[R18]黄色の花の物語

梅見月ふたよ

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第二十九話 忘れえぬ日々 ⅩⅦ

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 借りていたバスケットを二つまとめて厨房へ返した後。
 オーリィードは、宮殿への坂道を全力で駆け上がった。
 兵士時代、逃げ回る賊を捕縛しようとした時でもここまでではなかった、と思い返す程度に、凄まじい勢いで疾走した。

 宮殿と食堂の間を直接繋ぐ道路は、ウェルノスフォリオの中で一本だけ。
 食堂から宮殿へ戻ろうとするなら当然、アーシュマーと二人で座っていたベンチが嫌でも視界に入ってしまう。

 だからオーリィードは目蓋を固く閉じ、一本道を走り抜けることだけに、全神経と集中力を費やした。
 すれ違った数人が攻撃的突風に驚いて悲鳴を上げたり、風圧に堪え切れず転倒したことにも気付かないまま。
 前例が無い速さで宮殿の正門前に辿り着き、誰か殺したのかと疑われても仕方がないほど剣呑な目付きで、衛兵四人に怯えられながら、使用人専用の出入り口から正面玄関へ向かって、のっしのっしと踏み込んでいく。

「……はあ~~……。さすがに、食事直後で上り坂を全力疾走はキツい……風が気持ち良い……」

 いつもより遅めの歩みで呼吸を整えていると、様々な音が聴こえてきた。
 まるで会話しているような鳥達の鳴き声。
 いち早く季節の移り変わりを察したらしい虫達のささやき。
 宮殿の敷地を囲む湖や、前庭の植物を楽器にして奏でる風。
 石畳に揺れる枝葉の影すら、さわさわと合唱している錯覚。
 爆発しそうな心臓から意識を外し、自然界の音楽に耳を澄ませていると、徐々にだが頭が冷えてくる。

 ここは宮殿。
 自分は宮殿の安全を託されている宮廷騎士で、九人居る隊長の一人。
 為すべきは宮殿の守護であり、預かっている職務と隊員の適切な総轄だ。

 アーシュマーに不意打ちでされた「はい、あーん」などという、とことんふざけた行為に動揺することではない。
 それだけは、断じて違う。

「けど……今日のあいつ、本当にどうかしてるぞ。なんだって、あんな……いや、違う。仕事だ、仕事! 余計なことは考えない! 行くぞッ!」

 閉じられている玄関扉の前で一旦立ち止まって、自らの頬を両手で打ち。
 宮廷騎士団とは所属が違う守衛二人に腕章とマントを示して玄関を潜り、その足でホールと中庭を巡回する。

 以前と違いひそめられる眉やささやき声は無く、仕事中の自覚もあってか馴れ馴れしく絡んでくる者も居らず、異常らしき異常は認められない。
 救護室の近くで、ティアンに強制連行されていたらしいアランの不満げな騒ぎ声が聴こえたが、特別問題視するほどの騒音ではなかった。

「アランはアランで、なにやってんだかな……」





 一通り確認を終えて控え室まで戻ると、三人掛けのソファーに座っている待機役の三人に加え、隊長専用の机の手前で一人掛けのソファーに腰掛けたティアンが、ロッシェを囲んでのんびりお茶を飲んでいた。

「お帰りなさい、隊長」
「ああ。そっちの用事は済んだみたいだな、ティアン」
「はい。食事休憩などで皆さんのスケジュールが少しずつずれているので、予想より時間は掛かってしまいましたが。残っているのは貴女だけです」
「ん。分かった。って……、この匂いは……」

 オーリィードが室内に足を一歩踏み入れた途端、温めたミルク特有の甘くまろやかな香りが、鼻腔をくすぐる。

「もしかして、皆でミルクティーを飲んでるのか? 珍しいな」

 他のメンバーはともかく、ティアンは基本的にミルクティーを好まない。
 最後の一滴まで、茶葉やハーブが持つ香りを楽しみたいタイプだった。
 まったく飲まないわけではないが、自分から進んで淹れるケースは稀だ。

 どういう風の吹き回しかと思えば、諦めたように薄く微笑んだティアンが「宮殿のメイドが淹れた物なので」と答える。
 その言葉を、ティアンの右手側で三人掛けのソファーの右端に座っている二十代半ばと思しき青年が、落ち着いた口調で補足した。

「自分が淹れてもらったんですよ、オーリィード隊長」
「……なるほど。そういえば、お前はミルク系の物には度々反応してたな、フェネル隊員」
「栄養価が高く、味も良いので。オーリィード隊長も、チーズが香る素敵な食事をされてきたご様子」
「うぐぅっ!? い、いや、それは多分、デザートの匂いで……っていうか、出入り口に立つ人間の食事内容まで嗅ぎ分けるとか、すごい嗅覚だな」
「忙しい日々の間に頂くまったりした舌触りのミルクは、人生最高の癒し。甘い香りに身も心も委ねれば、それぞまさに夢見心地なれば」
「そ、そう……なのか? まあ、フェネル隊員が幸せであればなによりだ。正直、食後三時間くらいは近付いて欲しくないが」
「至高の雫に出会えた感謝を、酪農家達へ毎日、朝となく昼となく夜となく切々と語り捧げたい所存です」
「それは酪農家に迷惑だからやめとけ」

 オールバックにもできないほど短く切り揃えた硬い金髪と、感情の起伏が乏しい金色の目と、腹に響くような重低音の声が特徴的なミルク大好き貴族シリウス・ライ・フェネルが、「感謝の気持ちが迷惑?」と首を傾げる。

「感謝を伝える言動も、度が過ぎれば迷惑になるんですよ、フェネル先輩」

 ローテーブルを挟んでフェネルの前に座っている、栗色の柔らかな短髪と収穫を間近に控えた麦色の目を持つ、外見は十代半ばから後半くらいの少年ノルド・ノール・ピアシェが、ロッシェ片手にやれやれと肩を持ち上げた。

「そうそう。朝から晩まで語り続けるって、それ仕事の邪魔してんじゃん。営業妨害だよ、えーぎょーぼーがい。自分が好きなモンの生産効率を自分で落とさせてどうすんのさ。リターンが減るだけだよ?」

 ピアシェの隣で、カップを両手に持ってちまちまと飲み進めていた男が、両手でカップをローテーブルの上のソーサーに乗せ、背もたれに腕を掛けてわざとらしく脚を組んでみせる。

「何事も適度に、適切に。これ、自分の為にも大事っしょ」
「……ああ……はい。適度……大事ですね……」
「……うん。そう、だな……」
「「……ですね……」」

 控え室の中で一人だけ手袋を着用している、ティアンと似た雰囲気の優男イリダ・トルマリン・ネストには、透明感があるピンクゴールドの短い髪をいつでもサラサラな状態で保ち、瑞々しい新茶色の目許に長い指を置いて、相対する者の視線を顔に引き付けるクセがあった。

 というのも、相手がどこを向いて何を見ているのかハッキリしてないと、すっごく怖いから。らしい。

 構えの類いを一切見せずに突然アタックを仕掛けてくる敵や女性が怖い。
 人間の目には何も映らない壁や天井の隅をじい~っと見ている猫も怖い。
 そういう意味では、俊敏すぎて予備動作が判りづらい、しなやかな仔猫を連想させる女性のオーリィードが一番怖いと語っていた小心者かつ潔癖症なネストの精一杯な虚勢を、その場に居る全員が生暖かく微笑んで、軽やかに優しく受け流した。

 ちなみに、グラトニーとバルネットは、オーリィード達がベンチで食事を始める頃に待機役を交替していた為、今はそれぞれホールの持ち場に居る。

「え……、っと……。まあ、とりあえず、ティアンの報告は廊下で聴こう。すぐに出られるか、ティアン」
「はっ!」

 カップとソーサーをローテーブルの上に置いて立ち上がったティアンが、机の前で胸に左手を当てて腰を折り、上司への礼を執った。
 後頭部を掻いたオーリィードが、窓際からティアンの背後に回り込んで、机の上に置いてあった手袋に指を通しつつ、ティアンを伴って廊下へ出る。

「そっちの報告はティアンの話の後で聴くから、お前達は引き続きその場で待機しててくれ、フェネル隊員、ピアシェ隊員、ネスト隊員」
「「「Di  承知しました! シュバイツァー隊が隊員フェネル、ピアシェ、ネストは、控え室で待機を続行します!」」」

 同じく立ち上がって礼を執る三人に頷き、扉をきっちり閉めて、控え室の少し前で並び立つオーリィードとティアン。
 直前までの和やかな空気は消え去り、肌を撫でる電流のような緊張感が、二人の声量を互いに聴こえるギリギリまで落とさせた。

「(『ゲーム』への反応はどうだった?)」

 誰の、とは、改めて尋ねる必要がない。

 ティアンが団長達と一緒に準備を進めていた『エキシビションゲーム』の存在を実技試験前日までに把握できる人間は、近衛騎士団の団長と副団長、宮廷騎士団や王城勤めの騎士団に所属する各長と各副長しか居ないのだ。
 宮殿警護を担当する第九番の隊長オーリィードが最後と言うのであれば、同じ警護係の第五番の隊長であるアーシュマーにも、既に話は通っている。

 内緒話でも極力情報を出さないオーリィードの質問に、ティアンは首肯で答えた。

「(そうか。盛り上がりそうで助かるな)」
「(はい)」
「(で、私への報告ってのは?)」
「(…………とても申し上げにくいのですが…………予定していたカードが変更になりました)」
「(? 変更前のカードも聞いてないし、別に誰が相手でも構わないが)」

 オーリィードの不思議そうな顔を見下ろして、ティアンが苦虫を噛む。

「(……変更前は、アーシュマー隊長でした)」
「(ぅえっ!?)」
「(彼は近衛騎士にも名前が知れている実力者なので、同じ隊長級で最適な対戦相手だと思っていたのですが……)」
「(そ、そうか)」

 それは、変更になって残念だ。
 予定通りなら、今度こそ私が勝利してみせたのにな。
 などと呟きながら、頭の中に流れるまったく関係ない映像で動揺しているオーリィードに、ティアンは緩く頭を振った。

「(アーシュマー隊長が相手なら勝っても負けても良かったんです。しかし変更になった相手には……勝てる見込みはあまりなく、それでも貴女は必ず勝たねばなりません)」
「(…………どういう意味だ)」

 普段は穏やかな声音に悲痛なものを感じ取ったオーリィードがティアンの顔を覗き込むと、緑色の目にもかつてない翳りが見えた。

 心配してくれているのは間違いないが、それだけではない。
 悔しさのようなものも混じる、硬い表情。

「(答えろ、ティアン。私は、ぶつけられた?)」

 アーシュマーのとことんふざけた行為に気を取られている場合ではないと背筋を伸ばしたオーリィードに、ティアンは……掠れた声で答える。



「(貴女の対戦相手は近衛騎士団団長ヘルメイス・オルグ・バーミリアン。指名したのは……ゼルエス陛下、です)」


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