仔猫のスープ

ましら佳

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25.幸福の果実

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「桜ちゃんもね、青磁あれは大変よ。あれと戦うには、だいぶ武者修行が必要よ。でないと潰れちゃうわって言ってたんだから」
「重いんじゃなくて、深いの。そう、マリアナ海溝のように・・・」
世界で一番くらいの深さの地球の裂け目だ。
「それが重いのよ・・・・」
「それから。戦うって・・・ひどくないか?あの人には、羊羹ようかんあげたんですけどね」
羊羹ようかんはすごく美味しかったって喜んでたけど。・・・桜ちゃんてね、若い時に、付き合ってた彼氏が浮気してると思ったら自分が浮気だったんだって」
「・・・え・・・」
「でね、それまで日本で栄養士さんとして働いてたんだけど、そんなこんなで、ガッカリして再出発かなって香港行って、カフェ始めたらしいよ。あのカフェのある場所はおばあちゃん達がもともと違うお店をやってた場所だったんだって」
青磁せいじは戸惑って押し黙った。
そうか。あの人も大変だったんだなあと、ちょっと同情を覚えた。
結婚直前に新婦に逃げられるのもキツイが、彼氏が浮気してる、最低!と思ってたら、自分が浮気物件で、実は恋人に本命がいただなんて。
それもひどい話だ。
「・・・人に歴史ありっつうか・・・。皆、結構傷だらけで生きてる帰還兵だなあ・・・」
また会う時は羊羹ようかんを持って行ってやろうと思った。
「うん。だからきっと、桜ちゃんもいろいろ考えてくれたんだと思うの。・・・青磁せいじと愛し合うには戦うくらいの準備が必要だったって事」
でも、何をどうしたらいいかなんて分からなかった。
分からないながら、何かして、何かと出会って、積み上げてみましょう、と桜はいつも励ましてくれた。
よく行っていた漢方健康ドリンクスタンド的な涼茶リョンチャ屋のおじいさんが、薬膳の指南をしてくれたのだ。
それが今に繋がっている。
戻って来て、しばらく青磁せいじとは意識的に距離を取っていた。
彼にはきっと違う道もいくつもあったのだと、やはり実感する事も多かったから。
それが負い目と言うか、引け目と言うか。
この仔猫達と出会った日、久しぶりに青磁せいじと一晩過ごしたのだけれど。
まだ、戸惑っていた。
けれど、仔猫との生活は、あまりにも待った無しで余裕の無い日々で。
二人で手探りでバタバタしているうちに、はっとしたら、もうその手を離せなくなっていた。
青磁せいじもきっとそうだったのだろう。
「・・・私、戻って来て良かった。だいぶ時間は経ってしまったけれど」
虹子にじこがそう言うと、立ち上がって、青磁せいじの方に来て、頬に唇を寄せた。
突然の虹子にじこからの愛情表現に、青磁せいじは意外な程驚いた。
「・・・うん、あー・・。・・・今、やっと山頂に着いた気分」
と呟いた。
「何のこと?山登りでもするの?」
「・・・いや、してたんだよね。ずっと・・・。まあ、標高は高くはなかったかもしれないけれど、難所続きの険しい山だったわ・・・」
青磁せいじは感慨深気にそう言った。
変なの、と虹子にじこは首を傾げた。
「登山ってそう言うものらしいわよね。最初はキツくてヘトヘトだけど、慣れてくると、珍しい野生動物に出会ったり、変わった高山植物とかが咲いてるのに気付いて辛さの中にも楽しめるようになってくるらしいわよ。・・・深いわねぇ」
まさにお前の事なんだよ、と青磁せいじは吹き出した。
「何よ、本当よ。常連のさくらんぼ工務店のおじちゃん、そう言ってたもの」
「・・・いや、うん。辛さの向こう側・・・? そこまで行くまでがね・・・。いやそれにしても。帰って来てくれて良かった」
「・・・ちょっとおばちゃんになってだけどね」
虹子にじこが茶化して言ったが、今の自分は割に気に入っている。
「そんな事言ったら。こっちおじいちゃんに近付いてるよ。・・・虹子にじこは、なんか変だなーとは思ってたけど、猫が実は虎でしたって帰って来たとか、亀がガメラになって帰って来たとか、そういう感じ・・・」
青磁せいじは笑い続けていたが、虹子にじこを引き寄せた。
「・・・なあ、虹子にじこ、今日、休みにしなよ」
このまま、上に、夕方まで。いや、明日の朝まで。
やっと報われたような、そんな気分。
「ダメ。この記事出たから、きっとお客さん来てくれるもの。・・・そうだ、イチゴが出回って来たから枸杞クコの実とタルト焼いておいたの。味見してみて。イチゴって肝に効くからイライラとかにも良いのよ。年度末に向けて気忙しいから良いよね」
虹子にじこ青磁せいじから離れて、キッチンに一度戻り、テーブルにイチゴのタルトを置いた。
輝くような赤いイチゴが並んだタルトは、どうしたって魅力的。
「・・・ああ、確かにうまい。この時期イチゴうまいよな。・・・このさあ、この、よくくっついてる埃臭い小さい梅干しみたいの、これなんなの?」
「これが枸杞クコの実。ゴジベリー。スーパーフードって言われて、今結構話題なのよ?・・・ビタミンも多いし、足腰の疲れ、眼精疲労、高血圧低下・・・」
「そんなん、嘘だ。本当なら医者いらないだろう」
「あら、結構本当かもよ?他にもねえ、老化防止、精力増強・・・。私の薬膳の師匠のおじいちゃんはね、枸杞子は、不老不死の薬で愛の果実だって言ってたもん」
虹子にじこが笑った。
「・・・・食うか」
青磁せいじがタルトから枸杞の実を穿ほじくり出し始めた。
確かに、かつて虹子にじこも、これが不老不死に、愛の果実だなんて、と思った。
「その割にはちょっと見栄えしないというか、もっとハッとするようなものじゃないと、説得力感じない」と師匠に言うと、彼は虹子にじこに、君はまだまだだな、諭した。
「良いかい。得てしてそういうものなんだよ。愛や幸福がドーンとスイカみたいなものだと思ってはいけないよ、おチビさん。それからね、愛や幸福を感じる感受性を身につけなさい」
師匠は、いろんな食材をぐつぐつ煮込んでいる鍋を見ながら、ちゃんとメモしなさい、と念を押したものだ。
「・・・あとは、うーん、空気乾燥するし、手羽先とお野菜を揚げて。タレは金柑ママレード入れて、ちょっと甘くてピリ辛にして。あとはなつめ入りの花巻はなまきを蒸して、温かいポタージュでどう?小さめのスープボウルで、3種類。ビーツと、かぼちゃと、ほうれん草。赤と黄色と緑で色味もきれいじゃない?今流行りの、映え?を意識してみました!」
「赤、黄色、緑ねぇ。そりゃ、信号機みたいだね。映えもいいけど、こっちは癒しが無いと死ぬ。弱って死んでも良いの?」
青磁せいじは尚も言い募る。
虹子にじこはちょっと困ったような顔をしたが、そっと青磁せいじの首に腕を伸ばした。
昔、この優しく愛の深いこの人から、怖くて困って逃げ出して、なんとかしなくちゃと立て直して積み上げて、自分で戻って来た。
ああ、あの時望んだ幸福とは、とりあえずこういう形をしていたかと不思議にもおかしくも思う。
この仔猫達に出会ってから、だいぶこの関係が目で見えて、手で触れる事の出来るような実感になった気がする。
「・・・やっぱり、NNNネコネコネットワークって本当にあるのかも・・・」
「確かにこうして、若いカップルが成立してる訳だしなあ。それにネットワーク、だから。その効果はそこだけじゃない訳だろ。ご利益りやくだな」
再び大袈裟な新聞の見出しを見て、二人が笑った。
かごの中の猫達が、ガラス玉のような緑色と青い目を細めながらその様子を見ていた。
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