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side 風間 祐希
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「……ただいま」
「っ、祐希!?」
俺がドアを閉め寒い外気を遮断した途端、パジャマ姿のりりかが内ドアを開けて玄関に飛び込んできた。
「どこ行ってたの!? こんなに遅くまで」
不安そうな顔をしているりりかを見て、胸の奥がずきりと痛んだ。ずっと寝ずに待っててくれたのか。
「……ごめん。ありさに会いに行ってたんだ」
「ありさに?」
りりかが目を丸くした。俺はああ、と頷きながら、彼女とリビングに足を踏み入れた。りりかが右手を伸ばし、俺の頬に触れる。
「もう、こんなに冷たくなってるじゃない。すぐ温かいコーヒー淹れるから」
「サンキュ」
上着を脱いだ俺は、リビングのソファに腰を下ろした。白木の家具とアイボリーやグリーンで揃えたリビングの内装は、りりかの趣味で揃えたもの。
この落ち着ける空間で、コーヒーを飲むのが、俺は好きだった。
ことんとりりかが俺の目の前にマグカップを置く。一口コーヒーを飲むと、芳醇な香りが俺の鼻腔をくすぐっていった。
「ねえ、ありさは元気にしてた? 仕事忙しいって言ってたけど」
俺の左隣に座ったりりかが、そう尋ねてきた。りりかはホットミルクの入ったマグカップを両手で持っている。
「ああ、元気そうだった」
俺はもう一口コーヒーをすすった後、マグカップをテーブルに置いた。それを見たりりかも、同じようにマグカップをテーブルに置く。
「りりか。話があるんだ」
りりかが大きな目を瞬き、ふっと視線を逸らした。
「私も……話があるの。後で聞いてくれる?」
「分かった」
俺は左腕をりりかの肩に回した。りりかが頭を俺の肩にもたれかけてくる。オレンジのシャンプーの香りがふわりと漂った。
いつものこんな甘える仕草も、愛おしくて堪らない。だが……
(これから言う事で、幻滅されるかもしれないな……)
俺は息を吐いた後、りりかの両肩を掴んだ。りりかが顔を上げ、俺の目をじっと見る。
「りりか。前に俺が言っただろ? ……新人がありさを好きだって。あれは」
俺の嘘だったんだ――と言う前に、りりかが話を遮った。
「新人から聞いたわ。ありさの事を好きなのに、酷い事をしてしまったって。謝ったけど、まだ警戒されてるようだって落ち込んでた」
「え」
新人がそんな事を言ったのか? 俺が目を見開くと、りりかは小首を傾げた。
「ありさに告白したいけど、俺にはそんな資格がないって悩んでたから、せめて後悔しないようにしたらって言ったの」
「ありさに……」
ありさは何も言ってなかったが。新人は彼女に好きだと言ったのか?
(とにかく、話さないと)
俺は改めて言葉を継いだ。
「……りりか。俺は新人に……嫉妬してた」
りりかの瞳が大きくなる。可愛らしい唇が少しだけ開いた。
「最近、あいつと二人きりで会う事が多かっただろ? それに……りりかの様子もどこかおかしかったし。もしかしたら、俺よりもやっぱり新人の方が――」
ぱちん! と小気味いい音が俺の言葉を中断する。りりかの両手が、俺の両頬を叩いたのだ。
「……祐希の態度がおかしかったのは、それ!?」
「り、りか」
たじろぐ俺に、りりかがずいっと迫って来た。
「なんだか、よそよそしくなって、夜だって帰ってくるの遅いし、どこか暗いし!」
ぷくっと頬を膨らませた後、しばらくしてふうとりりかが溜息をついた。
「確かに新人の相談にも乗ってたけど……私も新人に色々相談してたから。祐希が気にするんだったら、相談しなかったのに」
「相談……って」
りりかが俺の左耳に唇を寄せて囁いた。
「あのね、祐希。私――赤ちゃんが出来たの」
「え……っ……?」
一瞬で頭の中が真っ白になった。まじまじとりりかを見つめると、彼女の頬が真っ赤に染まった。
「だから! なんだか身体がだるくて、熱っぽくて。それで病院に行ったら……妊娠二ヶ月だって」
「……」
「ゆっ、祐希が悪いんだからね! あの夜、もうゴムがないって言ってたのに、最後……」
――子ども。りりかとの
じわりと頬に熱が集まって来た。そんな俺の顔を見たりりかが、不安げな表情になった。
「……祐希はしばらく二人きりがいいって言ってたじゃない。色んなところ二人で旅行に行きたいからって。私だって、責任のある仕事任されたばかりで、こんなに早くなんて、思ってなかったし」
それで、不安になったの、とりりかが話を続けた。
「ありさはずっと仕事が忙しそうだったし、慣れない土地で頑張ってるんだから、あまり迷惑掛けたくなくて」
「それで新人に聞いてみたの。彼なら祐希の事よく知ってるし、男性の意見が聞きたかったから。そんな事言ってた祐希が……喜んでくれるかどうかって」
「……新人は、なんて」
「りりかとの子どもを祐希が喜ばない訳ないだろって。だから早く言った方がいいって」
ずきりと胸に思い衝撃が走る。
(新、人……)
俺はあいつを疑っていたのに。あいつは――
りりかが少し俯いた。
「でも、いざ言おうとしたら……祐希の様子がおかしくて……それで今まで言えなかったの」
「りりか」
俯くりりかを俺は思い切り抱き締めた。俺の態度がりりかを不安にさせてたのか。そう思うとまた胸が重く痛んだ。
いい匂いのする柔らかい身体を抱き締め、滑らかな頬にキスを落とす。まだ目立たないお腹に右手を当て、ゆっくりと撫でた。
「……嬉しいよ。俺がどれだけりりかに惚れてると思ってるんだ。そのりりかとの子どもがここにいるなんて――信じられない」
「本当? 祐希、本当に……?」
りりかの瞳が潤んている。俺は微笑んで、もう一度りりかを抱き締めた。
「二人きりも楽しいけど、三人もきっと楽しいよな」
「ゆうきぃぃぃっ!」
俺にがしっと抱き付いてきたりりかが、わんわんと泣き始めた。妊娠初期って気持ちが不安定になると会社の先輩に聞いた事がある。りりかもそうなのかもしれない。
りりかのやわらかな髪を撫でながら、俺は深い溜息をついた。
(俺は……なんて、事を)
もう少しで、取り返しのつかない事をするところだった。ありさの事を相談していた新人と、俺に妊娠をどう打ち明けようかと迷っていたりりかを――疑っていたのだから。
もし、ありさにああ言われなかったら。俺は疑心暗鬼になって、りりかを責めていたかもしれない。そうしていたら、本当にりりかの心は俺から離れていっただろう。
(ありさ……)
――新人に悪いって思ってるなら、尚更りりかを大切にしてよ! 新人の何倍も! そうじゃなきゃ、祐希を好きになったりりかや、祐希を大事な親友だって言ってた新人に申し訳ないじゃない!
――りりかと話をして。今までの事、全部。新人に嫉妬していた事も。カッコ悪い祐希を……りりかに見せて
あの大人しい彼女が泣きながら叫んだ言葉が、耳の奥に残っている。涙に濡れた瞳の光の強さに、俺は胸を突き刺された気がした。
ありさに会いに行ったのは、ほんの思い付きだった。新人から何か聞いてないか、それを聞きに行っただけだ。だけど、こんな話を出来る相手は彼女しかいない、と無意識のうちに分かっていたのかもしれない。
ありさの言葉が、俺を正気に戻してくれた。
――ありがとう、ありさ
りりかが落ち着いたら、全部話そう。そう思いながら、俺は失わなかった温かな幸せを腕の中に抱いていた。
***
ありさに言われた通り、俺は全てをりりかに話して頭を下げた。りりかは目を丸くした後――ばちん!とまた俺の両頬を叩き、うにーっと俺の頬をつねった。
――私の今の気持ちを疑うなんて、祐希カッコ悪い! ありさが言った通りだわ!
りりかにもがみがみと怒られた後、俺は新人に連絡をした。新人にも全て話して謝るつもりだった。会いたいと言うと、あいつはすぐに了承した。
そして三日後、俺は新人との待ち合わせ場所に急いでいた。新人とりりかの会社の前で落ち合い、夕食を食べに行く事にしたのだ。ビルが見えてきたのと同時に、玄関前に立つ背の高い影が見えた。
「あら……」
声を掛けようとした俺の足が止まった。黒いトレンチコートを来た新人は一人ではない。彼の前に女が一人、俺に背を向けて立っている。
(誰だ?)
白い毛皮のコートを着た背中に、ゆるくウェーブのかかった黒髪が零れ落ちている。真っ赤なスカートが、風になびいていた。あの派手な格好は、会社の人間に見えないが。
それに――女を見下ろす新人の表情が、能面のようになっているのが気になった。
ふと新人が顔を上げ、俺を視野に捉えた。
「祐希」
「あら」
女が振り返って俺を見た。
「では、私はこれで。……あなたもよく考えた方がいいわよ?」
くすりと笑った女がこちらに歩いてくる。むせ返るような薔薇の香りが近付いてきた。目鼻立ちのぱっちりした、派手な美人がちらと俺を見る。通りすがりに軽く会釈をすると、真っ赤なルージュを引いた唇がにやりと曲がった。
その笑顔に、背筋がぞくりと震える。何だ、あの悪意に満ちた微笑みは。俺は新人の傍に駆け寄った。
「おい、新人。……誰だ、あれ」
「……祐希」
新人の顔色がやけに悪い。
「彼女は……知り合いの親戚だ。忠告、に来たらしい」
「忠告? あの女が?」
俺は眉を顰めた。どう見ても、そんな殊勝な目的で来たとは思えない女だった。
「信用できるのか? 何を言われたのかは知らないが、親切心などこれっぽっちも感じなかったぞ」
「そう、だよな。だけど」
――ありさが
ぽつりと新人が言った名前に、俺は目を見張った。
「ありさ? あの女、ありさの知り合いか?」
あんな派手な女、ありさの友人には見えなかったが。俺がそう言うと、新人は思い詰めたような表情になった。
「ある人が……ありさを利用しようとしていると。ありさを騙して、強引に……」
「はあ!?」
何の話だ、それは。俺はありさの顔を思い浮かべた。あの時のありさは、泣きながら俺に怒っていたが、誰かに利用されているとか、そんな感じはこれっぽっちも。
「大体、ありさをどう利用しようっていうんだ。大人しそうに見えて、彼女自分の意志をしっかり持ってるじゃないか。そんな簡単に騙されるだなんて」
「……相手が、尊敬してる奴でも?」
(新人?)
新人は唇をくっと引き締めた。瞳に怒りに似た感情が浮かぶのを、俺は確かに見た。
「とにかく、ありさ本人に確かめればいいだろ。事実がはっきりするまでは、下手に動かない方がいい」
新人にそう言うと、新人の肩から力が抜けた。
「……ああ」
ふうと新人が息を吐く。少しは冷静になったようだ。
「まあ、食いに行こうぜ。今日は俺がおごる」
「祐希?」
俺は不思議そうな顔をする新人の肩を、ぽんと軽く叩いだのだった。
***
いつもの小料理屋の個室で、俺達はランチタイムより豪華なメニューを楽しんだ。
食事の後、俺は全てを新人に打ち明けた。りりかが本当は新人を好きだった事、俺が嘘をついてりりかを奪った事も、全部。その上で、済まなかったと頭を下げた。
新人は少しの間、瞳を閉じていた。やがて目を開けた新人は、俺を見て苦笑した。
「祐希。もしあの時、俺がりりかに告白して付き合う事になったとしても――多分、上手くいかなくなっていたと思う」
そう言った新人の顔は、俺への怒りもりりかへの未練も感じさせないものだった。
「俺は口下手で、祐希みたいに好意を表す事も苦手だ。はっきりと態度で示す事を求めるりりかは、いずれ俺に不満を持つようになっていただろう。……今なら、そう思えるんだ」
それは、お前がありさを好きだと自覚したからなのか。
「新人」
くすりと新人の口元が緩んだ。
「……それにしても、往復ビンタって。ありさが本当にそんな事言ったのか?」
あの時のありさを思い出すと、今でも冷や汗ものだ。
「あ、ああ。ありさ、結構過激だよな……」
「そうだな」
新人の瞳がまた遠くを見ている。瞳に映る思慕の色の、相手は多分りりかじゃない。
――新人には、嫉妬で事実を歪んで見ていた俺のようになって欲しくない
「なあ、新人。俺がこんな事言えた義理じゃないが……さっきの女の事、慎重にしろよ」
さっと新人の目付きが厳しくなる。俺は言葉を重ねた。
「あの女は、何らかの理由でありさに反感を持ってると考えた方がいい。それが多分『知り合い』とやらに関係するんだろ?」
「……」
「大体なんであの女、お前の事知ってるんだよ。ありさは支社に転勤してるし、こっちにいた間彼女からあんな女の事、聞いた事ないぞ」
はっと新人の瞳が見開かれた。テーブルの上に置かれた新人の左拳にぐっと力が入り、筋が立つのが見える。
「ま、さか」
「おい、新人?」
真っ青な顔になった新人に、俺は声を掛けた。新人はしばらく黙ったままだったが、やがて息を吐いた。
「……ありがとう、祐希。俺も冷静じゃなかった。ありさに……いや、菅山さんに確認する」
菅山? 聞き覚えのある名前に俺は目を見張った。
「ありさと一緒に転勤したっていう先輩か? 仕事が出来るってりりかが言ってた」
「ああ」
短く答えた後、新人はまた黙り込んだ。これ以上は言う気はないらしい。俺に出来る事はもうないのかもしれない。だが。
「俺に出来る事があったら言ってくれ。ありさも新人も――俺にとっては大事な友達だから」
そう言うと、新人は目を瞬いた後、「そうさせてもらう」と小さく笑ったのだった。
「っ、祐希!?」
俺がドアを閉め寒い外気を遮断した途端、パジャマ姿のりりかが内ドアを開けて玄関に飛び込んできた。
「どこ行ってたの!? こんなに遅くまで」
不安そうな顔をしているりりかを見て、胸の奥がずきりと痛んだ。ずっと寝ずに待っててくれたのか。
「……ごめん。ありさに会いに行ってたんだ」
「ありさに?」
りりかが目を丸くした。俺はああ、と頷きながら、彼女とリビングに足を踏み入れた。りりかが右手を伸ばし、俺の頬に触れる。
「もう、こんなに冷たくなってるじゃない。すぐ温かいコーヒー淹れるから」
「サンキュ」
上着を脱いだ俺は、リビングのソファに腰を下ろした。白木の家具とアイボリーやグリーンで揃えたリビングの内装は、りりかの趣味で揃えたもの。
この落ち着ける空間で、コーヒーを飲むのが、俺は好きだった。
ことんとりりかが俺の目の前にマグカップを置く。一口コーヒーを飲むと、芳醇な香りが俺の鼻腔をくすぐっていった。
「ねえ、ありさは元気にしてた? 仕事忙しいって言ってたけど」
俺の左隣に座ったりりかが、そう尋ねてきた。りりかはホットミルクの入ったマグカップを両手で持っている。
「ああ、元気そうだった」
俺はもう一口コーヒーをすすった後、マグカップをテーブルに置いた。それを見たりりかも、同じようにマグカップをテーブルに置く。
「りりか。話があるんだ」
りりかが大きな目を瞬き、ふっと視線を逸らした。
「私も……話があるの。後で聞いてくれる?」
「分かった」
俺は左腕をりりかの肩に回した。りりかが頭を俺の肩にもたれかけてくる。オレンジのシャンプーの香りがふわりと漂った。
いつものこんな甘える仕草も、愛おしくて堪らない。だが……
(これから言う事で、幻滅されるかもしれないな……)
俺は息を吐いた後、りりかの両肩を掴んだ。りりかが顔を上げ、俺の目をじっと見る。
「りりか。前に俺が言っただろ? ……新人がありさを好きだって。あれは」
俺の嘘だったんだ――と言う前に、りりかが話を遮った。
「新人から聞いたわ。ありさの事を好きなのに、酷い事をしてしまったって。謝ったけど、まだ警戒されてるようだって落ち込んでた」
「え」
新人がそんな事を言ったのか? 俺が目を見開くと、りりかは小首を傾げた。
「ありさに告白したいけど、俺にはそんな資格がないって悩んでたから、せめて後悔しないようにしたらって言ったの」
「ありさに……」
ありさは何も言ってなかったが。新人は彼女に好きだと言ったのか?
(とにかく、話さないと)
俺は改めて言葉を継いだ。
「……りりか。俺は新人に……嫉妬してた」
りりかの瞳が大きくなる。可愛らしい唇が少しだけ開いた。
「最近、あいつと二人きりで会う事が多かっただろ? それに……りりかの様子もどこかおかしかったし。もしかしたら、俺よりもやっぱり新人の方が――」
ぱちん! と小気味いい音が俺の言葉を中断する。りりかの両手が、俺の両頬を叩いたのだ。
「……祐希の態度がおかしかったのは、それ!?」
「り、りか」
たじろぐ俺に、りりかがずいっと迫って来た。
「なんだか、よそよそしくなって、夜だって帰ってくるの遅いし、どこか暗いし!」
ぷくっと頬を膨らませた後、しばらくしてふうとりりかが溜息をついた。
「確かに新人の相談にも乗ってたけど……私も新人に色々相談してたから。祐希が気にするんだったら、相談しなかったのに」
「相談……って」
りりかが俺の左耳に唇を寄せて囁いた。
「あのね、祐希。私――赤ちゃんが出来たの」
「え……っ……?」
一瞬で頭の中が真っ白になった。まじまじとりりかを見つめると、彼女の頬が真っ赤に染まった。
「だから! なんだか身体がだるくて、熱っぽくて。それで病院に行ったら……妊娠二ヶ月だって」
「……」
「ゆっ、祐希が悪いんだからね! あの夜、もうゴムがないって言ってたのに、最後……」
――子ども。りりかとの
じわりと頬に熱が集まって来た。そんな俺の顔を見たりりかが、不安げな表情になった。
「……祐希はしばらく二人きりがいいって言ってたじゃない。色んなところ二人で旅行に行きたいからって。私だって、責任のある仕事任されたばかりで、こんなに早くなんて、思ってなかったし」
それで、不安になったの、とりりかが話を続けた。
「ありさはずっと仕事が忙しそうだったし、慣れない土地で頑張ってるんだから、あまり迷惑掛けたくなくて」
「それで新人に聞いてみたの。彼なら祐希の事よく知ってるし、男性の意見が聞きたかったから。そんな事言ってた祐希が……喜んでくれるかどうかって」
「……新人は、なんて」
「りりかとの子どもを祐希が喜ばない訳ないだろって。だから早く言った方がいいって」
ずきりと胸に思い衝撃が走る。
(新、人……)
俺はあいつを疑っていたのに。あいつは――
りりかが少し俯いた。
「でも、いざ言おうとしたら……祐希の様子がおかしくて……それで今まで言えなかったの」
「りりか」
俯くりりかを俺は思い切り抱き締めた。俺の態度がりりかを不安にさせてたのか。そう思うとまた胸が重く痛んだ。
いい匂いのする柔らかい身体を抱き締め、滑らかな頬にキスを落とす。まだ目立たないお腹に右手を当て、ゆっくりと撫でた。
「……嬉しいよ。俺がどれだけりりかに惚れてると思ってるんだ。そのりりかとの子どもがここにいるなんて――信じられない」
「本当? 祐希、本当に……?」
りりかの瞳が潤んている。俺は微笑んで、もう一度りりかを抱き締めた。
「二人きりも楽しいけど、三人もきっと楽しいよな」
「ゆうきぃぃぃっ!」
俺にがしっと抱き付いてきたりりかが、わんわんと泣き始めた。妊娠初期って気持ちが不安定になると会社の先輩に聞いた事がある。りりかもそうなのかもしれない。
りりかのやわらかな髪を撫でながら、俺は深い溜息をついた。
(俺は……なんて、事を)
もう少しで、取り返しのつかない事をするところだった。ありさの事を相談していた新人と、俺に妊娠をどう打ち明けようかと迷っていたりりかを――疑っていたのだから。
もし、ありさにああ言われなかったら。俺は疑心暗鬼になって、りりかを責めていたかもしれない。そうしていたら、本当にりりかの心は俺から離れていっただろう。
(ありさ……)
――新人に悪いって思ってるなら、尚更りりかを大切にしてよ! 新人の何倍も! そうじゃなきゃ、祐希を好きになったりりかや、祐希を大事な親友だって言ってた新人に申し訳ないじゃない!
――りりかと話をして。今までの事、全部。新人に嫉妬していた事も。カッコ悪い祐希を……りりかに見せて
あの大人しい彼女が泣きながら叫んだ言葉が、耳の奥に残っている。涙に濡れた瞳の光の強さに、俺は胸を突き刺された気がした。
ありさに会いに行ったのは、ほんの思い付きだった。新人から何か聞いてないか、それを聞きに行っただけだ。だけど、こんな話を出来る相手は彼女しかいない、と無意識のうちに分かっていたのかもしれない。
ありさの言葉が、俺を正気に戻してくれた。
――ありがとう、ありさ
りりかが落ち着いたら、全部話そう。そう思いながら、俺は失わなかった温かな幸せを腕の中に抱いていた。
***
ありさに言われた通り、俺は全てをりりかに話して頭を下げた。りりかは目を丸くした後――ばちん!とまた俺の両頬を叩き、うにーっと俺の頬をつねった。
――私の今の気持ちを疑うなんて、祐希カッコ悪い! ありさが言った通りだわ!
りりかにもがみがみと怒られた後、俺は新人に連絡をした。新人にも全て話して謝るつもりだった。会いたいと言うと、あいつはすぐに了承した。
そして三日後、俺は新人との待ち合わせ場所に急いでいた。新人とりりかの会社の前で落ち合い、夕食を食べに行く事にしたのだ。ビルが見えてきたのと同時に、玄関前に立つ背の高い影が見えた。
「あら……」
声を掛けようとした俺の足が止まった。黒いトレンチコートを来た新人は一人ではない。彼の前に女が一人、俺に背を向けて立っている。
(誰だ?)
白い毛皮のコートを着た背中に、ゆるくウェーブのかかった黒髪が零れ落ちている。真っ赤なスカートが、風になびいていた。あの派手な格好は、会社の人間に見えないが。
それに――女を見下ろす新人の表情が、能面のようになっているのが気になった。
ふと新人が顔を上げ、俺を視野に捉えた。
「祐希」
「あら」
女が振り返って俺を見た。
「では、私はこれで。……あなたもよく考えた方がいいわよ?」
くすりと笑った女がこちらに歩いてくる。むせ返るような薔薇の香りが近付いてきた。目鼻立ちのぱっちりした、派手な美人がちらと俺を見る。通りすがりに軽く会釈をすると、真っ赤なルージュを引いた唇がにやりと曲がった。
その笑顔に、背筋がぞくりと震える。何だ、あの悪意に満ちた微笑みは。俺は新人の傍に駆け寄った。
「おい、新人。……誰だ、あれ」
「……祐希」
新人の顔色がやけに悪い。
「彼女は……知り合いの親戚だ。忠告、に来たらしい」
「忠告? あの女が?」
俺は眉を顰めた。どう見ても、そんな殊勝な目的で来たとは思えない女だった。
「信用できるのか? 何を言われたのかは知らないが、親切心などこれっぽっちも感じなかったぞ」
「そう、だよな。だけど」
――ありさが
ぽつりと新人が言った名前に、俺は目を見張った。
「ありさ? あの女、ありさの知り合いか?」
あんな派手な女、ありさの友人には見えなかったが。俺がそう言うと、新人は思い詰めたような表情になった。
「ある人が……ありさを利用しようとしていると。ありさを騙して、強引に……」
「はあ!?」
何の話だ、それは。俺はありさの顔を思い浮かべた。あの時のありさは、泣きながら俺に怒っていたが、誰かに利用されているとか、そんな感じはこれっぽっちも。
「大体、ありさをどう利用しようっていうんだ。大人しそうに見えて、彼女自分の意志をしっかり持ってるじゃないか。そんな簡単に騙されるだなんて」
「……相手が、尊敬してる奴でも?」
(新人?)
新人は唇をくっと引き締めた。瞳に怒りに似た感情が浮かぶのを、俺は確かに見た。
「とにかく、ありさ本人に確かめればいいだろ。事実がはっきりするまでは、下手に動かない方がいい」
新人にそう言うと、新人の肩から力が抜けた。
「……ああ」
ふうと新人が息を吐く。少しは冷静になったようだ。
「まあ、食いに行こうぜ。今日は俺がおごる」
「祐希?」
俺は不思議そうな顔をする新人の肩を、ぽんと軽く叩いだのだった。
***
いつもの小料理屋の個室で、俺達はランチタイムより豪華なメニューを楽しんだ。
食事の後、俺は全てを新人に打ち明けた。りりかが本当は新人を好きだった事、俺が嘘をついてりりかを奪った事も、全部。その上で、済まなかったと頭を下げた。
新人は少しの間、瞳を閉じていた。やがて目を開けた新人は、俺を見て苦笑した。
「祐希。もしあの時、俺がりりかに告白して付き合う事になったとしても――多分、上手くいかなくなっていたと思う」
そう言った新人の顔は、俺への怒りもりりかへの未練も感じさせないものだった。
「俺は口下手で、祐希みたいに好意を表す事も苦手だ。はっきりと態度で示す事を求めるりりかは、いずれ俺に不満を持つようになっていただろう。……今なら、そう思えるんだ」
それは、お前がありさを好きだと自覚したからなのか。
「新人」
くすりと新人の口元が緩んだ。
「……それにしても、往復ビンタって。ありさが本当にそんな事言ったのか?」
あの時のありさを思い出すと、今でも冷や汗ものだ。
「あ、ああ。ありさ、結構過激だよな……」
「そうだな」
新人の瞳がまた遠くを見ている。瞳に映る思慕の色の、相手は多分りりかじゃない。
――新人には、嫉妬で事実を歪んで見ていた俺のようになって欲しくない
「なあ、新人。俺がこんな事言えた義理じゃないが……さっきの女の事、慎重にしろよ」
さっと新人の目付きが厳しくなる。俺は言葉を重ねた。
「あの女は、何らかの理由でありさに反感を持ってると考えた方がいい。それが多分『知り合い』とやらに関係するんだろ?」
「……」
「大体なんであの女、お前の事知ってるんだよ。ありさは支社に転勤してるし、こっちにいた間彼女からあんな女の事、聞いた事ないぞ」
はっと新人の瞳が見開かれた。テーブルの上に置かれた新人の左拳にぐっと力が入り、筋が立つのが見える。
「ま、さか」
「おい、新人?」
真っ青な顔になった新人に、俺は声を掛けた。新人はしばらく黙ったままだったが、やがて息を吐いた。
「……ありがとう、祐希。俺も冷静じゃなかった。ありさに……いや、菅山さんに確認する」
菅山? 聞き覚えのある名前に俺は目を見張った。
「ありさと一緒に転勤したっていう先輩か? 仕事が出来るってりりかが言ってた」
「ああ」
短く答えた後、新人はまた黙り込んだ。これ以上は言う気はないらしい。俺に出来る事はもうないのかもしれない。だが。
「俺に出来る事があったら言ってくれ。ありさも新人も――俺にとっては大事な友達だから」
そう言うと、新人は目を瞬いた後、「そうさせてもらう」と小さく笑ったのだった。
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