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Ⅲ
18:譲位
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二週間にわたる視察と会談を終え、アビエルとレオノーラは帝都へ戻ってきた。
彼らを待ち受けていたのは、山積みの政務だった。不在の間に溜まったものに、さらに、西共和国との新たな契約や技術の共有が加わり、時間がいくらあっても足りないほど忙しい日々が続いた。
アビエルは、何かに突き動かされるように、次々と事業を推し進めた。東西に伸びる幹線道路の建設もまもなく完成しようとしている。皇太子が政務の多くを担当するようになって5年以上が経ち、帝都周辺の風景は劇的に変わった。幹線道路沿いには、新しい都市が次々と生まれ、国民のアビエルへの期待は高まり、次代の皇帝即位を待ち望む声が大きくなっていた。
気がつけば、神聖祭の季節が巡ってきて、帝都は新しい年を迎えようとしている。宮廷で行われた神聖祭の夜会では、大司教がアビエルの功績を讃え、帝国の未来の安寧と繁栄を祈願した。
・・・・・・
今、アビエルは皇帝に呼ばれ、皇帝執務室に向かう回廊を大きな歩幅でゆっくりとしたペースで歩いていた。
呼ばれた理由はわかっている。もう答えを先延ばしにはさせてもらえないということだろう。
自分の計画ではもうあと5年は欲しかった。鉄道事業を着工し、鉄道が走る予定の領地の運営を軌道に乗せる。その上で各領地の自治を進めて、領主の自立を図りたい。
今はまだ、貴族への根回しも足りず、古い頭のすげ替えもできていない。
有無を言わさぬ力をつけようとなりふり構わずやってはいるが、若いというだけで、古くからいる宰相や大臣は、自分を思い通りに動かそうとするだろう。老獪な彼らは年をとっていることを人より上だと思いがちだからだ。そしてそういう奴らは自分たちの『長年の功績』を掲げて結託する。
今、即位をしたとしても『年若い皇帝の指南役』を嬉々としてやりたい古狸たちの傀儡になりかねない。そんなのはごめんだ。とはいえ‥‥それらを無視できないのも事実だ。うまくやらねば、今まで積み上げてきたものを簡単にひっくり返されてしまう。
「アビエルです。陛下がお呼びと聞き、参りました 」
執務室に入ると、いつものようにダミアン宰相と皇帝の二人だけがいた。
「アビエル殿下。政務にお忙しい中、急なお呼びたてに対応いただきありがとうございます。聡い殿下でいらっしゃいますから、おわかりかと思います。先日ご相談した件について、その後の殿下のお気持ちをお伺いしたいのです」
ダミアン宰相が穏やかで良く通る声で聞く。
「譲位について、ですね。先日もお話いたしましたが、若輩の私には時期尚早ではないでしょうか。若い皇帝では人民も臣下も不安を感じるのではと懸念します」
アビエルは、今年28になる。
「しかし、アビエル殿下は今すでにほとんどの政務を担っておられる。それは誰しもが知ることです。むしろ、今の世論では次代の皇帝即位を待ちわびる声の方が大きいとまで言われている。このまま何もせず今の形で政務が進めば、皇帝陛下の御名に傷がつく可能性もあるのです。どうか、前向きに考えてはいただけませんか?」
ダミアン宰相がアビエルから譲位への同意を取り付けようとする。
「私が政務をうまく行えているのは、何より皇帝陛下の後ろ盾があってこそなのです。私の背後に偉大なる陛下がおいでになるから、皆が私を信頼してくれているということに他なりません」
表情を変えず、あくまでまだ譲位には早い、という姿勢を変えずに返事をする・
「しかし、殿下‥‥」
ダミアン宰相が何かを言いかけたとき、皇帝が片手を上げてそれを制した。そして執務椅子の背もたれから体を起こして、机にもたれるよう肘をついて、立ったままのアビエルを見据える。
「なぁ、アビエル。おまえは自分を若い皇帝というが、即位する皇帝や王にはもっと年若い者も多くいる。私の即位は25の時だ。そんな言い訳はきかない。しかも、ここ数年の働きを見るに、お前は治政が嫌いではないようだ。何が問題なのだ」
射るように自分を見つめるその目に皇帝としての威厳と圧力を感じる。
「私は確かに政治活動が嫌いではございません。しかし、まだ、自身は若輩であり、もう少し陛下の後ろ盾のある中で修練を積みたいのです」
そう言い切るアビエルを、じっと見据える皇帝の空色の瞳が、すぅっと細くなる。
「ふぅん‥‥修練。そうか、では、あとどれだけ修練を積みたいのだ」
「‥‥せめてあと5年ほどは陛下の元で学びたいと思います」
ダミアン宰相が驚いて声を上げる。
「5年!あと5年も今のような政務体制を続けられるとお思いなのですか?殿下、それは無理がありますよ」
皇帝が再び、うるさいぞ、というように手を上げてダミアン宰相を制する。
「私から見るに‥‥あと5年も政治を学ばないと何もできないほどお前は愚鈍ではなさそうなのだが、何を根拠に5年なのだ」
アビエルの考えを見透かそうとするように、じっと皇帝の目が同じ色のアビエルの目を見つめる。
「自分の周りに信頼のおける臣下を据えるのに2年、それが安定するのに3年と考えます」
嘘ではない、でも丸ごと本当でもない根拠を告げる。
「ふん。甘えてるな。周りに自分の有利なコマを揃えてから試合を始めようなどと、そんな言い訳が通用すると思ってるのか、アビエル。そうか、聞き方を変えよう。ダミアン、部屋の外を確認して、護衛に人を近づけるなと伝えて来い」
皇帝がグッと身を乗り出して、口元に悪い笑みをたたえてアビエルの顔を見る。
「アビエル。父として聞こう。おまえ、皇帝になりたくないんだろう?」
その問いにアビエルも遠慮なく嫌な顔をして答える。
「いずれは皇帝にならねばならないと思っています。そのように決められて生きてまいりましたから」
「歴代随一の有能な皇帝になると言われているクセに、おまえ正しい応答の仕方も知らんのか。なりたいか、なりたくないか、答えはどっちだと聞いているのだ。イエスかノーかだろう?」
ん?というように眉を上げて笑顔で聞き返す。
「お答えするにはいろいろと、差し支えがあるのです」
アビエルは眉間に皺を寄せて、結局負けを認める。皇帝がニヤニヤとしてアビエルにさらに問いかける。
「おまえ、私がなりたくて皇帝になったと思うか?」
アビエルはうんざりしていた。なんで、こんな子どもへの問答のような形で本音を探られなければならないのか。この人は本当にこうなると面倒なのだ。父として、と言うがどちらかと言うと意地悪な兄のような感じだ。
「‥‥いいえ。ご自分の意志で即位されたとは思ってはおりません」
ダミアン宰相が横で、やや楽しそうにこの問答を見ているのも癪に障る。この二人は昔から結託すると本当に面倒くさい。
「そもそも、私はおまえと違って政治などかけらも好きではない。それを我慢に我慢を重ねて何十年もやってきたのだ。おまえも良く知る『あの』臣下たちとだましだまし仲良くして、だ」
じっと目を見つめたまま、うっすらと笑みを浮かべてアビエルに詰め寄る。
「あと5年。おまえが交代してくれるのを待っていたら、その間に死んでしまうかもしれんな。老人の余生は短いから。かわいそうだろう?何も楽しいことを知らずにこの世を去る哀れな父が」
アビエルはその言葉にさらに目を細めて眉間に皺を寄せる。
「陛下はどう見てもお元気そうに見えます。そのようなご心配は無用かと」
すると皇帝は、大袈裟に眉をあげて驚いたような顔をする。
「そうか?でも、これ以上年を取ったら、長い船旅もできないし、馬に乗って楽しく海岸へ行くなんてこともできないだろうな。私とて侍従などつけずに自由な旅を楽しみたいと思うのだ。誰かさんのように」
アビエルは、目を見開いて皇帝を見つめる。それを見て、皇帝が愉快そうに笑みを浮かべる。
「心配するな。密偵をつけたりはしていない。この間、西共和国のヨンゲルから個人的な書簡を貰ったのだ。おまえが素晴らしい外交手腕を披露していたという賛辞がずらりと並んでいたぞ」
有能な皇太子の弱みを見つけて実に楽しそうな顔をする。
「さて、アビエル、もう一度聞きたいのだ。皇帝に即位するまでに『最短で』あと何年欲しい?」
長い沈黙のあと、大きなため息をついて、アビエルが苦々しげに答える。
「最短で2年は頂きたいかと」
皇帝が執務椅子に深く座り直す。ぎぃっと椅子が重たい音を立てた。
「ダミアン、あと2年、どう思う?」
そういって皇帝がダミアン宰相の方を見遣る。ダミアン宰相が片方の眉を上げて、さぁて、という顔をする。
「陛下の退位を神聖祭の月の始まりに、新皇帝の即位を神聖祭の日に、ということになりますので、今から1年10カ月ですね。公示は10カ月後の今年の神聖祭の月に行いましょう。宰相方へは次の御前会議で公表でよろしいかと」
ダミアンの返答を聞いて、眉間に皺を寄せたまま立ち尽くしているアビエルに皇帝が告げる。
「まぁ、そうがっかりするな。もしかしたら御前会議で、おまえが皇帝になることを大反対されるかもしれないだろう? その時はあと5年待ってやるから」
アビエルは、憮然とした顔で皇帝を見て、隠しもせず不機嫌そうな声で言う。
「以上ですか? 政務の途中で抜けてきましたので、執務に戻りたいのですが」
皇帝は、不機嫌そうなアビエルを殊更嬉しそうな顔で見た。そしてそのあと、真面目な顔をしてアビエルに告げた。
「今でなければできないこともあるだろうが、今やるのが難しいことは、皇帝になってみてから進めてみたらどうだ。まぁ、おまえはそれをわかっていて何かやろうとしているのだろうけどな」
そして、ダミアンの方をちらと見たあと、アビエルに再び向き直る。
「後継者云々の問題は、こういう立場に生まれ落ちた以上避けられない。だがな、逃れられない運命の中にも必ず見つけられる幸せはあるもんだ」
そう言うと、もういい、というように手を振って下がれと合図する。言いたいことだけ言ってあとは投げやりな姿勢。父である皇帝を尊敬してはいるが、こういうところは実に苦手だ。
皇帝執務室から出て自分の執務室へ足早に戻る。不安でざわつく背筋をレオノーラの笑みで落ち着かせたかった。
・・・・・・
「ねぇ、ギィ。もうちょっとちゃんと伝えてあげればいいんじゃないか? 自分は殿下の味方なんだよ、って」
ダミアン宰相が皇帝に物申す。
「いいんだよ。この先何が起こるかわからんじゃないか。その時に助けられることは助けるさ」
物憂げに皇帝が窓の外を見る。自分が辿ってきた道のりを思い返すと、今のアビエルの気持ちが痛いほどわかる。自分も何度投げ出して逃げてしまいたかったことか。
「あ~あ、でも、若いって羨ましいものだな。あの顔見たか? アビエルのあんな驚いた顔見たことなかったな」
ダミアンと顔を見合わせて、笑いが吹き出す。
「あれは、随分意地悪でしたよ? ヨンゲルさんは、『政務の無い日はお付きの方と白砂の海岸を見に行かれるなどされていました』としか書かれていなかったでしょう。あんなカマかけなくても」
「あぁ、あの顔は、めちゃくちゃ楽しみましたって顔だったな。何をどう楽しんだんだろうな」
皇帝は、悪い顔で笑い続ける。そして、ふぅ、と一息ついた。
「まぁ、そのくらいの楽しみを持たないと。アビエルは真面目で思いつめすぎる。さぞ今、苦しいだろうな」
ダミアンが思い出したかのように言う。
「我々も苦しい時期があったではないですか。今だって何も解決していませんが、過ぎた年月と得た年齢が納得を作り出しているだけです。できれば皇太子殿下にはそうはなっていただきたくない」
皇帝が眉を上げてダミアンを見つめる。そして、ふっと息を吐いて笑みを浮かべる。
「そうだな。なぁ、ところで、退位したらまずどこに行く?」
ニヤニヤと嬉しそうな皇帝の顔を見て、ダミアンは呆れたような顔をする。
「まったく、あなたという人は‥‥」
彼らを待ち受けていたのは、山積みの政務だった。不在の間に溜まったものに、さらに、西共和国との新たな契約や技術の共有が加わり、時間がいくらあっても足りないほど忙しい日々が続いた。
アビエルは、何かに突き動かされるように、次々と事業を推し進めた。東西に伸びる幹線道路の建設もまもなく完成しようとしている。皇太子が政務の多くを担当するようになって5年以上が経ち、帝都周辺の風景は劇的に変わった。幹線道路沿いには、新しい都市が次々と生まれ、国民のアビエルへの期待は高まり、次代の皇帝即位を待ち望む声が大きくなっていた。
気がつけば、神聖祭の季節が巡ってきて、帝都は新しい年を迎えようとしている。宮廷で行われた神聖祭の夜会では、大司教がアビエルの功績を讃え、帝国の未来の安寧と繁栄を祈願した。
・・・・・・
今、アビエルは皇帝に呼ばれ、皇帝執務室に向かう回廊を大きな歩幅でゆっくりとしたペースで歩いていた。
呼ばれた理由はわかっている。もう答えを先延ばしにはさせてもらえないということだろう。
自分の計画ではもうあと5年は欲しかった。鉄道事業を着工し、鉄道が走る予定の領地の運営を軌道に乗せる。その上で各領地の自治を進めて、領主の自立を図りたい。
今はまだ、貴族への根回しも足りず、古い頭のすげ替えもできていない。
有無を言わさぬ力をつけようとなりふり構わずやってはいるが、若いというだけで、古くからいる宰相や大臣は、自分を思い通りに動かそうとするだろう。老獪な彼らは年をとっていることを人より上だと思いがちだからだ。そしてそういう奴らは自分たちの『長年の功績』を掲げて結託する。
今、即位をしたとしても『年若い皇帝の指南役』を嬉々としてやりたい古狸たちの傀儡になりかねない。そんなのはごめんだ。とはいえ‥‥それらを無視できないのも事実だ。うまくやらねば、今まで積み上げてきたものを簡単にひっくり返されてしまう。
「アビエルです。陛下がお呼びと聞き、参りました 」
執務室に入ると、いつものようにダミアン宰相と皇帝の二人だけがいた。
「アビエル殿下。政務にお忙しい中、急なお呼びたてに対応いただきありがとうございます。聡い殿下でいらっしゃいますから、おわかりかと思います。先日ご相談した件について、その後の殿下のお気持ちをお伺いしたいのです」
ダミアン宰相が穏やかで良く通る声で聞く。
「譲位について、ですね。先日もお話いたしましたが、若輩の私には時期尚早ではないでしょうか。若い皇帝では人民も臣下も不安を感じるのではと懸念します」
アビエルは、今年28になる。
「しかし、アビエル殿下は今すでにほとんどの政務を担っておられる。それは誰しもが知ることです。むしろ、今の世論では次代の皇帝即位を待ちわびる声の方が大きいとまで言われている。このまま何もせず今の形で政務が進めば、皇帝陛下の御名に傷がつく可能性もあるのです。どうか、前向きに考えてはいただけませんか?」
ダミアン宰相がアビエルから譲位への同意を取り付けようとする。
「私が政務をうまく行えているのは、何より皇帝陛下の後ろ盾があってこそなのです。私の背後に偉大なる陛下がおいでになるから、皆が私を信頼してくれているということに他なりません」
表情を変えず、あくまでまだ譲位には早い、という姿勢を変えずに返事をする・
「しかし、殿下‥‥」
ダミアン宰相が何かを言いかけたとき、皇帝が片手を上げてそれを制した。そして執務椅子の背もたれから体を起こして、机にもたれるよう肘をついて、立ったままのアビエルを見据える。
「なぁ、アビエル。おまえは自分を若い皇帝というが、即位する皇帝や王にはもっと年若い者も多くいる。私の即位は25の時だ。そんな言い訳はきかない。しかも、ここ数年の働きを見るに、お前は治政が嫌いではないようだ。何が問題なのだ」
射るように自分を見つめるその目に皇帝としての威厳と圧力を感じる。
「私は確かに政治活動が嫌いではございません。しかし、まだ、自身は若輩であり、もう少し陛下の後ろ盾のある中で修練を積みたいのです」
そう言い切るアビエルを、じっと見据える皇帝の空色の瞳が、すぅっと細くなる。
「ふぅん‥‥修練。そうか、では、あとどれだけ修練を積みたいのだ」
「‥‥せめてあと5年ほどは陛下の元で学びたいと思います」
ダミアン宰相が驚いて声を上げる。
「5年!あと5年も今のような政務体制を続けられるとお思いなのですか?殿下、それは無理がありますよ」
皇帝が再び、うるさいぞ、というように手を上げてダミアン宰相を制する。
「私から見るに‥‥あと5年も政治を学ばないと何もできないほどお前は愚鈍ではなさそうなのだが、何を根拠に5年なのだ」
アビエルの考えを見透かそうとするように、じっと皇帝の目が同じ色のアビエルの目を見つめる。
「自分の周りに信頼のおける臣下を据えるのに2年、それが安定するのに3年と考えます」
嘘ではない、でも丸ごと本当でもない根拠を告げる。
「ふん。甘えてるな。周りに自分の有利なコマを揃えてから試合を始めようなどと、そんな言い訳が通用すると思ってるのか、アビエル。そうか、聞き方を変えよう。ダミアン、部屋の外を確認して、護衛に人を近づけるなと伝えて来い」
皇帝がグッと身を乗り出して、口元に悪い笑みをたたえてアビエルの顔を見る。
「アビエル。父として聞こう。おまえ、皇帝になりたくないんだろう?」
その問いにアビエルも遠慮なく嫌な顔をして答える。
「いずれは皇帝にならねばならないと思っています。そのように決められて生きてまいりましたから」
「歴代随一の有能な皇帝になると言われているクセに、おまえ正しい応答の仕方も知らんのか。なりたいか、なりたくないか、答えはどっちだと聞いているのだ。イエスかノーかだろう?」
ん?というように眉を上げて笑顔で聞き返す。
「お答えするにはいろいろと、差し支えがあるのです」
アビエルは眉間に皺を寄せて、結局負けを認める。皇帝がニヤニヤとしてアビエルにさらに問いかける。
「おまえ、私がなりたくて皇帝になったと思うか?」
アビエルはうんざりしていた。なんで、こんな子どもへの問答のような形で本音を探られなければならないのか。この人は本当にこうなると面倒なのだ。父として、と言うがどちらかと言うと意地悪な兄のような感じだ。
「‥‥いいえ。ご自分の意志で即位されたとは思ってはおりません」
ダミアン宰相が横で、やや楽しそうにこの問答を見ているのも癪に障る。この二人は昔から結託すると本当に面倒くさい。
「そもそも、私はおまえと違って政治などかけらも好きではない。それを我慢に我慢を重ねて何十年もやってきたのだ。おまえも良く知る『あの』臣下たちとだましだまし仲良くして、だ」
じっと目を見つめたまま、うっすらと笑みを浮かべてアビエルに詰め寄る。
「あと5年。おまえが交代してくれるのを待っていたら、その間に死んでしまうかもしれんな。老人の余生は短いから。かわいそうだろう?何も楽しいことを知らずにこの世を去る哀れな父が」
アビエルはその言葉にさらに目を細めて眉間に皺を寄せる。
「陛下はどう見てもお元気そうに見えます。そのようなご心配は無用かと」
すると皇帝は、大袈裟に眉をあげて驚いたような顔をする。
「そうか?でも、これ以上年を取ったら、長い船旅もできないし、馬に乗って楽しく海岸へ行くなんてこともできないだろうな。私とて侍従などつけずに自由な旅を楽しみたいと思うのだ。誰かさんのように」
アビエルは、目を見開いて皇帝を見つめる。それを見て、皇帝が愉快そうに笑みを浮かべる。
「心配するな。密偵をつけたりはしていない。この間、西共和国のヨンゲルから個人的な書簡を貰ったのだ。おまえが素晴らしい外交手腕を披露していたという賛辞がずらりと並んでいたぞ」
有能な皇太子の弱みを見つけて実に楽しそうな顔をする。
「さて、アビエル、もう一度聞きたいのだ。皇帝に即位するまでに『最短で』あと何年欲しい?」
長い沈黙のあと、大きなため息をついて、アビエルが苦々しげに答える。
「最短で2年は頂きたいかと」
皇帝が執務椅子に深く座り直す。ぎぃっと椅子が重たい音を立てた。
「ダミアン、あと2年、どう思う?」
そういって皇帝がダミアン宰相の方を見遣る。ダミアン宰相が片方の眉を上げて、さぁて、という顔をする。
「陛下の退位を神聖祭の月の始まりに、新皇帝の即位を神聖祭の日に、ということになりますので、今から1年10カ月ですね。公示は10カ月後の今年の神聖祭の月に行いましょう。宰相方へは次の御前会議で公表でよろしいかと」
ダミアンの返答を聞いて、眉間に皺を寄せたまま立ち尽くしているアビエルに皇帝が告げる。
「まぁ、そうがっかりするな。もしかしたら御前会議で、おまえが皇帝になることを大反対されるかもしれないだろう? その時はあと5年待ってやるから」
アビエルは、憮然とした顔で皇帝を見て、隠しもせず不機嫌そうな声で言う。
「以上ですか? 政務の途中で抜けてきましたので、執務に戻りたいのですが」
皇帝は、不機嫌そうなアビエルを殊更嬉しそうな顔で見た。そしてそのあと、真面目な顔をしてアビエルに告げた。
「今でなければできないこともあるだろうが、今やるのが難しいことは、皇帝になってみてから進めてみたらどうだ。まぁ、おまえはそれをわかっていて何かやろうとしているのだろうけどな」
そして、ダミアンの方をちらと見たあと、アビエルに再び向き直る。
「後継者云々の問題は、こういう立場に生まれ落ちた以上避けられない。だがな、逃れられない運命の中にも必ず見つけられる幸せはあるもんだ」
そう言うと、もういい、というように手を振って下がれと合図する。言いたいことだけ言ってあとは投げやりな姿勢。父である皇帝を尊敬してはいるが、こういうところは実に苦手だ。
皇帝執務室から出て自分の執務室へ足早に戻る。不安でざわつく背筋をレオノーラの笑みで落ち着かせたかった。
・・・・・・
「ねぇ、ギィ。もうちょっとちゃんと伝えてあげればいいんじゃないか? 自分は殿下の味方なんだよ、って」
ダミアン宰相が皇帝に物申す。
「いいんだよ。この先何が起こるかわからんじゃないか。その時に助けられることは助けるさ」
物憂げに皇帝が窓の外を見る。自分が辿ってきた道のりを思い返すと、今のアビエルの気持ちが痛いほどわかる。自分も何度投げ出して逃げてしまいたかったことか。
「あ~あ、でも、若いって羨ましいものだな。あの顔見たか? アビエルのあんな驚いた顔見たことなかったな」
ダミアンと顔を見合わせて、笑いが吹き出す。
「あれは、随分意地悪でしたよ? ヨンゲルさんは、『政務の無い日はお付きの方と白砂の海岸を見に行かれるなどされていました』としか書かれていなかったでしょう。あんなカマかけなくても」
「あぁ、あの顔は、めちゃくちゃ楽しみましたって顔だったな。何をどう楽しんだんだろうな」
皇帝は、悪い顔で笑い続ける。そして、ふぅ、と一息ついた。
「まぁ、そのくらいの楽しみを持たないと。アビエルは真面目で思いつめすぎる。さぞ今、苦しいだろうな」
ダミアンが思い出したかのように言う。
「我々も苦しい時期があったではないですか。今だって何も解決していませんが、過ぎた年月と得た年齢が納得を作り出しているだけです。できれば皇太子殿下にはそうはなっていただきたくない」
皇帝が眉を上げてダミアンを見つめる。そして、ふっと息を吐いて笑みを浮かべる。
「そうだな。なぁ、ところで、退位したらまずどこに行く?」
ニヤニヤと嬉しそうな皇帝の顔を見て、ダミアンは呆れたような顔をする。
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