲いた。 
 皆の大笑いに、美津の隣にいた四つの栄太郎えいたろうはキョトンとした顔をし、「アハハハハ~」と大袈裟に大笑いの真似をした。その可愛らしさにまた皆の笑い声が咲く。 
「お美っちゃん、私が見ててあげるから、ちょいとお食べ。」 
 富はそういうと、自分の膝に栄太郎を乗せて相手を始めた。 
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