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第7話

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 京子の発言によって気まずくなった空気に居た堪れなくなった、晴人は半ば逃げるようにその場から立ち去った。
 神代が何かを言いかけていたが、その時の晴人には他人の言葉に耳を傾ける余裕はなかった。

 家に着くと晴人は、着替えもせずにベッドに寝転がった。
 畳み掛けるように色んなことが起こりすぎて、まるで夢を見ていた気分にすらなる。
 レースのカーテンがかかった窓から差し込む薄明が眠気を誘うーー。

+++

 晴人の意識がふわりと浮上すると、唐突に懐かしい風景が眼前に現れた。

 生徒の大半は足を踏み入れたことはおろか、その存在すら知られていない旧校舎3階にある美術準備室に、晴人は毎週木曜日の放課後に招かれていた。ほこりと絵の具の匂いが充満するその部屋を晴人は内心結構気に入っていた。
 それはこの部屋の主人である隆博と過ごすこの時間が好きだったからに他ならない。

 窓際に置かれた椅子に片膝を立てて座り、膝に頬をのせ視線はワックスが剥がれた床に落とす。
 時々窓から入ってくる柔らかな風が晴人の髪を揺らすと、隆博は「髪の感じが変わった」とわざわざ手に持っている画材を置いて直しにきたりする。
 髪が乱れるから窓は閉めれば良いのにと思っても、こうやって隆博が触れてくれるならといつも晴人は黙っていた。きっと隆博も晴人に触れるための口実を作っていたのだろう。

 高校の2年間、晴人は隆博と付き合っていた。

 はじめは部活が休みの日に絵のモデルをして欲しいと頼まれて、ジュースを奢ってもらうのを条件に晴人は隆博の専属モデルをしているだけだった。2人の間にこれと言って会話らしい会話もなかったが気まずくはなかった。
 いつの頃からか木曜日の放課後が待ち遠しくなってそれが隆博に会えるからだと晴人は気がついたが、だからといって晴人は隆博とどうこうしたいということは思っていなかった。

 一枚目の絵が完成する頃、晴人は隆博に告白された。
 今まで一度も同性とはおろか、誰かと恋愛関係になるなんて想像もしていない晴人だったけれど、告白されたことに驚いたが不思議と嫌悪感はない。胸の奥がぐっと熱くなり顔に熱が集中する。

「よろしくお願いします」

 晴人が一音ずつ丁寧にゆっくりと言葉を発すると、隆博は「やった」と本当に嬉しそうに笑った。

 それからの1年半は穏やかな時間を2人で過ごした。
 その間何度か隆博の家や、秘密の部屋になっていた旧校舎の美術準備室で肌を重ねたこともあったし、本校舎の人気のない廊下で隠れるように唇を合わせたりもした。

 秘密を共有するこの関係は本当に楽しかった。

 隆博と晴人の関係に亀裂が生じたのは、隆博が3年晴人が2年の冬だった。

 いつものように旧校舎の美術準備室に向かう途中、晴人は隆博が女生徒と唇を重ねている瞬間を目撃してしまった。
 2人は、晴人に見られたことに気がついていないようだった。
 晴人は早くなる鼓動と、口から飛び出そうな心臓を飲み込んでその場から逃げるように立ち去る。

 あの日、晴人はなにも見なかったことにしたかった。
 何かの間違いだと自分に言い聞かせていたのに、結局、その翌日隆博の浮気相手である女生徒に晴人は酷い暴言を浴びせられた。
 名前も知らない相手に何を言われても平気だと思ってはいたけれど、隆博に対する不信感だけは確実に育っていたらしい。

 お互いの存在が負担になった晴人と隆博は、隆博の卒業式の日破局したーー。


 まるで走馬灯のように晴人の眼前に映し出される高校時代の出来事。
 全部記憶に過ぎないにも関わらず、それらの思い出は晴人に当時と変わらぬ衝撃と痛みを与える。

+++

 覚醒した晴人を迎えた現実は涙に濡れて冷たくなったシーツと纏わりつくような微かな頭の痛みだった。

 ズボンのポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると、6:30と表示された。
 思いの外ぐっすりと寝ていたらしい。
 半日以上寝ていたこともありすっかり体が凝り固まっていた。完全に寝疲れである。

 重たい体に鞭を打って起き上がり、皺になった服を脱ぎながらバスルームに向かう。
 服から微かにバニラが香る。百合斗のタバコの匂いだ。
 他人の匂いはあまり好まないが、不思議と百合斗の匂いに関しては何も感じない。

 百合斗は晴人にとって特別な存在であった。
 お互いに恋愛感情は抱かないが、ともに過ごす時間は心地がいい。
 この名前をつける必要のない関係を晴人は気に入っていた。

 洗濯カゴにバニラの香りが残る服を投げ入れる。
 熱いシャワーを頭から被ると、春の日差しで雪が溶けるように頭に纏わりついていた痛みが消えていった。

 下着だけ衣服を身につけた晴人は、グゥと情けない音を立てる腹を満たそうと冷蔵庫を開けるが中には何も入っておらず、オレンジ色の光が恨めしそうに晴人を照らした。
 冷蔵庫が空っぽなのは普段から特に料理をする訳でもなく、惣菜や酒を冷やすだけの箱だからである。
 買い置きしてあったと思った冷凍食品ですら一つもなく、チョコレートの一口アイスが一つ無造作に放り込まれているだけだった。

 晴人はため息を吐きながら、そこそこ広い冷凍室にポツンと転がる一口大のアイスを口に放り込んでから、スキニータイプの黒いパンツとサマーカーディガンを身に纏う。

 この時間ではスーパーは開店していないので、割高になるがコンビニで食材を買うしかない。
 体が要求しているのはコンビニ弁当ではないが、グゥと情けない音をあげる腹を満たさねばとアパートの一階で営業するコンビニへ向かった。
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