愚者の食卓

九時木

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ディッシュ: 夢

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 お客様がホットコーヒーを静かに飲んでいる。
ナポリタン男が去ったおかげで、店内は再び静かになり、眠気を誘う音楽が流れていた。
ふと二人きりだった時間を思い出し、また少し恥ずかしくなる。
私、どうしてあんなことを言ってしまったのかしら。今更厨房に隠れたって、遅いのだけれど。
お客様と目を合わせるのに、一苦労するじゃない。

「あの…いつも一人でお仕事されているんですか?」
 お客様がそっと話しかける。テーブルを拭く私の手が、ひとりでに止まる。
「そうなんです」
 これって、やっぱり変なことかしら。私は首を少し傾げる。
「うちの店主は、狭い厨房がスタッフで混雑するのが苦手みたいで」
「店主の方は?」
「今は、厨房の裏で休んでいます。『もう年だから』って、よく嘆いていますよ」
 私は軽く笑ってみせる。だって、ここで大真面目な顔をされても困るでしょう。

 話してみれば、意外と落ち着くのね。そんな風にして、私はひとり胸を撫で下ろしていた。
何だかもっと話がしてみたくなるのは、私だけかしら。
「お客様は、どんなお仕事をされているんですか?」
 今度は私からお客様に尋ねる。お客様はマグカップを置き、少し迷ったように話す。
「えっと、塾講師のアルバイトをしていまして。その…」
 お客様が外の景色に目を遣り、申し訳なさそうに付け足した。
「塾は、ここから数分歩いた所にあるんです」
「ええ、近いんですね。勤め先」
 私はできるだけ声を抑える。心の中は信じられないくらいに騒がしい。期待が風船のように膨らみ、今にも私を胸いっぱいの喜びで飛び上がらせようとしている。
 カフェから近い、だって。ああ、私、また突拍子もないことを言ってしまいそうだわ。
「あの」
 お客様から遠慮がちに声を掛けられる。そっと視線を合わせると、お客様は少し悲しそうな目をしていた。
「僕、あなたに伝えたいことがあって」
 一体、どうしたのかしら。喜びに満ちていた私の心が、呼応したようにしんと静まり返る。
「突然言うのも、変かもしれませんが…」
 車が静かに道路を走る。昼下がりの陽光がそっと店内を照らす。
 誰かがいるようで、誰もいない空間。宙に打ち上げられたような感覚に陥る。
 お客様の目の奥は揺らぎ、まるでがらんどうな部屋を見渡しているような、何処か寂しさの漂う色をしていた。
「その…本当に、ありがとうございます」


「最近、仕事について少し悩んでいて」
 お客様がマグカップを抱えながら、静かに話す。私は口を閉ざし、じっと耳を傾ける。
「今の仕事が自分に合っているのか、わからなくなっていたんです。でも…」
 お客様が顔を上げ、私と目を合わせる。視線が一直線になる。
「あなたが懸命に働いている所を見ていると、僕も頑張らないとなって。元気を貰ったんです」
 私は胸が締め付けられるのを感じた。お客様の控えめな笑みを見たせいかもしれない。
喜びだけではない。何か、とても苦しいものが心の中になだれ込み、私を強い感情でいっぱいにし、目の前の景色をかき混ぜた。

「塾講師の心がけとして、『夢を見つけるきっかけを生徒に与える』というのがあるんですが」
 お客様が私を見ながら話し続けている。何かを求めているような眼差しが、私に向けられる。
「正直、僕にはわからない。夢が何であるかを知らないまま、僕は生徒に教えているんです」
 呑気なジャズも、事情を把握したようにフェードアウトし、店内をますます静かにさせる。
外から街路樹の音が聞こえる。窓に目を移すと、僅かに枝についた葉が、風に吹かれてからからと寂しげに揺れていた。
「僕は、このままで良いのでしょうか…」
 お客様が困ったように頭を搔いている。私の方はというと、無意識に腕を組み、少し考え込んでいた。

 

 夢とは何か。あまりにも難しい問いだわ。だけど、あなたはきっと抱え込みすぎだわ、なんて言えるはずがない。
 美しさを追い求めていた。完璧な美を手に入れるためなら、何でもした。
息の上がるような運動だって、甘い物を我慢する食事制限だって、美しさのためなら耐えられた。
 だけど、そうやって必死に努力して得られた成果も、見向きされたのはほんの一瞬に過ぎなかった。
 まるで取るに足りない出来事であるかのように。ごくありふれた、つまらないものであるかのように。
 報われないことがわかると、何もかも退屈に感じてしまうの。ねえ、夢って、とても残酷だと思わない?


「とても難しい問いだと思うけれど…」
 私はほとんど自動的に口を開く。
「何か、今の自分を変えてくれそうなものや存在は、夢になってくれるんじゃないかしら」
 突破口かしら、それとも出口?私は自分に向かって嘲笑う。
 私はお客様にじっと見つめられる。ずいぶん長い間、奇妙なほどに見つめられている。
「あ、いや。すみません…」
 お客様が恥ずかしそうに俯く。突如はっとし、私の顔が真っ赤になるのは、それからずいぶん後のことだった。
「ありがとうございます。確かに、そうですね」
 震えたお客様の声が、「これ、お金です…」と付け加えるのが聞こえる。カウンターテーブルには、450円が少し乱れて置かれていた。
「えっと、また来ますね」
 お客様が崩れた笑みを見せ、お帰りになる。ドアがすうと閉まり、店内が静まり返る。がらんと空いた、カウンター席。
 全ての時間が風のように過ぎ去った。私は口を開けたまま、その場で呆然と立ち尽くしていた。
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