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それは甘い毒

Chapter5-2

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「逢沢さん、おはようございます。体調はどうですか?」

 タイムカードを押す前に、俊哉からのメッセージに返信していると背後から声をかけられた。早苗はすぐにその声の主が前野であると分かった。

「おはようございます、前野さん。金曜日はすみません、ありがとうございました。今日は万全です」
「顔色も良くなってるみたいで安心しました。病院では何て言われたんですか?」

 前野は振り返った早苗の顔色を確認してから、隣のデスクの椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。

「少しフェロモンの数値が高かったのでそのせいではないか、と。でも、発情期がずれるほどでもないと診断されました」
「それは良かったです……っていうのも変ですね。私も、10代の頃にそんな経験がよくありました。少し疲れてたりすると、すぐに数値があがっちゃって」
「疲れとかでも上がっちゃうものなんですね……」
「これに関しては完全に体質ですけどね、疲れとかであがっちゃう人もいるみたいです」

 その話を聞いた早苗の脳裏に、前日に京介と致したのが原因なのでは? という考えが頭をよぎる。今まで、発情期以外に京介とした経験がないので断定はできないが、その可能性も大いにあり得るのだ。急に前野に対する申し訳なさが湧き上がってきた。

「――そろそろ、朝礼ですね。今日も一日頑張りましょう。また、辛くなったら声かけてくださいね」

 そう言って前野はその場を立ち去った。動揺を悟られなかったことに早苗は安堵する。

 朝から少し大人として恥ずかしい思いをしたが、その日は特に大きな問題もなく終業時間を迎える。
 その日、早苗は会社に番ができたという報告はしなかった。昔は番が成立したら会社に報告するというルールがあったらしい。番のいるオメガはフェロモンを放出しても番以外に影響を与えることがなくなるので、業務形態が少し変わるためである。しかし、フェロモンが番以外に影響を与えないとはいえ、発情期がなくなるわけでもないし、番のいないオメガに対して番を作るように強要する社員がいたためこのルールはすぐに廃止された。
 番成立の報告義務がない時代であることに早苗は感謝した。なぜなら早苗が京介と恋人であることを知っている社員は少なくない。それなのに、早苗が京介以外のアルファと番ったなんてことが公になったら、それこそ問題にならないわけがない。
 そうなる前になるべく早いうちに京介と話し合わなくてはいけないな……と考えながら早苗は会社を出た。

 突然、道を立ち塞がれた。こんなことをするのは一体誰だ、と相手を確認するべく顔を上げた早苗は、思わず身を固くした。その人物はオフィス街ではまるで異質な存在だった。スーツは着ているが、派手な色の頭髪に夥しい数のピアス。襟から覗く髑髏の眼窩から蛇が出てきているタトゥー……。誰がどんな格好をしていようと関係ないが、そんな格好の人物を目の前にして萎縮しないほどの強い心を早苗は持ち合わせていなかった。

「あー……びっくりさせちゃいましたか?」

 呼吸すらまとも出来ない早苗に対して目の前の男は、その見た目から想像できないほど穏やかな声色で早苗に話しかけてきた。そのおかげで、多少緊張は解けたものの声を発することが出来なかったので、頷いて相手の言葉を肯定する。

「っすよね……すみません。えっと、逢沢早苗さんで間違いないですよね?」

 相手の男は早苗の名前を知っていたが、早苗はこの男に心当たりはなかった。相手に対して一瞬緩みかけていた警戒心が再び強くなる。しかし、会社の目の前でこんなにめだつ装いの男性に絡まれていたなんて、よくない噂が立ちかねない。

「場所を移動しましょう」

 あえて否定も肯定もせずに、早苗が方向転換すると男が腕を掴んできた。驚いて相手を見上げる。

「そうですね、そうしましょう!」

 ちょうど良かったと言わんばかりに、男は早苗を引っ張り目の前の道路に停めてあったシルバーカラーのスポーツカーの後部座席に押し込んだ。慌てて車を降りようとノブに手をかけるが、内側から開けることが出来ない。こんなにも堂々と誘拐されるなんて想像だにしていなかった。

「お、降ろせ!」

 運転席の座席を思いっきり蹴る。

「あだっ!」

 男は1度呻くと、鋭い視線を早苗に向ける。思わず足が出てしまったが、こんな得体の知れない相手を蹴るなんて命知らずにも程がある。早苗が奥歯をガタガタ言わせていると、男はドスの効いた低い声で「ちょっと大人しくしといてください」と言いつけ、正面に向き直った。

 幸い拘束などはされていなかったので、早苗が携帯を取り出す。震える指で警察への通報番号を入力する。発信ボタンを押そうとした瞬間、早苗の手から携帯が離れていった。

「全く、油断も隙もないひとですね。悪いようにはしないんで大人しく着いてきてくださいって」

 もっと怖いのを想像していたが、男はまるで子供に言い聞かせるような声色でそう言った。怖いのにどことなく人の良さが滲み出しているような気がしてならない。

「何処に連れていくつもりなんだ?」

 座席に座わり直して早苗が訊ねる。

「オーナーに早苗さんに話があるから連れて来いって言われたんで、オーナーがいるところです」

 予想外にあっさり答えてくれたが、全く答えになっていない。彼の言うオーナーが誰かも分からない。これから自分の見に降りかかるだろう最悪の事態を想像して早苗は顔を青くした。

 今日はなんでもない日で終わると思っていたのに、まさかこんな事件に巻き込まれるなんて思ってもいなかった。
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