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第一部

第九章 時雨うちそそぐ 其の三

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「若いとはいえ、豊臣ゆかりのさだ殿を北の方に持つ忠栄ただひで殿を関白にするは、豊臣を公家として残す布石じゃ。だがのう……」
 盃を持った秀忠が、天を仰ぐ。
「次の一手が見つからぬ。」
「次の一手?」
 星のまだ先を見つめる秀忠の言葉を、江も繰り返す。
「そうじゃ。豊臣に武家から公家へとうまく移っていただく手、淀の方様に得心とくしんいただくすべじゃ。」
 叢雲むらくもが、東から流れはじめたのを秀忠は見ていた。

「それで太閤殿下が、どう姉上に言い寄られたかが気になるのですね。」
「そうじゃ。」
 生真面目な夫は微笑んで妻に盃を差し出す。江はやわらかに微笑んで盃を受け、一気に飲み干した。
「『人たらし』と呼ばれておりましたゆえ。殿下は。」
 翻弄ほんろうされ続け、それでも憎みきれなかった義父ちち秀吉を、江は思い出す。
「確かにのう。それは、豊臣にあって徳川にないものやもしれぬな。」
 秀忠は秀吉ではなく、なぜか秀勝の人懐っこい笑顔を思い出していた。

 不意に黙って淋しげな顔を見せる夫に、江はやるせなくなる。
「あなたさま……」
 盃を置くと、江は心配そうに声をかけた。
 雲が少しずつ拡がり、合わせるように虫の音も弱くなっていく。

「千を公家の北の方にするのは嫌か?」
 穏やかな秀忠の声だった。
 この穏やかな声の裏に、どれほどの苦しみが隠されているのだろうと江は思う。
「いえ、それで戦をせずにすむのなら……戦もなく幸せであればよいのです。……生きていてくれれば、それでよいのです。」
 静かな江の声に、秀忠は、辛かったであろう妻の来し方こしかたを思う。
 江は、薄い雲に隠れようとする明星と月を見あげた。
 (姉上……)
 今でも茶々の姿が鮮やかに思い出される。

「されど……」
「なんじゃ?」
 眉をひそめた江が、秀忠に向き直る。妻の真剣な顔に秀忠は盃を置き、江を見つめた。
「姉上は懐剣を手放さぬやもしれませぬ。」
「懐剣?」
「姉上は、浅井あざいの父上に懐剣を直々にもろうたとか。」
「しかし、小谷おだにが落ちたとき、まだ淀の方様は幼かったであろう?」
 凛とした江の報告に、秀忠は慌てる。
「はい。幼かったので、なにを言われたかは覚えておらぬが、父上の涙だけは覚えておられると。」
「ふーむ。」
 秀忠は内心うろたえた。懐剣が武家の誇りを守る物であることは十二分に理解している。
 (武家の誇り、それも、力ある信長公に背いてまで、絆を守り通した浅井の思いか……)
 秀忠がまたガリガリと頭をかいた。
「……それは、なんとも……難しいのう……。その懐剣を持って殿下の元に行かれたのか……」
 秀忠は、淀の方の心がさらに解らなくなった。父からもらった懐剣を持ちながら、そのかたきの傍に上がったのは何故だ。殿下の力が欲しい。秀忠は心からそう思った。

 叢雲むらくもが次第に分厚くなり、月も星も隠れてしまった。
時雨しぐれてきそうじゃ。私は忠栄ただひで殿に文を書く。冷えるゆえ、今宵こよいは先に休んでおれ。」
 江の手を取り立ち上がらせると、秀忠は侍女に灯りを持たせ、妻を見送った。

◇◆

 秀忠が自分で灯りを持ち、自室に辿たどり着いた頃、ポツポツと雨が落ちてきた。 
 忠栄ただひでに手紙を書こうとすみってみたものの、頭の中がまとまらずにいる。摺られた墨は水気を失い、硯にこびりつこうとしていた。 

 (江は、休んだであろうか) 
 千を憂う妻のためにも、戦わずに世を平らかにしたい。しかし、己はそのような器でもない。と、秀忠は、またも出口のない思いを巡らせていた。 
 頭をガリガリとかき、大きな溜息をついた秀忠のもとに、隣の部屋から入ってきた静が、そっとお茶を置いた。 
 秀忠は黙って一口含み、その甘さにホッと息をする。 
 満足そうな秀忠を見た静の心底嬉しそうな笑顔が、部屋の灯りの中に浮かぶ。 
 秀忠の気が、すっと緩んだ。
 
「昨日、親父が来たであろう。」 
 うたげの途中で大姥局と出ていった父を、秀忠は見逃してなかった。 
「大御所様でございまするか?」 
 思い当たる節もないと首をかしげ、静が訊き返す。 
「大姥と、来なんだか?」 
 江からは、大姥の茶を飲みに行くと聞いたが、違うのか?と思いながら、秀忠はまた一口、茶をすすった。 
「あっ!お茶を飲みに……あ、あの方が大御所様……」 
 小さな目を大きく見開いた静を、秀忠はどこかほほえましく思った。 

「知らなんだのか。」 
「はい。大御所さまというのは、もっと怖い方かと思うておりました。」 
 おかしそうに訊く秀忠に、静は、にこにこと答えた。
「ん?」 
「お優しそうなお方でしたから。」 
 ゴクリと茶を飲み込んだ秀忠に、静はいつもより邪気のない、満面の笑みをした。 
「優しい?親父が?」 
 その清々すがすがしいばかりの笑顔に、家康が聖人になったようで、秀忠は目を丸くする。 
「はい。」 
 静は笑顔のまま、優しくはっきり頷いた。秀忠が思わず吹き出す。 
「ワハハハ、初めて聞いたわ。まぁ、近頃は小さい市姫すえひめに目尻を下げっぱなしじゃがの。」 
「まぁ。なら、やはりお優しいのです。きっと。上様のお父上様ですもの。」 
 静が邪念のない、にこにことした顔を見せる。 
「私が、優しい?」 
 意外な言葉を女から聞き、秀忠は思わず聞き返した。利勝の『優しかったのでございましょう』が思い出される。 
「はい。上様はお優しゅうございます。」 
 そんな当たり前のことをなぜ尋ねるのだろうと、静は不思議そうな顔で同じ言葉を繰り返した。 
何故なにゆえじゃ?」 
 優しい・・・という言葉が心にかかっている秀忠は、さらに静に問いかける。 
 灯りの下、静がほんのり頬を染めた。 
 雨が少し強くなったのか、のきを叩く音が聞こえる。 

「私のようなものにお声かけくださいますし、……ちゃんと女子おなごとして扱うてくださりまするゆえ。」 
 静はさっきまでとは違い、口許くちもとを隠しながら、小さな声で恥ずかしげに答えた。 
 秀忠は喉の奥がグッと詰まった。己は静を江だと思って抱いている。静を愛しいと思って抱いているのではない。 
 (どこが優しいのだ)。 
 秀忠が「違う」と言いそうになったとき、大姥局の顔が浮かんだ。『静に御台様の身代わりであることをさとらせてはなりませぬ』。そうだ…きつく言われたのであった。
 
 秀忠は一つ息を吐いて気を整え、静に向かって話しかける。 
「私は優しゅうなぞない。親父に似て、血も涙もない鬼やもしれぬ。そなたのこととてどうするかわからぬぞ。」 
 どこか寂しそうに自嘲する秀忠に、静がにっこり笑う。恨み言を構えていた秀忠は、思いがけない静の笑顔に気遅れした。 
「上様が私にお情けをかけてくださったのは、私の中からもう消えませぬ。思い出して生きてまいればよいことにございまする。」 
 秀忠は驚いた。女のいじらしい言葉に、胸に刀を突きつけられたような気がした。 

 女子とはこういうものなのだろうか。淀の方も同じように思うておるのか……。
 女にしてもらった殿下が忘れられぬのか?
 大坂城の上座には、殿下の戦兜いくさかぶとが置かれていた。今も殿下が居るように。そこに忘れ形見の秀頼殿が居ればなおさら、その思いは消えぬのであろうか。 
 ……そして、……江も……。 

 秀忠は、さだ姫が北政所になると知ったとき、まつげを伏せて手を組んでいた妻を思い出した。隣にいる自分を寄せ付けないような、己の知らない江の顔であった。 
 秀勝殿のことを思い出していたのだろう。それぐらいはすぐに判る。
 ……しかし、江は「戦のない世」というにつけ、戦いでった秀勝殿を思い出しているのやもしれぬ。

 固い顔で黙りこんだ秀忠に、静が微笑んで茶を注ごうとする。 
「よい。寒うなった」 
 秀忠は怖い顔をして立ち上がり、奥の部屋へ向かう。静も茶碗を片付けて灯りを持ち、後へと続いた。



*****
【来し方】 過去。歩んだ道。
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