1 / 132
序章
序 ふきのとう出づる
しおりを挟む
慶長十三年が明け、七草も過ぎる頃である。先年のうちに春立つ日を迎え、すでに二十日近く過ぎるというのに、まだ梅のつぼみのほころびもない。
御台所の乳母である民部卿が、寒さに赤くなった丸い鼻の頭を押さえながら、奥の廊下を渡っていった。
「大姥さま、お加減はいかがでございますか?」
侍女に誘われて局へ入った民部卿が、開口一番に尋ねる。
「年明け早々、ご心配をおかけいたしました。年を取ると風邪もなかなか癒えず、いけませぬのぅ。」
火鉢の傍の脇息に寄りかかった大姥局が、少し鼻声で答えた。
どこかのんびりした民部卿とは対照的に、病み上がりといえ威厳の漂う大姥局である。
「まぁまぁ、ご無理なさらずおやすみになってくださいませ。」
大姥局を心配そうに見やり、民部卿は近くの床を整えた。
ぽっちゃりした体に似合わぬ、自然でキビキビした動きに(この方も根っからの乳母じゃ。)と大姥局の皺だった顔が緩む。
「そのようなことをなさいまするな。もう随分よいのです。」
「いえいえ、松姫さまのお食い初めまでに達者になっていただきませぬと。養い親をしていただくのでございますから。」
「また私なぞがしてよいのやら……。こたびは大御所さまもおいででございますのに。」
背を丸めた大姥局が、小さくホゥとため息をついた。
「何を仰せです。姫君さまなれば、殿方の大御所さまは養い親になれませぬ。」
民部卿は大姥局の珍しい戯れ言に、ウフフと笑い、励ますように後を続けた。
「今回も上様のたってのご希望だとか。乳母冥利につきるではありませぬか。御台様も心待ちにしておられまする。」
民部卿は人懐っこくニカッと笑って、ウンウンとうなづいた。
「御台様はお健やかなのですか?」
御台所の江は、五女になる松姫を産んだ後の肥立ちが悪く、長く伏せっていた。師走半ばになって、やっと床から離れはじめたのである。
「ご心配をおかけいたしました。大分平素の御台様にお戻りです。」
民部卿が、クシャリと明るい笑顔で答える。少し皺だった心からの笑顔に、大姥局の肩の荷もひとつ下りた。
「それはそれは……まことにようございました。」
「ただ……」
「ただ?」
「松姫さまをお産みになったあと、御殿医殿に『これ以上、和子さまをお産み遊ばしますと命の保証はできませぬ』と。」
「おお、それは上様から聞き及んでおりまする。」
「はぁ。以来……」
調子よく話し続けた民部卿の口がよどんだ。
「以来?」
大姥局が先を促すように繰り返す。民部卿が一度大姥局を見つめ、ホッと息を吐いて先を続ける。
「上様が……、御台様に……あまり触れぬそうで……」
どのような大事かと構えていた大姥局は、気が抜けたように笑った。
「オホホッ、それは仕方ありませぬ。上様はやっと三十路。大御所さまの言葉をお借りすれば『これから男子としての価値が上がる』お歳。年上とはいえ、ご執心の御台様のお肌に触れれば堪えることもできませぬでしょう。」
「ところが御台様は、触れてもくれぬのはお寂しい…と……」
民部卿が、気恥ずかしそうに報告する。
「オッ、ホホホホッ。相変わらずでいらっしゃるの。まこと、ご本復あそばされたようじゃ。」
「はぁ。」
民部卿の所在なげな苦笑いに大姥局もまた笑った。二人の仲のよい笑い声が、部屋に差し込む初春の穏やかな光に溶けた。
「さて、本日お呼び立てしたのは、こちらを渡そうと思いましての。」
大姥局が一冊の冊子を民部卿の前に差し出した。
「徳川のしきたりを御台様にもお伝えしてきましたが、まだ危ういところがございます。ここに細かいところまでを書き留めさせましたゆえ、民部殿にお預けいたしたく。よい折に御台様にお渡しくださいませ。」
「それならば、直に……」
分厚い冊子を前に、民部卿がつぶやいた。大姥局が民部卿の気持ちを察して柔らかに笑う。
「ふふ、この大姥、御台様に対しては、まだ今しばらく口うるそうおりまするゆえ。それより民部殿も目通しされて、それとのう御台様をお助けさしあげてくださいませ。」
大姥局は将軍秀忠の乳母であり、御台所の江にとっては姑のような人物である。江戸城の女人の中では誰よりも江に強く物言いが出来る人間であった。
民部卿は冊子を自分の脇に置き、居ずまいを正して大姥局に深く頭を下げる。
「お心遣いいたみいりまする。したが、いつまでもお達者で御台様をお導きくださいませ。」
「ふふ、そうは思うておりまするが、寄る年並みには勝てませぬ。」
「ほんにさようでございまするね。私も若様がたのお相手が辛いおりがございます。」
「その若様よのぉ……」
先程まで明るかった二人の顔が瞬時に曇る。老乳母同士の話は、そのまま一時ほど続いた。
*****
《慶長十三年元日》1608年2月18日
御台所の乳母である民部卿が、寒さに赤くなった丸い鼻の頭を押さえながら、奥の廊下を渡っていった。
「大姥さま、お加減はいかがでございますか?」
侍女に誘われて局へ入った民部卿が、開口一番に尋ねる。
「年明け早々、ご心配をおかけいたしました。年を取ると風邪もなかなか癒えず、いけませぬのぅ。」
火鉢の傍の脇息に寄りかかった大姥局が、少し鼻声で答えた。
どこかのんびりした民部卿とは対照的に、病み上がりといえ威厳の漂う大姥局である。
「まぁまぁ、ご無理なさらずおやすみになってくださいませ。」
大姥局を心配そうに見やり、民部卿は近くの床を整えた。
ぽっちゃりした体に似合わぬ、自然でキビキビした動きに(この方も根っからの乳母じゃ。)と大姥局の皺だった顔が緩む。
「そのようなことをなさいまするな。もう随分よいのです。」
「いえいえ、松姫さまのお食い初めまでに達者になっていただきませぬと。養い親をしていただくのでございますから。」
「また私なぞがしてよいのやら……。こたびは大御所さまもおいででございますのに。」
背を丸めた大姥局が、小さくホゥとため息をついた。
「何を仰せです。姫君さまなれば、殿方の大御所さまは養い親になれませぬ。」
民部卿は大姥局の珍しい戯れ言に、ウフフと笑い、励ますように後を続けた。
「今回も上様のたってのご希望だとか。乳母冥利につきるではありませぬか。御台様も心待ちにしておられまする。」
民部卿は人懐っこくニカッと笑って、ウンウンとうなづいた。
「御台様はお健やかなのですか?」
御台所の江は、五女になる松姫を産んだ後の肥立ちが悪く、長く伏せっていた。師走半ばになって、やっと床から離れはじめたのである。
「ご心配をおかけいたしました。大分平素の御台様にお戻りです。」
民部卿が、クシャリと明るい笑顔で答える。少し皺だった心からの笑顔に、大姥局の肩の荷もひとつ下りた。
「それはそれは……まことにようございました。」
「ただ……」
「ただ?」
「松姫さまをお産みになったあと、御殿医殿に『これ以上、和子さまをお産み遊ばしますと命の保証はできませぬ』と。」
「おお、それは上様から聞き及んでおりまする。」
「はぁ。以来……」
調子よく話し続けた民部卿の口がよどんだ。
「以来?」
大姥局が先を促すように繰り返す。民部卿が一度大姥局を見つめ、ホッと息を吐いて先を続ける。
「上様が……、御台様に……あまり触れぬそうで……」
どのような大事かと構えていた大姥局は、気が抜けたように笑った。
「オホホッ、それは仕方ありませぬ。上様はやっと三十路。大御所さまの言葉をお借りすれば『これから男子としての価値が上がる』お歳。年上とはいえ、ご執心の御台様のお肌に触れれば堪えることもできませぬでしょう。」
「ところが御台様は、触れてもくれぬのはお寂しい…と……」
民部卿が、気恥ずかしそうに報告する。
「オッ、ホホホホッ。相変わらずでいらっしゃるの。まこと、ご本復あそばされたようじゃ。」
「はぁ。」
民部卿の所在なげな苦笑いに大姥局もまた笑った。二人の仲のよい笑い声が、部屋に差し込む初春の穏やかな光に溶けた。
「さて、本日お呼び立てしたのは、こちらを渡そうと思いましての。」
大姥局が一冊の冊子を民部卿の前に差し出した。
「徳川のしきたりを御台様にもお伝えしてきましたが、まだ危ういところがございます。ここに細かいところまでを書き留めさせましたゆえ、民部殿にお預けいたしたく。よい折に御台様にお渡しくださいませ。」
「それならば、直に……」
分厚い冊子を前に、民部卿がつぶやいた。大姥局が民部卿の気持ちを察して柔らかに笑う。
「ふふ、この大姥、御台様に対しては、まだ今しばらく口うるそうおりまするゆえ。それより民部殿も目通しされて、それとのう御台様をお助けさしあげてくださいませ。」
大姥局は将軍秀忠の乳母であり、御台所の江にとっては姑のような人物である。江戸城の女人の中では誰よりも江に強く物言いが出来る人間であった。
民部卿は冊子を自分の脇に置き、居ずまいを正して大姥局に深く頭を下げる。
「お心遣いいたみいりまする。したが、いつまでもお達者で御台様をお導きくださいませ。」
「ふふ、そうは思うておりまするが、寄る年並みには勝てませぬ。」
「ほんにさようでございまするね。私も若様がたのお相手が辛いおりがございます。」
「その若様よのぉ……」
先程まで明るかった二人の顔が瞬時に曇る。老乳母同士の話は、そのまま一時ほど続いた。
*****
《慶長十三年元日》1608年2月18日
0
お気に入りに追加
42
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
大和型戦艦4番艦 帝国から棄てられた船~古(いにしえ)の愛へ~
花田 一劫
歴史・時代
東北大地震が発生した1週間後、小笠原清秀と言う青年と長岡与一郎と言う老人が道路巡回車で仕事のために東北自動車道を走っていた。
この1週間、長岡は震災による津波で行方不明となっている妻(玉)のことを捜していた。この日も疲労困憊の中、老人の身体に異変が生じてきた。徐々に動かなくなる神経機能の中で、老人はあることを思い出していた。
長岡が青年だった頃に出会った九鬼大佐と大和型戦艦4番艦桔梗丸のことを。
~1941年~大和型戦艦4番艦111号(仮称:紀伊)は呉海軍工廠のドックで船を組み立てている作業の途中に、軍本部より工事中止及び船の廃棄の命令がなされたが、青木、長瀬と言う青年将校と岩瀬少佐の働きにより、大和型戦艦4番艦は廃棄を免れ、戦艦ではなく輸送船として生まれる(竣工する)ことになった。
船の名前は桔梗丸(船頭の名前は九鬼大佐)と決まった。
輸送船でありながらその当時最新鋭の武器を持ち、癖があるが最高の技量を持った船員達が集まり桔梗丸は戦地を切り抜け輸送業務をこなしてきた。
その桔梗丸が修理のため横須賀軍港に入港し、その時、長岡与一郎と言う新人が桔梗丸の船員に入ったが、九鬼船頭は遠い遥か遠い昔に長岡に会ったような気がしてならなかった。もしかして前世で会ったのか…。
それから桔梗丸は、兄弟艦の武蔵、信濃、大和の哀しくも壮絶な最後を看取るようになってしまった。
~1945年8月~日本国の降伏後にも関わらずソビエト連邦が非道極まりなく、満洲、朝鮮、北海道へ攻め込んできた。桔梗丸は北海道へ向かい疎開船に乗っている民間人達を助けに行ったが、小笠原丸及び第二号新興丸は既にソ連の潜水艦の攻撃の餌食になり撃沈され、泰東丸も沈没しつつあった。桔梗丸はソ連の潜水艦2隻に対し最新鋭の怒りの主砲を発砲し、見事に撃沈した。
この行為が米国及びソ連国から(ソ連国は日本の民間船3隻を沈没させ民間人1.708名を殺戮した行為は棚に上げて)日本国が非難され国際問題となろうとしていた。桔梗丸は日本国から投降するように強硬な厳命があったが拒否した。しかし、桔梗丸は日本国には弓を引けず無抵抗のまま(一部、ソ連機への反撃あり)、日本国の戦闘機の爆撃を受け、最後は無念の自爆を遂げることになった。
桔梗丸の船員のうち、意識のないまま小島(宮城県江島)に一人生き残された長岡は、「何故、私一人だけが。」と思い悩み、残された理由について、探しの旅に出る。その理由は何なのか…。前世で何があったのか。与一郎と玉の古の愛の行方は…。
戦国の華と徒花
三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。
付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。
そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。
二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。
しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。
悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。
※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません
【他サイト掲載:NOVEL DAYS】
札束艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
生まれついての勝負師。
あるいは、根っからのギャンブラー。
札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。
時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。
そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。
亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。
戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。
マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。
マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。
高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。
科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!
ずっと女の子になりたかった 男の娘の私
ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。
ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。
そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる