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第七章 松田要と黒い鯱

第六話 崩壊

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「好きだ」
『はいはい』
「めちゃくちゃ好き。抱きしめたい」
『遠いんだから無理でしょ』
「早くあいてーな。いつになるかな」
『さあ。しばらくはそっちの生活頑張りなよ』
「分かってるよ。だから好きって言ってくれ」
『それとこれとは別でしょ。もう切るよ』
「明日もかけるから」
『……うん。待ってる』

 出向してからというもの、二人は毎晩電話していた。何か話をするでもなく、要が仁に「好きだ」と伝えておちょくるだけの電話。仁は嫌そうな、恥ずかしそうな態度をとるが、内容が分かりきった電話に毎日出てくれていた。仕事の話は全くしないが、声のトーンから多忙なのかと心配になり、電話をやめようかと提案したが、大丈夫とだけ言って電話を続けている。

 出向からちょうど半月がたった金曜日、要は輸出課の友添に飲みの誘いを受ける。時間通りに退社して待ち合わせしていたお店に行けば、出張先からそのまま直行した友添は既に到着していた。

「すいません遅くなりました」

友添より遅くなったことに焦りを覚える。しかも参加者は要一人だった。

「いや、気にしないでくれ、俺が先に来すぎたのだ」

 友添課長は49歳で、頭は薄らと禿げてきていて、かつビール腹のせいで、一度見たら忘れることは出来ない見た目で、少し田中を思わせる。
そしてこれまた中身も田中と類似しているから最悪だ。同僚の飲み会で聞いたとおり、友添は要の出向には難色を示していた為、要がどんな人物か見極めるかのように上から下まで舐めるように見ていた。結果的に仕事ぶりを見て、それは一日で済んだが、あの時とは手のひらを返したように今や、仕事を任せてくるほどになったのだが。友添は、能力で課長になったと言うより、経験年数の多さで昇進したという感じで、仕事もできてついていきたいと憧れを抱かれる人物ではない。特に、村崎をはじめ、赤澤やミラーなど若くして登りつめた実力者を見ていた分、それは要の目にはあきらかだった。

「うちの会社はどうだ?」
「良い職場環境です。やりがいもあって、仲間にも恵まれていると思います」
「そうか。それはよかったよ。いつもありがとう。松田君が来てくれて本当に助かっているよ!」
「いえ、そんなことは」
「君の出向理由だけが未だに分からないのが癪だがね」

(この人も本当に知らないのか。俺の出向の理由を)

「まぁでも、悪い会社じゃない。今後ともよろしく頼むよ」
「はい」
「観光とかはした?」
「いえ、まだです。また落ち着いたら回ってみようかと」
 「一人で回るのか?」
 「はい」

さすがにプライベートに、出向したばかりで同僚を巻き込むわけにはいかないし、同僚以外で愛知県に知り合いなどいない。

「ああ、松田君は独身寮にいるのか」
「お恥ずかしい限りです。まだ独身なもので」
「いやいや、まだ若いのだから、これから良い人が見つかるさ」

(良い人なら既にいるっての)

「この後、もう少し付き合ってもらえるかな?」
「はい、構いません」

この店でこのまま食事の続きを付き合うのかと思ったがどうやら違ったようで、食事もそこそこにお代を払って要達は居酒屋を出た。
 二人は市街地の方へとタクシーで移動する。友添はどこに行くかは教えてくれず、そのままタクシーで降りた場所は酔っ払いや仕事帰りの人たちでごった返している場所だった。飲食店が立ち並び、人の合間をぬって進む友添課長の後ろを要は必死についていく。しばらく進むと、やたらと漏出度の高いお姉さんや小綺麗なお兄さん方に行く手を塞がれだした。しかし、友添はお構い無しに目的地まで足を止めることは無い。ようやく課長が足を止めた場所は居酒屋とは違う、キラキラした店。入口にはどうぞと手招きするベストを着たボーイ風のお兄さんがいた。入口の横のガラスケースにはこれまた派手な額縁がいくつも並んでいて、その中ではおよそ職場では見たこともないような派手なお姉さんの写真が飾ってあった。

(ここって……)

足を止めた要を手招きする友添。後ろにいたため気が付かなかったが鼻の下が伸びていた。

(キャバクラじゃねーか!!)

「あの……課長……」
「独り身の君の癒しにでもなればとね。まぁいつも頑張ってくれているお礼だよ」

なんて気前のいいことを言っているが、頑張りは給料にでも反映してほしかった。

「いや、あの……俺、福岡に恋人いるんで」
「なんだ、婚約でもしてるのか?」
「婚約はしていませんけど……」
「なら問題ないだろ」

(問題大ありだ!!!!)

「見つからないからいいだろ」

(そういう問題じゃねーんだよ!!このハゲ!!いや、まだギリギリ禿げてはいないけど)

心の暴言が漏れないようにしていたが頬は怒りで痙攣し始めていた。

「しかし、やはり気乗りしないので……課長だけで楽しんでください」
「行くぞ」

もちろんこの日本社会で上司の誘いを断るなど言語道断だろう。だが、今まで風俗に誘う上司などいなかった為、どれが正しい選択か分からない要には、「仁がいるから行かない」という自分の気持ちに正直になるしかなかった。

しかし既に行く気満々の友添は要の腕を掴み、何故かキリッとしている。

(その顔、仕事中にしてくれ)

「いや、あの……」
「なぁに、一度行けば、君もハマるさ。入って気に入らなければ、すぐにでてもいいからね」

(こうなれば課長にガンガン飲ませて酔わせてサッサと帰ってやる!!)

アルコール度数の高い飲み物は何だろうかと考えながら、意を決してキャバクラの中へと踏み込んだ。

 要は昔、一度だけ風俗に行ったことがある。社会人二年目で、可愛い後輩の月嶋の教育係だった頃だった。あれも合コンの失敗が引き金だったが、今思えばあの合コン自体とんでもないメンバーだったと思う。当時研修生だったミラー副部長と月嶋の顔の良さをダシにして、要の指導対象だったアメリカ人のジョシュアと手を組み、客室乗務員、つまりCAさんとの合コンをセッティングしたのだ。結局ミラーと月嶋は仕事の連絡を受け退席し、ジョシュアと四人のCAさんを相手に楽しんだ。変な意味ではない。残念ながらその時に彼女は出来なかったが、CAさんという職業に卑猥な幻想を抱いたままだった要は、コスプレできる風俗で、大金を注ぎ込んだ。しかし、結果としてふくよかな女性による、予想を遥かに上回る悪夢を見せられたのは今ではいい思い出だ。

──それから数年……
あれ以来、絶対に行かないと決めていた。もちろん、キャバクラも。キャバクラはそういう類のことが禁止されていても結局は接待飲食店という名の風俗に変わりはない。しかも今は恋人がいる身で、尚更行けない、というより虫唾が走るほどそういった類のものを受け付けなくなっていた。

 皺が寄りそうな眉間をどうにか伸ばして友添課をみれば、綺麗なお姉さん二人の間に座っていた。どちらも胸がでかく、彼の趣味だろうか。要は女性一人を挟む形で友添の横に座っていた。

「松田君はすごく仕事が出来てだなぁ」

と、いう自慢話が始まる。

「へぇ、すごーい! 英語喋ってくださいよぉ!!」
 「凄くないですよ。皆さんできますから」

(凄いのはあんたのそのキリンのようなまつ毛だ。重くないのか?)
 
要は適当な返事をし、とりあえず愛想笑いだけするがらやはり自分には営業は無理だと再確認してしまう。

「喋って、喋って~」
「ははは、松田君何か一つぐらいいいじゃないか!」
「では、一つだけ」

 友添には聞こえないように近くのキャバ嬢にコソッという。化粧の臭いが鼻につく。

「松田さんのエッチ! 家に連れて帰りたいだなんて!」

甲高い声を上げだすキャバ嬢。

(Homeだけ聞き取ってんじゃねーよ。家に帰りたいって言ってんだよ!)

「私、松田さんみたいな彼氏欲しかったなぁ」

(俺の恋人の方があんたたちなんかより断然可愛い。男だけどな)

 昔ならすごく嬉しかっただろう。でも今はどんなに綺麗で、どんなに男を魅了する体系の女がいても全く興味が持てなかった。現実逃避とばかりにとうとう仁を想像し始める要。

「ねぇ松田さん? どうしたの?」

 仁を想像して意識が福岡に飛んでいた要の手に自分の手を重ねるキャバ嬢。それを瞬間的に払い除けた上に、キャバ嬢を睨み付けてしまった要の形相に、こんな客、滅多なことではいないからだろうかたじろいてしまった。横でそんなことがあっているにもかかわらず、友添は気が付いておらず、何やら楽しそうに笑っている。

(もう悪夢だ)

げっそりとしてしまう。しかし悪夢はそれでは終わらなかった。

ブー、ブーとジャケットの内側ポケットでスマートフォンが振動しており、意識を集中させ、メールか電話か振動数で確認する。

「松田さん?」

急に固まってしまった要に首をかしげるキャバ嬢。

(メール? じゃねーな。これは電話だ)

チラリと誰か確認する。

 「?!」

角度的にハッキリとは確認できない。しかし画面には佐久間仁と表示されていた。はっきりと見えなくても要にとってその文字は淡い色が色づいているからすぐに分かってしまうのだ。名刺の字も、社内で配布される書類に印字されている物も、黒字なのにそれは薄いピンクのような、そんな色付きの文字に見えているのだ。

(じ、仁?!)

「こういう所は滅多に来れないだろ?」

友添に話しかけられてジャケットの中のスマートフォンから目を離し顔を上げる。

「はい。いい経験させてもらえました」

(ちょっと、まてまてまて。それ以上に滅多にない現象が俺の携帯では起こってんだよ)

要がそう感じるのも無理はない。セックスフレンドの時でさえ一度しか連絡してこなかった仁。しかしそんな彼が今まさに自分から電話をかけてきていて、要からすればとんでもない現象だった。現に、出向して毎日電話をしているが、かけたのは自分からのみで、対応は相変わらず冷たい。自分からかけるなんて、仁からすれば本当に死の危険でも迫らない限りしてこないだろうと思うくらいに。

(まさか? 何かあったんじゃ)

「課長、すみません。少し席を外します」

一礼してすぐさま外へ出て、なるべく静かな路地裏に入り込む。スマートフォンはまだ震えている。息を整える間も惜しくて、すぐに受話ボタンを連打した。

「もしもし!!」
『もしもし、要?』

仁の声が聞こえる。

「仁! どうしたんだよ!」
『今、大丈夫?』
「大丈夫!」

 仁の声を聞いて要は、ひと安心する。しかも地獄のような悪夢の場所にいた要からすれば、そこから連れ出し、かつ癒しを与えてくれる天使のようにすら感じてしまう。しかし、天使にも思えた声は一気に暗くなる。

『かな、め』
「なんだ?」

 冷たい仁のさらに暗い声に胸騒ぎがする要。

『……別れよう』
「……」
『……』
「えっ?」

(今、なんつった?)

「はっ? えっ? お前、何……冗談はよせよ」

(冗談だよな?)

『冗談じゃないよ』
「何でだよ。だって……」

(昨日も普通に電話してただろ)

しかし要のそれが口から出る前に別の声が割り込んでくる。

「松田さん、まだぁ? 誰と電話?」

俺の様子を伺いに来たキャバ嬢だった。思わず反射的にスマートフォンを手で覆う。しかし間に合わなかった。

『女の人といるの?』
「えっ、あっ……その……課長に付き合わされて」

要はあっちに行けとばかりにシッシッとキャバ嬢を追い返す。要の仕草に頬を膨らませて消えるキャバ嬢。

(だから可愛くねぇって!)

『あぁ……風俗?』
「風俗っていえば、風俗だけど……」
『キャバクラ? 楽しんでいるとこ電話してごめんね』

棘のある言い方をしてくる仁。

「だから仕事なんだって! 無理矢理連れてこられたんだよ!」
『仕事なら仕方ないね。そういう接待もあるし』
「えっ? なにお前、そういうの経験済みなの?!」
『さぁ』
「さぁってなんだよ!」
『早く戻りなよ』
「お前はいいのかよ、俺がキャバクラ行っても!」
『仕事でしょ?』

(また仕事、仕事って)

幾度となく聞いてきた言葉、その度にそれが本心ではないと言い聞かせて耐えてきた。しかし、今この状況で言われ、さすがにもう我慢が出来なかった。

「ああそうだよな」

声が低くなり、腹の底から我慢してきたものが湧き上がり、そして間欠泉のように吹き上がる。

「お前はいっつもそれだ! 仕事、仕事、仕事! 仕事が大事で俺が邪魔にでもなったのかよ!!」
『要……』

要の勢いは止まらなかった。

「あーもう、わかった! 別れてやるよ! じゃーな、仁のバーカ!!」

(やべっ)

 全て出しきりハッとなる。しかし「バカ」なんて、言われたらきっと仁ならいつもみたいに言い返してくる。そう思った。しかし……

『馬鹿でごめん。さようなら。ありがとう』

耳元で全てが切れた音がした。

『ツー、ツー、ツー』

スマートフォンを耳から離して画面を見る。画面は待受画面に戻っていて、仁と食べに行ったオムライスの写メが今の要にはムカつくくらい画面いっぱいに映っている。

「やべぇっ」

暗い路地裏で、暗い空を仰ぎ見る。暗すぎてか、動揺しすぎてか焦点が合わない。そして心臓が早鐘を打っているのが耳に響く。自分が何をしてしまったのか思い返すが走馬灯のように流れて追えない。ただはっきりその流れる脳内の景色の最後は暗闇で蹲る仁の姿だった。
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