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序章
01.夜明けは遠く
しおりを挟む視界に映るもの全てが赤く染め上げられていく。
地面は雨水を吸うように多量の血を浴びて紅く。
空は轟々と燃え盛る家屋の火焔に曝されて緋い。
高く響く女の悲鳴。
打ちのめされた男の慟哭。
血に飢えた来襲者達の叫ぶ喝采。
焼け落ちる家々が立てる断末魔の轟音。
──そして、無力な子供のか細い泣き声。
凄惨を極める混沌の中で、耳に届く筈のない音ならぬ声が聞こえる。
なんということはない、自分の喉から漏れる音が音源であるのだから。
森をも呑み込んだ火勢は夜闇を赤々と照らし遠ざけ、夜明けも未だ遥か彼方にあった。
***
早朝の薄暗い廊下をルークは歩いていた。光源のせいで漆黒に見える髪は黒みの深い茶色で、ざんばらに切られたその髪から覗く瞳は黎明を想起させる瑠璃紺色をしている。普段から近寄り難さを演出する怜悧な表情に、今朝は微かに険を滲ませていた。
体重を掛ける度に苦情を叫ぶ年季の入った階段を出来るだけ静かに降りていく。段によって軋み具合が違うのは、誰かが踏み抜くたびに板を張り直している為だろう。
踊り場を過ぎ、一階まで残り半分程のところで、降りてくる人物に気付いた一人の男が丸い顔を覗かせた。この宿酒場の主人であるダグラスという男だ。
「や、兄さん。今日は一段と早起きですな」
男はいつもと変わらぬ溌剌とした様子で声を掛けてくるのに、何食わぬ顔で手を挙げる。
階下に人の気配を感じた頃には意識して表情を弛めていた。
「ああ。それでも、あんたには敵わなかったみたいだがな」
「ははっ、それもそうですな」
階段を降り切ってそう返せば、ダグラスは歯を見せて笑った。こちらも気安い口調で話しているが、何年来の付き合いなどではない。会って数週間と経っていない。当人の自己申告と他の客達に合わせた結果だ。
この男は夜も明けきらない朝早くから酒場を閉める夜半まで、いつ見ても働いている気がするが、いつ休んでいるのだろうか。
「……俺が言うのも何だが。あんた、いつもそこにいるが休めているのか?」
唐突な質問に彼は首を捻ったが、すぐに合点がいったらしく相好を崩す。
「心配ご無用ですな、おれが働いているのは酒場を開けるところから兄さんみたいに日が昇る頃に出るお客を見送るまで。後はおれの代わりにタリサと他の連中が出るんですわ。だから兄さんが働いてる間に休んどるわけです。と言っても、酒場閉めた夜中には仮眠を取りますがね」
「なるほど。あの人はあの人で酒場でしか見かけないと思っていたが、そういうことか」
言われて見れば、この宿に初めて来た夕方は女将が応対してくれたな、と思い返す。
タリサというのはダグラスの妻で、気さくな肝っ玉母さんといった風情の人だ。ずぼらに見えるが気立ての良いよく出来た娘で狙った男が多かったと、いつだったかこの街の職人が酔ってそう零していた覚えがある。
少々の回想に意識を向けていると、ダグラスはところで、と一言置いて尋ねてくる。
「兄さんはこれから仕事ですかい? いつもよりやけに早いが」
「いや、たまたま早く起きてする事もないから降りてきたんだ。いつも朝早くから喧しくして悪いな」
「いやいや、文句を言っているんじゃありやせんよ。兄さんはいつも女子供が降りてきたのかってほど、静かに降りてきてくれますからな」
良い歳をした男相手に女子供などという表現を使われるのは、なんとも座りが悪い。
苦笑というには若干苦味の濃い微妙な表情をして嘆息する。
「……それは喜んで良いのか今ひとつ反応に困る例えだな」
「もちろん褒めとるんですよ。兄さん割と長いことここを使ってくれてるが、まだ階段踏み抜いたことありませんからな」
やはりあの踏み板抜けるのか、それもかなりの確率で。と今しがた降りてきた階段を横目に見遣って警戒心を新たにした。
「とと、そうだ。時間があるなら朝飯を一緒に摂りませんかね」
唐突なその提案に警戒とも猜疑とも呼べぬもどかしい感情が顔を出す。或いはそれは躊躇いというものなのだろうか。
「……それは構わないが、しかしまた、何だって俺に」
ダグラスの意図を図りきれずにいると、彼はにんまりと笑った。
「そこはそれ、優良で腕も立つ客を囲い込もうって言う下心ってやつですわ。兄さんは揉め事起こしたことないし、目付きの割りに人当たりも良いですしね」
あろうことか下心を当人の前で詳らかにするダグラスに、裏を勘繰ることもなく苦笑が漏れる。自分の目付きの悪さは自覚しているし、この気の良い男に言われることに目くじら立てる気はないが。
「……客商売だというのに相変わらず明け透けな店主だ。煽てているのか貶しているのかよくわからないぞ」
「それがうちの売りですからな。お貴族様やお役人みたいな気位の高いお方には渋い顔をされるでしょうが、その層には専用の宿屋もあることですし。寧ろ庶民感覚としてはおれみたいなのがやり易いでしょう?」
苦言を呈しても彼は悪怯れもせず、それどころか得意げに歯を見せて言う。しかし、彼の言う通りだ。このくらいの方がリスクを計りやすい。
「まあ、確かに俺もそのクチだからな。上の人間に媚び諂うような奴の所にはいられない。その点で言えばあんたは中々食えない人だ」
裏表はないが、人をよく見ている男だ。流石に初対面の相手にまではこうした態度を取らない。客商売がその目を養ったのか、元々備えていた資質なのか。
「やっぱり兄さんは思った通りの人だ」
「お眼鏡に叶ったようで何よりだよ」
肩を竦めて苦笑と共に返すと、ダグラスは一層笑みを深めた。
「そろそろタリサが呼びに来ますわ。朝飯、食って行かれるでしょう?」
「ああ、ご相伴に預からせてもらうさ」
──長居が過ぎたな。
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