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第七章 マーベリックの家族

第六話 アローナ・エディーン

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 オリバーへの怒りが爆発する事はなかった。爆発直前にジョシュアの脳内で、オリバーがアローナを入れた、つまり「オリバーがアローナから婚約の件を聞いている可能性がある」という知られたくない事実に直結したからだ。
 今のジョシュアは婚約よりもオリバーとの関係が崩れる事が恐怖だった。
ソファーで優雅に座るアローナは、綺麗に輝く栗色の長い髪を耳にかけている。そしてジョシュアに向けて誘うような笑みを浮かべるが、気持ちは全く高ぶらなかった。

「出て行け」

 アローナはその言葉がまさか自分に向けられたと思わず、オリバーに目配せした。その仕草に更に怒りが込み上げ「女の方だ」と声が低くなる。

「まあ、淑女への態度がなっていない御仁ね」
「淑女は人の家に勝手に上がるのか?」

 格式高い喋り方をする人間の行動ではない。

「この使用人が入れてくれたのよ」
「オリバーは使用人じゃない!」
「それに婚約者を家に入れるのは当然じゃなくて? それともこの冬の寒空の下凍えさせる気? お父様が黙っていないわよ」

 アローナは気品ある喋り方だが、節々に自分が上の人間である事を匂わせる。肝のすわった女の強引さは父親に似ている。

「婚約受けて下さったんでしょ?」
「受けていない」
「まあ、呆れた」

 置いてけぼりのオリバーはキッチンでコーヒーの準備を始めた。

「おい、オリバー! 使用人みたいな事するな!」

 ジョシュアにコーヒーを淹れる時は何も言わないのに、別の人間に淹れる事が腹立たしくて、ジョシュアはオリバーの腕を掴んだ。その手にはマグカップが二つ。ジョシュアがクリスマスに贈った二人専用のものだ。

「このカップの持ち主の分しか淹れる気はない」

 オリバーは耳元で小さく囁いた。そしてアローナに「タクシーを呼びましょうか」と尋ねる。

「結構よ」
「帰れよ。俺はこのあとオリバーと用がある。あんたに構っている暇はない」

 アローナにそう告げると、彼女は鼻を鳴らした。そしてスマートフォンを取り出し廊下に出て行く。その時「お父様に電話するわ」と厭味ったらしく言い放った。

「……権力頼みのファザコンめ。あの女いくつだ。エディーンの話が長すぎて植物園好きのカリブ海女としか……そもそもどうやってここの住所アドレスを。どうせ父親が会社で調べたんだろうけど。俺に電話してきた時も会社の名簿から抜き取っていた。くそっ。だいたいオリバーも——」
「ジョシュアの婚約者だと名乗るから家へ入れてしまった。お前にそのような人物はいないと言ったが、「もう婚約してるわ」の一点張りだった」

 ジョシュアが断った時用に放り込まれた強引な手段。娘に受け継がれている強引さを兼ね備えた人事部長の入れ知恵かどうかは分からないが、今のジョシュアにはどうでも良かった。
 ポットをクッキングヒーターにかけたオリバーの肩を引き寄せる。

「あぶなッ……んッ‼」

 理由など述べず、何度もキスを押し付けるジョシュアに「カリブの味だな」とオリバーが返すと、更にキスを激しくした。

「まだあの子がいる」
「知るか」
「急にどうしたのだ」

 ジョシュアは「お前がカリブの味だなんて言うから」とぼそぼそ零した。

「それがどうした。カリブ料理を食べてきたのではないのか?」

 オリバーはキスの感想を言っただけ。しかし婚約者と言い張る女の事を気にしているジョシュアには咎められている様にしか聞こえなかったのだ。

「俺はお前が……あの女や婚約の件を気にしていると思って」
「ふっ。私が嫉妬していると?」
「そうだよ」
「それならとうに済ませた。もし何があっても関係が進展しないように……」

 けたたましい音を鳴らし始めたポットをヒーターから下ろした指が「な?」とジョシュアの胸の上を何ヵ所かつついた。
 その下には昨日オリバーが咲かせた花が広がっている。

「まさか、知っていたのか?」
「ああ」

 あっけらかんという男に呆れると同時に、昨日のキスマークの意味を知り、ジョシュアは頬を染めた。

「どうして言わなかった」
「言ったところで止められない。相手は会社の重役だ」
「俺が婚約しないと思っていたのか?」
「有益な相手ならしているかもしれないとは思っていた」
「何でそんな余裕なんだよ」
「余裕? どこがだ」

 再び指がシャツで見えないはずのキスマークの位置を辿る。指先から放たれる熱は熱いのに嫉妬の冷たさを纏っている。

「会食に女が現れる事も予想していたが、完璧に外された」

 廊下からはまだ電話をする声が聞こえる。

「現れたって別に変な事にはならない」
「……お前は好きでもない女を抱けるのだろ?」

 思わず抱えていた不安が漏れ出たオリバー。クールな幼馴染が少しずつ吐き出す嫉妬や不安に刺激され、ジョシュアはオリバーをキッチンから引っ張り出し、廊下に繋がる扉に押し付けた。

「ッ?!」

 ガラス窓のない、木材だけの堅固な扉に背中を容赦なく打ちつけ、オリバーの顔が歪む。痛みを噛みしめる唇にまたキスが押し付けられ、オリバーはどうしていいか分からずただ受け入れるしかなかった。
 その時、扉の奥から電話を終えたアローナの声がした。

「何の音? あら? ちょっと、開かないんだけど……」

 ドアレバーがガチャガチャと音を立てる。器用にキスをしながらジョシュアはアローナに話しかけた。

「帰れよ。俺は結婚する気はない」
「その事なんだけど、お父様に何か条件を出されたんじゃなくて?」

 動揺を見せたジョシュア。その隙をついてオリバーは唇を離し、顔を背け扉の向こうに注意を向けた。条件とは何のことだ、と気にするオリバーの顎をジョシュアがグイッと奪い、またキスをしながら話しかける。

「出された……しかし興味ない」
「嘘よ。貴方にとってあれほど魅力的な条件はないはずよ。だって貴方、貿易実務に戻りたいんでしょ?」

 全てを言わずとも、オリバーにはジョシュアが突き付けられた条件が何か分かってしまった。人事の男の権力は凄まじい。ジョシュアに欲しい物を簡単にあげてしまえる。

「好きで秘書をやっているのじゃないなら、戻りたいはずよね?」
「さっきからその決めつけるような話し方はやめろ。胸糞悪い」
「悪い婚約話ではないはずよ」
「あんたにとってのメリットが見えない」
「私? 家の為になるからよ」
「理解できないな」
「あら。同じような家庭に育っているお坊ちゃんなら分かると思っていたわ。子どもの結婚なんて親からすればビジネスの一つよ」
「そうだとしても俺はそれに従うつもりはない」

 アローナの「噂通りの男ね」と呆れた声がする。あらかじめジョシュアの情報はリカルド・エディーンから洩れている。

「だったら余計に俺はお勧めしない」
「それでもお父様は気に入っているわ。お母様だって」
「母親?」

 今日初めて登場したエディーン婦人。

「ええそうよ。お母様は「アローナ・エディーン‼」

 アローナの声を消すようにオリバーが叫んだ。あまりの剣幕にジョシュアは目を瞬く。

「オリバー?」
「な、何よ! 貴方も品がないわね!」
「もうこの話は終わりだ」
「勝手に決めないでちょうだい!」

 今度はオリバーとアローナが言い合いを始める。

「終わりだ。早く迎えをよびたまえ。どうせ近くに迎えを待機させているのだろ?」
「帰らないわよ」
「君の為にも帰る事をお勧めする。この後、ジョシュアはサイモン社長と連絡をしなければならない。第二ニューヨーク支社長、つまりジョシュアの兄を含めて仕事の話がある。私は支社長の秘書としてここにいる。社長と婚約者になる男の兄を敵に回したくなければ帰ることだ。君の父上がどうなっても知らない」

 淡々と話すオリバーの内容は嘘だ。しかし家柄を大切にするアローナには効果覿面だった。

「でも私はジョシュアと婚約を——」

 それでもまだ抵抗の色を見せるアローナにトドメを刺したのはジョシュアだった。

「悪いが断る」
「でも貿易実務は……」
「好きでもない女と結婚するくらいなら今のままでいい」
「そんなの私たちの様な人間にはわがままな事よ」
「俺は俺のやりたいようにする。勿論——」

 焦るアローナの目の前の扉。その奥ではジョシュアがオリバーに身体を預け、ブラウンの瞳を見つめていた。
そして——

「きちんと恋もしたい」

 ジョシュアが帰宅して初めて優しいキスが重なる。扉の向こうは完璧に二人だけの世界だった。
それを知らずとも、流石に重役との仕事が入っているとなれば、アローナも長居はできない。踵を返し、苛立ち交じりに玄関の扉を閉めた。
 正真正銘二人だけの世界になった瞬間、キスは激しくなり、その場にズルズルと二人して座り込み舌で熱を交換しあった。

「貿易実務はいいのか?」
「あんな女と結婚するくらいなら捨てる。それに——」

 ジョシュアはオリバーの胸に顔を埋めた。

「オリバーがいなくなる方が怖い。結婚したらいなくなりそうで……それに俺は、もう誰でもいいわけじゃない事に気が付いた。あと——」

 見上げた灰色の瞳が震える。

——オリバーとなら恋ができそうな気がする

「愛が何かを知りたい」

 ようやく前向きになったジョシュア。
今回の婚約の件で「愛のない結婚」が大切な物を失う事に気が付いた。そしてそれを無くしたくなくて、知りたくて、必死に手を伸ばし始めた。

「オリバー……」

 伸びてきた手をオリバーは引き寄せ優しく甲にキスをした。

「もう少しだな……」
「この胸の苦しみさえ解決すれば、その先に答えがある気がするんだ」

 その胸の苦しみこそが誰かを愛し、恋をしている証拠で、愛している間は消える事がない。そしてそれを越えた先をまだ人類は知らない。
 
「大丈夫だ。私がそばに居る」

 そう言ってオリバーは強く抱き締めた。
ようやく平和が訪れた部屋でジョシュアはオリバーに尋ねた。

「まだ何か隠しているだろ?」
「いや、何も」
「何年一緒にいると思っているんだ。声のトーンで分かる。まさかキスマークの正体が婚約話ってのいう事には気が付かなかったけど」
「本当に何もない」
「本当か?」
「本当だ」

 オリバーはもう一度強くジョシュアを抱き締めた。

「やっぱり何か隠しているな。スキンシップが痛いほど教えてくれる」

(参ったな……)
 
 こういう時、ジョシュアの特性はやっかいだ。オリバーはもう一つの隠し事を話すか迷った。

(せっかく愛を知る気になっているのに……ここでまた家族間の揉め事を持ってきていいものか……)

 ジョシュアから障害を排除しようとオリバーは必死に考えた。

(言うべきか否か……)

——エディーン婦人がジョシュアの本当の母親であることを
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