診察券二十二号

九時木

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役所に翻弄されし診断書二通

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 ファイルの中に、一枚の紙が入っていた。
 紙を取り出し、内容に目を通す。

 『病名: 
 主たる精神障害、自閉症スペクトラム障害
 従たる精神障害、注意欠陥多動障害』

 僕は診断書のコピーをファイルに戻し、鞄にしまった。
 長い道のりだったと呟きながら。


 「医療費がかさんでいるので」

 前回の診察で、僕は主治医に向かって伝えた。

 「自立支援医療制度を利用しようと思います。診断書を書いて頂けますか」

 僕は以前医師に渡された案内書を見ながら、必要書類の依頼をしていた。

 「いいですよ。発行に10日ほどかかりますがね」

 主治医はパソコン画面をスクロールしながら、あっさりと答える。
 「次回の診察時にお渡しましょう」

 僕は礼を言う。あくまでも形式的な礼だ。

 僕は治療費の負担に何ら違和を感じていない。
 むしろ、経済問題は平坦な人生を送る僕にとって良い刺激になるだろうと、極度なまでに楽観視しているほどだった。
 しかし、大学のカウンセラーの見解は違った。専門家の健全な良識は、僕という将来の危うい患者は直ちに医療費を減額された方が良いと判断したようで、次回の診察に医師に伝えるようにと助言した。


 しかし、申請というものは面倒だ。
 診断書を役所に提出する必要があると聞いただけで、僕は吐き気がした。
 何分も順番を待ち、やっと受付が始まったかと思えば、何十分も長い説明を聞き、新たな書類を記入し、最後には何枚も余計な紙を渡される。

 カウンセラーは、「峠を乗り越えれば後は楽だ」などと僕を励ましてくれたが、実際に一連の手続きをしている時、僕はその場で目をつむって眠っていた方がましなのではないかと思うほど、退屈を極めていた。
 机の下で密かに貧乏ゆすりをし、憂さ晴らしをしていたが、やはり退屈な時間であることには変わりなかった。


 「不安を感じた時、今まではどんな風に対処してきたの?」 

 僕は街を歩きながら、ふと病院の心理士との会話を思い出す。
 2回目のカウンセリングだったか。曖昧な記憶は、対象にそれほど関心がない場合によく起こる現象だ。

 「不安の対象を完全に回避しようとしますね。
 例えば、大学だったら、春休みとか冬休み明けは学校に行くのが憂鬱じゃないですか。だから、できる限り行かないことにします」

 記憶の中で、そっと腕を組む心理士が再現される。僕は付け加えた。

 「制度上、最大で5回講義を欠席をしてもいいとすれば、休み明けの週から5週間休みます」

 「まる一ヶ月じゃないですか」

 心理士がクリップボードを机にぶつけながら驚く。大学の講師とほとんど同じ反応だ。
 欠席に代表される、気配を消すような行為、言わば不在は、やはり周囲にとっては怪奇現象にしか映らないのだろうか。

 「休みきってしまえば、残る道は出席のみです。敢えて逃げ道を作らないんですよ」

 これを不安の対処法と呼んで良いのか、定かでない。
 利益を生み出さない交渉はしないとか、同じ製品を大量購入しないとか、程度の差こそあれ、無意味な行動は誰だって避けたがる。
 反対に、読書をするとか、外出するとか、学生時代を謳歌するための趣味が講義よりも価値があると思えてしまえば、人間は純然たるドーパミンの活動によって、そちらの方に飛びついてしまう。
 打算でも何でもなく、ただ娯楽に走ったことを擁護するための後付けだと言ってしまえば、それ以上言えることは何もないが。


 しかし、敢えて打算的であったと主張するならば、このような持論もある。
 課題をこなさなければ落第すると言っても、すぐに崖の上に立たされるわけではない。崖の手前から始まり、そこから何歩か歩いて、ようやく危うい崖先に到達することがほとんどだ。
 幸運なことに、報酬系は、崖先からの景色を眺めることに最大のスリルを感じる。
 これは不安とは逆のベクトルを示しているのだと言えば、やはり娯楽の一種に帰結してしまうので、ここはストイックぶるのが無難だろう。


 「気合いで乗り切るんだね」

 心理士がコメディドラマを見る視聴者のように、軽く笑う。
 現実では起こりえないことに対する嘲笑だ。あるいは、現実に架空の人物のような人間が存在していることに対する、にわかに信じ難いという疑念を表していたのかもしれない。
 ミラーニューロンの機能しない患者は独りごつ。
 馬は思い切り鞭で打たれなければ、発進しない。それを気合いと呼んで理解されるのならば、多少の食い違いはあっても構わないのだろう、と。


 役所で二通の診断書が引き取られるのを見届けている時、僕は思った。
 人間はこれからも未解明の事態に振り回されるだろう、と。
 僕はこれからも役所に赴き、思う存分振り回されるだろう、と。

 発達障害の研究は、あまりにも不安定だ。
 一昔前には、アスペルガー症候群や高機能自閉症と分類されていたものが、今では自閉症スペクトラム障害と一括されていて、症状の多様性が考慮されている。ADHDも、はじめは不注意のみを症状としていたが、多動性や衝動性も後に加わり、今の診断名に至ったようだ。

 やっとのことで診断が落ち着いたかと思えば、そうでもない。最近、発達障害は脳の特性によるものだという理由から、そもそも障害として診断すべきではないという、デウス・エクス・マキナ的見解が登場し、医者界隈は大混乱に陥っている。

 主治医は新品の本を片手に試行錯誤しているようで、僕は散々藪医師と嘲っておきながら、傍らで同情しないわけにはいかなかった。
 しかし、「僕は似非患者です」と言ってしまえば、それはそれで元も子もない上に、当てにされる気もしない。
 結局のところ、僕は『異邦人』のムルソーのように、大人しく周囲の人間に裁かれるのを待っている他ないのだ。


 「その通りです。不安は『気合い』で打ち消します」

 僕はその言葉を口にする代わりに、黙って笑う。
 どれだけ手を尽くしても人間同士の誤解が解消されないのと同じように、病も完治することはないのだろう。特にコミュニケーションに関する病は。

 「これだけは覚えておいてほしいのだけど…」

 心理士は静かに話す。子どもを諭す教育者のような、ゆっくりとした口調だ。

 「不安は感じてもいいんだよ。ずっと続くものでもないからね。
 焦らず、自分に合った過ごし方を探しながら、周りへの理解を広げていけばいい」

 仙人や善人が持つような考えだな。僕の口角が自ずと吊り上がる。
 誤解の壁は今、何メートル何センチだろうか。良心の卵がひび割れる瞬間は、どうしても慣れない。卵を孵した所でどうすると言うのだ。

 「周りが感じるような不安を、似たように感じることができていれば」

 僕は手のひらに爪を食い込ませ、歯ぎしりをする。

 「僕はあの面倒な手続きをする必要などなかった」


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