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九時木

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悪霊3

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 『悪霊』に登場するピョートル・ヴェルホーヴェンスキーは、秘密組織の密告者を排除するために陰謀を企てた。
 それはピョートル自身が殺めた密告者を、無罪のアレクセイ・キリーロフが殺めたことにするといった陰謀だった。
 ピョートルはキリーロフに彼が他殺したという遺書を書かせた後、彼をピストル自殺に追い込んで罪を負わせた。


 スタヴローキンやキリーロフなど、『悪霊』の登場人物の何人かは無神論に毒され、また無神論を掲げるために死んだ。
 しかし、形而上学的な命題が提示される中、俗人の象徴とも言える存在が一人いた。
 それはピョートルだった。彼は秘密の革命組織を立ち上げ、組織を維持するために数々の殺害や自殺ほう助に奔走した。


 ピョートルの見る世界は、神を前提としていない。
 第一、彼はキリーロフの語る無神論に無関心であった。
 密告者を自殺に追い込むため、彼はキリーロフの自宅に向かうのだが、キリーロフが長々と無神論的自殺について語るので、「畜生、こりゃ自殺しないぞ」、「自殺しないな」と焦れったい思いに駆られていた。
 ピョートルは革命組織を第一に考えていたので、人の命はおろか、「神は存在するか否か」といった有神論にも無神論にも興味がなかった。
 強いて言うなら、有神論よりも無神論の方が「正しい」。彼はキリーロフとの対話でそう言っていたが、彼の形而上学にたいする関心はその一言の程度だった。
 故に、ピョートルはキリーロフのような情熱的な無神論者ではなかった。
 「ぼくが知っていたのは、ただ、それが信念に……確固たる信念にもとづいていたものだということだけだった」。
 ピョートルがキリーロフの自殺に対して残した言葉からわかるように、彼とキリーロフが共鳴する点はただ己の信念のみであった。


 ピョートルはもし己の信念を示すなら、自分は自殺よりも他殺を選ぶ人間だと言っていた。
 無神論を掲げた自殺を行うよりも、革命組織のために邪魔者を排除する方が「役に立てる」と考えていたのだ。
 彼にとって自殺とは、「頭の体操」や「思弁」によって生まれた無意味な行為、つまるところ単なる自滅に過ぎないことが示唆された。


 ピョートルは恐らく最も純粋で、最も人間らしい人間なのだろう。
 彼は魂を嬲るようなサディズムにもマゾヒズムにも共鳴しない。
 疼痛と幸福を関連づけず、己の快楽のために殺戮をおかすサイコパス的思想に陥ることもない。
 彼の目的は組織の維持のみである。彼の殺害や自殺ほう助は、一見他人の命を顧みない残虐行為に見えるが、彼自身としては全くの無自覚であった。
 彼の思考や発想は組織に対して機能し、形而上学には機能しない。
 彼は他人の思想に嵌り込む危険からは最も遠い存在なのだ。だから彼は他の人物とは異なり、悪霊に取り憑かれることなく、国外逃亡によって逃げ切ることができた。


 神の死の意味が強ければ強いほど、人間は機能的になる。
 ありとあらゆる行為は自身の意思に委ねられ、殺戮行為は無自覚のままに残酷化する。
 痛覚は未熟のまま置き去りにされ、涙は過去の遺物として葬り去られていく。
 悪霊に対する僕の服従心は薄れ、僕はやがて忘我のままに己を嬲り尽くす自己像を取得する。
 切開は形骸化し、魂は常態を見失った。刃が振り下ろされ、肉を裂いては塞ぎを繰り返した。
 僕は次の本へと手を伸ばし、悪霊からの逃亡を試みた。しかし、それは藁を掴み損ねた行為の如く、未完に終わった。
 次なる本もまた、魔物の顔と酷似していたのである。
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