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序章

序 ふきのとう出づる

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 慶長十三年が明け、七草も過ぎる頃である。先年のうちに春立つ日を迎え、すでに二十日はつか近く過ぎるというのに、まだ梅のつぼみのほころびもない。
 御台所の乳母である民部卿みんぶきょうが、寒さに赤くなった丸い鼻の頭を押さえながら、奥の廊下を渡っていった。

大姥おおばさま、お加減はいかがでございますか?」
 侍女にいざなわれて局へ入った民部卿が、開口一番に尋ねる。
「年明け早々、ご心配をおかけいたしました。年を取ると風邪ふうじゃもなかなか癒えず、いけませぬのぅ。」
 火鉢の傍の脇息に寄りかかった大姥局おおばのつぼねが、少し鼻声で答えた。
 どこかのんびりした民部卿とは対照的に、病み上がりといえ威厳の漂う大姥局である。
「まぁまぁ、ご無理なさらずおやすみになってくださいませ。」
 大姥局を心配そうに見やり、民部卿は近くの床を整えた。
 ぽっちゃりした体に似合わぬ、自然でキビキビした動きに(この方も根っからの乳母めのとじゃ。)と大姥局の皺だった顔が緩む。
「そのようなことをなさいまするな。もう随分よいのです。」
「いえいえ、松姫ごのひめさまのお食い初めまでに達者になっていただきませぬと。養い親をしていただくのでございますから。」
「またわたくしなぞがしてよいのやら……。こたびは大御所さまもおいででございますのに。」
 背を丸めた大姥局が、小さくホゥとため息をついた。
「何をおおせです。姫君さまなれば、殿方の大御所さまは養い親になれませぬ。」
 民部卿は大姥局の珍しい戯れ言ざれごとに、ウフフと笑い、励ますように後を続けた。
「今回も上様のたってのご希望だとか。乳母冥利めのとみょうりにつきるではありませぬか。御台様も心待ちにしておられまする。」
 民部卿は人懐っこくニカッと笑って、ウンウンとうなづいた。
「御台様はお健やかなのですか?」
 御台所の江は、五女になる松姫まつひめを産んだ後の肥立ちが悪く、長く伏せっていた。師走半ばになって、やっと床から離れはじめたのである。
「ご心配をおかけいたしました。大分だいぶ平素へいその御台様にお戻りです。」
 民部卿が、クシャリと明るい笑顔で答える。少し皺だった心からの笑顔に、大姥局の肩の荷もひとつ下りた。
「それはそれは……まことにようございました。」
「ただ……」
「ただ?」
松姫ごのひめさまをお産みになったあと、御殿医殿に『これ以上、和子わこさまをお産み遊ばしますと命の保証はできませぬ』と。」
「おお、それは上様から聞き及んでおりまする。」
「はぁ。以来……」
 調子よく話し続けた民部卿の口がよどんだ。
「以来?」
 大姥局が先を促すように繰り返す。民部卿が一度大姥局を見つめ、ホッと息を吐いて先を続ける。
「上様が……、御台様に……あまり触れぬそうで……」
 どのような大事かと構えていた大姥局は、気が抜けたように笑った。
「オホホッ、それは仕方ありませぬ。上様はやっと三十路みそじ。大御所さまの言葉をお借りすれば『これから男子おのことしての価値が上がる』お歳。年上とはいえ、ご執心の御台様のお肌に触れればこらえることもできませぬでしょう。」
「ところが御台様は、触れてもくれぬのはお寂しい…と……」
 民部卿が、気恥ずかしそうに報告する。
「オッ、ホホホホッ。相変わらずでいらっしゃるの。まこと、ご本復あそばされたようじゃ。」
「はぁ。」
 民部卿の所在なげな苦笑いに大姥局もまた笑った。二人の仲のよい笑い声が、部屋に差し込む初春の穏やかな光に溶けた。

「さて、本日お呼び立てしたのは、こちらを渡そうと思いましての。」
 大姥局が一冊の冊子を民部卿の前に差し出した。
「徳川のしきたりを御台様にもお伝えしてきましたが、まだ危ういところがございます。ここに細かいところまでを書き留めさせましたゆえ、民部殿にお預けいたしたく。よい折に御台様にお渡しくださいませ。」
「それならば、直に……」
 分厚い冊子を前に、民部卿がつぶやいた。大姥局が民部卿の気持ちを察して柔らかに笑う。
「ふふ、この大姥、御台様に対しては、まだ今しばらく口うるそうおりまするゆえ。それより民部殿も目通しされて、それとのう御台様をお助けさしあげてくださいませ。」
 大姥局は将軍秀忠の乳母であり、御台所の江にとってはしゅうとめのような人物である。江戸城の女人にょにんの中では誰よりも江に強く物言いが出来る人間であった。
 民部卿は冊子を自分の脇に置き、居ずまいを正して大姥局に深く頭を下げる。
「お心遣いいたみいりまする。したが、いつまでもお達者で御台様をお導きくださいませ。」
「ふふ、そうは思うておりまするが、寄る年並みには勝てませぬ。」
「ほんにさようでございまするね。私も若様がたのお相手が辛いおりがございます。」
「その若様よのぉ……」
 先程まで明るかった二人の顔が瞬時に曇る。老乳母同士の話は、そのまま一時ひとときほど続いた。


*****
《慶長十三年元日》1608年2月18日
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