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鬼神の決断
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麻子は、突然、我に返った。
部屋の中に、誰かが入ってきたのだ。男が、その何者かに気を取られ、おかげで術が解けたのである。
「その子から離れろ」
それは、鬼神であった。
「お前は・・・」
男が、鬼神の顔を見て、目を大きく見開いた。
「貴様、生きていたのか?」
鬼神も、振り向いた男の顔を見て驚いた。それは、マリーに見せてもらった映像に映っていた、死の直前の『ノア』の顔だったのである。
「あの死体は偽物ということか」
「いいえ、あれは本物の『ノア』ですよ」
『あの死体』の意味が分かったらしい。『ノア』に似た男はそう言って笑みを浮かべた。
「ならば貴様が偽物か?」
「いや、私も本物です」
『ノア』は今度は眉をひそめる。
「ふざけるな、そんなわけがあるか。おとなしく逮捕されるんだな。調べれば、貴様の正体はすぐに分かる」
「おや? 私を殺したいほど憎んでいるのではないですか?」
「殺してやりたいのは山々だが、それでは事件の解明ができないからな」
鬼神の話を聞いて、『ノア』は満面に笑みをたたえた。
「真実を知りたいですか? ならば、お教えしましょう。私は、紫龍さんに頼み事をしたかっただけです。ですから、お話が済めば、お帰り頂くつもりでしたよ」
「そんな話が信用できるか」
「本当です。しかし、そこにいるジャフェスは命令に背き、自ら紫龍さんを地上へ連れ出そうと考えたようです。その後、紫龍さんをどうするつもりだったのか。おそらく、あなたの娘さんと同じ運命をたどっていたかも知れませんな」
鬼神の顔が険しくなった。しかし、そんなことには気にも留めず、『ノア』は話を続ける。
「あの時、私はジャフェスに、あなたの奥さんを連れてくるよう命じました。しかし、彼奴は奥さんを殺害してしまった。しかも、代わりに娘さんを連れ出し、あろうことか暴行までした。娘さんが感染したのは、ジャフェスが原因です」
赤銅色の鋭い眼光がジャフェスへ向けられた。この瞬間、鬼神の心の中には再び、復讐の二文字が浮かび上がる。2人を死に追いやった張本人が目の前に現れ、冷静でいられるはずがないだろう。鬼神の心臓の鼓動は激しくなり、髪が逆立つほどの怒りに歯をギリギリと食いしばる。
しかし、ジャフェスは信じられないというような顔で『ノア』を見つめていた。まるで鬼神の存在など忘れているかのようだ。
全幅の信頼を寄せていた父親のような存在、共に苦痛を分かち合った同志、命じられるままに感染者の血を受け入れ、数々の苦痛にも耐え、今まで尽くしてきた人間に、最後は裏切られた。ジャフェスはそう思った。
自分を守り、導いてくれる者は最早いないとジャフェスが悟ったと同時に、彼を御していた手綱も完全に切れてしまった。もはや、この男をコントロールできる者は誰もいなくなったのだ。
ジャフェスは、ふらふらと『ノア』に近づいていった。
「長老、どうして?」
「お前は、罪を償わなければ・・・」
そう答えかけた『ノア』の口のあたりを、ジャフェスの大きな右手が塞いだ。
『ノア』は驚き、黒い瞳でジャフェスの目を鋭く見つめた。しかし、涙で霞んだ目に、その眼光は通じない。
ジャフェスは突然、大きな叫び声を上げ、左手で『ノア』の後頭部を持ち、頭から顔を引き剥がした。『ノア』の顔が、額から顎まできれいに頭から外れ、黒い瞳を持った眼球がこぼれ落ちる。ジャフェスがそのまま顔を引っ張ると、首に通された管が現れ、さらに胸の中から楕円体をした装置が現れた。突然の出来事に、麻子は息が止まり、悲鳴を上げることすらできない。
呆気にとられる鬼神を前に、ジャフェスは変わり果てた『ノア』の体を放り投げ、血だらけの腕で麻子の首を抱えた。
「動くな。動けばこの首をへし折るぞ」
麻子を人質に取られ、鬼神は動くことができない。
「お前、アンドロイドのタグチップを持っているだろう? それを俺によこせ」
「そんな物を取って、どうするつもりだ?」
「それが何か、俺は知っている。地上に出るために必要なんだろう?」
鬼神は、何も言わなかった。
「早く出せ。こいつを殺されたくなければな」
ジャフェスが、麻子の首を少し強く締め上げる。麻子は苦しくなり、両手でジャフェスの腕を外そうとするが、相手の力が強すぎてびくともしない。
「待て、分かった、ここにある」
鬼神は、ポケットから樹脂製の小さなケースを取り出した。その中に、タグチップが入っている。
「それを、こちらに投げろ」
鬼神は、ジャフェスの前にケースを放り投げた。ジャフェスは、ゆっくりとしゃがみ込み、そのケースを拾い上げる。麻子は、すでに気を失っているようだ。
「目的の物が手に入ったんだ。その子を離せ」
「俺は、紫龍を地上まで導かねばならない。それが長老の望みだからな」
ジャフェスは、そう言って、嘲るように笑った。
「もう一つ、教えろ。地上へはどうやって行けばいいんだ?」
麻子を盾にしたまま、ジャフェスは鬼神に尋ねた。
「・・・この下にある動力室のエレベーターで行ける。その扉でタグチップを使うんだ」
「そうかい。ありがとよ。じゃあ、俺があの扉から出るまで、お前はそこを動くな。俺は、こいつを殺したって構わないんだ。その気にさせたくなければ・・・分かってるな」
ジャフェスは、鬼神から視線を外さず遠ざかっていく。鬼神が入ってきた扉とは反対の方向にも別の扉がある。ジャフェスは、そこから外に出るつもりらしい。
鬼神は、ジャフェスの顔をじっとにらんでいた。その顔を眺めながら、ジャフェスは冷笑を浮かべている。
やがて、ジャフェスと麻子の姿は扉の向こうへ隠れてしまった。
ジャフェスは、動力室にあるエレベーターの場所を把握していた。それはフロアの最北端、銀色に光るタワーだ。9フロアだけでなく、10フロアや11フロアからも、そのタワーは見ることができる。つまり、フロアを通してあるわけだから、エレベーターに間違いない。
途中、袋小路に迷ったこともあったが、赤いラインが目印であることが分かってからは、順調にエレベーターへと近づいていった。
おそらく、ここを真っ直ぐ進めば目的地に到着できるだろうと思った時である。目の前に2体のアンドロイドが立っていた。
「ここから先は立入禁止です。引き返して下さい」
そう話しかけたアンドロイドの首を、ジャフェスは片手でつかみ、握りつぶした。アンドロイドの頭が垂れ下がり、そのまま崩れるように倒れる。
「何をする・・・」
もう一体のアンドロイドには顔面に拳を叩きつける。拳は頭を突き抜け、アンドロイドは完全に機能を停止した。
ジャフェスの拳は、指の骨が見えるほど傷ついた。しかし、全く気にする様子はない。麻子は、気を失ったままの状態で肩に担がれていた。歯をむき出して笑いながら、ジャフェスはエレベータへと近づいていった。
大きな金属製の扉の前にやって来たジャフェスは、上側の読み取り機から放たれる赤いレーザー光を見て
「これにタグチップをかざせばいいんだな」
とつぶやいた。ケースからチップを取り出し、それをレーザー光に当ててみる。
三重構造の扉が開き、中から明るい光があふれ出す。
その光景を、ジャフェスは満足そうに眺めていた。
鬼神は、すぐにドナへ電話を掛けた。
「麻子ちゃんは救出できたのですか?」
「人質に取られて救出できなかった。今、ジャフェスは9フロアにある動力室に向かっている。俺は、動力室への道を知らない。案内してくれないか?」
「動力室に何があるか、知っているのですか?」
「それは後で話すよ。今は救出が最優先だろ。頼むから教えてくれ」
「・・・今、どこに?」
「10フロア、N119のE500だ」
「南側の扉を出て、左側の通路を進んで下さい」
鬼神は、指示通りに南側の、ジャフェスが通った扉を抜けた。道は前方と左右の3方向に分かれている。鬼神は左側の通路を進んだ。その通路は、左手の方へ円を描くように曲がっている。
「右側に扉が見つかりますから、そこを通って」
扉が開くと、そこは階段になっていた。
「階段を下りてください。9フロアに出ることができますわ」
階段を下り、扉を抜ける。目の前には巨大な金属製のボックスが設置されていた。しかし、何も動いてはおらず、あたりは静まり返っていた。
「床に赤いラインが引かれていると思います。そのラインに沿って、右方向に進んで下さい」
ドナから指示を受けながら、鬼神は赤いラインに沿って進んだ。
「俺が動力室のどこに行きたいのか、ドナには分かるようだな」
「エレベーターへの入口、ですよね」
「ジャフェスはそこへ向かっている。タグチップを持ってな」
「地上を目指しているということですね」
「エレベーターに乗ってしまえば、俺はそれ以上追いかけることはできなくなる。その前に奴を捕まえなければ」
「・・・もうすぐ十字路になりますから、左に進んで下さい」
ドナは鬼神に指示を出し続けた。
長い直線の通路を進んでいた時である。通路の先が明るくなった。
「あれがエレベーターへの入口か。くそったれ、間に合うか?」
鬼神は、全速力で駆け抜ける。しかし、到着する前に光は閉ざされてしまった。
ようやく、エレベーターへの入口にたどり着いたが、すでにジャフェスと麻子は中に入ってしまった後だ。
「他に入る手段はないのか?」
「タグチップ以外に、入る手段はありません」
鬼神は、その場で座り込んでしまった。ふと、前を見ると、哀れな2体のアンドロイドが倒れているのが見えた。一つは頭部を破壊されていたが、もう一つはきれいに残っている。
鬼神は立ち上がり、その頭部を拾い上げた。
マリーがアンドロイドを引き連れて、ジャフェス達のいた建物に到着した時、ハムはまだ、左足を押さえて苦しんでいた。
ハムの処置は他のアンドロイドに任せ、マリーは入口から建物に入り、通路の先にある扉を開けた。
円形の部屋のほぼ中央、何かが落ちているのを見つけ、マリーはその何かに近づいた。
人間の遺体らしきものには顔がなく、胸が破裂したようになっている。その横には、その遺体から引き抜いたと思われる顔と、楕円体の装置が落ちていた。
マリーは、楕円体の装置が人工心肺であることを検知した。しかも、装置内で二酸化炭素を酸素に変換するため、呼吸する必要がないタイプのものだ。この男が、スラム街で鬼神が会った『ノア』であるのなら、鬼神を昏睡させたドラッグがどうして『ノア』には効かなかったのか、説明がつく。そもそも、汚染地帯の中で普通の人間が生活すれば、すぐに感染してしまうだろう。
顔は古池信明と同じであるが、さらに自由に変えることができるらしいとマリーには推測できた。移動の度に顔を変えてしまえば、監視カメラで追ったとしても捕まえることは不可能になる。もちろん、服装にも気を付けなければならない。『ノア』は顔だけでなく身なりも平凡なものにしていたのだろう。服装に同じ特徴があれば、顔が違っていても同一人物だと疑われる可能性があるからだ。だから、誰の目にも、記憶に残らないほど印象が薄かったのだ。あの、不気味な黒い目を除いては。
マリーは、そこまで推理することができたが、まだ分からない謎があった。今、目の前にいる男が『ノア』ならば、焼死体で発見された者はいったい誰なのかということだ。もちろん、古池信明であることは、DNA鑑定の結果から明らかになっている。すると、古池信明は『ノア』のスケープゴートとして利用されたのだろうか?
ここで『ノア』が殺された理由も分からない。すでに、ジャフェスと麻子がこの場にいないことから、ジャフェスが殺したのだろうと推測していた。しかし、その理由が思いつかないのだ。
謎が解けないまま、マリーが『ノア』の遺体を調べていると、鬼神から電話が入った。
「鬼神さん、どこにいるんですか? 探していたんですよ」
「マリーか? 今、俺はA-3エリアの9フロア、エレベータの前にいる」
マリーにとって、それは思いもよらない言葉であった。
「どうして、そこに?」
「理由は後で話す。すぐにここへ来てくれ。助けてほしいんだ」
マリーが鬼神の下へ行こうと決断するのに、時間はかからなかった。
マリーがエレベーターの近くまでやって来たとき、倒れた2体のアンドロイドがまず目に入った。
「あれは、あなたがやったのですか?」
エレベータへの扉の前で座っていた鬼神の下へと近づき、マリーは尋ねた。
「俺じゃない。おそらくジャフェスだろう。奴は、麻子さんを連れてエレベーターを使い、地上へ向かった」
「どうして、アンドロイドの頭部をあなたが?」
鬼神は、手にアンドロイドの頭を持っている。
「この中にもチップは埋まっているだろう? それでエレベーターを開けることができると思ったんだ」
「残念ですが、機能停止したアンドロイドのタグチップは利用できません。自動的にロックがかかりますから」
「あのタグチップはどうして・・・」
「おそらく、『ノア』がロックを解除したのでしょう。そんなに簡単にできるものではありませんが」
「そうか・・・じゃあ、俺をエレベーターに乗せてくれ」
「それはできません」
「俺は奴を追わなければならない。麻子さんを助けなければ」
「それは私に任せてください」
「ジャフェスは、俺の家族を奪った張本人なんだ。絶対に許せない」
鬼神は声を荒らげた。
「復讐は止めたんじゃなかったのですか?」
マリーの問いかけに、鬼神はマリーの顔をじっとにらむ。その刺すような鋭い視線にも、マリーは怯まなかった。
「あなたの今の役目は、葉月さんの護衛のはずです」
「そんなことは分かって・・・」
「葉月さんは発症し、現在は立花さんが監視をしています」
その言葉を聞いて、鬼神は驚きの表情で立ち上がった。
「なんだって?」
「あなたは、復讐を選ぶのですか? それとも、約束通り、葉月さんを看取ってくれるのですか?」
鬼神は、マリーに問われ、ただ呆然とマリーの顔を眺めることしかできなかった。
ジャフェスが入口から入った後、扉は自動的に閉まった。鬼神が後を追っていたことには全く気づいていない。
エレベーターは9つあった。呼び出しボタンを押すと、ちょうど中央のエレベーターの扉が開く。中に入り、麻子を床に下ろした。エレベーターは、自動的に上昇を開始した。
麻子は、血で汚れたピンクのパジャマ姿で、壁にもたれて眠っているように見えた。胸のあたりのボタンが外れ、少しはだけた状態になっている。ジャフェスは、その様子を満足そうに眺めていた。
ジャフェスは、明らかにペドフィリア(小児性愛者)である。幼児期から『ノア』に支配され、両親の愛情など微塵も受けずに育てられてきたため、いつも自分を支配する大人を怖がり、従順な子供を演じてきた。その反動で、自分より弱い立場の者に対しては、虐待し、苦痛を与えることで性的興奮を得るようになったのである。
その衝動を抑えていたのは、『ノア』に対する畏敬の念であろう。だが『ノア』亡き今、ジャフェスを制御できるリミッターはもはや存在しない。
ジャフェスは、含み笑いをしながら、麻子の体へゆっくりと手を伸ばした。しかし、パジャマの襟をつかもうとして、ふと動作を止めた。自分が、去勢されていることを思い出したのだ。
地上に出たら、まずは性器を再生する施術を受けようとジャフェスは考えた。それまで、麻子を辱めるのはお預けである。楽しみは、あとに取っておいたほうがいいだろう。
そう決心した時、エレベーターが目的地に到着した。
「おい・・・」
ジャフェスが、麻子の体を揺すった。麻子は目を覚ましたと同時に、ジャフェスの顔を見て怯えた表情を見せる。その様子を見て、ジャフェスは下腹部が熱くなるのを感じながらも
「いよいよ地上に出られる。お前が望まなくても、これは運命なのだ」
と言いながら、大きな口をさらに横に広げて気味の悪い笑顔を見せた。
「嘘だろ?」
「アンドロイドは嘘はつきません」
鬼神が思わず放った言葉を、マリーは真っ向から否定した。
しばらくはマリーの顔をじっと見ていた鬼神だったが、やがてエレベーターへの入口の扉に視線を移した。強く握り締めていた手を開き、大きなため息をつく。そして、もう一度、決心したようにマリーへ視線を戻した。
「必ず、麻子さんを助けてくれ」
鬼神の頼みを聞いて、マリーは
「必ず助けます。ここから先はアンドロイドの領域。すでに、対処を依頼してあります」
と言って微笑んだ。マリーの滅多に見せない笑顔を見て、鬼神は笑みを返しながら
「笑顔がかわいいな。これからは、いつもその顔でいてくれよ」
と言い残し、走り去っていった。
マリーは、鬼神が去ったのを確認し、エレベーターへの扉を開けた。
マリーの姿は、まばゆい光の中に吸い込まれ、やがて扉に隠され見えなくなった。
病室には、ベッドに横たわる彩と、そのそばでじっと見守っている立花の2人しかいなかった。
彩の意識は朦朧とし、もはや声を掛けても反応がない。両親は、病室の外に出るよう告げられたのである。
「鬼神さん・・・」
なおも鬼神の名前を呼ぶ彩を見て、立花は深いため息をついた。彩の手を握り
「もう少しがんばって。あいつは必ず来るから」
と声を掛ける。しかし、彩は何の反応もしなかった。
病室の外から、すすり泣く声が聞こえてくる。彩の母親だろう。その声が止むことはなかった。
外が少しずつ明るくなりだした。人工太陽の光が病室内に差し込み始めたとき、彩の母親が発した驚きの声が外から聞こえた。
「鬼神さん!」
扉を開けて入ってきたのは、鬼神だった。
「遅いじゃないか。待ちくたびれたよ」
立花が文句を言いながらも、その顔は笑っていた。
「すまない」
鬼神は、一言詫びた後、すぐに彩の下へ駆けつけた。立花に代わって手を握り
「葉月さん、鬼神です」
と彩に呼びかける。
彩の瞳に光が戻った。視線を鬼神のほうへ向けて、笑顔で
「鬼神さん・・・」
と呼びかける。目からは涙がこぼれ落ちた。
「葉月さん、よく聞いて下さい。俺は、あなたを失いたくはない。あなたは俺にとって大切な存在なんだ」
「本当に?」
彩の問いかけに鬼神は大きくうなずいた。
「葉月さん、あなたを愛しています」
何の飾りもない、ストレートな鬼神の言葉を聞いて、彩は満面の笑みを浮かべた。
「うれしい・・・鬼神さん・・・私も・・・」
そう言った後、彩は眠るように目を閉じた。
部屋の中に、誰かが入ってきたのだ。男が、その何者かに気を取られ、おかげで術が解けたのである。
「その子から離れろ」
それは、鬼神であった。
「お前は・・・」
男が、鬼神の顔を見て、目を大きく見開いた。
「貴様、生きていたのか?」
鬼神も、振り向いた男の顔を見て驚いた。それは、マリーに見せてもらった映像に映っていた、死の直前の『ノア』の顔だったのである。
「あの死体は偽物ということか」
「いいえ、あれは本物の『ノア』ですよ」
『あの死体』の意味が分かったらしい。『ノア』に似た男はそう言って笑みを浮かべた。
「ならば貴様が偽物か?」
「いや、私も本物です」
『ノア』は今度は眉をひそめる。
「ふざけるな、そんなわけがあるか。おとなしく逮捕されるんだな。調べれば、貴様の正体はすぐに分かる」
「おや? 私を殺したいほど憎んでいるのではないですか?」
「殺してやりたいのは山々だが、それでは事件の解明ができないからな」
鬼神の話を聞いて、『ノア』は満面に笑みをたたえた。
「真実を知りたいですか? ならば、お教えしましょう。私は、紫龍さんに頼み事をしたかっただけです。ですから、お話が済めば、お帰り頂くつもりでしたよ」
「そんな話が信用できるか」
「本当です。しかし、そこにいるジャフェスは命令に背き、自ら紫龍さんを地上へ連れ出そうと考えたようです。その後、紫龍さんをどうするつもりだったのか。おそらく、あなたの娘さんと同じ運命をたどっていたかも知れませんな」
鬼神の顔が険しくなった。しかし、そんなことには気にも留めず、『ノア』は話を続ける。
「あの時、私はジャフェスに、あなたの奥さんを連れてくるよう命じました。しかし、彼奴は奥さんを殺害してしまった。しかも、代わりに娘さんを連れ出し、あろうことか暴行までした。娘さんが感染したのは、ジャフェスが原因です」
赤銅色の鋭い眼光がジャフェスへ向けられた。この瞬間、鬼神の心の中には再び、復讐の二文字が浮かび上がる。2人を死に追いやった張本人が目の前に現れ、冷静でいられるはずがないだろう。鬼神の心臓の鼓動は激しくなり、髪が逆立つほどの怒りに歯をギリギリと食いしばる。
しかし、ジャフェスは信じられないというような顔で『ノア』を見つめていた。まるで鬼神の存在など忘れているかのようだ。
全幅の信頼を寄せていた父親のような存在、共に苦痛を分かち合った同志、命じられるままに感染者の血を受け入れ、数々の苦痛にも耐え、今まで尽くしてきた人間に、最後は裏切られた。ジャフェスはそう思った。
自分を守り、導いてくれる者は最早いないとジャフェスが悟ったと同時に、彼を御していた手綱も完全に切れてしまった。もはや、この男をコントロールできる者は誰もいなくなったのだ。
ジャフェスは、ふらふらと『ノア』に近づいていった。
「長老、どうして?」
「お前は、罪を償わなければ・・・」
そう答えかけた『ノア』の口のあたりを、ジャフェスの大きな右手が塞いだ。
『ノア』は驚き、黒い瞳でジャフェスの目を鋭く見つめた。しかし、涙で霞んだ目に、その眼光は通じない。
ジャフェスは突然、大きな叫び声を上げ、左手で『ノア』の後頭部を持ち、頭から顔を引き剥がした。『ノア』の顔が、額から顎まできれいに頭から外れ、黒い瞳を持った眼球がこぼれ落ちる。ジャフェスがそのまま顔を引っ張ると、首に通された管が現れ、さらに胸の中から楕円体をした装置が現れた。突然の出来事に、麻子は息が止まり、悲鳴を上げることすらできない。
呆気にとられる鬼神を前に、ジャフェスは変わり果てた『ノア』の体を放り投げ、血だらけの腕で麻子の首を抱えた。
「動くな。動けばこの首をへし折るぞ」
麻子を人質に取られ、鬼神は動くことができない。
「お前、アンドロイドのタグチップを持っているだろう? それを俺によこせ」
「そんな物を取って、どうするつもりだ?」
「それが何か、俺は知っている。地上に出るために必要なんだろう?」
鬼神は、何も言わなかった。
「早く出せ。こいつを殺されたくなければな」
ジャフェスが、麻子の首を少し強く締め上げる。麻子は苦しくなり、両手でジャフェスの腕を外そうとするが、相手の力が強すぎてびくともしない。
「待て、分かった、ここにある」
鬼神は、ポケットから樹脂製の小さなケースを取り出した。その中に、タグチップが入っている。
「それを、こちらに投げろ」
鬼神は、ジャフェスの前にケースを放り投げた。ジャフェスは、ゆっくりとしゃがみ込み、そのケースを拾い上げる。麻子は、すでに気を失っているようだ。
「目的の物が手に入ったんだ。その子を離せ」
「俺は、紫龍を地上まで導かねばならない。それが長老の望みだからな」
ジャフェスは、そう言って、嘲るように笑った。
「もう一つ、教えろ。地上へはどうやって行けばいいんだ?」
麻子を盾にしたまま、ジャフェスは鬼神に尋ねた。
「・・・この下にある動力室のエレベーターで行ける。その扉でタグチップを使うんだ」
「そうかい。ありがとよ。じゃあ、俺があの扉から出るまで、お前はそこを動くな。俺は、こいつを殺したって構わないんだ。その気にさせたくなければ・・・分かってるな」
ジャフェスは、鬼神から視線を外さず遠ざかっていく。鬼神が入ってきた扉とは反対の方向にも別の扉がある。ジャフェスは、そこから外に出るつもりらしい。
鬼神は、ジャフェスの顔をじっとにらんでいた。その顔を眺めながら、ジャフェスは冷笑を浮かべている。
やがて、ジャフェスと麻子の姿は扉の向こうへ隠れてしまった。
ジャフェスは、動力室にあるエレベーターの場所を把握していた。それはフロアの最北端、銀色に光るタワーだ。9フロアだけでなく、10フロアや11フロアからも、そのタワーは見ることができる。つまり、フロアを通してあるわけだから、エレベーターに間違いない。
途中、袋小路に迷ったこともあったが、赤いラインが目印であることが分かってからは、順調にエレベーターへと近づいていった。
おそらく、ここを真っ直ぐ進めば目的地に到着できるだろうと思った時である。目の前に2体のアンドロイドが立っていた。
「ここから先は立入禁止です。引き返して下さい」
そう話しかけたアンドロイドの首を、ジャフェスは片手でつかみ、握りつぶした。アンドロイドの頭が垂れ下がり、そのまま崩れるように倒れる。
「何をする・・・」
もう一体のアンドロイドには顔面に拳を叩きつける。拳は頭を突き抜け、アンドロイドは完全に機能を停止した。
ジャフェスの拳は、指の骨が見えるほど傷ついた。しかし、全く気にする様子はない。麻子は、気を失ったままの状態で肩に担がれていた。歯をむき出して笑いながら、ジャフェスはエレベータへと近づいていった。
大きな金属製の扉の前にやって来たジャフェスは、上側の読み取り機から放たれる赤いレーザー光を見て
「これにタグチップをかざせばいいんだな」
とつぶやいた。ケースからチップを取り出し、それをレーザー光に当ててみる。
三重構造の扉が開き、中から明るい光があふれ出す。
その光景を、ジャフェスは満足そうに眺めていた。
鬼神は、すぐにドナへ電話を掛けた。
「麻子ちゃんは救出できたのですか?」
「人質に取られて救出できなかった。今、ジャフェスは9フロアにある動力室に向かっている。俺は、動力室への道を知らない。案内してくれないか?」
「動力室に何があるか、知っているのですか?」
「それは後で話すよ。今は救出が最優先だろ。頼むから教えてくれ」
「・・・今、どこに?」
「10フロア、N119のE500だ」
「南側の扉を出て、左側の通路を進んで下さい」
鬼神は、指示通りに南側の、ジャフェスが通った扉を抜けた。道は前方と左右の3方向に分かれている。鬼神は左側の通路を進んだ。その通路は、左手の方へ円を描くように曲がっている。
「右側に扉が見つかりますから、そこを通って」
扉が開くと、そこは階段になっていた。
「階段を下りてください。9フロアに出ることができますわ」
階段を下り、扉を抜ける。目の前には巨大な金属製のボックスが設置されていた。しかし、何も動いてはおらず、あたりは静まり返っていた。
「床に赤いラインが引かれていると思います。そのラインに沿って、右方向に進んで下さい」
ドナから指示を受けながら、鬼神は赤いラインに沿って進んだ。
「俺が動力室のどこに行きたいのか、ドナには分かるようだな」
「エレベーターへの入口、ですよね」
「ジャフェスはそこへ向かっている。タグチップを持ってな」
「地上を目指しているということですね」
「エレベーターに乗ってしまえば、俺はそれ以上追いかけることはできなくなる。その前に奴を捕まえなければ」
「・・・もうすぐ十字路になりますから、左に進んで下さい」
ドナは鬼神に指示を出し続けた。
長い直線の通路を進んでいた時である。通路の先が明るくなった。
「あれがエレベーターへの入口か。くそったれ、間に合うか?」
鬼神は、全速力で駆け抜ける。しかし、到着する前に光は閉ざされてしまった。
ようやく、エレベーターへの入口にたどり着いたが、すでにジャフェスと麻子は中に入ってしまった後だ。
「他に入る手段はないのか?」
「タグチップ以外に、入る手段はありません」
鬼神は、その場で座り込んでしまった。ふと、前を見ると、哀れな2体のアンドロイドが倒れているのが見えた。一つは頭部を破壊されていたが、もう一つはきれいに残っている。
鬼神は立ち上がり、その頭部を拾い上げた。
マリーがアンドロイドを引き連れて、ジャフェス達のいた建物に到着した時、ハムはまだ、左足を押さえて苦しんでいた。
ハムの処置は他のアンドロイドに任せ、マリーは入口から建物に入り、通路の先にある扉を開けた。
円形の部屋のほぼ中央、何かが落ちているのを見つけ、マリーはその何かに近づいた。
人間の遺体らしきものには顔がなく、胸が破裂したようになっている。その横には、その遺体から引き抜いたと思われる顔と、楕円体の装置が落ちていた。
マリーは、楕円体の装置が人工心肺であることを検知した。しかも、装置内で二酸化炭素を酸素に変換するため、呼吸する必要がないタイプのものだ。この男が、スラム街で鬼神が会った『ノア』であるのなら、鬼神を昏睡させたドラッグがどうして『ノア』には効かなかったのか、説明がつく。そもそも、汚染地帯の中で普通の人間が生活すれば、すぐに感染してしまうだろう。
顔は古池信明と同じであるが、さらに自由に変えることができるらしいとマリーには推測できた。移動の度に顔を変えてしまえば、監視カメラで追ったとしても捕まえることは不可能になる。もちろん、服装にも気を付けなければならない。『ノア』は顔だけでなく身なりも平凡なものにしていたのだろう。服装に同じ特徴があれば、顔が違っていても同一人物だと疑われる可能性があるからだ。だから、誰の目にも、記憶に残らないほど印象が薄かったのだ。あの、不気味な黒い目を除いては。
マリーは、そこまで推理することができたが、まだ分からない謎があった。今、目の前にいる男が『ノア』ならば、焼死体で発見された者はいったい誰なのかということだ。もちろん、古池信明であることは、DNA鑑定の結果から明らかになっている。すると、古池信明は『ノア』のスケープゴートとして利用されたのだろうか?
ここで『ノア』が殺された理由も分からない。すでに、ジャフェスと麻子がこの場にいないことから、ジャフェスが殺したのだろうと推測していた。しかし、その理由が思いつかないのだ。
謎が解けないまま、マリーが『ノア』の遺体を調べていると、鬼神から電話が入った。
「鬼神さん、どこにいるんですか? 探していたんですよ」
「マリーか? 今、俺はA-3エリアの9フロア、エレベータの前にいる」
マリーにとって、それは思いもよらない言葉であった。
「どうして、そこに?」
「理由は後で話す。すぐにここへ来てくれ。助けてほしいんだ」
マリーが鬼神の下へ行こうと決断するのに、時間はかからなかった。
マリーがエレベーターの近くまでやって来たとき、倒れた2体のアンドロイドがまず目に入った。
「あれは、あなたがやったのですか?」
エレベータへの扉の前で座っていた鬼神の下へと近づき、マリーは尋ねた。
「俺じゃない。おそらくジャフェスだろう。奴は、麻子さんを連れてエレベーターを使い、地上へ向かった」
「どうして、アンドロイドの頭部をあなたが?」
鬼神は、手にアンドロイドの頭を持っている。
「この中にもチップは埋まっているだろう? それでエレベーターを開けることができると思ったんだ」
「残念ですが、機能停止したアンドロイドのタグチップは利用できません。自動的にロックがかかりますから」
「あのタグチップはどうして・・・」
「おそらく、『ノア』がロックを解除したのでしょう。そんなに簡単にできるものではありませんが」
「そうか・・・じゃあ、俺をエレベーターに乗せてくれ」
「それはできません」
「俺は奴を追わなければならない。麻子さんを助けなければ」
「それは私に任せてください」
「ジャフェスは、俺の家族を奪った張本人なんだ。絶対に許せない」
鬼神は声を荒らげた。
「復讐は止めたんじゃなかったのですか?」
マリーの問いかけに、鬼神はマリーの顔をじっとにらむ。その刺すような鋭い視線にも、マリーは怯まなかった。
「あなたの今の役目は、葉月さんの護衛のはずです」
「そんなことは分かって・・・」
「葉月さんは発症し、現在は立花さんが監視をしています」
その言葉を聞いて、鬼神は驚きの表情で立ち上がった。
「なんだって?」
「あなたは、復讐を選ぶのですか? それとも、約束通り、葉月さんを看取ってくれるのですか?」
鬼神は、マリーに問われ、ただ呆然とマリーの顔を眺めることしかできなかった。
ジャフェスが入口から入った後、扉は自動的に閉まった。鬼神が後を追っていたことには全く気づいていない。
エレベーターは9つあった。呼び出しボタンを押すと、ちょうど中央のエレベーターの扉が開く。中に入り、麻子を床に下ろした。エレベーターは、自動的に上昇を開始した。
麻子は、血で汚れたピンクのパジャマ姿で、壁にもたれて眠っているように見えた。胸のあたりのボタンが外れ、少しはだけた状態になっている。ジャフェスは、その様子を満足そうに眺めていた。
ジャフェスは、明らかにペドフィリア(小児性愛者)である。幼児期から『ノア』に支配され、両親の愛情など微塵も受けずに育てられてきたため、いつも自分を支配する大人を怖がり、従順な子供を演じてきた。その反動で、自分より弱い立場の者に対しては、虐待し、苦痛を与えることで性的興奮を得るようになったのである。
その衝動を抑えていたのは、『ノア』に対する畏敬の念であろう。だが『ノア』亡き今、ジャフェスを制御できるリミッターはもはや存在しない。
ジャフェスは、含み笑いをしながら、麻子の体へゆっくりと手を伸ばした。しかし、パジャマの襟をつかもうとして、ふと動作を止めた。自分が、去勢されていることを思い出したのだ。
地上に出たら、まずは性器を再生する施術を受けようとジャフェスは考えた。それまで、麻子を辱めるのはお預けである。楽しみは、あとに取っておいたほうがいいだろう。
そう決心した時、エレベーターが目的地に到着した。
「おい・・・」
ジャフェスが、麻子の体を揺すった。麻子は目を覚ましたと同時に、ジャフェスの顔を見て怯えた表情を見せる。その様子を見て、ジャフェスは下腹部が熱くなるのを感じながらも
「いよいよ地上に出られる。お前が望まなくても、これは運命なのだ」
と言いながら、大きな口をさらに横に広げて気味の悪い笑顔を見せた。
「嘘だろ?」
「アンドロイドは嘘はつきません」
鬼神が思わず放った言葉を、マリーは真っ向から否定した。
しばらくはマリーの顔をじっと見ていた鬼神だったが、やがてエレベーターへの入口の扉に視線を移した。強く握り締めていた手を開き、大きなため息をつく。そして、もう一度、決心したようにマリーへ視線を戻した。
「必ず、麻子さんを助けてくれ」
鬼神の頼みを聞いて、マリーは
「必ず助けます。ここから先はアンドロイドの領域。すでに、対処を依頼してあります」
と言って微笑んだ。マリーの滅多に見せない笑顔を見て、鬼神は笑みを返しながら
「笑顔がかわいいな。これからは、いつもその顔でいてくれよ」
と言い残し、走り去っていった。
マリーは、鬼神が去ったのを確認し、エレベーターへの扉を開けた。
マリーの姿は、まばゆい光の中に吸い込まれ、やがて扉に隠され見えなくなった。
病室には、ベッドに横たわる彩と、そのそばでじっと見守っている立花の2人しかいなかった。
彩の意識は朦朧とし、もはや声を掛けても反応がない。両親は、病室の外に出るよう告げられたのである。
「鬼神さん・・・」
なおも鬼神の名前を呼ぶ彩を見て、立花は深いため息をついた。彩の手を握り
「もう少しがんばって。あいつは必ず来るから」
と声を掛ける。しかし、彩は何の反応もしなかった。
病室の外から、すすり泣く声が聞こえてくる。彩の母親だろう。その声が止むことはなかった。
外が少しずつ明るくなりだした。人工太陽の光が病室内に差し込み始めたとき、彩の母親が発した驚きの声が外から聞こえた。
「鬼神さん!」
扉を開けて入ってきたのは、鬼神だった。
「遅いじゃないか。待ちくたびれたよ」
立花が文句を言いながらも、その顔は笑っていた。
「すまない」
鬼神は、一言詫びた後、すぐに彩の下へ駆けつけた。立花に代わって手を握り
「葉月さん、鬼神です」
と彩に呼びかける。
彩の瞳に光が戻った。視線を鬼神のほうへ向けて、笑顔で
「鬼神さん・・・」
と呼びかける。目からは涙がこぼれ落ちた。
「葉月さん、よく聞いて下さい。俺は、あなたを失いたくはない。あなたは俺にとって大切な存在なんだ」
「本当に?」
彩の問いかけに鬼神は大きくうなずいた。
「葉月さん、あなたを愛しています」
何の飾りもない、ストレートな鬼神の言葉を聞いて、彩は満面の笑みを浮かべた。
「うれしい・・・鬼神さん・・・私も・・・」
そう言った後、彩は眠るように目を閉じた。
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