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好きだったと言った方がいいと思う

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 長袖Tシャツにジーパン姿の私は、1DKマンションの部屋で引っ越しの段ボールを開き、小物を整理していた。そこへ、快活な声が聞こえてきた。
「おい、ありさ。この荷物は台所に運んでおくから。それと食器棚の設置も終わったぞ」
 台所から部屋に顔を覗かせたのは、段ボールを持った筋肉質の男性だった。
「あ、ありがとう、賢志お兄ちゃん」
 ひょういひょいと重い段ボールを運んでいく賢志さとしお兄ちゃんの逞しい後ろ姿を見た私は、人知れず溜息をついた。
(お兄ちゃんには連絡しないつもりだったのに……)
 それがどうしてこうなったのか。それは昨日の夜に遡る。

***

 借りる家も決まり、元のアパートから荷物を出して引き払った後、私は実家に寄った。一晩新居に向かう前に泊めてもらうつもりだったからだ。
 実家のリビングに入ると、懐かしい顔ぶれが揃っていた。
 
「おかえり、ありさ。引っ越しは明日だって?」
  にっこりと笑って迎えてくれたのは、久しぶりに会うみすずお姉ちゃんだった。
「お姉ちゃん、戻ってたの? うん、明日新居に行くよ」
 すっかり大きくなったお腹を抱えたお姉ちゃんは、アイボリー色のマタニィ用ワンピースを着て、テレビ前のソファにどかりと座っていた。
 手足はほっそりしたままだから、余計にお腹の大きさが目立ってる。長かった髪をボブカットに切ったのも、「洗うの邪魔になって」って言ってたっけ。

「ありさ、もうじき夕ご飯出来るから、ゆっくりしていなさい」
 台所にいるお母さんの言葉に、私はみすずお姉ちゃんの隣に座った。お姉ちゃんのまん丸のお腹が今にもはち切れそうだ。
「予定日まであと二週間だから、こっちに戻る事にしたの。雄二さんは出張中だし」
 ここまで来たら早く出てきて欲しいわ、とぼやくお姉ちゃんに、私は「元気そうでよかった」と笑った。

 お姉ちゃんがお腹を撫ぜながら、「そうそう」と話し出した。
「この前、久々に賢志が実家うちに来たのよ。たまたま私が出たら、びっくりしてたわ」
「えっ?」
 どきんと心臓が鳴った。賢志お兄ちゃんはお姉ちゃんの同窓生で、家はうちの隣だけど、今は一人暮らししてるはず。

「ありさが転勤するって話したらね、賢志今、引っ越し先の近くに住んでるんだって! 奇遇よねえ」
「え!?」
 賢志お兄ちゃんが近くに!? 私が目を見開くと、ふふふとお姉ちゃんが笑った。
「引越しの手伝いや町の案内するって、張り切ってたわよ? ついでだから、頼んでおいたわ」 
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん!? 賢志お兄ちゃんだって、忙しいのに」
 お姉ちゃんが首を傾げた。
「だって、私がこれだから、お母さんたちも私も手伝いに行けないでしょ? ありさ不器用だから、家具の組み立て下手だし」
「うっ……」
 確かに今まで住んでたアパートだって、組み立て式家具はお姉ちゃんやお義兄さんが設置してくれたんだった。
「家具なし物件だといろいろ設置しないとだめだし、せっかくだから手伝ってもらえばいいじゃない。賢志も『妹分だから、面倒見る』って言ってくれてるから」
「……う、うん……」

 お姉ちゃんは良かれと思ってやった事なんだよね。お兄ちゃんも純粋に好意の申し出だろう。だけど。
(あまり関わらないでおこうと思ったのに)
 まさか、こんな展開になるとは。菅山さんの事といい、賢志お兄ちゃんの事といい……
(上手くいかないものねえ……)
 機嫌よく話し続けるお姉ちゃんの隣で、私は深く溜息をついたのだった。

 お姉ちゃんから連絡したのか、その夜賢志お兄ちゃんからメッセージが入っていた。明日荷物運びとか家具組み立てを手伝うと書いてある。
 それをしてもらえると助かるのは確か。知らない土地だから、知り合いに案内してもらえるのも心強い。
 せっかくの好意を無下にするのも躊躇われた。何より、お姉ちゃんの紹介だし。
(大丈夫、だよね)
 ゲームとはすでに展開が変わってきている。仕事を始めたら忙しくなるし、そうそう会う事もないはず。
 私は大きく息を吸って、賢志お兄ちゃんにメッセージを返信した。

***

(手伝ってもらって、助かったわ……)
 黒の革ジャンを羽織り、Tシャツにジーンズ姿で午後一に新居に来てくれた賢志お兄ちゃんは、あれよあれよという間に段ボールを運び、家具を組み立てて設置し、ごみを片付け……と大活躍してくれたお陰で、私は段ボールから出した荷物を片付けるだけでよかった。
 一人だったらもっと時間掛かってたはずだけど、夕方にはあらかた作業は終わっていた。玄関近くでしゃがみ込み、段ボールを紐で縛っているお兄ちゃんに声を掛ける。

「ありがとう、お兄ちゃん。助かったわ」 
 紐を切ったお兄ちゃんが振り向いて笑う。
「おう。こっちもこれで終わりだ」 
 立ち上がったお兄ちゃんは、うーんと大きく伸びをした。きりっとした眉に、少したれ目がちな瞳。ツンツンと立った髪も似合ってる。
 映画に出てくる古代ローマの剣士みたいだ。肩幅広いし、筋肉隆々だし。
「そろそろ夕飯の時間だな。いい店連れて行ってやるよ」
「あ、私におごらせて頂戴? 今日のお礼に」
「何、生意気言ってんだよ。妹分におごらせる訳にいかないだろ」  
 大きな手で私の頭をくしゃっと撫でた賢志お兄ちゃんは……私が小さい頃と同じ表情を浮かべていた。

(懐かしいなあ)
 お姉ちゃんとお兄ちゃんはよく喧嘩してたけど、仲良くて。私は『可愛い妹』扱いで、いじめっ子から守ってくれたりしたっけ。
「妹だって、もう働いてるのよ? 一人前の社会人なんだから、お礼させて頂戴」
 私がそう言うと、お兄ちゃんの眉が少しだけ下がった。
「そう、か……ありさも一人前か……」
 ――そう呟いた彼の顔が、どこか寂し気に見えたのは何故だろう。私が首を傾げると、さっとその表情は消えて、また快活なお兄ちゃんに戻っていた。
「さあ、行くぞ。早めに行かないと満員になるからな」
「はい」
 革ジャンを着込むお兄ちゃんの隣で、私もニット編みのジャケットを着、一緒に新居を後にした。

 賢志お兄ちゃんは、お奨めの店に行く間にも、あれやこれやと近所の説明をしてくれた。
「ほら、ここが一番近所のスーパー。地元の野菜なんかも売ってて、結構安い」
「わあ、品揃えも良さそう」
 地元農家の販売コーナーがあり、とれたて野菜が美味しいのだそうだ。ちらと正面から見ただけでも、買い物客で賑わってるのが分かる。
「郊外に養鶏場あるから、鶏肉や卵も安いぞ」 
「へえ」 
 俺も自炊してるからな、と笑うお兄ちゃんは、本当に昔のままで。胸板や上腕筋が逞しい。
「お兄ちゃんは今でもスポーツしてるの?」
 彼はにかっと笑って、真っ白な歯を見せた。
「ああ。週一でジムに行って、普段は走り込みしてる。汗かくと気持ちいいぞ?」
 ありさもやらないか、と誘われたけど、丁重にお断りした。だって私、運動音痴なんだから。お兄ちゃんのペースについて行ける訳ないじゃない。
(それに、あまり関わらない方がいいと思うし)
 小さい頃と変わらない態度のお兄ちゃんに、こんな風に思うのは気が引けるけれど。用心するに越したことはない。

 他愛ない話をしながら、薄暗くなった石畳の歩道を歩く。陽が落ちると、空気が少し肌寒い。
 お勧めのお店は、一番近い駅周辺の路地裏にあるのだそうだ。街灯が灯り始めた歩道沿いに、柔らかな光のショーウィンドウがいくつも並んでいる。もうクリスマスの飾り付けをしているお店もあった。
 私の住むマンション付近は閑静な住宅街だけど、駅の近くはいろんなお店があって、賑やかだ。人も沢山歩いてるし、車の往来も多い。

「こっちだ」
 つとお兄ちゃんが道を左に曲がった。大通りから一本逸れた道は、一通りもまばらだが、小さな飲食店が並んで横丁のような雰囲気となっている。
「ああ、ここだよ」
「わあ」
 並んでいるお店の一番奥、突き当たりででお兄ちゃんは立ち止まった。古いレンガの壁に、大きなベルが付いた重そうな木の扉がある。窓枠も古い木だ。
 入り口近くの軒の下に、ぶら下げられている木彫りの小さな看板には、お店の名前が綺麗にペイントされている。
「イギリスの片田舎にありそうな雰囲気ね」 
 そう私が言うと、お兄ちゃんは「オーナーはイギリスに住んでたらしい。ホテルのシェフだったのを辞めて、店を開いたって聞いてるぞ」と笑った。扉を押すと、からんと音が鳴る。
 店内も壁はレンガで床は艶のある木という、落ち着いた感じだった。カーテンや椅子の生地がタータンチェックっぽいのもいい。カウンター席も、五つある四人掛けの席も、ほぼ埋まっているみたい。

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
 白いブラウスに黒のパンツを穿いた女性が、愛想良く笑う。お兄ちゃんが同意すると、「こちらへどうぞ」と奥の方の席に案内してくれた。四人掛けの席に、向かい合って座る。
「空いててラッキーだったな。客が増えたら同席求められるけど、大丈夫か?」
「うん、大丈夫」 
 オーダーを聞きに来てくれた女性に薦められた、プレーンオムライスを注文した。お兄ちゃんはデミグラスソースがたっぷりかかった、トンテキだ。
 サラダとコンソメスープに舌鼓を打ちながら、メインディッシュを待つ。店内はもう満席みたいだ。

「俺はここに来て三年になるけど、ありさが来るって聞いてびっくりした。偶然ってすごいな」
「私もびっくりした。みすずお姉ちゃんが色々頼んだって聞いて……今日は本当にありがとう。助かりました」
 頭を下げた私に、「そういうのはなし! 遠慮するな、妹だろ?」とお兄ちゃんが照れくさそうに笑った。頭を掻くその姿は、やっぱり優しいお兄ちゃんのままだった。
「……あのみすずが母親になるんだもんな。時間が経つのは早いな」
 ふっと遠い目で店の中を見るお兄ちゃんの顔は、やっぱり寂しそうに見える。私は思い切って口を開いた。

「ねえ、賢志お兄ちゃん。お兄ちゃんは、みすずお姉ちゃんの事、好きだったの?」
「うえっ!?」
 かっと目を見開き、がたんと揺れた椅子から転げ落ちそうになったお兄ちゃんを見た私は、やっぱり……と溜息をついた。
「いや、その、あの、その、な」
 あたおたと両手を動かすお兄ちゃんをじーっと見つめると、彼は諦めたかのようにがくっと頭を下げた。
「……そんな分かりやすかったか? 俺」
「まあ、ね」

 私には優しいのに、お姉ちゃんには憎まれ口ばかり叩いてて。美人のお姉ちゃんが同級生に告白された時なんか、『お前みたいな男女に本気になる奴いるはずねーだろ!』とか言って、お姉ちゃんに蹴り入れられてたよね……。
(あれ、嫉妬してたんだろうなあ)
 口に出せない恋心は、自分の心を蝕んでしまう。それは私が経験した事だ。
 言いたいのに、友達関係を壊したくなくて、言えなくて、うじうじして。
 結果的には振られちゃたけれど……新人に想いを告げられた事は良かったと思う。ああ言えた事で、前を向いて歩こうって思えるようになったから。
 私はぐっと膝の上で拳を握り締めた。

「もし……もし、今でもその気持ちが残ってるなら」
「?」
 顔を上げたお兄ちゃんに、私は精一杯笑ってみせる。
「今は微妙な時期だから駄目だけど……お姉ちゃんは赤ちゃん生まれてからもしばらく実家にいるから。『あの頃好きだった』って気持ちだけでも伝えてみたら?」
「え!?」
 かああっとお兄ちゃんの頬が赤くなる。これはまだ、好きな気持ちがあるんだろうな。

(そう、だよね。すぐに消えたりしないよね……)
 皆でキャンプに行った時の照れ笑いの顔。真面目に仕事をしている顔。そして――寂しそうな横顔がふっと目に浮かんだ。
 つきんと痛む胸の奥を無視して、私はお兄ちゃんを真っ直ぐに見た。

「自分の為にも、ちゃんと言った方がいいと思う。その気持ちを昇華させないと、いつまで経っても思い切れないじゃない」

 今のうちに、二人が友達のうちに、気持ちを綺麗にしておけば。今までの関係も失わずに済むかもしれない。
 そして、胸の痛みを忘れる事が出来たなら、新しい恋にだって、踏み出せるようになるのかもしれない。

 私の顔を見ているお兄ちゃんが眉を顰めた。
「あ、りさ? お前……」
「失礼いたします。ご注文の品はこちらでよろしいでしょうか?」
 にこやかな声と共に、オムライスとトンテキが運ばれてきた。お兄ちゃんは何か言い掛けてたけれど、口をつぐんだ。
「わあ、美味しそう」
 オムライスは綺麗な黄色の卵が柔らかそう。トンテキもほかほかと湯気が上がっていて、いい匂いがしてる。
「いただきます」
 スプーンですくって一口食べると、柔らかな卵の食感とトマトの風味が口の中にふわっと広がった。ぴりと辛い黒コショウのアクセントも丁度いい。
「美味しい」
 思わず頬が緩む。お兄ちゃんもトンテキをぱくりと食べて、「うん、美味い」と頷いている。

「――申し訳ございません、お客様。こちらご相席をお願いしてもよろしいでしょうか」
 その声に顔を上げると、店員さんがテーブルの横に立っていた。お兄ちゃんがちらと私を見る。私が小さく頷くと、「ええ、構いませんよ」とお兄ちゃんが答えた。
 ありがとうございます、と頭を下げた店員さんが、私の後ろの方を見て言った。

「お客様、ではこちらに。ご相席となりますが……」
「――水城?」

(えっ?)
 聞き覚えのある声に、どくんと心臓がひっくり返りそうになる。慌てて振り向くと、銀縁眼鏡の奥の瞳と目が合った。

「菅山、さん……?」
 そこには、ざっくり編みのセーターにカーキ色のズボンを穿いた、菅山さんが立っていた。
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