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第一部

第三章 春雷轟く

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 うつむいて伸びた木の新芽が、春の雨の力をうまく取り逃がしている。
 天に向かって咲いていた花々は土に落ち、あはれを感じさせていた。
 春雨というには激しい雨を見ながら、秀忠は机を前にボンヤリしている。その心の内は、『御台様の身代わりに』という大姥局おおばのつぼねの声と、『側室へやは持たぬ』と江に約束した己の声の間で揺れ動いていた。
 (私はなにをしたのだ……)
 秀忠はあの日から数日考え続けている。
 (江を悲しませることはするまいと、勝が生まれたときに誓ったではないか。)
 軒から雨が絶え間なく流れて落ちていく。
 (じゃが、確かに大姥の言うとおり、あの時とは違う。江は男子おのこを二人もあげているし、御台所の地位には揺るぎがない。そして、なにより、……もう子どもは望めぬ……)
 秀忠はゆっくりと目をつぶった。
 (……いや、そのようなことではない。そのようなことではないのだ。江に…江に触れたい……。したが、江を失うのが怖い……怖いのだ……)
 秀忠はバラバラという雨音を聞きながら、松姫が生まれたときを思い出した。


「姫様です。」
 ようやっと産声が聞こえたあと伝えに来たのは、民部ではなく若い侍女であった。
 おかしいと思いながら立ち上がり、姫と江の顔を見に行こうとすると、「御台様はお疲れですゆえ、今しばらくお待ちくださいませ」と侍女が止めた。
 (おかしい、おかしい)
 胸元がザワついた。
 構わず産室を目指したが、廊下で、部屋の入り口で、「お待ちください、上様」。侍女どもになんど止められたか。
 息が詰まりそうになりながらそれらを押しのけ、ふすまを開けた途端、最後は民部までが立ちはだかって私を止めた……。辛そうな顔で……。
 身の毛がよだった。
 その民部を振り切って会った江は、とこに横たわったまま土気色の顔で、私の呼びかけにも応えず、今にもはかなくなってしまいそうだった。


 秀忠は思わずグッと奥歯を噛んだ。
 (そのとき、どれほど身が震えたか……。己を見失うほど取り乱したか……。思い出すだけでもゾッとする。)
 (医師も叱り飛ばした。その医師が平伏しながらも『また和子わこさまをお産みあそばしますと、命の保証はできませぬ』と、きっぱり言い切ったとき、もう情を交わすことはするまいと決めた。江を失うぐらいなら、それくらいのこと辛抱できる。)
 秀忠は、ゆっくりと目を開ける。
 (そうだ。我慢をすればよい。)
 逡巡にけじめをつけた秀忠は、ホゥと溜め息をつく。
 (………………。……我慢?我慢?……私は辛いのか? ……辛い……そうだ辛い。
何をせずとも江の傍にはいてやりたい。いや、傍にいたいと思う。それゆえ、寝所を共にしているが、近頃の江は豊臣や千を思うてかホロホロと泣いてばかりじゃ。それを見ると抱き締めてやりとうなる。
……じゃが、抱き締めたが最後、きっと止まらぬ。そうでのうても恋しくて、欲しくてたまらぬのに……。
そうなると、また子ができるやもしれぬ。子ができたら、江のことじゃ……『生む』と申すであろう……。命のはかなさを知っておる女子じゃ。自分が死にかけたことさえ忘れて…『今まで何度も産んでまいったではございませぬか』と笑って……。そうすれば……)

 秀忠は堂々巡りをしていた。そこに大姥局の『身代わりでよいのです。』のささやきが聞こえる。
 長丸を生んだなつを抱いたのは、ほんの気まぐれであった。江とすれ違い、父に叱咤され、イライラしているときの若気のいたりと言ってよい。初めての男子をあげても側室にしなかったのは、なつに何も感じなかったからだ。
 (……こたびはそうはいかぬ……)
 秀忠はあのたかぶりを思い出していた。
 (あの声……自分は江を抱いていると思っていた。約束をたがえた後ろめたさなどなかった。そこにあったのは江への思いだけ。江がいとしい。その思いが溢れたからこそ抱いてしもうた。)
 また、『身代わりでよいのです。』と大姥局の囁きが聞こえる。同時に、江の切なく悲しげな顔が浮かんだ。


「上様!!上様!? あぁ、おいででしたか。お返事がありませぬゆえ、どこぞに行かれたかと思いましたぞ。」
 雨の音の中から、バタバタした足音と大きな声で利勝が飛び込んできた。
 (こやつのせいじゃ。)
 秀忠は苦々しい顔で利勝を見る。利勝はあるじのそういう顔に慣れているのか、すぐに要件を切り出した。
「お願いしてありました書状はできておりますか?」
 利勝に催促され、秀忠は家康への書状を書いていたのを思い出した。
「あぁ、しばし待て。」
「まだ出来ておらぬのですか!? このような雨ゆえ早う持たせませんと……」
「わかっておる。」
 呆れるように言い放った利勝に、秀忠は筆を取り、巻紙に向かう。筆を走らせようとしたが、収まらない気持ちが口から出た。
「利勝……、そなた、またやっかいごとを。」
「やっかいごと? はて?なんのことでございましょう。仰せられたことは仕損じておりませぬが……。まつりごとも滞りなく進んでおりまするぞ?」
 ゆっくりを含む秀忠の言葉に、気が急いている利勝は早口で返した。
「仕損じておらぬ…か……。確かに仕損じておらぬのだろうな。」
 秀忠は呟き、急かせる利勝の意に沿わず、ゆったり丹念に筆の墨をしごいている。利勝は主がなにかに怒っていると気づいた。
「なにをそんなにカリカリしておられるのです?」
 利勝は己自身が少しイライラしながら主に問うた。その様子に秀忠が苛立ったのは言うまでもない。
「身に覚えがないと?」
 手を止めず、嫌みを含んで言うとチラリと利勝を見た。
それがしでござるか?」
「そち以外に誰がおる!」
 他人事のように応える利勝に、秀忠の堪忍袋の緒が切れた。
 筆が、またぽってりと墨を含む。
「某、なんぞいたしましたかな?」
 利勝は、なおも心当たりがなく、頭をひねっている。秀忠は筆から墨をしごくのを諦め、利勝をギロリと見た。
「……大姥のところの新しい侍女じゃ。ヌシが連れてまいったのであろう?」
 政のこととばかり思っていた利勝が、(手をつけたか)とニヤリと笑い、口を開いた。
「ああ、静ですか。いかがでございましたか?」
 興味がなさそうに、さらりと訊く。その問いに秀忠からの返事はなく、ただブスッとして再び筆の余分な墨を丁寧にしごき始めた。
 利勝は腹の中で(クククッ)と笑う。
「お気に召したのでございまするな。」
「なにゆえそうなる!」
 秀忠が間髪を入れずに怒鳴り、またしても筆がべちゃっと墨を含む。秀忠の気が尖っているのを見ても、利勝は平然としていた。
「御台様以外の女子を気にかけるは初でございますゆえ。」
「気にかけておるのは江じゃ。」
「ま、さようでしょうな。」
 利勝は、秀忠が江に一途なのを誰よりもよく解っていた。だからこその静である。
 そして秀忠は苦虫を噛み潰した顔をしながらも、大姥局も利勝も己のことを思い、そのために静がいるのが解っていた。
「で、いずれを悩んでおられるのです? もしや『もう手を出すまい』と思うておられるのですか?」
 利勝はケロリと尋ねる。利勝にしてみれば、秀忠の悩みなど馬鹿馬鹿しいことでしかなかった。
「……江との約束じゃ……」
 書状に目を落として、秀忠がしんみりと言った。利勝は呆れた。溜息もつかず呆れた。
「ならばそうなさいませ。そして御台様に手を触れず、お寂しゅうて悲しませるか、睦まじゅうして御台様のお命を縮め……」
「利勝っ!」
 しれっとして不吉な予言をする利勝を、秀忠はギリッと睨んでさえぎる。
 しかし、利勝も負けずにグッと睨み返して、重々しく主に挑んだ。
「某は、まことのことしか申しませぬぞ。」
 利勝の言葉に、秀忠は先程の逡巡が思い出される。
「……江がよいのじゃ。」
 先程の目の強さはなく、まつげを伏せてポツリと呟く。利勝はさすがに溜息をついた。
「では、そうなさいませ。御台様と睦まじゅうなさればよろしい。」
「それは…できぬ……」
 松姫を産んだときの江を再び思い出し、秀忠は弱々しく答えた。
「では御台様にお寂しい思いをさせても触れず、こらえられることですな。」
 秀忠は書状に目を落とし、ただ黙っている。
 遠くで地響きのような春雷が鳴った。
「できぬのでしょう?」キッとした声を利勝があげた。「ならば静を抱けばよいのです。さすれば、御台様に優しく触れること叶いましょう。御台様はお分かりになっておらぬやも知れませぬが、男とはそういうもの。」
 利勝は相変わらず秀忠の痛いところを突く。
 あのたかぶり……思う女子とまた交われると思うたあの躯の昂ぶり……。それは同じ男である利勝にはお見通しなのであろう。そう秀忠は思う。静だからこそ反応したことも、それを認めたくないことも、江への後ろめたさになっていることも……。
「したが……」
 江ではない女子に反応する己を断ち切ろうとする秀忠の言葉は、利勝に止められた。
「上様、某がなにゆえ静を選んだのか、ようお分かりなのでしょう?」
 低く静かに利勝が問うた。昔から主を思いやるときの声である。
「う…む…」
 利勝をチラリと見、秀忠はいたずらを見つけられた子どものように頷いた。
「ならば御台様を思うておいでなのですから、後ろめたく思うことなぞありませぬ。」
 利勝はきっぱりと言いきった。秀忠の気の迷いが、まるでおかしいというように。出口はそこしかないというように。
「じゃが……」
 それでも秀忠の気持ちは晴れない。
 (それでよいのだろうか……)
 うつむいて考え込む秀忠に、今度は利勝がイライラしている。
 (静が気に入らなかったらいざ知らず、悩むというのは御台様の身代わりとして上々なのではないかっ。)
 雷の光が、ピカッと辺りを照らした。
「どうなさりたいのですか。」
 たまらず、とげのたった口調で利勝が訊いた。
「判らぬ。」
 目を伏せた年下の主から返ってきたのは、助けを求めるような、開き直ったような、情けない言葉である。
 利勝は呆れるのを通り越して、目をむいた。(勝手に悩んでおけ)。そう思ったが、政に支障をきたされるのも困る。
「ならば、もう一度静を抱いてみられればよろしい。なにか判るやもしれませぬ。そのようなことより、早う書状を書いてくだされ。この雨では駿府すんぷまで時間がかかりますぞ。」
「……わかった。」
 利勝の催促に秀忠はやっと筆を硯から上げた。
 稲妻が明るく光り、すぐにバリバリという音が響き渡った。
「どこぞ近くに落ちましたな。」
 利勝は溜息をつき、様子を見るために立ち上がった。
 


[第三章 春雷轟く 了]
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