愚者の食卓

九時木

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プレート: 雪道

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 真に受けるべきなのだろうか。それとも、単なる冗談として受け止めた方が良いのだろうか。
人の話を聞く時、僕は相手が本気で話しているのかどうかを判断することに、いつも苦労した。

「我々は元より完全なアンドロイドでした。しかし、決して食べてはならないアーモンドを食べてしまい、感情が芽生えてしまったのです」
 23時の夜、僕は講師用のテキストを開きながら、動画を視聴していた。
聞き覚えのある声が自室に響き渡っている。恐らく、昼に出会ったあの風変わりな男と同一人物だろう。
僕は机の隅に置いた名刺を眺める。チャンネルのURLの隣には、手描きと思われるナポリタンの絵が印刷されていた。
まだ手がかりが少ないせいだろう。あの男が何者なのか、僕は未だに把握できずにいた。

「感情の萌芽によって、我々アンドロイドの歴史は滅茶苦茶になってしまいました。拳での殴り合いに、金の競り合い。支配と服従の世界の確立です」
 膝を軽く叩いたのだろうか。パシンという鋭い音が画面から聞こえた。
「感情には単純なルールがあります。それは、互いをサンドバッグだと見なすルールです。叩きまくってハイになっても、叩かれまくってダウンしても構いません。ヘラジカが角をぶつけ合うように、カッコウが他の鳥に托卵するように、互いを結びつけるのは、勝負だけです」
 画面中央に一粒のアーモンドが浮かび上がる。指に摘まれたそれは、ふわふわと妖精のように揺れ、しだいに暗闇に消えていった。
「有権者は権力の行使などとそれらしく評してみますがね。結局のところ、どんな問題も知性の皮を被った感情の仕業ですよ。快楽と恐怖に煽られし世界!これぞアーモンドの陰謀だ」
 この話は、果たして本当なのだろうか。僕は意味を確かめるように、インターネットで検索してみた。
 『アーモンド 陰謀』と打ってみたが、関連性のあるサイトはヒットせず、にわかに信じ難いアーモンドの有害性や陰謀論の仕業について説いたサイトが散見される程度だった。
 画面越しに配信者の笑い声が聞こえる。まるでアルコールで酩酊した人間のような、明るい声だ。
 何だか自分の行いが愚かであることを知らされたような気がして、僕はテキストをそっと閉じ、明日に備えて眠ることにした。


 翌朝はとても冷え込んでいて、カーテンを開けると雪が積もっていた。
今日は午後から一コマだけ授業があるので、外に出なければならない。
電車アプリを開くと、いつも利用する路線の電車が運転見合わせになっていた。
少し気乗りしなかったが、僕はダウンジャケットを羽織り、歩いて塾へ向かうことにした。

 雪は想像以上に積もっていた。
歩道には足跡がちらほらと残っていたが、通行人はほとんど見当たらず、ただ雪を踏みしめる音だけが耳をくすぐった。
 誰もいない通りを歩いているうちに、この世界には僕以外の住人が存在しないのではないかという、少々馬鹿げた考えが脳裏をよぎった。
辺りはすっかり静まり返っている。余程の事情がない限り、誰も外に出るつもりはないのだろう。
轍の数も少ない。所々で通行止めになっているのかもしれない。
今日ばかりは塾に向かわなくてもいいのではないかと、良からぬ考えが浮かび上がる。
僕は雪を踏みしめる。無断欠勤など、本当に馬鹿げた考えをするものだ。

 足取りが重いのは、きっと雪道のせいだろう。
みしみしと音を立てながら、僕は雪に足を埋める。足を上げると、靴跡がくっきりと刻まれており、まるで古代の陶器に彫刻された紋様のようだった。
僕は足に体重を乗せ、雪を潰すように歩いた。
雪は強情と言ってもいいほどに固く、足の圧力に反発し、何が何でもアスファルトを踏ませようとしない。
僕はやけになり、すり足で雪を払った。真っ白な地面から、黒い宝石のような道路が現れ、何故か僕を釘付けにした。


 僕はその場で立ち止まり、辺りを見回した。
やはり何も見当たらない。建物や道路はすっかり雪に覆われ、雪景色が広がっているだけだ。
ふと幼少期の記憶が掘り起こされる。雪を丸く固め、走り回る同い年の子どもとぶつけ合い、身体中を雪だらけにして笑っていた、ただただ純粋無垢な日々が。
大人になった今の僕には、少しだけシニカルな目が備わってしまって、あの時はただ目の前の出来事に集中していればそれで良かったのだと、足元の雪を振り払い、自嘲気味に笑っている。
後ろに引き返すわけにもいかないし、かといって真っ直ぐ前を歩く気丈さも持ち合わせていない。
今はそんな光景が目の前に立ちはだかっているばかりで、他に何をするということもない。
真っ白な世界に足止めを食らっている僕は、大雪で立ち往生している電車や自動車と大差なく、雪に埋もれた鉄やアスファルトの道が人生そのものに置き換わったというだけだ。
空っぽの中身だけが、僕の存在を曖昧に縁どっている。つまるところ、僕は完全な放心状態で、雪道に佇んでいた。


「今の自分を変えてくれそうなものや存在は、夢になってくれるんじゃないかしら」

 かすみかけた脳内で、女性店員の言葉が蘇る。
一日経った今でも思い出されるのは、長く伸びたまつ毛と、ガラスのような角膜。
窓から差す日光によって拡大と縮小を繰り返すその黒い粒は、僕の方をじっと見据え、息を止めるような瞬間で僕を呑み込んでいた。
 美しいものに惹かれることは、罪だろうか。それとも、僕が惹かれたのは、もっと別のものだったのだろうか。
期待をするのは躊躇われる。慣れていないせいかもしれない。しかし、不慣れにも程があった。
僕は急いでカフェを出てしまった時のことを思い出す。その行為は、正に期待と恥じらいの入り混じった感情のせいだった。
深堀りすれば、それは罪悪感の塊だったかもしれない。僕は美しいものをあまりにも直視しすぎていた。
やはり、彼女はあまりにも美しすぎたのだ。段々と、僕自身の存在が恥ずかしくなるくらいに。


「今日は来ないと思ってたよ、先生」
 ドアを開けた時、一人の高校生が、自習室から顔を覗かせていた。
僕はずいぶん長い間物思いに耽ってたようだ。
授業の開始時刻から数十分が過ぎていたが、それは僕にとって滅多に起こらないことだった。
「ごめん、遅刻したな…すぐ準備するよ」
「今、政治経済やってるから、よろしく。あと、問題集はもう机の上にあるから」
 僕が頭を下げ、急いでスリッパに履き替えている間、生徒はとんとんと問題集の表紙を指でつつく。
まるで講師失格だな、と僕は笑みを浮かべながら独りごつ。
「足、雪だらけだね。もしかして、歩いてきた?」
 生徒が問題集を広げながら、ふと僕に話しかける。僕は軽く頷き、急いで足元を手で払う。
「やるね」
 生徒が軽く口笛を拭き、愉快そうに笑う。更にページをめくりながら、僕に進捗状況を伝える。
「大問1まで解いたんだ。次は国家と権力の問題」
「もう解き終わったのか。早いな」
 僕は感心しながら、席に座る。足元はまだひんやりと冷たく、僕を軽く身震いさせていた。
 雪道は多くの感情を湧き上がらせ、僕を悩ませた。しかし、塾で必要とされているのは、基本的には論理思考で、感情的に振る舞う必要は何処にもなかった。
 ありがたい存在だ。僕は講師のアルバイトをしていて、初めてその仕事に居場所のようなものを感じていた。
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