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第三章 狂った八月

第七話 押しのもうひと狂い

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 帰宅後、宇野にかけ直したが出なかった。
遅かったせいもあるだろう。また連絡してくれとメッセージを入れ、翌朝に返信を確認した。

《おはようございます! 仕事大丈夫でしたか? 電話出たのに声が聴こえなかったから心配してました》

喘ぎ声は聞こえていないようで安心する。

《先生、話がしたいので、飲みにつれていってください‼》

流石に昨日の罪悪感もあって断れない。
それに内容が気になる。

《分かった。いつがいい?》
《八月の——》 

何度かやり取りをして日程を決める。そしてもう一人の人物のメールを開く。

《21時 いつもの場所》

それにも返信をする。

《8月24日は夜に予定があるんだ。深夜になるかもしれない》
《分かった。何時でもいい》

「浮気でもしている気分だな」

既に疼きだす身体にネクタイを締める。これを外す人物は一人しかいない。外されれば全てが堕ちていく時間が始まる。

「はあ、欲しい……」

もう一度ネクタイを締め直して、福山は仕事へと向かった。お盆も明け、二学期に向けて休みを取る教師も少なくなってきた。職員室の密度は通常のそれを保ち始め、更に気が引き締まる。
職員朝礼後、まだ授業まで時間がある福山は、デスクで別の仕事をしていた。
パソコンを軽やかに打つそこに年配の掠れた声が重なる。

「福山先生」
「はい。あっ、おはようございます教頭」
「おはよう。これ、君の出張届だよね? 名前間違ってない?」

教頭が出張届を差し出す。

「月末の福岡出張の届けなんだけど」
「え?」
「ん? 君が行くんだろ? 辻本先生の代理で。これ君が出したんじゃないの? なるほど道理で名前を間違えるわけだ。いや、それでも変だな。こんな間違いするだろうか……」

渡された出張届に目を通す。
首を傾げる教頭の行動も頷けた。
名前が《福山晴信》でなく《宇野晴信》になっていた。

「うち、宇野先生なんていないからなんでかなって。それにしても辻本先生は優しいね。君の代わりに出張届を作成して出してくれるなんて」
「そうですね。あとでお礼を言っておきます」
「でも、ミスがあるからもう1回出してね」

ケラケラと笑いながら教頭は、別の教員のデスクへ行ってしまった。

(最悪だな……)

藤沢に話を聞いていなければこの悪ふざけも理解できなかっただろう。

(忘れるなってことだろうな)

忘れるわけがない。そもそも毎日身体に刻み込んでいるくせに、ここまでする必要はあるのだろうか。
 それにこの前は作成までだったのに、今回は提出まで済ませてしまっている。

「お礼言っとかなきゃめんどいよなあ」

ミスがあったとしても、悪ふざけだとしても、誠心誠意を込めてお礼を言わなければまたお仕置が酷くなる。

ネクタイは外さぬ男の元へ重い腰を上げる。
そしてお仕置が済めば、今度は何かを思い出してネクタイを締め直す。

そんな日常を繰り返し、直近の予定である宇野との食事の日が近づいていた。


          *


「せんせーい‼」

待ち合わせ場所に行くと、既に宇野は来ていた。この前と同じ恰好で、こちらに向かって手を振っている。

「待ったか? ……ッ」

手を上げて挨拶しようとした福山の肩に痛みが走る。

(今日も乱暴だった)

教師が増えてきた最近は体育館倉庫に場所が移動した。後ろから犯され、腕を後ろで組まれた上に引っ張られたせいで、付け根が痛む。

「先生大丈夫? 歳なんじゃないの?」
「本当にお前らはこの前から俺をおっさん扱いしやがって」
「誰だよ先生をそんなふうに言ったやつ!」
「宇野、さっきの自分の言葉を思い出せ」

夏の空に男二人の声が昇っていく。片方は溌剌していて、もう片方は抑えた様な大人の笑い声だった。

 宇野が予約してくれた店に案内される。テキパキとしている教え子に福山も微笑んでしまう。

「先生飲みますか?」
「飲まない」
「どうして? このあと用事でもあるんですか?」
「……ある」
「ふーん。じゃ、ウーロン茶二つと……」
「お前こそ飲めないのか?」
「えーだって先生が飲まないのに俺だけ飲むのもなあ……それに今日は大切な話をしに来たから止めとく」

そう会話する教師と教え子は……

「なあ、何でカウンターなんだ」

並んで座っていた。
しかも個室のカウンターだ。目の前に厨房があるわけでもなく、メニュー表が貼ってあるだけだ。床より二段ほど高く、衝立で後ろとは仕切られ、横は完璧な壁だ。そのせいで福山と宇野の距離はとても近い。

「予約した時ここしか空席無くて、すみません」
「他の店にすればよかっただろ。それか言ってくれたら俺が探したのに」
「確かにその手がありましたね。あははは」

中途半端な段取り……それすら可愛く思えるのも教え子だから。
肩が触れる。宇野の逞しい腕から放たれる熱が、福山に伝わる。
それくらいの距離だった。

「話ってなんだ」
「え?! もうするんですか?!」

お楽しみは最後でしょうと目を丸くした宇野に怪訝な顔を向ける。

「お前、本当に話があって呼んだのか?」
「呼びました!呼びましたよ!」

なかなか話し出さない宇野に不信感は募るものの、成長した教え子の話を聞くのは楽しかった。
だが、この後予定を控えている福山は、宇野の本来の目的を聞きたくて堪らない。そのせいでおしぼりで無駄に遊んでしまう。
 おしぼりで名前のない何かを折り始めた福山はとうとう口を開いた。

「で? そろそろ話していいんじゃないか?」
「俺の同期の白バイ隊員の話がまだです!」
「それは今度聞く」
「じゃ、また会ってくれるって事で! 今、約束しましたよ!」

敬礼をした宇野が、その手を福山の飾りのない左手に伸ばす。
甲から指にかけて撫で、最後に握りしめ、薬指を撫でた。

「おい、だから俺は仕事が恋人なんだって」
「先生、俺と付き合おうよ」
「だから仕事が……はっ?」

顔を上げると、真面目な眼差しと交差する。
その顔は知っている顔なのに、今福山の目の前にいるのは知らない教え子の凛々しい姿だった。



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