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ある男の話
しおりを挟むクラウスという男はただの農民だった。片田舎の農村に長男として生まれ、小さな社会で生き、そして死んでいくだけの平凡な男だった。それでも、愛する妻もいて、ありふれていながらも幸せな人生を歩んでいた。
そんな男は今、農兵として戦争に赴いていた。見たこともない領主だの国王だのの意向で戦争に駆り出されるのだって、しょっちゅうではないが珍しくもない。幸い、今まで大きな怪我をすることもなく戦ってきた。それに──
「もうすぐ、この戦争も終わるな」
同じ村から来たリックが言う。
就寝を前に、同じ農兵の男達が集まり語らっていた。
「ああ、俺達の勝利で」
この戦争で知り合ったグラッドが上機嫌に応えた。
隣国との領土を巡る小競り合いをするために集められた彼らは、ほとんどが初めて会ったのだが、今や旧知の友であるかのように親しくなった。
「そうだ、戦争が終わったらそれぞれの村に帰る前に飲みに行かないか?」
ナハトが提案すれば、リックが賛同する。
「お、そいつぁいいな! 一度帰っちまったらそうそう会えないだろうし」
戦争に参加してすぐの頃は、とてもこんな話をできる精神状況ではなかった。
肉を断った感触がいつまでも消えない手、耳にこびり付く悲鳴や怒号、昨日まで共に食事をした仲間の死、明日は我が身と震える夜。
ようやく終わりの見えた地獄に、表向きだけでも余裕を取り戻していた。
「俺は綺麗なねーちゃんにお酌してもらいたいねえ」
こういうさあ、と手振りで胸元を大きく示すグラッドは、酔ってもいないのに楽しげだ。
「そりゃ魅力的だけど、嫁さんに怒られないか?」
「ばれなきゃいいのさ」
「おいおい……」
確か、グラッドには妻がいたはずだとクラウスが窘めるも、間髪入れずに返されて呆れた。
リックがにいっと笑って茶化してくる。
「クラウスのところは家から締め出されちまいそうだな」
「やめてくれ、帰る頃には子供が産まれるんだ」
彼の妻が、失くさないようにと紐を通して首に掛けてくれた指輪を、指先で弄びながら答える。
「けっ、まったく羨ましいねぇ」
「名前を考えるように言われているんだろう? 決まったのか?」
「ああ……」
ナハトに尋ねられて、クラウスは曖昧に頷いた。
「ユリアはこういうの拘るから、自信はないけど……」
少し伸びてきた銀髪を指に絡めて、落ち着かない様子だ。
「何にせよ、無事に帰らんとな」
「ま、クラウスならそう簡単に死にやしないさ」
励ますように言ったグラッドに比べて、リックは幼馴染みの好で遠慮がない。
「いや、治りが早いって言っても、斬られれば痛いんだよ」
平凡な男であるクラウスが周りと違うところは、精々怪我の治りが早いくらいだろう。
それは全き神が人々に授けた祝福だ。この世に生を受けたものは、その全てが神に祝福される。男のような回復力や、魔法の才能など、授かる祝福は人に依って様々だ。ただ、生まれながらにそれを自覚できるわけではないため、己に与えられた祝福が何であるか知らぬまま生涯を終える者も中にはいる。
「そんじゃ、お互い怪我しないように生きるとしますか」
誰ともなく言った言葉に皆頷いた。
死んだ仲間も、殺した敵も、もう数え切れないが、そんな生活も間もなく終わる。
***
血が、命が、傷口から零れ出していく。
「……ぅ…………あぁっ!」
槍で刺し貫かれた腹が絶え間なく痛みを訴えてくる。祝福の力が傷を癒し始めているが、大きく空いた風穴を瞬く間に塞ぐことなどできない。痛覚が正常なために、ひたすらに責苦が続く。
「おいっクラウス、しっかりしろ!」
悲鳴のような声が聞こえる。
その声を遠くに聞きながら、これはもう助からないと自覚する。いっそ、再生を止められたら良いのに、この祝福は厄介なもので、己の意思では止められない。
「………………っ……」
暗くなっていく視界に、銀色の光が映る。
千切れた紐が付いた指輪だった。
決して高価なものではない。それでも、手放すことのできない大切なもの。
──すまない。約束を果たせなくなってしまった。
もう、思うように動かない腕をどうにか伸ばす。
同じ意匠の指輪を持っている女性に思いを馳せる。
──後は、帰って君に伝えるだけだったのに。
震える指先が、指輪を掠める。
「…………ユリ、アーナ……」
名を呼べば、彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
プロポーズしたときの涙が混じった笑顔も、出征を見送ってくれたあの日の切なげな笑顔も、鮮明に思い出せる。
今も帰りを待っているはずだ。
──嫌だ! このまま、死ぬことなんてできない!
遂に指輪をその手に掴む。もはやその目に何も見えていないが、それでもクラウスは胸の裡で叫ぶ。
──必ず、君との約束を果たす……!
しかし、その激情を最後に、クラウスの意識は闇に沈んだ。
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