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第二部

第十五章 うつせみ割れる 其の四

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「松はどこにもやらぬ。」 
「え?」 
 江が目を開き、秀忠おっとを見る。秀忠は先程から耳元で羽音を立てている蚊が、自分の腕に止まるのを見ていた。 
入内じゅだいとなるはずじゃ。親父がそう動いておる。」 
 ペチリと蚊を叩きながら秀忠が言う。江は初めて聞く話に大きな目をさらに見開いた。 
「松を入内? 天子様に松をやるのですか?」 
「そうじゃ。」 
 秀忠は、息急いて尋ねる妻を見ず、蚊に咬まれたところをさすっている。 
「将軍の、娘ゆえでございますか?」 
 身を正し、先程とはうって変わったゆっくりと低い声で江は夫に問うた。秀忠も江を見据え、はっきりと答える。 
「そうじゃ。生まれながらの将軍の、しかも御台所の娘じゃ。祖父上おじうえさきの将軍、義理とはいえ、祖母上おばうえ様は北政所と呼ばれた高台院さま。父違いの姉上が今の北政所。これ以上ない姫じゃ。」 
 将軍の子を生むとはこういうことかと、江は唇を噛み締める。 
 秀忠を見つめるギリッとした目には、怒りと悲しみと悔しさが混ざっていた。 
「豊臣とのことは考えてある。」 
 己を刺すような妻の目から目を逸らし、秀忠は柔らかい声で言った。 
「え?」 
 江の目がその声に合わせて柔らかみを帯びる。
奈阿なあ姫を国松にあわせようと思う。」 
「奈阿姫を……?」 
「そうじゃ。なるべく早く。千の養女にしての。」 
「千の養女にして?」 
 江がうつむいて黙り込んだ。 
「不服か。」 
「千が可哀想にござりまする。」 
「……江、千とて武家の娘じゃ。承服いたそう。」 
 むっつりとした顔で秀忠は言う。 
 江がこういう反応をするだろうとどこかで分かっていた秀忠だが、御台所としての江がそう言うまいという期待も秀忠はどこかに持っていた。 
 本来なら、母として千を説得してほしいのである。 

「千が子を生むまで待てばよいではありませぬか。」 
 潤んだ黒く美しい目を夫に向け、江は願った。幼い娘を母にするなど、それも別の女が生んだ夫の子の母にするなど、考えただけで江はたまらなくなる。 
「急ぐのじゃ。親父が動く前に動かねばならぬ。」 
義父上ちちうえ様がなにか動こうとしておられるのですか?」 
 一気に身を固くし、すがるような目をした江の問いに、秀忠が一瞬躊躇ためらう。 
 家康はまだ直接動こうとはしていない。だが、いつでも動けるように着々と準備はしている。勝の輿入れとて、その一手。動いていると言えば動いている。だが、それを今、江に伝えるときではない。 

「いや、まだじゃ。」 
「ならば……」 
「なればこそじゃ。親父が動いてからでは遅い。先に動かねば。そしてなんとしても婚儀に淀の方様についてきていただく。」 
 (そうだ。あの用意周到さ。じっくり準備をして、あとは一気に持っていく。動き出しては止めることはできぬのじゃ。) 
 秀忠は焦りを感じ始めていた。 
「姉上を大坂城から出すために?」 
「そうじゃ。」 
「それだけのために? 国松を縁付けるのですか?」 
 江がまたしても目を見張った。娘のみならず、息子もまつりごとの駒とされるのかと思うと、どうにもやるせなかった。 
「豊臣を残すためじゃ。」 
 憮然ぶぜんとした顔で秀忠は言う。江からそんな言葉が出るとは思ってもいなかった。喜んでくれると思っていた。
 (誰のためじゃ)。そう言いそうになるのを、秀忠はなんとかこらえる。 
「淀の方様がすんなりと大坂城から出てくだされば、このようなことはせずともすむ。」 
 夫の言葉に、江の指はまたズキズキと痛み始めた。 
「……では、国松が世継ぎなのでございますか?」 
 能面のような顔の江が呟いた。 
 政の駒に利用されるなら、国松にあとを取らせて豊臣と並び立つ世を作ってくれるのだろう。それならば辛抱できる。江はそう思った。 
「世継ぎは竹千代じゃろう。」 
 さらりと言う夫の言葉は、江の思いを裏切る。 
「…竹千代なのですか?」 
「嫡男の名を継いでおる。」 
 呆然とした妻に、夫は「当たり前ではないか」というような返事をした。 
 将軍の兄を作るのがいかに危ういか、秀忠こそ身に染みている。秀康の己を見る目。あの強い目を竹千代にさせたくはない。そして、国松にも受けさせたくはなかった。 
 (ねたんでも憎んでもよい。が、恨ませてはならぬのじゃ。) 
 秀忠は、口許を引き締めながら、竹千代の国松を見つめる目を思い出して案じた。 

「……竹千代は…豊臣を嫌うておりまする。」 
 眉間に皺を寄せながら、なにかを言おうとして言えなかった江の口から、ポロリと言葉がこぼれ落ちた。 
「それもあるゆえ、国松に娶あわせるのではないか。」 
 秀忠の口から小さなため息が漏れる。 
「では竹千代が世を継いだときに、豊臣は……」 
「それまでに考えればよい。」 
 江の豊臣への思いに三姉妹の結び付きの強さを思い知らされる。しかし、今、動かねばその豊臣が残ることさえ危うくなる。秀忠は、その言葉が喉元まで出ていた。 

「竹千代に奈阿姫を娶あわせては……」 
 よいことを思い付いたとばかりに少し微笑んで、江が秀忠に提案した。 
 嫌がっていても、一緒に過ごすうちに情が湧くかもしれぬ。そして竹千代が世を継げば、徳川も豊臣も並び立つ世が来るではないか。 
 江が言いたい内容ことは、もちろん秀忠にも分かっている。 
「それはできぬ。」 
 秀忠は胡座あぐらをかいている太ももを右手でグッと押さえ、一瞬、妻から目を逸らした。そして、再び江を見据えて言葉を続けた。 

「将軍世継ぎには、宮家か宮家の血を引く摂家の姫じゃ。幕府を揺るぎないものにするためにも。」 
「全て徳川のためにございまするね。」 
 心が震えている江の声は冷ややかであった。 
 どう転んでも、子はまつりごとの道具でしかないのか……。 
「豊臣も残すためじゃ。」 
 秀忠が溜め息をつく。 
「豊臣とて、秀頼殿が関白に着かれれば、摂家ではありませぬか。」 
「そうじゃ。大坂城を出、みやこにて主上おかみの近くにお仕えしてくださるのであればな。今の豊臣は禁裏きんりへの力を持たぬ。秀頼殿の左大臣就任が叶わなかったのを見ても解ろう。それではならぬのじゃ。」 
 結局、話はそこへ戻る。秀忠は江の豊臣を思う気持ちを理解しつつも、同じほどに徳川を思ってくれないのが歯がゆかった。 
「私の子はまつりごとの道具なのですか。」 
 江が頬を紅潮させ、震える声で、秀忠に詰め寄った。 
「力ある家に生まれた宿命さだめであろう。そなたとてそうではないか。」 
 秀忠は溜め息混じりに太ももを叩いた。 

 江は、奥歯をきつく噛み締めている。
 子を生まぬ男とは、このようなものなのか……。昨秋の家康の「それはそれ、これはこれじゃ。市は儂の娘であって儂の娘ではない。徳川の姫、将軍の妹じゃ」という言葉が江の頭によみがる。
 白く美しい江の顔が真っ赤に染まり、火のような瞳で夫をギリリときつく見た。 

「……ならば、義父上ちちうえ様のように側室おへやを持って、子を生ませればよいのですっ!」 

 バシッ。 

 激昂げきこうした江の言葉が終わるのと、肉を叩く鈍い音が響くのは同時であった。 

 江は目を見開いてビリビリ痛む自分の頬を押さえ、秀忠は、妻の頬を打った己の右手を左手で握りしめて愕然がくぜんとする。江の頬も秀忠の右手も赤くなっていた。 
 手を握りしめたまま目をウロウロとさせた秀忠は、気が抜けたように呆然とした江を置いて立ち上がる。 
「徳川が残らねば、…豊臣も残れぬ。勝は忠直殿のところへやる。わかったな。」 
 震える声でやっとそれだけ言うと、妻に背を向け、寝所から出た。 
 江は頬を押さえたまま、身じろぎもしなかった。膝の上の小さな布が次第に濡れて、濃い色に変わっていった。 
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