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第一部
第二章 花、咲き競う 其の一
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慶長十三年弥生三日、江戸城奥の庭は春爛漫を迎えていた。桃も盛りは、やや過ぎたが、薄紅の花を枝一杯につけ、天に拡げている。
江たちは小さな松姫を真ん中に、稚児人形や天児を並べ、節供を楽しんでいた。
「大きゅうなったのう……」
庭の桃を見つめ、眩しそうに目を細めて江が言う。
「ほんに……」
民部卿と大姥局が、すぐ傍で感慨深げに相づちを打った。
目の前の桃は、江戸へ越してきたとき、「千のために」と家康が植えたものである。子ども好きの家康は、なにかと口実をつけ孫を本丸に呼ぼうとした。桃もそのうちの一つであった。
江の眼が陽の光にキラキラと輝く。
「御台様……」
民部卿が優しく江に呼びかける。
「……なんでもない。みなどうしておるかと思うただけじゃ。」
江は少しだけ鼻をすすり上げた。
「ははうえ~」
国松が小さな菫を手に庭から駆けてくる。
「松にあげるのです。」
まだ幼い若君は、元気な声で菫を母に見せた。
「愛らしいこと。どこに咲いていたのですか?」
「あっち。あねうえが『ここ』って。」
江の問いに、得意げな笑顔で国松が答える。そこへ蓮華の蜜を吸いながら姉の勝姫が戻ってきた。
「勝!」
眉間に皺を寄せ、江が娘をたしなめる。民部卿がクスクスと笑った。
「勝姫様はやはり、三の姫様でございますねぇ……。」
民部卿がチロリと江を見る。自らが三の姫である江が、苦笑しつつもフフフと笑うと、部屋の中に笑い声が溢れた。
筆を置いた竹千代が、はす向かいの部屋からその様子を見ているのに気づいたのは、侍女に呼ばれて立ち上がった大姥局だけであった。
◇◆◇
その夜、節供の桃花酒も手伝い、江は心地よい疲れを感じていた。
寝所に座し、いつものように屈みながら入ってきた秀忠に礼を言う。
「無事、松の上巳の初節供も祝えました。ありがとうござりまする。」
美しく頭を上げ、にこやかに江は続けた。
「勝も国松も楽しそうでした。」
妻のあでやかな微笑みに、秀忠もつられて微笑む。
「そうか。それは上々。して、竹千代は?」
息子の名を聞いた江の顔が、一瞬で険しくなる。秀忠は先の言葉が聞かずとも判る気がした。
「参っておったのですが、すぐに福が『手習いの時間』と連れ帰りました。」
江の抑揚のない報告に、(やれやれ、やはり……)と秀忠は思った。
「そうか。……。松も健やかに育っているようじゃの。」
竹千代から話を逸らした秀忠が、子煩悩な優しい笑顔を見せる。
「はい。」
かすかな笑みで返事をする江の瞳が愁いを帯びる。その眼は部屋に飾られた稚児人形を捉えていた。
「千や珠や初は…いかがしておるでしょう……」
「そうじゃな」
他家へ出した姫が気になるのは、秀忠も同じであった。『案ずるな。きっと息災じゃ。』と言えば江の気持ちが落ち着くというのが分かっていながら、それは嘘のように思えて、秀忠の口からは気のない返事しか出なかった。
「義父上様は豊臣をいかがなさるおつもりなのでしょう……」
人形を手に取りながら、江がぽつりと呟いた。今日も江は眉間にシワを寄せている。昼間思っていたことが、夫を前に思わず口からこぼれた。
「さあな、わからぬ。」
秀忠ははぐらかすように、とぼけた。
「秀頼殿に千を嫁がせたは、豊臣と手を携えるためではないのですか?」
人形に言い聞かせるように、江は稚児人形の頭を撫でる。目を合わせない分、秀忠は自分が責められているように感じた。
「そうじゃ。……もう休め。松を産んでから無理がきかぬくせに。そのように案じてばかりでは、また体を悪うするぞ。」
「……されど!」
江は人形から顔を外し、潤んだ眼で秀忠を見た。秀忠が、ふぅと息をつく。
「そなたの気持ちは分かっておる。悪いようにはせぬ。案ずるなら、淀の方様にいくらでも文を書くがよい。じゃから、あのように辛い想いをまた私にさせるな。やすめ。」
秀忠は早口に言うと灯りを消し、己の床に潜り込んだ。しばらくじっとしていた江も、黙ってゆっくりと自分の床に入った。
『あの子は、ところどころにある脆いところを隠してしまうのです。』
秀忠の脳裏に、昔言われた淀の方様の言葉がよみがえる。
(江にとって淀の方様は姉上というより母上じゃ。口には出さぬが完姫を育ててもろうた恩もあろう。そして、千は私にもかわいい我が子じゃ。……わかっておる……。私が辛い以上に江が辛いのは……。……豊臣と徳川が並び立つ術はないものか……)
『いつまでも甘いのう。』
ニンマリとした家康の顔が闇に浮かぶ。
(くそっ……親父を納得させられるなにかが……)
秀忠の目が冴えてきた。江は疲れたのか、いつの間にか柔らかな寝息を立てている。その寝息を聞いて、秀忠は安堵しながら微笑んだ。
(無理をするでないぞ、江……)。
秀忠はそっと伸びをして静かに寝所をあとにした。
*****
【慶長十三年弥生三日】桃の節供、上巳の節供。1608年4月18日
【天児】子どもが無事育つようにとの厄除け身代わり人形
江たちは小さな松姫を真ん中に、稚児人形や天児を並べ、節供を楽しんでいた。
「大きゅうなったのう……」
庭の桃を見つめ、眩しそうに目を細めて江が言う。
「ほんに……」
民部卿と大姥局が、すぐ傍で感慨深げに相づちを打った。
目の前の桃は、江戸へ越してきたとき、「千のために」と家康が植えたものである。子ども好きの家康は、なにかと口実をつけ孫を本丸に呼ぼうとした。桃もそのうちの一つであった。
江の眼が陽の光にキラキラと輝く。
「御台様……」
民部卿が優しく江に呼びかける。
「……なんでもない。みなどうしておるかと思うただけじゃ。」
江は少しだけ鼻をすすり上げた。
「ははうえ~」
国松が小さな菫を手に庭から駆けてくる。
「松にあげるのです。」
まだ幼い若君は、元気な声で菫を母に見せた。
「愛らしいこと。どこに咲いていたのですか?」
「あっち。あねうえが『ここ』って。」
江の問いに、得意げな笑顔で国松が答える。そこへ蓮華の蜜を吸いながら姉の勝姫が戻ってきた。
「勝!」
眉間に皺を寄せ、江が娘をたしなめる。民部卿がクスクスと笑った。
「勝姫様はやはり、三の姫様でございますねぇ……。」
民部卿がチロリと江を見る。自らが三の姫である江が、苦笑しつつもフフフと笑うと、部屋の中に笑い声が溢れた。
筆を置いた竹千代が、はす向かいの部屋からその様子を見ているのに気づいたのは、侍女に呼ばれて立ち上がった大姥局だけであった。
◇◆◇
その夜、節供の桃花酒も手伝い、江は心地よい疲れを感じていた。
寝所に座し、いつものように屈みながら入ってきた秀忠に礼を言う。
「無事、松の上巳の初節供も祝えました。ありがとうござりまする。」
美しく頭を上げ、にこやかに江は続けた。
「勝も国松も楽しそうでした。」
妻のあでやかな微笑みに、秀忠もつられて微笑む。
「そうか。それは上々。して、竹千代は?」
息子の名を聞いた江の顔が、一瞬で険しくなる。秀忠は先の言葉が聞かずとも判る気がした。
「参っておったのですが、すぐに福が『手習いの時間』と連れ帰りました。」
江の抑揚のない報告に、(やれやれ、やはり……)と秀忠は思った。
「そうか。……。松も健やかに育っているようじゃの。」
竹千代から話を逸らした秀忠が、子煩悩な優しい笑顔を見せる。
「はい。」
かすかな笑みで返事をする江の瞳が愁いを帯びる。その眼は部屋に飾られた稚児人形を捉えていた。
「千や珠や初は…いかがしておるでしょう……」
「そうじゃな」
他家へ出した姫が気になるのは、秀忠も同じであった。『案ずるな。きっと息災じゃ。』と言えば江の気持ちが落ち着くというのが分かっていながら、それは嘘のように思えて、秀忠の口からは気のない返事しか出なかった。
「義父上様は豊臣をいかがなさるおつもりなのでしょう……」
人形を手に取りながら、江がぽつりと呟いた。今日も江は眉間にシワを寄せている。昼間思っていたことが、夫を前に思わず口からこぼれた。
「さあな、わからぬ。」
秀忠ははぐらかすように、とぼけた。
「秀頼殿に千を嫁がせたは、豊臣と手を携えるためではないのですか?」
人形に言い聞かせるように、江は稚児人形の頭を撫でる。目を合わせない分、秀忠は自分が責められているように感じた。
「そうじゃ。……もう休め。松を産んでから無理がきかぬくせに。そのように案じてばかりでは、また体を悪うするぞ。」
「……されど!」
江は人形から顔を外し、潤んだ眼で秀忠を見た。秀忠が、ふぅと息をつく。
「そなたの気持ちは分かっておる。悪いようにはせぬ。案ずるなら、淀の方様にいくらでも文を書くがよい。じゃから、あのように辛い想いをまた私にさせるな。やすめ。」
秀忠は早口に言うと灯りを消し、己の床に潜り込んだ。しばらくじっとしていた江も、黙ってゆっくりと自分の床に入った。
『あの子は、ところどころにある脆いところを隠してしまうのです。』
秀忠の脳裏に、昔言われた淀の方様の言葉がよみがえる。
(江にとって淀の方様は姉上というより母上じゃ。口には出さぬが完姫を育ててもろうた恩もあろう。そして、千は私にもかわいい我が子じゃ。……わかっておる……。私が辛い以上に江が辛いのは……。……豊臣と徳川が並び立つ術はないものか……)
『いつまでも甘いのう。』
ニンマリとした家康の顔が闇に浮かぶ。
(くそっ……親父を納得させられるなにかが……)
秀忠の目が冴えてきた。江は疲れたのか、いつの間にか柔らかな寝息を立てている。その寝息を聞いて、秀忠は安堵しながら微笑んだ。
(無理をするでないぞ、江……)。
秀忠はそっと伸びをして静かに寝所をあとにした。
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【慶長十三年弥生三日】桃の節供、上巳の節供。1608年4月18日
【天児】子どもが無事育つようにとの厄除け身代わり人形
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