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だめだと分かっているのに

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 地下にある、小さなBar。イギリスのパブをモチーフにした店内を見ると、懐かしさが胸にこみ上げてきた。アイボリー色の壁紙の上で黒っぽい木がはすかいに交わっていて、所々にイギリスの写真が飾られている。落ち着いたジャズが会話の邪魔にならない程度に流れており、ややトーンを落とした照明が温かい雰囲気を添えていた。
 ここで、艶のあるオーク材のカウンター席に並んで座るのが、四人の習慣だった。

(だめだって、思ってたのに)
 カラン……とグラスの中で氷がぶつかる音がする。私が手にしているのは、搾りたてのオレンジジュースだ。オレンジの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。

「ここ一緒に来るの、久しぶりだろ?」
 私の左から声がする。いつものカウンター席に私と新人は並んで座った。一番奥の席が新人。そしてその隣が祐希で、次にりりか、私の順だった席順。今はいつもの席に座ってる新人の右隣が私だ。目の前に立つマスターが「そうそう。新人くんもありさちゃんも、もっと来てくれてもいいんだよ?」と白い布でコップを拭きながら笑った。マスターも少しだけ白髪が増えているが、白のブラウスに黒のベスト、ズボンにカフェエプロンといういで立ちは変わらない。
『僕の息子も君達と同年代だよ』と言って、私達の事可愛がってくれてたっけ。

「そうよね」
 そっと新人の方を窺うと、彼は幅広のカクテルグラスを手に持ち、「サイドカー」と呼ばれる琥珀色のカクテルをぐいと煽っていた。度数が高いお酒なのに大丈夫なのだろうか、と心配になるけれど、やるせない色をした瞳に何も言えなかった。

「マスター、もう一杯」
 マスターが困ったように眦を下げる。
「新人くんは飲み過ぎじゃないのかい? 今日結婚式でも飲んできたんだろう?」
 空になったグラスを前に、新人がやや俯いた。
「……今日ぐらい、飲ませて欲しいんだ」
 声に秘められた苦悩を感じ取ったのか、それ以上マスターは何も言わなかった。手際よく同じカクテルを作り、新人の前に置く。
 また一気にそれを飲み干した新人は、グラスをカウンターに置くと、両肘をついて腕を組み、項垂れた。

「……か」 
 何かを呟いた新人が、そのままカウンターに突っ伏してしまう。数分もすると、寝息が聞こえてきた。
「ごめんなさい、マスター」 
 私が頭を下げると、「気にしないで。今日はもう、二人だけだから」とマスターが笑った。私が後ろを振り返ると、確かにこじんまりとした店内には誰もいなかった。

「はい、これは僕のおごり」 
 目の前に置かれたのは、底の方がザクロ色で、上に行くに従って薄いオレンジ色になっているドリンクだった。細長いグラスの中にしゅわしゅわと炭酸の泡が踊るのに合わせて、キラキラとラメが散っている様子が見える。

「ノンアルコールのカクテルだよ。新作だから飲んでみて?」 
「ありがとうございます、いただきます」
 ごくりと一口飲んでみると、カシス系の甘酸っぱさが混ざった程よい甘さのジュースだった。
「美味しい」
 思わず頬が緩むと、マスターが「やっと笑ったね」と優しく言った。

「ありさちゃんも辛い立場だね」
「え」
 私が目を丸くすると、マスターはちらと新人を見た。 
「新人くんの事、ずっと好きだったんだろう?」
 マスターの言葉に心臓が跳ねた。
(気付かれてた……?)
 まさか、祐希やりりか……新人にも? グラスを持つ指が強張ったのを見たマスターが、「ああ、皆は気が付いていないと思うよ」と右手を振った。
「僕は商売柄、人間観察が趣味だからね。ありさちゃんがいつも彼の事を見てたのは、他の誰も気が付いてないと思うよ」
「そ、そうですか」 
 ほっと息を吐いた私だったけど、目の前のマスターに気付かれてたと思うと、頬が熱くなってきた。やや俯いた私に、マスターの優しい声が掛けられる。

「新人くんもりりかちゃんばかり見てたからね。だけど、友人から一歩踏み出す勇気がなかったんだろうね。関係を壊してしまうのが怖くて」
「……そう、かも」
 私と同じだ。りりかの事を見つめている新人に、『私を見て』って言う勇気はなかった。だって、友達という立場さえ失ってしまうかもしれないのだから。新人も同じ気持ちだったのかな、とふと思った。
「ありさちゃんも新人くんには何も言わないつもりかい?」
 私はこくんと頷いた。左手を伸ばして、眠ってる新人の黒髪に触れてみた。触れるか触れないかの距離で、頭を撫でてみる。

「新人はりりかが好きだから。りりかは私とは違うし……」
 明るくて皆の中心にいるりりか。そんなりりかが好きなんだったら、端っこにばかりいた私なんて、タイプじゃないはずだもの。
 そう言うと、マスターは静かに首を横に振った。
「僕はそうは思わないけどね」

 マスターが真っ直ぐに私を見下ろして話し始める。
「新人くんは物静かだし、落ち着いた環境を望むだろう? そんな彼が、良くも悪くも人の中心になりやすいりりかちゃんと一緒になっても、辛くなっていたと思うよ。もちろん、りりかちゃんもいい子だし、わざと注目されるような事をしているんじゃないだろうけど」
 私は臥せっている新人の顔を覗き込んだ。長いまつ毛が時折ぴくっと動く。組んだ腕の中で眠っている新人は今、何を夢見ているんだろう。やっぱり、りりかの事?

「逆にありさちゃんは、静かだけど人の気持ちを思いやる優しさを持っている。多分ありさちゃんといる方が、新人くんも気が休まると思うんだよね」
「ありがとう、マスター」
 マスターの慰めの言葉が、ぽわんと胸を温かくしてくれた。新人には不釣り合いだって思ってたから、そう言ってもらえただけで今までの想いが報われた気がする。

「私もりりかの明るさに惹かれたもの。きっと新人も同じだと思うわ」
 りりかは媚びを売ったりするような子じゃない。ただ、彼女の明るさと華やかさが人を惹き付けるだけなのだ。自分も彼女に憧れを抱いていた。きっと新人も同じなのだろう。

「りりかちゃんの隣で皆の前に立つのは、祐希くんの方が向いているよ。彼もどちらかといえば、リーダータイプだからね」
 研究職の割に交渉事に強い祐希は、人をまとめるのも上手かった。四人の中でも確かにリーダー的存在で、新人がサポート役をしていたと思う。マスターは本当に私達の事、よく見ていたんだ。

「でも、好きになっちゃったら、仕方ないですよね……」
 ゲーム通りだと辛い思いをするはずの恋なのに、簡単に止める事も出来ない。離れようと決意した時だって、本当に胸が痛くて……今だってずきずきと疼いてる。

 隠そうとしてもマスターにはお見通しなんだろうな。そう思った私は、痛みを隠すことなく真正面を向いた。
「私もこのままじゃ、いけないって思ってたんです。だから、りりか達の結婚を機に、色々考えようと思って」
 マスターは優しく微笑んだ。
「そうだね、考える時間も必要だ。ありさちゃんも新人くんも」

 ――いつでも考える時間を過ごしに来てくれてもいいんだよ?

 たまには宣伝しないとね、とウィンクするマスターに、くすりと小さく笑ってしまった私だった。

***
 
 結局、閉店時刻になっても新人は目を覚まさなかった。
 マスターにタクシーを呼んでもらい、新人をタクシーに乗せるのも手伝ってもらった。「気を付けてね」と見送ってくれたマスターを後に、タクシーは深夜の道路を静かに走る。新人のマンションまでニ十分程の時間、新人は目を瞑ったままだった。

 マンションの玄関前でタクシーから降りた私は、新人と肩を組み、自分に寄り掛かってくる彼に声を掛けた。
「ほら、新人。しっかして」
「ん……」
 身長差がある分、ずっしりと重みが肩に圧し掛かってくる。
(お、重っ……!)

 足元が覚束ない新人を何とか誘導して歩く。新人の部屋が一階だった事が幸いした。廊下をよたよたとしながら歩き、端の部屋のドアの前に立つ。
「新人、鍵は?」
 掠れた声が耳元で聞こえる。
「……ズボンの左ポケット」
 左手を伸ばして、ポケットの中を探る。冷たい感触を掴み上げると、巻貝のキーホルダーの付いた鍵が出てきた。
「よいしょ……と」
 ガチャリと鍵が開く音が響く。ドアを押して中に入り、廊下に新人を座らせてから鍵を取り、またポケットの中に滑り落とした。

「完全に酔っぱらいじゃない」
 自分の靴を脱ぎ、新人の靴を脱がせ、また肩を貸して新人を立たせる。大学時代も酔っ払った女子を介抱した事はあったけど、当然新人よりも軽かった。
 ドアを開けると、リビング兼寝室の八畳間だ。何とか左の壁際のベッドに新人の身体を転がせると、私はふうと首の汗を拭った。

「ここに来るのも久しぶり……かも」
 三年ぐらい前にここで四人で飲んだ。最後は皆で雑魚寝になっちゃって……始めてみる新人の寝顔にドキドキしたっけ。

 部屋の真ん中に黒のこたつテーブルが置かれたこの部屋は、家具は黒で揃えられてて、シンプルな印象のままだ。ベッドと反対側にはクローゼットとパソコン机。男一人暮らしだけど、綺麗に整頓されているところが、新人らしい。

 新人の寝顔を見下ろすと、やっぱり胸の奥がずきんと痛む。このゲームの結末は分かっているのに……だめだなあ、私は。

「新人……」
 上掛け布団を彼の身体に掛けようとして、ベッドの傍に跪いた瞬間――大きな手が私の右手首を掴んだ。ぐいと引っ張られた私の身体はバランスを崩し、そのままベッドへと倒れ込んだ。

「きゃ……っ!?」
 あっという間に視界がぐるりと回った。さっきまで目を閉じていた新人が私の身体の上にいる。組み敷かれた私は何が何だかよく分からなかった。新人の目が私を捉える。その獰猛な色に、私は思わず息を呑んだ。

「あ、らと?」
 新人が歪んだ笑みを浮かべた。二次会の帰り道、『俺と一緒にいるのが嫌なのか』と聞いて来た時と、同じ表情。

「ありさ」
 ずくんと身体の奥が疼いた。新人に名前を呼ばれた事なんて、数えきれないぐらいある。だけど――こんな風に呼ばれた事なんて、一度だって、なかった。それに新人の目に浮かんでいるのは――
 ――欲望が入り混じった、雄の瞳。それが真っ直ぐ私に向けられている。

(こんな目で私を見た事なんてなかったのに)
 身体が強張る。手が動かない。声も……出せない。

「あ、新人……っ……!?」
 何とか気力を振り絞って出した掠れ声は、新人の唇の中に消えた。初めて重ねられた唇は、燃えるように熱くてそして――痛かった。
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