診察券二十二号

九時木

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初回カウンセリングについて

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 何について話したのか、ほとんど覚えていない。
 今はただ、一方的にまくしたてる周囲の人物に対する不平や批判を吐き散らしながら、自身が終始止めどなく話し続けていたという記憶だけがある。
 そしてもう一つ、ただカウンセリングを受けに来たという事実が、この吐き出された私怨を説明するにはあまりにも信じ難い現実として、いつまでも側で居座っていることがわかる。


 「初対面なので、今まで主治医とお話ししたことと、同じ内容を繰り返してしまうかもしれませんが」

 今日初めて顔を合わせた担当の心理士は、静かに言う。

 「現在のお困りごとだけでなく、あなたの過去についても、少しずつわかれば良いなと思います。本日はよろしくお願いします」

 過去の出来事と聞いて、僕は脳内の引き出しに手を掛ける。
 次々と引き出された情報は、収納棚から洪水のように流れ出し、30分という隙間時間をあっという間に埋め尽くす。
 初対面で話すような情報量ではなかったのかもしれない。気がつけば、僕の喉は水を失ったカエルのように干からびていた。

 「なるほど。それは大変でしたね」

 髪を整えた若い担当は、僕と大して年齢が変わらないように見える。
 出会って1日も経たないような見知らぬ人間に対して、こうも口を開いてしまうのは、視覚的な効果のせいかもしれない。
 人間は自分と似た人間を目にすると、互いに似通った価値観を共有しているものだと思い込み、またすぐさま話が通じ合うものだと錯覚してしまうのだろう。
 一般的な若者に特有である、色素の濃い髪や脂の多い肌の質感は、奇妙なことだが、その錯覚をもたらす最も有効な手段の一つとなりうるようで、眼球は本能的に人間の物理的特徴を捉えて離さない。

 「時々、いますね。そういう人間は」

 担当の心理士は、僕が連ねる不平に同情する。
 頭ごなしに他人を否定し、自身の立場を利用することで他人の将来を脅かす人間。現実に対して過剰な服従心を持つ大人たち。
 「権威主義」。僕は心理士が何気なく表現した言葉に安らぎを覚える。
 似通った辞書を持っているというのは、どうやら完全な思い込みではないらしい。
 この場において、心理士が反抗期を拗らせた患者に対して手加減をしているという可能性は大いにあるが、今はそれほど気にすることではない。


 「父は周囲の話を聴きませんし、母は父の言いなりですし、姉は母親代わりに、はるかに年下の僕の世話ばかりをしてきました」

 医療従事者に対して家庭事情を説明する時、僕は家族のメンバーについてまともなプロフィールを提供したことがない。
 特に、精神科や心療内科の医療現場では、症状が和らいだというような肯定的な報告よりも、どうにもならないと思われる現状について、尽く否定的に、悲観的に伝える方が関心を持たれる。
 というよりも、患者であるための最低条件を満たしていることを示さない限り、治療の対象としては扱われないようである。
 手元に白紙を用意していた心理士は、家庭事情について話した途端、ペンを忙しなく走らせた。

 「父には、勉強さえすれば、将来は保証されるものだと教育されてきました」

 僕はいかにも不機嫌そうな口調で続ける。

 「当時の僕には、将来なんてどうでもよかったんです。ただ、父の機嫌さえ損なわなければ、後のことはどうでも良かった」

 歪んだ人生について語っていると、何だか愉快な気分になる。
 歪んでいると心底悲観するには、あまりにも遅いからかもしれない。あるいは、それがフィクションではなく、現実に起こった出来事であるという実感が全く湧かないせいかもしれない。

 「だけど、この有様ですよ。今の僕に将来の保証などありやしないし、仕送りも卒業後にはお終いですから。後は自分で何とかしろという次第のようで」

 治療費、家賃、光熱費、食費、通信費、その他諸々。僕は脳内で計算をする。
 これらの生活費用をコインタワーに仕立て上げ、頂点が見えなくなるまで一枚一枚積み上げていく。
 今の僕にできることは、そんな暇つぶし程度の非生産的な妄想くらいだ。

 「権威主義的、というのかな」

 心理士は、僕が気に入った先程の言葉を繰り返す。
 しかし、他人の家庭事情について、これ以上言及するのは憚られるようだ。
 若い心理士は口を濁し、やがて沈黙した。暇な僕は、脳内で次の言葉を付け足す。
 「精神的、あるいは経済的自立は、家族や公共機関等からの、適切な支援なしには果たすことができない」。
 皮肉なことに、これは教育についてある程度学習した結果、ようやく見出だすことができた結論である。


 長々と語っているうちに、時計の長針が半周する。
 このようにして、初回のカウンセリングはほとんど患者の独り言によって費やされた。

 「色々とお話を聞かせてくださり、ありがとうございました。
 今回は一回目ですので、患者様の来院の経緯や過去について、お話を伺いました。
 今回の内容を踏まえ、今後は現在のお悩みについて、一緒に解決していけたら良いなと思います」

 担当の心理士は深々とお辞儀をする。僕は反射的に、いかにも形式的なお辞儀を返す。
 一方の頭は、逆上せたようにぼんやりとしている。
 いつか、僕は人前で身の上話について語ったことを後悔するだろう。あるいは、後悔する自身を想像することによって、自ら後悔の渦に足を踏み入れるのだろう。
 鈍った頭の隅で、何処かで吐き出しておいた方が良かったのだという言葉が、疲れ切った身体を宥める。
 そうだ。今後の進路など、誰も知ったことではないのだ。カウンセリング室から退出してものの数秒で、僕は数秒前の僕から脱皮を遂げた。


 「カウンセリング、お疲れ様。最近の調子はどうだい」

 診察室の椅子に座った主治医は、僕に話しかける。
 主治医と顔を合わせるのは、いつぶりだろう。
 僕はタイル上で毅然とした振る舞いを見せるドブネズミを想像し、また目の前に立ちはだかる清掃員を想像する。この場において白衣を着たドブネズミが存在しないことは、自明である。

 「以前の診察で、新しい薬を勧めて頂きましたが、やはり副作用が強くて」

 ドブネズミはあまりにも使い回された返事をした後、壁のあちこちを走り回る。
 患者の目線が、カレンダーやアクリル板の隅やパソコンのあちこちを行き来する。
 まるでわかりきった答えから逃れるように。またはその様子を装うように。

 「うーん。そうか。それなら、別の薬を用意できるのだが…」

 僕はマニュアル通りの害獣駆除を試みる清掃員を思い浮かべる。
 しかし、今日のドブネズミは強情だ。清掃員をじっと見つめる。

 「…まあ、色々試した結果も踏まえて、薬の処方はしばらく控えてみようかね」

 どうやら勘弁してくれたようだ。清掃員は目の前のドブネズミを散々眺めた後、害獣用スプレーを鞄にしまい込んだ。
 ドブネズミは元気にタイル状を走りだす。いかにも真面目そうな顔つきで、自分は今深刻で重大な作業に取り掛かっているのだという目つきで。


 カウンセリングと診察を終えた後、診察料よりも、外食3食分よりもずっと高い料金を記載した領収書が、会計カウンターで差し出される。
 僕はその料金に、これから何度腹をつつかれるのだろう。
 長引きすぎてはかえってつまらなくなるということだけは、おおよそ理解できる。
 ドブネズミは密かに尻尾を振る。歯を食いしばり、食費を馬鹿みたいに削減すれば良いのではないかという邪な考えが浮かんだのだ。
 ドブネズミは振り返る。後ろには美味そうな外食店がずらりと並んでいる。ドブネズミにはまるで判断がつかない。
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