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永い旅路へ
しおりを挟む日差しが暖かくなった春の昼下がり。安楽椅子に身を委ねる老婆は、庭先を駆け回って遊ぶ孫達を蒼い瞳に映して相好を崩した。
「母さん、もう暖かいけれど、膝掛けくらい掛けていて」
部屋から出て来た老婆の娘が膝掛けを掛ける。
「あら、ありがとうねえ」
「どういたしまして」
小さく笑んだ娘も、子供達に呼ばれて庭に出ていった。
少し前までほんの子供だったはずの一人娘が今や母親だ。時が経つのは早いものだと老婆は目尻の皺を深くした。
──ざあっ……、っと不意に強い風が吹いて、庭の花を散らした。
舞い落ちる花弁と共に、年若い男の、不釣り合いなほど落ち着いた声が老婆の傍に届いた。
「──良い子達だな」
吹き抜けた風が運んできたのか、それとも彼が風を起こしたのか、先程まで誰も居なかったはずの老婆の隣に、一人の男が立っていた。象牙色の外套と、艶やかな白銀の髪を緩い風に遊ばせている。
「ええ、見た目以外は貴方に似なかったもの」
唐突に現れた男に、老婆は驚いた風もなく庭先に視線を投げたまま答えた。その言葉は先程彼女の娘に返した言葉と打って変って刺々しいものだった。
「そうか。それは良かった」
対する男も老婆の口調を意に介した風もない。それどころか殆ど感情を感じさせない抑揚のない声をしていた。
老婆の言った通り、彼女の娘と孫はどこか男に似ていた。老婆の髪は既に白いが、元は金髪だったと思わせる色合いだ。しかし、娘の髪は男と同じ白銀に艶めき、娘の子供達も、髪の色こそ違えどその面差しは似ていた。
「それで、貴方は何をしに来たの? 今更現れて、老いさらばえた私を笑いに来たのかしら。それとも、冥府から来たお迎えの死神さん?」
老婆は、変わらず冷え冷えとしながらも自嘲気味な問い掛けを投げる。
すると、男は平坦だった声に、どことなく困ったような、苦笑するような響きを乗せた。その声は男の見かけ相応のものだった。
「君は、いつまでそうやって憎まれ口を叩くんだ?」
老婆は目を伏せる。隣に立つ男は意識的に見ないようにしていた。
「……そう、ばれていたのね」
「君のことで俺にわからないことなんて、なかっただろう?」
「そうね」
今度は答えを確信しているような得意げな声がした。
一つため息を吐いて、老婆は男を見上げた。
「やっぱり、変わらないのね」
男は彼女の記憶にあるまま、美しい姿でそこにいた。最後に彼を見たのは、もう何十年も前のことだ。
「ああ、色々、調べて試してみたのだけれどね」
今度ははっきりと苦笑して紅い眼を細めた。子供のように無邪気でコロコロと表情を変えていた昔から見れば、滲むようなその感情は微かな動きで示された。
「ふ、ふっ……」
何故か不意に込み上げた笑いに、老婆は口許を手で隠した。
「なんだか不思議ね。見た目はあの頃のままなのに、急に雰囲気が落ち着いちゃって」
「そうやって笑う君は変わらないな」
老婆の正面に回った男は、安楽椅子の肘置きに手を突いて身を寄せ、反対の手で老婆の頬を撫でた。靱やかな白い手が、シミの浮いた張りのない肌を愛おしげに滑る。
「ちょっと、しわくちゃのお婆ちゃん相手に何を言っているの」
「照れるのも可愛い」
「またそんなこと言って……」
男の手から逃げるように顔を背けた老婆の目に、肘置きに置かれた男の手が映る。その指には古びた指輪が嵌っていた。
「……まだ、着けていたのね」
小さく呟いた言葉は無意識だったが、文字通り触れられる距離にいる男の耳には十分に聞こえていた。
「そう言えば、何をしに来たか、答えてなかったね」
唐突に少し前の話を掘り返した男は、老婆から離れて外套の中に手を入れた。暫し探る様に動いたと思えば、悪戯を仕掛ける子供のように笑ってその場に跪いた。
再び手を出すと、老婆の手を押し頂く様に取る。
「愛しい君に、俺の気持ちを贈るよ」
言葉と共に、老婆の指に男の物と同じ意匠で作られた細身の指輪を嵌める。思わず撫でたそれは、少し輝きが鈍っていたけれど、懐かしい感触だった。
老婆は驚きに目を見開く。
「これ……」
「やっぱり、何度練習しても緊張するな……」
顔を上げた男は気恥しそうにはにかむ。寧ろ、初めてのときより緊張しているかもしれない、と呟いた男の言葉は老婆の耳に届かなかった。
──これは焼き直しだ。
変わらない男の姿も相まって、老婆はすぐに思い出した。言葉も、仕草もあのときのままだ。もう何十年も昔のことで、すっかり忘れたと思っていた。あの日自らが行った仕打ちを考えれば、思い出に浸ることさえ赦されないとも。
「共に歳を重ねることは、もうできないけれど、もう一度受け取ってくれるかい?」
どうしても、その言葉は同じにならなかったが、男の意図に変わりはないだろう。
「今更、そんな資格──」
ないわ、と言い切る前に、男は静かに首を振った。
「君がどうしたいのか、それだけでいいんだ」
資格なんて必要ない、と。
そこまで言わせて、受け取らない理由は老婆にはなかった。そもそも、初めて嵌めてもらったあの瞬間から、この指輪を外したいと思ったことなどなかったのだから。
それなら、この焼き直しのワンシーンに相応しく答えなければ。
この歳になって言うには子供っぽいし、後々思い出してはなんて可愛くない返事をしたのかと頭を抱えたものだけど。
「……返せって言ったって、返してあげないんだから」
「ありがとう」
そうすれば、男もまた満面の笑みを浮かべて立ち上がった。そして最後にキスを交わすのも忘れなかった。
***
「それで? 今になって出てきたのは、これを渡すため?」
「ああ、今ならつまらない意地を張らずに受け取ってくれると思ってね」
長年の後悔と葛藤をつまらない意地と断じられて、老婆はため息を吐いた。
「つまらないって……まあいいわ。冥土の土産として持っていきましょう」
「そうしてくれると嬉しいよ。もし君が冥府にいる間に俺も渡ることができたら、目印にするから」
いつになるかわからないけど、と続けた瞳は寂しげだった。
「それじゃ、貴方もその指輪無くしたりしないようにね。私が此方に来るのが先なら、見付けてあげるわ」
「ああ、わかった」
二人は静かに微笑みあった。
「──これから、貴方はどうするの?」
「旅に出るよ、取り敢えず気ままに。人の国だけじゃなくて、色んな国を巡れば、何かわかるかもしれないし」
「そう。なら、次に会ったときは旅の話を聞かせてちょうだい」
「わかった、楽しみにしていて。此方でまた会えたら、案内もするから」
「あら、それは楽しみね。クラウス」
「それじゃ、ユリアーナ。また、いずれ──」
再び風が吹いて、老婆が瞬きをした後には男の姿は掻き消えていた。
「あれ、いない。お婆ちゃん、さっき誰と話してたのー?」
いつの間にか傍に来ていた孫が問い掛ける。どうやら、見知らぬ男の姿を見つけてこちらに来たらしい。
「さあねえ、冥府のお迎えかしらねえ」
まるで、うたた寝していた間に見た夢のようだったが、老婆の指にはたしかに何十年もそこになかった指輪が嵌っていた。
その数日後、老婆は冥府に旅立った。
葬儀の折、墓地に強い風が吹き抜けた。その後、老婆の墓前には彼女が好きだった花が供えられていた。
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