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第二部

第十五章 うつせみ割れる 其の五

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「ははうえ~。」 
 国松がかわいい手を天にかざし、庭から走ってきた。その後ろから勝姫が現れる。 
「あねうえにとっていただきました。」 
 国松は、手にしていたセミの脱け殻を自慢げに母に見せる。 
「勝、また木登りをしたのか。そろそろ女子おなごらしゅうせぬか。」 
 江は渋い顔で勝に小言を言う。 
 後ろで控えていた民部卿が、クスリと笑った。 

「わたしがおねがいしました。」 
 国松が姉の前に立ち、手を拡げて精一杯姉をかばった。 
「そうか。よき子じゃ。」 
 笑顔の江は国松を抱き寄せる。 
「勝も弟思いのよき子じゃ。」 
 撫子なでしこ色の袖から出る、少し日焼けした勝姫の伸びやかな手を、江は華奢きゃしゃな手で包んだ。勝姫が乙女びた笑顔ではにかむ。 
「したが勝、そなたにもご縁組みがあるようじゃ。女子としてのたしなみも覚えようぞ。母が教えるゆえな。」 
 驚いて心許なげな顔をした勝に、江はにっこりと微笑んだ。 
「案ずることはない。越前の忠直殿、おいとこじゃ。母も幼い頃に北之庄に居ったゆえ、色々教えてやれる。」 
「はい。」 
 母譲りの美しいまつげを伏せ、勝はうなづいた。 
「長い冬もあるゆえ、いくつか手すさびも覚えるがよいぞ。近くの加賀の前田家には、そなたの姉のたまもおる。寂しゅうないよう文のやり取りなどして仲ようせよ。」 
「はい。」 

 いつもは溌剌はつらつとしている勝の瞳が揺れている。
 江は娘の頬を両手でそっと挟んだ。 
「まだ、輿入れまでには間がある。そのような顔をするな。」 
「あねうえがおよめにいかれるのですか?」 
 勝姫の後ろにいつもくっついているは国松は寂しげである。 
「案ぜずともよいぞ。どこへいっても姉上は国松の姉上じゃ。」 
 江は国松にゆっくり優しく言ってきかせる。 
「そうじゃ。国松が泣いておったら、すぐに帰ってくるゆえな。」 
 勝は膝まづいて、小さな弟の頭を優しく撫でた。 
「なりませぬ。国はなきませぬゆえ、あねうえは、おしあわせにくらしてください。」 
「まっ…」 
 国松のおしゃまな言葉に、女たちは顔を見合わせて、柔らかに笑った。 
 江は昨日のことを思い出していた。 

◆◇◆

 朝方も頬の赤みはかすかに残っており、江は気鬱きうつな日の始まりを迎えた。昼間も時々頬を冷やしながら江は一日を過ごした。 
 夕餉ゆうげでも、秀忠とは一言も言葉を交わさなかった。 

 (寝所には来ないだろう。) 
 江はそう思っていた。また、自分の部屋でしばらく休むはず。そういう人じゃ……。
 這子ほうこを撫でていた江の前に、秀忠は大あくびをしながら現れた。いつものように首をコキコキと動かして。 
「お揉みいたしましょうや。」 
 秀忠が断ると思い、微笑みも見せずに夫の夜具に近づくと、江は一応声をかけた。 
「うむ。頼む。」 
 秀忠は妻に背を向け、ゴロリと横向きに寝転ぶ。 
 驚いた江の華奢な手が、ひととき躊躇ためらった後、ゆっくりと固い筋肉質の秀忠の体を揉み始めた。 
 気持ち良さそうに目をつぶっていた秀忠が、 
「痛かったか。」 
 と、唐突に呟いた。 
「あ、いいえ。…大事のうございます。」 
 江は一瞬、自分の頬に手をやったが、すぐに秀忠に手を戻した。 
「すまなかった。」 
 気持ち良さそうに目をつぶり、寝転んだままではあったが、秀忠が素直に謝る。江の心がほろっとほぐれた。 
「まぁ、あなたさまが素直に謝るなど。雨が降りまする。」 
 江は優しい笑い声をあげ、揉む指に少し力を込めた。 
「なんじゃと?」 
 心地よい痛みを体に感じながら、目を開けて横目で妻を見、秀忠も微笑んだ。夫の柔らかな気を感じながら、江は黙って秀忠の体を丁寧に揉んでゆく。 
「……ああ…、気持ちがよい。」 
 再び目を閉じた秀忠の口から、思わず言葉が漏れた。 

「……私こそ、申し訳ありませなんだ……。勝の縁組みは義父上ちちうえさまのめいでござりまするね。」 
「そうじゃ。」 
 秀忠の顔がフッと曇る。 
義父上ちちうえ様が『すぐに』とお望みなのを、あなたさまが延ばしてくださったとか。」 
 利勝から大姥局に、大姥局から江の相談に来た民部卿に、「上様が冬に向かう北国に娘をやるのは忍びないと大御所を説き伏せた」という話が伝わっていた。 
「ならば来年の雪融けまでに、たくさんの支度を整えさせまする。」 
「ああ、そうしてやってくれ。きれいに雪がなくなったら輿入れさせよう。」 
「いいえ、あなたさま。白かった山が緑に変わっていく様子、雪どけ水が流れる激しい川の音、雪どけの頃の北之庄きたのしょうは、命の喜びに溢れておりまする。」 
「そうか。」 
 江は、真っ暗だった屋敷の中に射してきた日の光、水かさの増えた川の力強く激しい音、日に日に増す太陽の強さと暖かさ。その喜びを皆で噛み締めていたのを思い出していた。 
 (長い冬があるから、あの光景がありがたいのじゃ。長く辛い冬があるからこそ。) 
 自分も秀忠も、今はまだ冬の中で、もがいている。そう江は感じた。 
 (春は必ず来る。必ず。) 
 江は揉む指に心を込めながら、自分の中で強く繰り返した。 
 いつの間にか、秀忠は安らかな寝息をたてている。秀忠の体に、江はそっと打たれた頬を寄せた。温もりが穏やかに江の心へと流れた。 


[第十五章 うつせみ割れる 了]
****** 
【撫子色】鮮やかなピンク
【這子】お守り人形

<第二部 終>
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