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第一部

第八章 藤袴薫る 其の一

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 神無月朔日さくじつ、勝姫の帯解きの祝い、竹千代の袴着はかまぎの祝い、国松の髪置きの祝いの朝を迎え、江戸城奥は慌ただしい。今日の衣替えを機に、それぞれの儀式を行うのである。
 勝姫には、初めて大人と同じ衣装を着せる。それならば、と、江は衣替えの時期を選んだ。

◇◆
「御台様も徳川の家風に馴染なじまれましたねぇ。」
 先日、細々こまごまと用意していた民部卿が、「ふふふ」と笑った。
 無駄のないよう衣替えの時期に、しかも三人揃って一度に済ませるなど、実用第一の徳川らしい。いつの間にか江も自分も質実剛健 とくがわ に慣れているのが民部卿にはおかしかった。
 それでも江は、初めて「将軍の姫」として帯解きを迎える勝姫に、燃え立つような朱色の豪奢ごうしゃ打掛うちかけあつらえた。
 千姫の時は家康が将軍となり、秀頼との婚礼が控えていたから大急ぎで済ませた。珠姫は帯解きどころか、髪置きが済んで間もなく前田家に嫁に行った。初姫は生まれてすぐ、姉の京極家へやった。
 手元で祝いをしてやれなかった姫たちに心の中で謝りながら、その子たちの分も江は祝ってやりたかった。
 (千、珠、初、みな息災か?)
 大坂の茶々淀の方からも、近江の初京極の御方からも祝いの品が届いている。二人の姉の心尽くしを見るにつけ、幼くして別れた子どもたちの顔が、江の胸を締めつける。豊臣に預けた完姫さだひめも。
 ことに茶々は、江の母親代わりの想いがあるのだろう。勝姫へ京風の帯や鏡、銀細工のくしなど、目を見張るほど美しい品々が届けられた。また、竹千代には品のよい童服わらべふくが、国松にも精巧せいこうなおもちゃが届けられている。
 (茶々姉上……)
 緊張が続く徳川宗家だというのに、心を砕いて多くの祝いを贈ってくれた茶々あねの優しさに、江は涙した。
 (いつか、きっとお目もじのうえ、お礼を申し上げる日がくるはず。……必ず……)
 お礼の文をしたためながら、江はキュッと口を結んだ。
◇◆

 家康も久しぶりに江戸へ出向き、三人の和子わこの祝いが、中奥なかおく御座之間ござのまで盛大に始まった。

 きれいに化粧をし、鮮やかな山吹色の振袖を着た勝姫が、居並ぶ重臣や、お目見え女中たちの前に進み出る。
 初々ういういしい中にも、母譲りのあでやかさを持つ美しい姫は、立っているだけで人々の柔らかな笑顔を引き出した。
 大姥局が進み出ると、長生きの願いを込めて仕上げの帯を結び、打掛を着せる。
「おめでとうござりまする。」
 大姥局が祝うと、一同が打ちそろって「おめでとうござりまする。」と頭を下げ、乙姫おとひめは、はにかんだ笑顔を見せた。
 勝姫は華奢きゃしゃな扇を手に、上段の両親と祖父の前に進む。数え七つの姫は、少し緊張しながら大人びた礼をして告げた。
「これからは姉上がたのように、徳川おいえのお役に立てるよう精進してまいります。」
「うむ。楽しみにしておるぞ。……お転婆てんばはほどほどにの。」
 重々しい返事の後、秀忠はそっと三の姫に願う。
「よいよい。母上のように美しゅうて達者な女子になるがよいぞ。子もたんと産める、の。」
 間髪を入れず、お茶目に家康が言う。
 機嫌のよい大御所に、皆の笑いがさざめく中、勝姫は華やかな笑顔で下がった。
 代わって若い小姓が碁盤ごばんを抱え、秀忠たちの前に置く。
 福にうながされ、公家風の童服を着た竹千代が黙って立ち、碁盤へ近づいた。

 江は、先ほどから苛立っていた。竹千代の童服が江の用意したものと違っていたのである。
 いや、江が準備したものではあったが、先日、茶々から贈られた香染こうぞめの童服が素晴らしく、替えて着せるようにと民部卿に届けさせた。その童服ではない。
 (豊臣からの贈り物は着せられぬのか?)
 江は、豊臣嫌いの福が茶々からの童服を着せなかったと思ってるが、事情は違う。
 江が先に用意していた海松色みるいろの童服には、伽羅きゃらの香りが移っていた。
 『母上の香りがする。』
 竹千代はそう言い、頑固に深い緑色の童服を着ると言い張ったのである。
 そして福も、御台所から改めて届けられた見事な童服が茶々の贈り物とは知らずにいた。民部卿が気を回し、伝えなかったからである。
 どちらも御台様の用意したものと思った福は、香り高く美事みごとな薄茶の童服を諦め、若君の望むままの童服を着せた。

 ついさきほどまで勝姫さんのひめに向けられていた江のにこやかさが、竹千代わかぎみにはないのが福には不満である。
 (それほどまで若様をお嫌いか。)
 福は竹千代わかさまを守らねばと言う思いが、ふつふつと湧いた。

 五つの祝いのため、竹千代はそっと碁盤の上に立ち、利勝に白の袴を着せてもらう。小松を持った竹千代の髪を利勝が少しぎ、うやうやしく下がった。
 竹千代が碁盤の上から飛び降りれば、深曽木ふかそぎの儀も終わる。が、竹千代は碁盤の上から動かなかった。
「若様、どうぞ飛び降りなさいませ。」
 利勝が横でそっと声をかけた。
 竹千代はモジモジしている。母が自分に笑顔を見せないのはなにか粗相そそうをしたのだと思っていた。
「若様?」
 利勝がまた声をかけるが、竹千代は動かない。居並ぶ家臣たちが顔を見合わせ、江も弱った顔を見せた。
「失礼いたします。」
 福がズイッと碁盤の近くににじり出る。
「若様、ようございます。」
 福が笑顔でうなづくと、竹千代はやっと碁盤から飛び降りた。
「おめでとうござりまする。」
 利勝の声に家臣たちが続く。その声の大きさに竹千代は身を固くし、たどたどと両親の前に進み出た。
「竹千代、強き男子おのこに育つのじゃぞ。」
 秀忠が男親らしい笑顔で声をかけ、破魔弓はまゆみ破魔矢はまやを息子に渡す。
「はい。」
 竹千代は目を伏せがちにしながらも、しっかりと返事をした。ただ、竹千代の目は眉間に皺を寄せた母を片隅で捉えていた。


 竹千代が福にともなわれて下がると、碁盤が片付けられ、本多正信に手を引かれた国松が前に進む。
 真綿まわたで精巧に作られた白髪鬘しらがかつらを、正信が国松に恭しくかぶせる。さらに長生きするように、かつらの上からポンポンと白粉おしろいをはたいた。
 それがくすぐったいのか、国松は頭に手をやると、自分でかつらを取ってしまった。
「あれ、国松わかさま。それはじいのお役目です。」
 正信があやすように言うと、国松はキョトンと首を傾げ、綿かつらを少し斜めに被った。
 二の若君の愛らしい仕草と、ザンバラになったかつらに皆がドッと笑った。
 口許を押さえて笑う江の優しく美しい笑みに、福だけが固い顔をしている。
 福が笑っていないのを横目に見ると、竹千代も存分には笑えなかった。

 正信がかつらをくしけずり、恭しく取る。一足下がって「おめでとうござりまする。」と礼をすると、家臣一同が続いた。
 国松は一同を見回し、「うん!」と元気な声を上げた。
 正信に導かれ、国松が秀忠の前に座る。
 秀忠が笑顔で破魔矢を国松に手渡した。
「よき子に育つのじゃぞ。」
「はい!!」
 国松は大きな声で返事をし、父にあどけない笑顔を返して続けた。
「ちちうえ、またすもうをとってくださりませ。」
「よし。また取ろうな。」
「はい!こんどはまけませぬ!」
 国松の元気でかわいい挑戦に、部屋中が大きく湧いた。
 竹千代は弟をかわいいと思いながらも、弟のように振る舞えない自分が悔しかった。

「みなすこやかに育つのじゃぞ。」
 家康が好好爺こうこうやの格好で、揃った孫に声をかける。
「祝いの儀も滞りのう済んだ。みな、ご苦労であった。あとは無礼講ぶれいこうじゃ。楽しんでくれ。」
 秀忠が立ち上がり、堂々と居並ぶ家臣に号令した。そのときに家康がかすかな、ほんの微かな笑みを浮かべたのに江は気づいた。



*****
【神無月朔日】十一月一日。慶長十三年十一月一日は1608年11月8日
【帯解きの祝い】女子七歳(ここでは数え)のお祝い
【袴着の祝い】男子五歳(ここでは数え)のお祝い
【髪置きの祝い】男女三歳(ここでは数え)のお祝い
【香染め】丁子(クローヴ)で染めたもの。大変高価。
【真綿】綿状の絹
 
 
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