崖先の住人

九時木

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1章: 健忘

7. 眼球

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 呼吸がしにくい。男が僕の上にまたがり、僕の首を締め付けている。
 さっきまで、僕は病院の帰り道を歩いていたはずだ。それなのに、今はもう別の場所に移動している。
 僕は気を失ったのだろうか。後頭部がずきずきと痛む。
 恐らく、後ろから鈍器で殴られたのだろう。男はその直後、気絶した僕をこの場所に移動させたのかもしれない。


 目を動かすと、僅かに部屋の様子が見えた。
 部屋は壁も天井も真っ白だった。しかし、所々赤く染まっていた。
 室内には生臭いにおいが漂っていた。恐らく、赤色の正体は血だろう。

 もう少し全体像を見ようと体を動かしてみると、全身に鋭い痛みが走った。
 嫌な予感がし、恐る恐る自分の手足をのぞくと、無数の切り傷が視界に入った。


 僕は血の気が引き、目の前の男を見た。
 男は黒の全頭マスクを被っており、開いた部分から淀んだ目をのぞかせていた。
 男は片手で僕の首を押さえながら、腰からナイフを素早く取り出した。

 次の瞬間、ナイフは僕に向かって思い切り振り下ろされ、刃先が眼球に触れた。
 僕は首元の手を振りほどき、急いで左に避けた。
 ナイフは眼球を貫通し損ない、顔の真横にぐさりと突き刺さった。
 僕の隣で、血塗れになった刃があらわになった。


 「夢だよな」

 僕の心臓は尋常でない速さで動いていた。
 男はナイフを床から引っこ抜き、静かに返した。

 「さあな」

 男は瞬きもせず僕を見返すと、再度ナイフを振り下ろした。
 その言葉を振り返る余地はなかった。僕は脊髄反射で右に転がった。
 刃先はわずかに目元をかすめ、切り傷を作った。


 「僕を拉致したのか?」

 僕は震え声でマスクの男に尋ねた。
 男は僕の流血した目元を眺めながら、落ち着き払った様子で言った。

 「馬鹿め」

 男は片足を振り、僕の頭を思い切り蹴飛ばした。
 僕は部屋の隅まで飛ばされ、背中を壁に打ちつけた。
 脳震盪が意識を朦朧とさせた。男の足音が近づき、僕は髪を引っ張り上げられた。


 「

 男は僕の髪を掴みながら、刃先を僕の眼球に突きつけた。
 「止めろ」と僕は叫んだが、男はナイフに力を込め、ついに僕の眼球に突き刺した。
 ナイフが眼球を貫通し、血飛沫が出た。僕は絶叫し、反射的に男の腕を掴んだ。
 「止めるんだ」と男を思い切り揺すぶったが、男は止めずに続けた。ナイフの先は僕の眼球をとらえ、ずるずると引っ張り出していった。
 僕は悲鳴を上げた。神経が引きちぎられるような激痛が襲いかかり、眼球の奥は異常な熱を帯び始めていた。


 「目を覚ましたいか?」

 男は眼球を弄びながら言った。
 僕は痛みのあまり何も考えられず、ただ「止めてくれ」と繰り返していた。 

 「違うな。本当のことを言ってみたらどうだ」

 男は僕に構わず話し続けていた。
 僕はナイフに突き刺さった自分の眼球を見ながら、男に訴えた。

 「もういい。僕を起こしてくれ」

 しかし、男は目の色を変えず、まるで何も聞こえなかったかのようだった。
 僕は血塗れの眼球に手を伸ばした。男はその手をかわし、足元に僕の眼球をぼとりと落とした。
 男は片足を上げ、落ちた眼球を踏みつけた。僕の眼球はゆで卵のように潰れ、小さな血の池を作った。
 男はマスク越しに笑みを浮かべた。僕は嘔吐し、男の靴に吐瀉物を散らした。

 「本当のことを言え」

 男は足についた僕の吐瀉物を払ってから、血塗れのナイフを僕の首元にあてがった。
 僕の呼吸は荒ぶり、再び吐き気を催した。

 「言ってみろ」

 ナイフの冷たい温度が首元を伝った。
 僕は口元を押さえ、胃酸の逆流を堪えた。

 僕は何も言わなかった。僕の無言が男のナイフを振るわせた。
 残ったのは、刃先が首を横断する感覚だけだった。
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