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Ⅰ
10:夏休み
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夏が深まり、3年生が自分たちの領地へ去る季節がやってくると、学院にはひと月ほどの休暇が訪れる。実家に戻る学生もいるが、学院のある東の峰は、夏でも涼しく快適な気候のため、寮に残る者も少なくない。
「少し馬を走らせれば、峰の向こうに皇室の別荘がある。久しく行っていないし、皆で滞在するのはどうだろう?」
アビエルが従者らを誘った。皇室からは頻繁に夏の夜会へ出るようにとの催促が届いていたが、彼はそれを無視することに決めたらしい。
別荘地は山ひとつ分の広さがあり、敷地内には小さな湖や小川があり、自然が豊かに広がっている。屋敷自体はそれほど大きくはないが、4人で過ごすには十分すぎる広さだ。到着すると、使用人たちが滞在の準備を整えてくれていた。
彼らは毎日、早朝から遠乗りを楽しんだり、湖でボートを漕いだり、釣りをしたりして、若者らしい無邪気な時間を過ごした。
4人で釣りを楽しんだ日、レオノーラは久しぶりに料理をしたくなった。釣った魚を調理場に持ち込んで、使わせてもらえるかと使用人に尋ねると、皇太子の従者が料理をすることなど想像もしていなかった使用人たちは、驚き、怪我をされたら大変だと止めようとした。それをアビエルが笑って制した。
「いいじゃないか、台所での事故が命に関わるほどのものになることはないさ」
レオノーラは、魚の鱗を丁寧に取り、三枚におろし、塩を振る。その姿をアビエルが興味深そうに背後から見守っていた。
「その骨は、厩舎の番犬にやるか?」
「そうですね。犬たちには頭を茹でてあげようと思います。骨はカリカリに揚げて、塩を振ればそのまま食べられますよ」
その後も、レオノーラはパイ生地をこねたり、フィリングを作ったりしながら、調理場にある上質な調味料や食材を駆使して料理を楽しんだ。
「こんなに白い小麦粉を使うのは初めてですよ。贅沢すぎて、勿体ない気分ですね」
と小麦の袋を叩くと、アビエルが笑顔で返す。
「お前は本当に何でも作れるんだな」
途中からは、アビエルも、手伝いたいと言って腕まくりをし始めた。
そんな二人のやり取りを見て、ガウェインとアルフレッドはいつの間にか調理場から姿を消していた。
夕食時、下ごしらえしてあったフィッシュパイが焼き上がり、それぞれが自分たちの釣果を誇らしげに話し合った。
・・・・・・
木漏れ日の差し込むテラスのソファで、レオノーラがうたた寝をしている。手からはルーテシア語の教本が今にもこぼれ落ちそうだ。淡い光が彼女の白い顔に模様を描き、赤い唇が少し開き、静かな寝息が聞こえる。
アビエルは跪き、教本を取り上げサイドテーブルに置いた。彼はレオノーラの肩にかかる艶やかな黒髪を指で巻き上げ、滑らせるように指をシャツに沿わせ、静かに顔を寄せて軽く唇を合わせた。彼女の吐息がかすかに自分の口に流れ込んでくる感覚がたまらなく心地よかった。もう一度、今度は少し長く唇を合わせ、優しく啄んだ。
「ふぅ・・ん・・」
レオノーラが軽く声を漏らし、首を少しのけぞらせる。アビエルはハッとして体を起こしたが、彼女は眉を寄せながらも再び静かな寝息を立て始めた。
『この時間がずっと続けば、どれほど幸せだろう。こんなにも心が満たされるのに。どうして、このままでいられないのだろうか。』
アビエルは、ショールを掛けながら、その顔に落ちる影を見つめ、胸が締め付けられる思いに俯いて瞳を閉じた。
しばらくして、レオノーラが目を開けると、向かいのソファに座るアビエルが本を読んでいた。
「あぁ…すっかり寝てしまいました。ショール、アビエル様が掛けてくださったんですね。ありがとうございます」
背中を伸ばし、ソファの上で姿勢を整えた。
「少し前に連絡があって、明日、デイジーとコルネリアとルートリヒトがここに来るそうだ。アルはデイジーに自分の釣った魚を食べさせたいと言って、ガウェインと湖へ行ったよ」
アビエルは本から目を上げ、優しく微笑んだ。
「明日は賑やかな夕食になりそうですね」
レオノーラはそう言って、しばらく複雑な影が模様を描く木立をぼんやりと眺めていた。
「こんな…こんな素晴らしい時間をいただけて、本当に自分には幸せすぎて、こんなにも恵まれていていいのかと…。アビエル様、本当にありがとうございます」
彼女は木立を見たまま、寝起きのかすれた声で独り言のようにつぶやいた。
「そうか、そう思ってもらえるなら、それでいいんだ」
アビエルは再び本に目を落とし、静かに答えた。
・・・・・・
翌日、コルネリアとルートリヒトは昼過ぎに、デイジーは夕方近くに別荘に到着した。デイジーは、皇太子の別荘に遊びに行く娘に父が驚いて持たせたというたくさんの品を恥ずかしそうに一人ひとりに手渡した。珍しい東方の織物や上質なお茶、高価なすみれの花の砂糖漬けなどが荷物の中にぎっしり詰められていた。
「素敵だわ!なんていい香りのすみれの砂糖漬けかしら。私、大好きなのに、なかなか手に入らなくて。こんなにたくさん嬉しいわ」
コルネリアがうっとりと砂糖漬けの香りを楽しんでいた。
その夜、彼らは持ち寄った土産の食材や異国の果物、アルフレッドが張り切って釣ってきた魚で大宴会を開いた。深夜まで語り合い、ゲームを楽しみ、星空を眺めに森へと出かけた。二日間の滞在が過ぎると、3人は名残惜しそうに帰っていった。
「少し馬を走らせれば、峰の向こうに皇室の別荘がある。久しく行っていないし、皆で滞在するのはどうだろう?」
アビエルが従者らを誘った。皇室からは頻繁に夏の夜会へ出るようにとの催促が届いていたが、彼はそれを無視することに決めたらしい。
別荘地は山ひとつ分の広さがあり、敷地内には小さな湖や小川があり、自然が豊かに広がっている。屋敷自体はそれほど大きくはないが、4人で過ごすには十分すぎる広さだ。到着すると、使用人たちが滞在の準備を整えてくれていた。
彼らは毎日、早朝から遠乗りを楽しんだり、湖でボートを漕いだり、釣りをしたりして、若者らしい無邪気な時間を過ごした。
4人で釣りを楽しんだ日、レオノーラは久しぶりに料理をしたくなった。釣った魚を調理場に持ち込んで、使わせてもらえるかと使用人に尋ねると、皇太子の従者が料理をすることなど想像もしていなかった使用人たちは、驚き、怪我をされたら大変だと止めようとした。それをアビエルが笑って制した。
「いいじゃないか、台所での事故が命に関わるほどのものになることはないさ」
レオノーラは、魚の鱗を丁寧に取り、三枚におろし、塩を振る。その姿をアビエルが興味深そうに背後から見守っていた。
「その骨は、厩舎の番犬にやるか?」
「そうですね。犬たちには頭を茹でてあげようと思います。骨はカリカリに揚げて、塩を振ればそのまま食べられますよ」
その後も、レオノーラはパイ生地をこねたり、フィリングを作ったりしながら、調理場にある上質な調味料や食材を駆使して料理を楽しんだ。
「こんなに白い小麦粉を使うのは初めてですよ。贅沢すぎて、勿体ない気分ですね」
と小麦の袋を叩くと、アビエルが笑顔で返す。
「お前は本当に何でも作れるんだな」
途中からは、アビエルも、手伝いたいと言って腕まくりをし始めた。
そんな二人のやり取りを見て、ガウェインとアルフレッドはいつの間にか調理場から姿を消していた。
夕食時、下ごしらえしてあったフィッシュパイが焼き上がり、それぞれが自分たちの釣果を誇らしげに話し合った。
・・・・・・
木漏れ日の差し込むテラスのソファで、レオノーラがうたた寝をしている。手からはルーテシア語の教本が今にもこぼれ落ちそうだ。淡い光が彼女の白い顔に模様を描き、赤い唇が少し開き、静かな寝息が聞こえる。
アビエルは跪き、教本を取り上げサイドテーブルに置いた。彼はレオノーラの肩にかかる艶やかな黒髪を指で巻き上げ、滑らせるように指をシャツに沿わせ、静かに顔を寄せて軽く唇を合わせた。彼女の吐息がかすかに自分の口に流れ込んでくる感覚がたまらなく心地よかった。もう一度、今度は少し長く唇を合わせ、優しく啄んだ。
「ふぅ・・ん・・」
レオノーラが軽く声を漏らし、首を少しのけぞらせる。アビエルはハッとして体を起こしたが、彼女は眉を寄せながらも再び静かな寝息を立て始めた。
『この時間がずっと続けば、どれほど幸せだろう。こんなにも心が満たされるのに。どうして、このままでいられないのだろうか。』
アビエルは、ショールを掛けながら、その顔に落ちる影を見つめ、胸が締め付けられる思いに俯いて瞳を閉じた。
しばらくして、レオノーラが目を開けると、向かいのソファに座るアビエルが本を読んでいた。
「あぁ…すっかり寝てしまいました。ショール、アビエル様が掛けてくださったんですね。ありがとうございます」
背中を伸ばし、ソファの上で姿勢を整えた。
「少し前に連絡があって、明日、デイジーとコルネリアとルートリヒトがここに来るそうだ。アルはデイジーに自分の釣った魚を食べさせたいと言って、ガウェインと湖へ行ったよ」
アビエルは本から目を上げ、優しく微笑んだ。
「明日は賑やかな夕食になりそうですね」
レオノーラはそう言って、しばらく複雑な影が模様を描く木立をぼんやりと眺めていた。
「こんな…こんな素晴らしい時間をいただけて、本当に自分には幸せすぎて、こんなにも恵まれていていいのかと…。アビエル様、本当にありがとうございます」
彼女は木立を見たまま、寝起きのかすれた声で独り言のようにつぶやいた。
「そうか、そう思ってもらえるなら、それでいいんだ」
アビエルは再び本に目を落とし、静かに答えた。
・・・・・・
翌日、コルネリアとルートリヒトは昼過ぎに、デイジーは夕方近くに別荘に到着した。デイジーは、皇太子の別荘に遊びに行く娘に父が驚いて持たせたというたくさんの品を恥ずかしそうに一人ひとりに手渡した。珍しい東方の織物や上質なお茶、高価なすみれの花の砂糖漬けなどが荷物の中にぎっしり詰められていた。
「素敵だわ!なんていい香りのすみれの砂糖漬けかしら。私、大好きなのに、なかなか手に入らなくて。こんなにたくさん嬉しいわ」
コルネリアがうっとりと砂糖漬けの香りを楽しんでいた。
その夜、彼らは持ち寄った土産の食材や異国の果物、アルフレッドが張り切って釣ってきた魚で大宴会を開いた。深夜まで語り合い、ゲームを楽しみ、星空を眺めに森へと出かけた。二日間の滞在が過ぎると、3人は名残惜しそうに帰っていった。
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