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第一部
第七章 萱草結ぶ 其の三
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その日の夕方、弱まりもしない蝉時雨を聞きながら、秀忠は自室で寝転がっていた。
庭の片隅の小さな藪の中、太陽の色をした萱草が、すっくりと咲いている。
(忘れ草か……)
憂きことを忘れさせるという萱草も、今の秀忠には何の役にもたたなかった。秀忠は、ごろんと仰向けに転がってみる。
今朝から江に会わずにきた。
江に合わせる顔がない。
なにを言えばいいのか、どう声をかければいいのか……。
政の懸念が多いのに、己はなにをしているのだ。
利勝も呆れかえっていた。
口には出さないが、「なにをやってるんだ」というあの眼力。
親父譲りのあの眼に睨まれると、小さい頃から気がすくんでしまう……。
伊達殿の山が超えたから黙っていたのだろうが、明日もこの調子なら、また小言をくらうだろう。
己は将軍の器ではないのだ……。
(どうしたものか……)
「失礼いたしまする。」
寝転がっている秀忠の横に大姥局が黙って座り、扇でのんびりとあおぎ始めた。
乳母は何を言うでもなく、ただ黙ってそうしている。
「なんぞ用なのではないのか?」
「いいえ。」
ただお世話をしたいだけとでも言いたげに、大姥局は微笑んで首を振る。
「大姥、私は一人の女子も幸せにできぬ。」
やわらかな気にくつろいだ秀忠が、母に甘えるように天井に愚痴を吐いた。
「御台様はお覚悟が足りませぬ。上様も。」
ホホホとにこやかに笑いながらも、老乳母はきつい言葉で諭す。
「覚悟?」
自分を見上げた養い子に、大姥局はキリッとした顔を返した。
「なにかを得るためには、なにかを捨てねばならぬお覚悟です。御台様はいざ知らず、私は上様にそのようにお教えしたつもりでございまするが……」
老女はがっくりと、残念そうな表情を作って見せた。
「すまんな、不肖の子で。」
「ホホ、よいのです。このあいだ内藤殿が申しておりました。『上様は情がある』と。下々をよく考えて政をされると。」
自分へ体を向けて謝る秀忠に、大姥局は満足げに笑い、扇をことさらバタバタさせた。
「あぁ、それは幼き頃からそなたにうるそう言われたゆえ。」
遠い目をした秀忠だったが、目の片隅に入る乳母の手の皺がなんとなく気にかかった。
「ありがたき幸せにございまする。……されば、上様。」
「なんじゃ。」
「静のことはいかが思し召しですか。」
「いかがとは……」
大姥局が何を問うているか分からず、秀忠は鸚鵡のように訊き返す。
「側室には?」
大姥局は衣も着せず、ずばり切り込む。
「……せぬ……。江を悲しませとうはない。」
ごろんと再び仰向けになった秀忠の声は静かだった。
「御台様とて、もうお解りでございましょう。」
「……江だけがよいのじゃ……」
秀忠は天井を見て繰り返した。
「……ならば、それなりの扱いをなされませ。お優しい言葉などは不要にござりまする。」
優しい言いようで、大姥局はピシャリrと秀忠に言いきかせた。
「……利勝にもそう言われた。」
自分の何が悪いのか分からず、秀忠はポツリと呟く。
「さようでございましょう?」
うんうんと頷く大姥局の扇が、また大きく動いた。
「したが、それでは静がかわいそうであろう。」
『下々のことを考えよ』と繰り返し教えたのは、ほかならぬ大姥ではないかと秀忠は思う。
大姥局は秀忠の気持ちを察しながら、魚を前に『かわいそう』と言った竹千代を思い出して苦笑した。
「上様、お優しいのはよいことですが、優しさもすぎると相手もご自身も傷つけまする。側室にせぬのならば、静は御台様の身代わり。それをお忘れなきよう。よろしいですね?」
乳母はあくまで優しく言い含める。
「江だと思うておる。江としか思うておらぬ。」
反抗期の若者のように秀忠が告げる。
大姥局は溜め息をつく代わりに、ゆっくりと一度瞳を閉じた。
気を落ち着けるように呼吸をした乳母が続ける。
「上様、静をお側に出したときに、私は静を傷つけたのです。御台様の身代わりであるのを静が知れば、さらに傷つくでしょう。それだけはないようにお願い申し上げまする。」
静は御台様の身代わりだが、御台様ではない。そう大姥局は言いたいのだと秀忠は思った。
(そんなことは肌を合わせる私が一番よく分かっている。…………いや、……分かっていると思っているだけなのか………。)
秀忠の思索を感じ取ったのか、大姥局はまた明るく笑った。
「ホホ、上様、あまり難しく考えず、静を可愛がってやってくださいませ。ただ可愛がってくださればよいのです。」
秀忠は、解ったような解らないような気持ちで、腕をグッと宙に伸ばした。
「それから、御台様となにがあったか存じませぬが、いつもどおりになされませ。今宵は、松姫様をお二人のところでおやすみさせるよう計らいましたゆえ。」
「すまぬ。」
秀忠は起き上がり、大姥局に頭を下げた。どこまでバレているか気になったが、乳母の差配に素直に感謝した。
久しぶりに松姫に会えるのも嬉しかったが、なにより江といつものように過ごせるのが嬉しい。
「礼には及びませぬ。御台様には徳川の嫁としての覚悟をお持ちいただけねばなりませぬ。徳川の母としてのお覚悟も。」
そう言うと大姥局は「ホホホホッ」と笑った。
[第七章 萱草結ぶ 了]
庭の片隅の小さな藪の中、太陽の色をした萱草が、すっくりと咲いている。
(忘れ草か……)
憂きことを忘れさせるという萱草も、今の秀忠には何の役にもたたなかった。秀忠は、ごろんと仰向けに転がってみる。
今朝から江に会わずにきた。
江に合わせる顔がない。
なにを言えばいいのか、どう声をかければいいのか……。
政の懸念が多いのに、己はなにをしているのだ。
利勝も呆れかえっていた。
口には出さないが、「なにをやってるんだ」というあの眼力。
親父譲りのあの眼に睨まれると、小さい頃から気がすくんでしまう……。
伊達殿の山が超えたから黙っていたのだろうが、明日もこの調子なら、また小言をくらうだろう。
己は将軍の器ではないのだ……。
(どうしたものか……)
「失礼いたしまする。」
寝転がっている秀忠の横に大姥局が黙って座り、扇でのんびりとあおぎ始めた。
乳母は何を言うでもなく、ただ黙ってそうしている。
「なんぞ用なのではないのか?」
「いいえ。」
ただお世話をしたいだけとでも言いたげに、大姥局は微笑んで首を振る。
「大姥、私は一人の女子も幸せにできぬ。」
やわらかな気にくつろいだ秀忠が、母に甘えるように天井に愚痴を吐いた。
「御台様はお覚悟が足りませぬ。上様も。」
ホホホとにこやかに笑いながらも、老乳母はきつい言葉で諭す。
「覚悟?」
自分を見上げた養い子に、大姥局はキリッとした顔を返した。
「なにかを得るためには、なにかを捨てねばならぬお覚悟です。御台様はいざ知らず、私は上様にそのようにお教えしたつもりでございまするが……」
老女はがっくりと、残念そうな表情を作って見せた。
「すまんな、不肖の子で。」
「ホホ、よいのです。このあいだ内藤殿が申しておりました。『上様は情がある』と。下々をよく考えて政をされると。」
自分へ体を向けて謝る秀忠に、大姥局は満足げに笑い、扇をことさらバタバタさせた。
「あぁ、それは幼き頃からそなたにうるそう言われたゆえ。」
遠い目をした秀忠だったが、目の片隅に入る乳母の手の皺がなんとなく気にかかった。
「ありがたき幸せにございまする。……されば、上様。」
「なんじゃ。」
「静のことはいかが思し召しですか。」
「いかがとは……」
大姥局が何を問うているか分からず、秀忠は鸚鵡のように訊き返す。
「側室には?」
大姥局は衣も着せず、ずばり切り込む。
「……せぬ……。江を悲しませとうはない。」
ごろんと再び仰向けになった秀忠の声は静かだった。
「御台様とて、もうお解りでございましょう。」
「……江だけがよいのじゃ……」
秀忠は天井を見て繰り返した。
「……ならば、それなりの扱いをなされませ。お優しい言葉などは不要にござりまする。」
優しい言いようで、大姥局はピシャリrと秀忠に言いきかせた。
「……利勝にもそう言われた。」
自分の何が悪いのか分からず、秀忠はポツリと呟く。
「さようでございましょう?」
うんうんと頷く大姥局の扇が、また大きく動いた。
「したが、それでは静がかわいそうであろう。」
『下々のことを考えよ』と繰り返し教えたのは、ほかならぬ大姥ではないかと秀忠は思う。
大姥局は秀忠の気持ちを察しながら、魚を前に『かわいそう』と言った竹千代を思い出して苦笑した。
「上様、お優しいのはよいことですが、優しさもすぎると相手もご自身も傷つけまする。側室にせぬのならば、静は御台様の身代わり。それをお忘れなきよう。よろしいですね?」
乳母はあくまで優しく言い含める。
「江だと思うておる。江としか思うておらぬ。」
反抗期の若者のように秀忠が告げる。
大姥局は溜め息をつく代わりに、ゆっくりと一度瞳を閉じた。
気を落ち着けるように呼吸をした乳母が続ける。
「上様、静をお側に出したときに、私は静を傷つけたのです。御台様の身代わりであるのを静が知れば、さらに傷つくでしょう。それだけはないようにお願い申し上げまする。」
静は御台様の身代わりだが、御台様ではない。そう大姥局は言いたいのだと秀忠は思った。
(そんなことは肌を合わせる私が一番よく分かっている。…………いや、……分かっていると思っているだけなのか………。)
秀忠の思索を感じ取ったのか、大姥局はまた明るく笑った。
「ホホ、上様、あまり難しく考えず、静を可愛がってやってくださいませ。ただ可愛がってくださればよいのです。」
秀忠は、解ったような解らないような気持ちで、腕をグッと宙に伸ばした。
「それから、御台様となにがあったか存じませぬが、いつもどおりになされませ。今宵は、松姫様をお二人のところでおやすみさせるよう計らいましたゆえ。」
「すまぬ。」
秀忠は起き上がり、大姥局に頭を下げた。どこまでバレているか気になったが、乳母の差配に素直に感謝した。
久しぶりに松姫に会えるのも嬉しかったが、なにより江といつものように過ごせるのが嬉しい。
「礼には及びませぬ。御台様には徳川の嫁としての覚悟をお持ちいただけねばなりませぬ。徳川の母としてのお覚悟も。」
そう言うと大姥局は「ホホホホッ」と笑った。
[第七章 萱草結ぶ 了]
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