彼の呪は密やかに紡がれる

ちよこ

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酒呑童子⑩

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次に瞼を開けると深紫はいなかった。
切り落とされた右腕や、裂かれた胸元から腹にかけての傷は癒えていた。

相変わらず面は離れることなく、肌に食らいついていたが。



本当に人ではなくなってしまったのだろうか。
胸に手をあて確かめると拍動はあるが、雪のように冷たい。



『……やっぱり蒼白いな』



失われていた右腕を返しつつ眺める。
夜目がきくようになっていた。



カサリ、
草の葉の擦れる音。
振り向くといたのは母の隣にいた男だった。



「いたぞっ!」



伊吹はたちまち周りを取り囲む者達を、他人事のように見ていた。
次々飛ばされる罵詈雑言も耳をすり抜けていく。



『……俺が、あんたらに何をしたっていうんだよ』



小さな声はかき消された。



右腕が、疼く。
伊吹が指を擦りあわせると、どこからともなく太刀が現れた。
誰に教えられたわけでもなく、自然と体が動いていた。




体が軽い。
人が傀儡のように倒れていく。
跳ね返る飛沫が赤い鬼面をより艶やかに染めていった。



『ふ……フフ、アハハッ!
あんたらなんかクズだ。
俺が、粛正してやる』



笑いながら、舞うように次々と人の首を跳ねていく伊吹。
先程まで威勢のよかったあの男が腰を抜かしながら、後退る。

もう、他に立っている人間はいない。



「い……、伊吹……。
覚えてるだろ?
俺は、お前が赤子の時抱いたこともあるんだ」



額からとめどなく汗を流し、奇妙な笑みを浮かべながら言った。



一歩、二歩、

男に向かって足を進め、顔を寄せた。

男の瞳孔は開き、汚ならしい息遣いを繰り返す。


『……知らないな。
俺はもう、伊吹じゃない』



暗闇の中で刀身が動いた。
男の首はゴトリと落ち、美しい血潮を噴き上げている。
身体中に浴びながら、伊吹と呼ばれていた稚児は高笑いをあげた。



翌朝、ようやく光が射した時、村の者は惨劇に気付いた。
特に酷かったのはある女の亡骸。

美しかったと評判の顔が潰され、四肢は全てもがれていた。
全てを見ていたはずの侍女は、何も口を開かない。
たちまち噂は広がっていく。

血塗られた鬼面をつけた稚児が、集落を襲いながら京に近付いてきている。

襲われるのは長者の家から、乞食の家まで。





今宵の悲鳴は比叡山延暦寺から。



見知った顔が宙を舞う。
笑いかけてくれていた顔が恐怖に歪む。



気付け。
そしてあの世で悔やめ。
己の間違った価値観を。
積み重ねた業を。
俺が偽善者の皮を剥いでやる。



通いなれた回廊を進む。

ひた、ひた、

赤い足跡を残しながら塗籠の奥へ。



燭も吹き消され、半蔀も固く閉じられた部屋には誰もいない。
キョロリと見回す。



『いい年して隠れん坊ですか?』



くすくす笑いをもらしながら、迷いなく部屋の隅にあった大きな唐櫃を開けた。



『見ぃーつけた』



ガチガチと歯を鳴らす最澄を愉快そうに笑い声をあげて見つめる。



「……伊吹……、すみません……でした。
だから……見逃し……」



『……どうして謝るんです?』



唐櫃の縁に手をかけ、もたれかかりながら、首を傾げた。



心の底では悪いだなんて思ってないくせに。
命惜しさに口からでまかせを言うなんて嘔吐が出る。



『俺、ずっと待ってました。
いつもみたいにあなたが笑ってその手を差し伸べてくれるのを。
暗い中独りぼっちで』


凍りついた手を最澄の腕に伸ばす。
指先は滑り、最澄の爪先へと。


『でも、あなたはおろか、叡山の皆、誰一人来なかった。
皆、俺をないものとして扱った。
あの暗闇で聞こえたのは、俺の声と爪の剥がれる音だけでした』


草花をつむように愛らしい仕草で、最澄の爪を剥いだ。
絶叫が轟く。


『そう、こんな風に』


新しい遊びを見つけた童のように次々と生爪を剥いでいった。
最澄は痛みと恐怖で呼吸もままならない。


『……ねぇ、お師匠様?
一つ、教えて頂けますか。
なぜ山の神のご加護は尊ばれるのに、妖のご加護は忌み嫌われるのでしょう?』


どちらも特別な力を与える、という点では変わらないのに。
なぜ妖だけが蔑視を受けなければいけないのか。



暗闇で黄金色の瞳がぎらりと光る。
今もし、嘘を言ったら首が飛ぶのだろう。
最澄は涙や汗、鼻水にまみれた顔を震わせながら途切れ途切れに答えた。


「……あ、あ、あ……、
妖は……災いをもた……らす……」

『……災い、ですか』


寂しそうにポツリと呟いた。
けれど、次の言葉は憎しみに満ちていて。



『……腐ってる。
何が当代随一の高僧だ。
あんたは何も見えてない。
人に偉そうに訓戒なんか説けるようなヤツじゃない』


その細い指先を最澄の瞳の奥へとねじ入れた。
湿った嫌な音をたてて、眼球がくり貫かれ、また断末魔の悲鳴が響いた。

くり貫いた二つの眼球を掌で弄びながら唐櫃から離れた。



『こんな用を足さない濁った目玉なんて要らないですよね。
これでスッキリ物事が見通せるかもしれませんよ』



ケラケラと高笑いを残して、一飛びに空へ消えた。
空に浮かぶは血を吸い丸々と肥えた、



赤い、紅い月。
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