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第二部
第十二章 母子草、芽立つ 其の五
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春とはいえ、冷たい風と共に夜の帳が降り、秀忠は久しぶりに寝所へ向かった。
江が褥の前で、手をついて出迎える。
「皆大事に至らずよかった。よう働いてくれたな。……疲れておらぬか?」
気恥ずかしさに、最後だけ江から目をそらして優しい言葉をかける夫に、妻は愛しげな笑みを返した。
「大事ございませぬ。」
「そうか。うん、ご苦労であった。」
江から目を逸らしたまま早口でそう言うと、褥にゴロンと寝転がった。
「あなたさま?」
さっさと背を向けた秀忠に江は怪訝な顔をした。
「ああ。いや、そうじゃ。そなた、家中の噂話を存じておるか?」
江に背を向けたまま、本草書を手に取り、やはりどこかぎこちなく秀忠が尋ねる。
「いいえ。」
江は、不思議そうな顔のまま小さく首を振った。
「そうか。」
背を向けたままの秀忠は、何をどう聞こうか、頭の中で必死に考えている。
「どんな噂話でございます?」
江がしびれを切らしたように、夫の背中にまっすぐ問いかけた。
秀忠がムックリと起き上がって首をぐるりと回し、江の方へ無表情な顔を向ける。
「ああ、それがの、私が母上の守り仏を国松に渡し、竹千代にはそなたの守り仏を渡そうとしたゆえ、国松が世継ぎではないかと。」
秀忠は、なるべく簡単に噂の内容を伝えた。
「そんな!…そのようなつもりは……」
江は目を見開き、瞳をうろうろさせながら絶句した。
「わかっておる。そなたにそのようなつもりがないなど。」
秀忠は、自分をも落ち着けるために、なるだけ優しい声で言った。
「第一、竹千代のところに守り仏は置いてこられませなんだ。」
江が必死に平静を装いながら、秀忠に報告した。
「それじゃ。竹千代にそなたの守り仏を渡そうとしたゆえ、福が怒ったと。」
「その通りにございます。姉上が竹千代を守ることはないと申しました。」
平静を装おうとしているが、江の頬は紅潮し、唇が震えている。
「ふむ。さすれば江、国松の元にあった母上の守り仏を何故竹千代のもとへ持っていかなんだ?」
秀忠は、落ち着いた声で利勝に言われたことを江に問いただした。江は一瞬理解できないような顔をしたが、自分の中で答えを探した。
「それは……国松がまだ治っておりませなんだゆえ。」
「したが、国松にはそなたとともに、そなたの守り仏がずっとついておったのであろう? 竹千代の元へ持っていってやってもよかったのではないか?」
「あなたさまのお言葉に背いてはと思うたのです。」
「ふむ。そうか。そうじゃな。 ……じゃが、私は竹千代も案じておるぞ? それは解っておるであろう?」
穏やかな秀忠の追求に、江は目をうろうろさせながら、さらに答えを探した。
「それは……解っておりますが……でも……福が『自分が命に代えても治す』と申しましたゆえ。」
「天晴れではないか。ありがたいことじゃ。」
江が出した答えに、将軍は間髪いれず乳母を誉めた。
江はあの時より冷静な今、秀忠の言い分はいちいちもっともだと思いながらも、色々思い出すとやはり面白くない。美しい目を伏せ、ムッツリと黙りこんでしまった。
「そなたは何故福のことには、そうも頭に血が上るのだ。」
秀忠は、世子の問題を早く解決するには、そこをまずなんとかしなくてはと思っている。そのため、いつもよりグッとこらえて、静かに問い正してみた。
「福が私を目の敵にしておりまするゆえ。」
江は、キッと秀忠を見た。(竹千代が生まれてこのかた、ずっと見ているのに解っていないのか。)と夫への不信感が募る。
「そなたらしゅうない。」
秀忠は溜め息をつき、妻を諌める。自分の味方をしてくれない夫に江はついに責め寄った。
「竹千代が私より『福がよい』と言うのですよ? そして福が『若様が御台様より私を選ばれた』と申したのですっ。」
顔を真っ赤にした江は、勢い込んで秀忠に迫り、ワッと泣き伏した。
「江、そなたは竹千代の母、将軍御台所ぞ。福はただの乳母じゃ。大きく構えておけばよいではないか。」
秀忠は困り果てたように、ゆっくりとした口調で年上のはずの妻を諭す。
「できませぬ。」
泣き濡れた顔を上げて、江がきっぱり言いきった。
「何故じゃ。」
さすがに秀忠も少しイライラしてくる。江が福を受け入れなければ、世子の話は難しい。
「福は、姉上も侮辱しました。」
しゃくりあげながらも、きっぱり言う江に、(やはりそちらか。)と秀忠は思う。
「福の豊臣嫌いは今に始まったことではなかろう。」
溜め息交じりではあるが、秀忠はひたすら江を諌めようとする。
「だからといって許せるものではありませぬ。」
手巾で涙を拭きながら、江はあくまで秀忠に反抗した。
「家中をさざめかせてもか。御台所としてそれでよいと思うのか。」
秀忠も我慢できず、威厳ある将軍の口調で御台所を問いただす。黙っている江を見て、秀忠は続けた。
「私も利勝に『さっさと世継ぎを決めぬからだ』と一喝された。私の至らぬところもある。しかし、そなたも少し考えよ。」
秀忠は苦い顔をし、怒りを呑み込みながらのすこしきつい声で江を諭す。が、「世継ぎ」という言葉を聞き、怒りに震えている江の頭の中は、さらに混乱した。
「あなたさまは福の味方をなさるのですか?」
「そうではない!」
江の凝り固まった考えに、とうとう秀忠が拳を握りしめ、大声を放った。珍しい秀忠の怒りに江は息を呑んだが、夫を睨み付け黙りこんでしまった。
「…………もうよい。今のそなたと話しておると頭が痛うなる。懸念事もあるゆえ、あと二~三日、自分の部屋で休む。話したいこともあったが、今のそなたには話せぬ。」
秀忠にドッと疲れが襲ってきた。疲れた声でそう言うと、立ち上がって出ていこうとした。襖を開けようとして立ち止まり、秀忠は江を振り向いた。
「そうじゃ、夜通し国松の看病をしてフラフラのそなたが休めたのは、竹千代の手柄じゃ。それだけは覚えておくがよい。今しばらく頭を冷やして、御台所の役目を考えよ。」
そう言い残し、襖をピシャリと閉めて秀忠は寝所から出ていった。
(私が休めたのは、竹千代の手柄?)
江はまとまらない頭をなんとか回転させようと、呆然と夫が出ていった闇を見つめていた。
[第十二章 母子草、芽立つ 了]
*****
【手巾】ハンカチのようなもの
江が褥の前で、手をついて出迎える。
「皆大事に至らずよかった。よう働いてくれたな。……疲れておらぬか?」
気恥ずかしさに、最後だけ江から目をそらして優しい言葉をかける夫に、妻は愛しげな笑みを返した。
「大事ございませぬ。」
「そうか。うん、ご苦労であった。」
江から目を逸らしたまま早口でそう言うと、褥にゴロンと寝転がった。
「あなたさま?」
さっさと背を向けた秀忠に江は怪訝な顔をした。
「ああ。いや、そうじゃ。そなた、家中の噂話を存じておるか?」
江に背を向けたまま、本草書を手に取り、やはりどこかぎこちなく秀忠が尋ねる。
「いいえ。」
江は、不思議そうな顔のまま小さく首を振った。
「そうか。」
背を向けたままの秀忠は、何をどう聞こうか、頭の中で必死に考えている。
「どんな噂話でございます?」
江がしびれを切らしたように、夫の背中にまっすぐ問いかけた。
秀忠がムックリと起き上がって首をぐるりと回し、江の方へ無表情な顔を向ける。
「ああ、それがの、私が母上の守り仏を国松に渡し、竹千代にはそなたの守り仏を渡そうとしたゆえ、国松が世継ぎではないかと。」
秀忠は、なるべく簡単に噂の内容を伝えた。
「そんな!…そのようなつもりは……」
江は目を見開き、瞳をうろうろさせながら絶句した。
「わかっておる。そなたにそのようなつもりがないなど。」
秀忠は、自分をも落ち着けるために、なるだけ優しい声で言った。
「第一、竹千代のところに守り仏は置いてこられませなんだ。」
江が必死に平静を装いながら、秀忠に報告した。
「それじゃ。竹千代にそなたの守り仏を渡そうとしたゆえ、福が怒ったと。」
「その通りにございます。姉上が竹千代を守ることはないと申しました。」
平静を装おうとしているが、江の頬は紅潮し、唇が震えている。
「ふむ。さすれば江、国松の元にあった母上の守り仏を何故竹千代のもとへ持っていかなんだ?」
秀忠は、落ち着いた声で利勝に言われたことを江に問いただした。江は一瞬理解できないような顔をしたが、自分の中で答えを探した。
「それは……国松がまだ治っておりませなんだゆえ。」
「したが、国松にはそなたとともに、そなたの守り仏がずっとついておったのであろう? 竹千代の元へ持っていってやってもよかったのではないか?」
「あなたさまのお言葉に背いてはと思うたのです。」
「ふむ。そうか。そうじゃな。 ……じゃが、私は竹千代も案じておるぞ? それは解っておるであろう?」
穏やかな秀忠の追求に、江は目をうろうろさせながら、さらに答えを探した。
「それは……解っておりますが……でも……福が『自分が命に代えても治す』と申しましたゆえ。」
「天晴れではないか。ありがたいことじゃ。」
江が出した答えに、将軍は間髪いれず乳母を誉めた。
江はあの時より冷静な今、秀忠の言い分はいちいちもっともだと思いながらも、色々思い出すとやはり面白くない。美しい目を伏せ、ムッツリと黙りこんでしまった。
「そなたは何故福のことには、そうも頭に血が上るのだ。」
秀忠は、世子の問題を早く解決するには、そこをまずなんとかしなくてはと思っている。そのため、いつもよりグッとこらえて、静かに問い正してみた。
「福が私を目の敵にしておりまするゆえ。」
江は、キッと秀忠を見た。(竹千代が生まれてこのかた、ずっと見ているのに解っていないのか。)と夫への不信感が募る。
「そなたらしゅうない。」
秀忠は溜め息をつき、妻を諌める。自分の味方をしてくれない夫に江はついに責め寄った。
「竹千代が私より『福がよい』と言うのですよ? そして福が『若様が御台様より私を選ばれた』と申したのですっ。」
顔を真っ赤にした江は、勢い込んで秀忠に迫り、ワッと泣き伏した。
「江、そなたは竹千代の母、将軍御台所ぞ。福はただの乳母じゃ。大きく構えておけばよいではないか。」
秀忠は困り果てたように、ゆっくりとした口調で年上のはずの妻を諭す。
「できませぬ。」
泣き濡れた顔を上げて、江がきっぱり言いきった。
「何故じゃ。」
さすがに秀忠も少しイライラしてくる。江が福を受け入れなければ、世子の話は難しい。
「福は、姉上も侮辱しました。」
しゃくりあげながらも、きっぱり言う江に、(やはりそちらか。)と秀忠は思う。
「福の豊臣嫌いは今に始まったことではなかろう。」
溜め息交じりではあるが、秀忠はひたすら江を諌めようとする。
「だからといって許せるものではありませぬ。」
手巾で涙を拭きながら、江はあくまで秀忠に反抗した。
「家中をさざめかせてもか。御台所としてそれでよいと思うのか。」
秀忠も我慢できず、威厳ある将軍の口調で御台所を問いただす。黙っている江を見て、秀忠は続けた。
「私も利勝に『さっさと世継ぎを決めぬからだ』と一喝された。私の至らぬところもある。しかし、そなたも少し考えよ。」
秀忠は苦い顔をし、怒りを呑み込みながらのすこしきつい声で江を諭す。が、「世継ぎ」という言葉を聞き、怒りに震えている江の頭の中は、さらに混乱した。
「あなたさまは福の味方をなさるのですか?」
「そうではない!」
江の凝り固まった考えに、とうとう秀忠が拳を握りしめ、大声を放った。珍しい秀忠の怒りに江は息を呑んだが、夫を睨み付け黙りこんでしまった。
「…………もうよい。今のそなたと話しておると頭が痛うなる。懸念事もあるゆえ、あと二~三日、自分の部屋で休む。話したいこともあったが、今のそなたには話せぬ。」
秀忠にドッと疲れが襲ってきた。疲れた声でそう言うと、立ち上がって出ていこうとした。襖を開けようとして立ち止まり、秀忠は江を振り向いた。
「そうじゃ、夜通し国松の看病をしてフラフラのそなたが休めたのは、竹千代の手柄じゃ。それだけは覚えておくがよい。今しばらく頭を冷やして、御台所の役目を考えよ。」
そう言い残し、襖をピシャリと閉めて秀忠は寝所から出ていった。
(私が休めたのは、竹千代の手柄?)
江はまとまらない頭をなんとか回転させようと、呆然と夫が出ていった闇を見つめていた。
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【手巾】ハンカチのようなもの
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