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赤羽 千寿の場合
尾崎 暁人の場合
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――赤羽 千寿と申します。よろしくお願いいたします。
そう言って頭を下げた企画部の新人。シンプルなグレーのパンツスーツに包まれた身体は、女性らしい曲線を描いており、ふわりとカールした髪は柔らかそうだった。それだけなら、暁人もさほど興味を持たなかっただろう。だが、その挑むような瞳を見た時――強い意志を宿した瞳に見つめられた時、自分が真っ逆さまに堕ちて行く感覚に囚われたのだった。
***
「以上だ。今の点を見直して再提出。期限は明日。分かったな」
自分を睨み付ける猫のような瞳。書類を持つ手が僅かに震えている事に暁人は気が付いていた。
「――はい。ありがとうございました」
そう言って頭を下げ、自席に戻る赤羽 千寿を暁人はじっと見つめていた。怖ろしい勢いでキーボードを叩く千寿に、周囲の男性が引いている。それを見た暁人の唇は小さな三日月を描いた。
――相変わらず可愛らしいな、千寿は
自分に媚びず、真正面からぶつかってくる彼女。ぎりぎりと歯を食いしばりながら書類を訂正している千寿を見て、あの唇から甘い吐息が漏れるのを聞きたい、熱く染まった白い肌を撫でたい、早く自分の腕の中で啼かせたい、などと『冷徹な上司』が妄想しているなどと想像もしていないだろう。
暁人が千寿を狙っている事は、誰にも言っていない。聡い従弟の晃は薄々勘付いていたようだったが、何も言わなかった。
みのりの傍にいたいから、まだシステム部にいたい。彼女を他の奴に盗られたくない。そう言って、父親の要請を拒み続けていた晃。だが、ようやく自分の立場を公にすることに同意した。浅黄みのりが晃の婚約者になったのと同時に、彼は専務に就任した。もう暁人が動いても問題ないはずだ。
――ここまで長かったな
暁人はあのバーに行く段取りを頭の中で組みながら、今までの事を思い返していた。
***
――赤羽 千寿には社外に恋人がいる――
そんな噂が流れたのは、一年前の事。社員の誰かが、駅近くで男性と歩いている千寿を見掛けたというものだった。平静を装いながらも、暁人は内心気が気ではなかった。
すらりと長身の千寿は、モデルのようにスタイルが良く、目鼻立ちがはっきりとした美人。社内では、暁人が目を光らせているおかげで、彼女に近付く男はいないが、さすがに社外となると暁人の手は及ばない。常に千寿を忙しくさせているのは、能力を見込んでいるのもあるが、男と付き合う暇を与えたくなかったのも理由の一つだ。なのに、社外に男がいる?
(確かめてみるか)
千寿が残業しないで退社した夜、暁人は秘かに彼女の後をつけた。千寿はヒールの音を響かせながら、駅前の大通りから筋を一本入った路地を歩いている。連れはいない。やがて彼女は、とあるビルの地下に降りていった。降り口近くの看板を確認すると、どうやらバーがあるようだ。
(ここに彼女が?)
暁人はその路地が見えるカフェに入り、様子を窺う事にした。
そして一時間後。男性と千寿が地下から出てきた。二人はどうやら駅に向かっているようだ。足元がふらついている男の腕を持ち、千寿が笑顔で何か話している。その姿を追いながら、暁人は男から千寿を引き離したい衝動を抑えていた。男は暁人よりもかなり上――下手をすれば千寿の祖父でもおかしくない年齢だ。
駅に着いた時、男は手を振って改札口へと向かい、千寿はお辞儀をして見送っていた。その後くるりと踵を返した彼女は、再び元来た道を戻り始めた。暁人は行き交う人並みに姿を隠しながら再び後を付け、千寿がまた先程の店に入っていくのを確認したのだった。
翌日、千寿にたっぷりと仕事を任せた後、暁人は千寿が入ったバーへと行った。落ち着いた雰囲気の小さなバーは、常連客で賑わっていた。カウンター席の一番奥に座りカクテルを注文すると、白のワイシャツに黒いズボンを身に付けたマスターが手際よくシェイカーを振るった。すっと暁人の前にカクテルグラスを置くと、マスターはごゆっくりと言い微笑んだ。グラスに口を付けると、ほのかに柑橘系の香りがした。
暁人はさり気なくマスターを観察した。すらりと長身のマスターは、若い頃はさぞモテただろう、という容貌だった。白髪交じりの頭だが、若々しく見える。アーモンド形の瞳が、彼女に似ている気がした。
『なあ、マスター。昨日千寿ちゃん来てたんだって?』
カウンター席の客の一人がマスターに話し掛けた。マスターは苦笑しながら『ええ』と頷いた。
『忙しいと言ったら手伝いに来てくれましてね。仕事が忙しいようだからいいと言ったのですが』
その隣に座っていた男が話に加わった。
『あー、そういや阪田のじいさんが送ってもらったって言ってたよなあ。いいよな、あんな美人に送られるなんて』
『阪田さんは千寿を孫娘みたいに思ってくれてますからね。あの子も懐いてますし』
『マスターは千寿ちゃんを跡継ぎにって考えないの? カクテルだって上手に作れるし、愛想もいいし。千寿ちゃんがカウンターに立ったら、満席間違いなしじゃないか』
マスターは笑いながら静かに言った。
『娘は今の仕事にやりがいを感じているようですから。敏腕な上司の鼻を明かしたいとよく言ってます』
なるほどな、とその上司は内心呟いた。千寿はマスターの手伝いにここに来ている訳か……ならば。暁人はぐいとカクテルを飲み干し、マスターに微笑みかけた。
『マスター、このカクテル旨いね。他にも飲ませてもらえるかな、お任せで』
マスターは分かりましたと頷くと、先程とは違う酒を選び始めた。その様子を見ながら、暁人は千寿の事を考えていた。
それから暁人はバーに通い始めた。少しずつマスターや常連客と親しくなり、ちょくちょく千寿の話を聞くようになった。もちろん千寿の上司である事は隠しておいた。
離婚した父親と二人で暮らしてきた事、就職して独り立ちしてからも父親を心配してバーに来ている事、常連客にも可愛がられている事――会社では見えなかった千寿の姿を知るのは楽しかった。そして恋人がいるというのも、常連客を送っていったところを見られたせいだという事が分かり、胸を撫で下ろした。
そうして暁人がすっかり常連客の一員として馴染んだ頃、マスターが入院し、千寿が代わりにここでバーテンダーをする事を知ったのだ。この機会を逃す暁人ではなかった。、
晃をけしかけて浅黄みのりを確保させ、叔父に役員になると伝え、角本課長に部長への打診を行い――全ての外堀を埋めた後、カウンターに立つ千寿の前に座ったのだった。
***
『……そうか。晃に続いて暁人にも、か』
「社長」
『こんな時ぐらい叔父さんと呼んでくれ。引継ぎが終わり次第、役員に就任してもらおう』
「……叔父さん。どうかしましたか? どこか調子でも」
『……何でもない。そろそろ私も――決断する時が来たかもしれないと思っていただけだ』
「一体何を」
『暁人。晃の事を頼む。これからはお前たちの時代となるだろうからな』
「はい。晃は優秀ですし、OZAKIは増々躍進するでしょう」
『頼もしいな。……ああ、午後にでも社長室に顔を出してくれ。じゃあ』
「はい」
電話を切った暁人は眉を顰めた。いつも冷静な叔父――その声色がどうもいつもと違っていたような気がするが。
「まあ、明日聞いてみればいいか」
暁人はスマホをスーツのポケットに入れると、もう出社してるだろう千寿のところへと向かったのだった。
そう言って頭を下げた企画部の新人。シンプルなグレーのパンツスーツに包まれた身体は、女性らしい曲線を描いており、ふわりとカールした髪は柔らかそうだった。それだけなら、暁人もさほど興味を持たなかっただろう。だが、その挑むような瞳を見た時――強い意志を宿した瞳に見つめられた時、自分が真っ逆さまに堕ちて行く感覚に囚われたのだった。
***
「以上だ。今の点を見直して再提出。期限は明日。分かったな」
自分を睨み付ける猫のような瞳。書類を持つ手が僅かに震えている事に暁人は気が付いていた。
「――はい。ありがとうございました」
そう言って頭を下げ、自席に戻る赤羽 千寿を暁人はじっと見つめていた。怖ろしい勢いでキーボードを叩く千寿に、周囲の男性が引いている。それを見た暁人の唇は小さな三日月を描いた。
――相変わらず可愛らしいな、千寿は
自分に媚びず、真正面からぶつかってくる彼女。ぎりぎりと歯を食いしばりながら書類を訂正している千寿を見て、あの唇から甘い吐息が漏れるのを聞きたい、熱く染まった白い肌を撫でたい、早く自分の腕の中で啼かせたい、などと『冷徹な上司』が妄想しているなどと想像もしていないだろう。
暁人が千寿を狙っている事は、誰にも言っていない。聡い従弟の晃は薄々勘付いていたようだったが、何も言わなかった。
みのりの傍にいたいから、まだシステム部にいたい。彼女を他の奴に盗られたくない。そう言って、父親の要請を拒み続けていた晃。だが、ようやく自分の立場を公にすることに同意した。浅黄みのりが晃の婚約者になったのと同時に、彼は専務に就任した。もう暁人が動いても問題ないはずだ。
――ここまで長かったな
暁人はあのバーに行く段取りを頭の中で組みながら、今までの事を思い返していた。
***
――赤羽 千寿には社外に恋人がいる――
そんな噂が流れたのは、一年前の事。社員の誰かが、駅近くで男性と歩いている千寿を見掛けたというものだった。平静を装いながらも、暁人は内心気が気ではなかった。
すらりと長身の千寿は、モデルのようにスタイルが良く、目鼻立ちがはっきりとした美人。社内では、暁人が目を光らせているおかげで、彼女に近付く男はいないが、さすがに社外となると暁人の手は及ばない。常に千寿を忙しくさせているのは、能力を見込んでいるのもあるが、男と付き合う暇を与えたくなかったのも理由の一つだ。なのに、社外に男がいる?
(確かめてみるか)
千寿が残業しないで退社した夜、暁人は秘かに彼女の後をつけた。千寿はヒールの音を響かせながら、駅前の大通りから筋を一本入った路地を歩いている。連れはいない。やがて彼女は、とあるビルの地下に降りていった。降り口近くの看板を確認すると、どうやらバーがあるようだ。
(ここに彼女が?)
暁人はその路地が見えるカフェに入り、様子を窺う事にした。
そして一時間後。男性と千寿が地下から出てきた。二人はどうやら駅に向かっているようだ。足元がふらついている男の腕を持ち、千寿が笑顔で何か話している。その姿を追いながら、暁人は男から千寿を引き離したい衝動を抑えていた。男は暁人よりもかなり上――下手をすれば千寿の祖父でもおかしくない年齢だ。
駅に着いた時、男は手を振って改札口へと向かい、千寿はお辞儀をして見送っていた。その後くるりと踵を返した彼女は、再び元来た道を戻り始めた。暁人は行き交う人並みに姿を隠しながら再び後を付け、千寿がまた先程の店に入っていくのを確認したのだった。
翌日、千寿にたっぷりと仕事を任せた後、暁人は千寿が入ったバーへと行った。落ち着いた雰囲気の小さなバーは、常連客で賑わっていた。カウンター席の一番奥に座りカクテルを注文すると、白のワイシャツに黒いズボンを身に付けたマスターが手際よくシェイカーを振るった。すっと暁人の前にカクテルグラスを置くと、マスターはごゆっくりと言い微笑んだ。グラスに口を付けると、ほのかに柑橘系の香りがした。
暁人はさり気なくマスターを観察した。すらりと長身のマスターは、若い頃はさぞモテただろう、という容貌だった。白髪交じりの頭だが、若々しく見える。アーモンド形の瞳が、彼女に似ている気がした。
『なあ、マスター。昨日千寿ちゃん来てたんだって?』
カウンター席の客の一人がマスターに話し掛けた。マスターは苦笑しながら『ええ』と頷いた。
『忙しいと言ったら手伝いに来てくれましてね。仕事が忙しいようだからいいと言ったのですが』
その隣に座っていた男が話に加わった。
『あー、そういや阪田のじいさんが送ってもらったって言ってたよなあ。いいよな、あんな美人に送られるなんて』
『阪田さんは千寿を孫娘みたいに思ってくれてますからね。あの子も懐いてますし』
『マスターは千寿ちゃんを跡継ぎにって考えないの? カクテルだって上手に作れるし、愛想もいいし。千寿ちゃんがカウンターに立ったら、満席間違いなしじゃないか』
マスターは笑いながら静かに言った。
『娘は今の仕事にやりがいを感じているようですから。敏腕な上司の鼻を明かしたいとよく言ってます』
なるほどな、とその上司は内心呟いた。千寿はマスターの手伝いにここに来ている訳か……ならば。暁人はぐいとカクテルを飲み干し、マスターに微笑みかけた。
『マスター、このカクテル旨いね。他にも飲ませてもらえるかな、お任せで』
マスターは分かりましたと頷くと、先程とは違う酒を選び始めた。その様子を見ながら、暁人は千寿の事を考えていた。
それから暁人はバーに通い始めた。少しずつマスターや常連客と親しくなり、ちょくちょく千寿の話を聞くようになった。もちろん千寿の上司である事は隠しておいた。
離婚した父親と二人で暮らしてきた事、就職して独り立ちしてからも父親を心配してバーに来ている事、常連客にも可愛がられている事――会社では見えなかった千寿の姿を知るのは楽しかった。そして恋人がいるというのも、常連客を送っていったところを見られたせいだという事が分かり、胸を撫で下ろした。
そうして暁人がすっかり常連客の一員として馴染んだ頃、マスターが入院し、千寿が代わりにここでバーテンダーをする事を知ったのだ。この機会を逃す暁人ではなかった。、
晃をけしかけて浅黄みのりを確保させ、叔父に役員になると伝え、角本課長に部長への打診を行い――全ての外堀を埋めた後、カウンターに立つ千寿の前に座ったのだった。
***
『……そうか。晃に続いて暁人にも、か』
「社長」
『こんな時ぐらい叔父さんと呼んでくれ。引継ぎが終わり次第、役員に就任してもらおう』
「……叔父さん。どうかしましたか? どこか調子でも」
『……何でもない。そろそろ私も――決断する時が来たかもしれないと思っていただけだ』
「一体何を」
『暁人。晃の事を頼む。これからはお前たちの時代となるだろうからな』
「はい。晃は優秀ですし、OZAKIは増々躍進するでしょう」
『頼もしいな。……ああ、午後にでも社長室に顔を出してくれ。じゃあ』
「はい」
電話を切った暁人は眉を顰めた。いつも冷静な叔父――その声色がどうもいつもと違っていたような気がするが。
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