漂流物

不在: 居酒屋〜海

40

　雨が降ったその日、私たちはほとんど沈黙したまま店を去り、別れた。
　私は傘を持っていなかったので、彼の傘の下に入らせてもらうことにした。
　駅に着くと、彼は私に傘を差し出し、「持って帰りなよ」と言った。
　私が戸惑っていると、彼は静かに微笑み、「家まで距離があるだろう」と私に言った。
　そうして、彼は私に傘を持たせ、到着した電車に急いで乗り込んだ。
　私は彼を見送った後、傘をそっと開いた。そうして、一回り大きなそれを差しながら家に帰った。


　翌日、私は彼に傘を返すために、居酒屋に向かった。
　いつも通り、薄橙の照明に迎えられながら、扉を開けた。
　私は厨房やカウンター席を一瞥したが、彼の姿は見当たらなかった。
　カウンター席では、老人が既に酒を飲んでおり、相変わらず大量のジョッキを抱えていた。
　私は老人に挨拶をし、隣の席に座ることにした。


　「最近あいつとはどうしているんだ」

　注文したビールとチーズを交互に味わっていると、ふと老人が低い声で私に話しかけた。
　私は老人に向かって、「彼と図書館に行って本を借りた」と返した。
　「何の本だ」と、老人は重たげな目をこちらに向け、私に尋ねた。
　私が「実存主義と不条理を説いた本です」と答えると、老人は怪訝そうな目つきをし、酒をくいと呷った。
　老人は黙ったまま、酒を飲み続けていた。私は隣でみるみるうちに増えていく空のジョッキを眺めながら、彼を待った。


　それから一週間経ったが、彼は居酒屋に来なかった。
　老人と私は相変わらずカウンター席で酒を飲み、言葉少なに話していた。
　ビールジョッキを一杯飲み干すと、老人は厨房を覗き込み、不満げに吐いた。

　「あいつはどこにいるんだ」

　私は老人に向かって、「わからない」と答えた。
　老人が鋭い視線で私を見返したので、私は直後に「また最近忙しくなったのかもしれない」と付け加えた。
　私の言葉を聞くと、老人は黙り、新たなジョッキを掴んだ。
　「何処かほっつき歩いているんだな」と、老人は貧乏ゆすりをしながら、ビールを呷った。


　それからまた二週間が経ったが、彼はついに居酒屋に現れなかった。
　半ば取り残されたような形で居酒屋に座っていた私たちは、顔を見合わせ、互いの顔に不可解な表情を読み取った。
　老人は酒を飲むと、ほとんど不信感を隠さない調子で、私に言った。

　「どうなっているんだ」

　私はじっと考え、図書館やカフェでの出来事を振り返っていた。
　彼は恐らく、母を止めることで精一杯になっているのかもしれなかった。
　私はそのことを老人に言いかけたが、口をつぐんだ。

　「彼を探してきます」

　私は老人にそう告げた後、ジョッキを置き、席を立った。
　そうして勘定を済ませ、寒くなった夜道を歩き始めた。
　私は傘を持ちながら、駅へ向かった。以前の出来事もあり、足を運ぶのは少し躊躇われたが、私はそこへ行かなければならなかった。
　私は電車に揺れながら、彼の家について考えを巡らせていた。