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第3章 二日目、そして事件が起こる

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「何かね?」

 巡査部長は迷惑そうに眉を潜めて聞き返す。

「伊藤さんは、ここでひっくり返って、そのまま滑っていったってことですよね」
「その可能性はあるが、別の可能性も考えているところだ。何かあるのかね」
「いや自転車で転けてそのまま落ちるかと」

 と言って先輩は、右手の平でスイッと滑り落ちるようなポーズを取った。

「距離がありすぎると?」

 みるみる巡査部長の機嫌が悪くなる。

「バイクならともかく、自転車ですからね」
「ここの下り坂は結構な斜度だ。自転車でも時速三十キロ程度の速度は出ていたろう」
「まあそうでしょうね。それで慌ててブレーキをかけたと」

 今度はギュッとブレーキをかけるポーズ。

「超加速度でカーブに入り、動転して強くブレーキをかけたらタイヤがロックしてこける。二輪車でよくある事故のパターンだ」
「うーん」

 何が納得いかないのだろう。三輪さんは腰に手を当てて目を瞑り唸っている。

「何が不満なんだ?」

 巡査部長のイライラに火をつけたのか、さらに口調は荒くなっている。周囲では皆が、固唾を飲んで二人のやりとりを見つめていた。

「自転車で転けて、都合よく崖下へ落ちるかなと」
「都合よくって、じゃあ何だと言うんだ!」
「まあまあ田中さん、落ち着いて」

 ついに怒鳴り声に変わった巡査部長の肩に手をかけ、老医師が会話の続きを引き取った。

「要するに三輪くん、君はこれが単独事故に見せかけた、例えば轢き逃げ事故の隠蔽とかではないかと言いたいのだろ?」
 諭すような静かな声で、牧場医師は尋ねた。

「そこまでは……」
 先輩も自分の疑問が予想外の展開になり、困っているようだ。

「轢き逃げって、そんなに簡単に言うことじゃないですよ。先生、どうなんですか。何か医者からの意見はないんですか」

 巡査部長は、憤懣やる方ないといった感じであるが、それはそうだろう。僕もいきなり、轢き逃げなどというテレビニュースになるような単語が出てきて驚いてしまった。しかし牧場医師は淡々としたものである。

「うーん、落ちた時にできたであろう傷が大きいから、わかりづらいがね。一応、全身に転倒時についたと思われる擦過傷もある。特に右側に多いかな。これは右カーブを曲がり損ねての傷としては、おかしくはない」
「なるほど」
「そして、転倒時、落下時、それぞれでついたであろう傷の多くに生活反応はある」

 ここで耳慣れない言葉が出てきた。
「生活反応?」と三輪さんも聞いている。

「法医学の分野で重要な概念の一つなんだが、ようするに遺体についている傷が、生きている時にできたのか、死んでからできたのかということだよ」

 当然、疑問が出ると老医師もわかっていたのだろう、素人にも理解できるよう噛み砕いて解説してくれた。

「それで、伊藤さんの場合は?」

 この場で聞き耳を立てている全員の視線が、牧場医師に集まった。

「正確には専門家が検査する必要があるだろうが、この場のわしの見立てでは、どの傷も生前についたものだね」

 声にならないため息が、いくつも聞こえた。

「間違いないのですか?どう言ったところをチェックするんです?」

 まだ完全には納得できないのか、三輪さんが質問を重ねるが、さすがに失礼だろう。

「おい君、それは専門家に対して無礼だぞ」

 巡査部長が怒るのも当然だ。しかし牧場医師は気にしたそぶりもない。「外傷の場合のポイントの一つが、出血だね」と言って指を一本立てると、好奇心旺盛な学生に対して、嬉しそうに解説を続ける。

「出血ですか?」
「そう出血だ。血が出ると言うことは、怪我をした時に心臓が動いていたということだ」

 そう言って老医師は、立てた指を三輪さんの胸、心臓の位置に置いた。

「なるほど」その指をじっと見つめて、先輩は感心したように呟く。
「そのポイントに注目すれば、この人は自転車で転倒し、崖から転落、そして転落後に頭を打って亡くなったということになる」
「間違いなくですか?」
「間違いないね。少なくとも、道路上で別のの車両などと衝突したために死亡し、その後に遺体を崖下に落下させされたのではないということだ。それは断言できる」

 自信に満ちた牧場医師の解説に、巡査部長が満足そうに頷いている。

「もちろん、なんらかの偽装工作があった可能性はある。しかしそれを、今ここで老いぼれ外科医のわしでは判断できん」
「より詳しい捜査をすることは?」

 名残惜しそうに三輪さんは、巡査部長を振り返った。

「まずここを今日、他の車が通ったかどうかだが、可能性は低いな。それは役場や、ペンションの石田さんに聞けばわかるだろう」

 巡査部長に名指しをされた竜二さんと、野田課長が首を横に振っている。この人口の少ない離島で、平日の昼間にペンションいさり火しかない、日ノ出集落方向へ走る車が有ったのかどうかなど調べればすぐわかる。

「それにね、我々警察も馬鹿ではないのだ。そこで頑張っている二人は、鑑識員として長崎市内を始め、多くの現場で活動経験がある。彼らが、自転車とは別の壊れた部品や、剥がれ落ちた塗料を見落とすことはない」

「どうだ、わかるかね?」といった顔で、巡査部長は三輪さんを睨んでいる。

「このあと親頭島の病院に戻れば、ご遺体の検視を行う。その時に何か大きな疑問点が出れば、司法解剖にまわされるし、ここにも県警本部から鑑識団が来るかも知れんが……、まあその可能性はないと私は思うね」

 巡査部長の宣言を、三輪さんは悔しそうな、怒ったような、そんな顔で見つめていた。
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