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第八章 佐久間仁ともう一人の仁

第一話 赤信号

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 再び要を呼びに来た不貞腐れたキャバ嬢に、引っ張られるように店内に戻ると、すでに課長は出来上がっていた。おぼつかない足取りだったためすぐさまタクシーを呼び家に帰した。
要も名刺を渡してくるキャバ嬢を無視して店をあとにした。

ようやく冴えてきた頭。しかし仁は相変わらず要の中で蹲っている。

(今すぐ会って話したい)

しかし平日は無理だし、休日もしばらくは出勤しなければならないくらい仕事を任されている。タクシーに押し込んだ友添の顔を思い出し舌打ちしてしまう。

「ちっ、くそっ」

先程から何度も電話をかけ直しているが出ず、それどころか電源から切っている音がする。諦めてジャケットの内ポケットにスマートフォンを直そうとした時だった。

──ブー、ブー

「仁?!」

慌ててスマートフォンを取り出す。画面には…

「また門田かよ!」

悪態をつきながらもこの前からタイミングの悪い時に電話してくる同期の電話に出る。

「何だよッ」
『なんだ、どす黒い声出して!』
「別に。で、どうしたの?」
『ちょっと聞きたいことあるんだけど……』

要の態度もいつもと違うが、門田もいつもより覇気がない。

『お前さ、この前佐久間先輩のこと聞いてきたよな?』
「お、おう」

その名前にドキッとする。

『お前、何か知ってんの?』
「何かってなんだよ」

話の趣旨が見えてこない門田の喋り方にイライラが募る。

『どこか身体が悪いとか』
「はっ? いや、聞いたことない。つか、何でだよ!」
『そうがっつくなよ! 佐久間先輩、ここ最近様子が変なんだよ』
「お前この前は普通っていってたじゃねーか!」
『あの時はな! でも今は違うんだ』

要はそれが先ほどの別れ話に繋がっていると予感していた。しかし、電話をしている限り、ここ最近別段おかしなところはなかった。
それでも仁をそばで見ている門田の発言から何かがあったことが分かる。

『仕事でミスしたんだ』
「ミス? そんなのするだろ。人間なんだから。俺もするぞ」
『お前と一緒にするなよ。今週の月曜日に、契約更新先の工場から判子を押してもらうのを忘れたんだ』
「なんだその初歩的なミスは。ありえないだろ」
『そうだろ? ありえないだろ? しかもあの佐久間先輩が』
「で? そのミスがどうかしたの? 怒られたとか?」
 『まぁ田中部長はかなり怒ってたね。これは噂なんだけど……佐久間先輩、昇進がかかってたらしい』
「えっ?!」
『来年度、化学事業部の営業主任への』

(あいつそんなこと一言も言ってなかったぞ)

「つかお前、どこでそんな噂仕入れたんだよ?」
『噂も何も、化学事業部のやつならみんな知ってるぞ! 営業に関しては右に出るものなしの凄い人だからな』
「いや、俺、インテリア事業部だし」
『元だろ?』
「うるせぇ! じゃ、佐久間さん昇進取りやめなのか?」
『ん? あぁ、それは多分大丈夫。実際、ミスはしたけど、すぐそれを取り戻すだけの能力はある訳だし』

門田の話し方から、判子のミスはほんの序の口だというのが伝わる。

『今日の昼、佐久間先輩、病院に運ばれたんだ』

次々と明かされる事実に要の頭はパンク寸前だった。

『階段から落ちたんだ。確かにあのミス以来、様子がおかしくなっていた。フラフラしている事がたまにあって……おい、松田! 聞いてるか?!』
「お、おう! 聞いてる聞いてる!」

頭がグラグラする。一瞬門田の声が遠くなった。

『その後、化学事業部の人間何人か、赤澤部長に呼び出されてるんだよ。あっ、これ秘密だから。俺とかお前の出向の件で前にも呼ばれてるからみんなに冷やかされまくりなんだけど』

取って付けたように「秘密」といったが多分もう広まっているだろう。

「で? 今回は何聞かれたんだよ」
『佐久間先輩の最近の様子を聞かれたよ。病気の有無とかも』
「人事が出てくるってことは……」
『やっぱり昇進の話は本当なんだと思うぞ』

ミスなら部署内で済ませればいいが、さすがに今回は人事も黙っているわけにはいかない。

『来年度、病気抱えてるようなやつ主任には出来ないもんな』
「そんなことより佐久間さんは大丈夫なのかよ!」
『お前、ちょっと声でかいぞ! 大丈夫、無事だ。病院からそのまま早退したらしいけど、病院に行った田中部長の話では「何ともない。少しボーッとしていただけだ」って。実際検査入院とかにもなってないみたいだし』
「そうか……」
『俺、佐久間先輩には、すごく世話になってるから心配で。お前のこの前の電話も気になって、かけたってわけだ』
「なるほど……いやでもわりぃな。何も知らねーわ」

むしろ、要からすれば初めて聞くことばかりだった。仕事熱心なのは知っていたが、昇進がかかっていたり、営業スキルがそんなに高い事まで要は知らなかった。

『悪いな。出向先でバタバタしてるだろうに』
「いや、また何あったら連絡くれ」
『お前もな。じゃっ』
「おう」

電話を切って、ここ一週間の電話の内容をもう一度思い出すが、別段おかしなところはなかった。ミスをした月曜日も普通に電話して終わった。 

(何もなかった……普通の仁だった)

仁をおかしいと思ったのは今日、金曜日だった。しかし門田の話だと判子のミスが月曜日で、翌火曜日からフラフラしだし、様子がおかしかったという。もちろん要も仁に持病があるなんて話は聞いたことがない。それどころかその月曜日から昨日の木曜日まで電話の仁は普通だった。

(声は疲れていたけど……きっと仕事が忙しかったんだ。だってあいつは仕事人間だ)

帰宅する足を止める。祈るかのように顔の前で両手を合わせて指先を額にあてる。目を痛いぐらいにギュッと瞑る。

(本当は分かっている)

自分を責める。
要は仁が本心では寂しがっていることにちゃんと気が付いていた。それを隠しているだけで、その隠れている物が照れる顔から出てくるのを心待ちにまでしてしまった。セフレの時、嫌というほど仁の弱い部分を見てきたのに、付き合いだして麻痺してしまっていたのだ。

 「なかなか進まない」あれはすでに意識が仕事に行ってない証拠だった。量を抱えていてもテキパキと終わらせ、ダラダラと仕事をすることはなかったし、それに何よりそうだとしても、それを微塵も感じさせないし、ましてや口にも出さない。声が暗かったのも終わらない仕事と、遠距離の寂しさから来るものだったのかもしれない。しかし電話がしたくて毎日してくれていた。そこへ要が追い打ちをかけるように毎日「好きだ」「会いたい」と連呼して追い詰めてしまい、我慢する仁を悪い意味で崩し続けていた。

 「仕事」と言って必死に耐える彼をおかしくしてしまったのは

「俺だ」

そして要はそんな仁を手放してしまった
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