彼の呪は密やかに紡がれる

ちよこ

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闇夜と月夜

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晴れの日も、雨の日もひたすらに、鷹が高い鳴き声をあげ大空を舞っていた。
内裏に涼やかな音色が響き渡るなか、晴明は高欄に腰掛け猫に餌をやっていた。


「おう、晴明。お前またその猫を連れてんのか」 

「俺から離れん。
いっそアイツについて、引っ掻いてくれればいいのにな」


光栄は一あくびをし、頭上を旋回する影に目を向ける。


「妖を抑えるための鷹か。
あれこれ足掻くなんてお前らしくねぇな。
そんなに気に病んでたのか」


光栄の言葉に晴明は視線をゆっくりと落とした。
流れは既に急流となり渦を巻き、それはやがて周りを飲み込み始めていた。
 

「おや、二人が揃っているとは珍しい。
これは明日は雨でも降るか」


にこにこと満仲がやって来る。
柔らかな笑顔は変わらないが、頬はそげおち、顔色は優れない。


「雨どころか、雷が落ちるかもしれませんね」


光栄は皮肉な笑みを浮かべ、渡殿の先に消えた。
少しの沈黙の後、晴明が顔をあげる。 


「……兼家に姪を嫁がせたんだってな」

「おぉ、良く知ってるな。
兼家殿は何かと目を掛けていてくれているからな」


「夜もか?」


慌てて咳払いをする満仲に晴明は薄く笑った。


「……ところで、あの鷹は耳障りで仕方ないな。
頭痛がやまぬ」

「……兼家なんかもっと酷いだろうよ」 

「……もしやアレも妖か?」

「アレはただの鷹だ、気にするな」



普通の人間には。
果たして廟堂に並ぶ顔触れにはどうだろうか。

ふと、満仲にカマを掛けてみたくなった。

確信しているのにほんの少しの抵抗のつもりで。 


「なぁ満仲。
ここの所、星が怪しい動きをしてるのだが、心当たりはないか?」


落ちくぼんた瞳が不安そうに左右に忙しなく動いた。


「さぁ……知らぬなぁ。
それは変(事件)でもおこるという事か?」


予想より明らかな狼狽ぶりに思わず笑みがこぼれた。


「お前はもうわかってるだろう?
猫、行くぞ」


そう言うとチリン、と鈴が鳴り、猫は晴明の肩にふわりと乗ったときに肩の猫を初めて視界に入れたのか、満仲が眉を寄せた。


「晴明、内裏に生き物を持ち込むな」

「心配するな。
お前等と光栄以外には見えん」

「お前等……?」


満仲の問いは鷹の声にかき消された。

それからも鷹は休むことなく翔び続け、一際高く啼いた夜、渦がうねりをあげた。
漆黒の闇夜の晩だった。 


月の光の届かぬ夜には星の瞬きがよく見える。
一つ、大きく軌跡を残して星が流れた。

夜更けにも関わらず公卿らの門を叩き、呼ぶ声がする。
土御門には誰も訪れなかったが、晴明も内裏へ向かおうと袍を着込んでいると猫が懐に滑り込んできた。


「お前も野次馬しに行きたいのか?」


内裏に入る朱雀門では異形の者がしきりに中を覗き込み、通り過ぎて右京に消えていった。
どれも皆口々に、


『あぁ、恐ろしや。
真に恐ろしいのは人間だの』


と言い、震えていた。
土器かわらけなどは震えのあまり、そこらに身をばらまいてしまっていた。


異形の者の行列の最後に、袍を纏い、白髪が乱れきった男がいた。
顔は白く、酷く歪んでおり、目も眩むような閃光が朱雀門に向けて走った。



一際空を包む闇が深くなった。
既に星は身を潜めている。


「……やめろ。
それ以上すると祓わねばならん。
出来ればしたくはない」


晴明が男に話し掛けた。 


『……なぜそなたはあやつらを止めぬのだ。
私と同じ者を作ってはならぬ』


低く感情を圧し殺した声。
表情は抑えきれない怒りや無念が滲み出ており、負の仮面で覆われたその顔は生前の知性に満ちた穏やかさとは似ても似つかない。


「道真公、貴方は我等が手を貸せば憤死せずにすんだと言いたいのか?
止めた所でいずれまた同じ事が起こる。
変えられぬ運命なのだ」 


『……運命。
果たして人に踏みにじられるだけの運命があって良いものなのか……』


その白目が赤く染まった瞳を晴明に向け、尋ねるまではいかない言葉を投げ掛けた。


この男、菅原道真は藤氏以外では珍しく、右大臣まで登り詰めた。
けれど絶頂にある時、兼家の祖先にあたる藤原時平によって太宰府に左遷、事実上失脚させられてしまった。
道真は京への思いを深く残し、海の先で息絶えた。

道真は死ぬ間際まで抱いていた思いを口にもらしたのだろうか。

突然、昼夜がすり変わったかのように空が明るくなった。
あまりの光の量と雷鳴のつんざくような音にとっさに袖で覆い隠した。

目を開けた時には、何の痕跡もなかった。
かの道真公の姿も。 


「……お前らが気付いていないだけで、踏みにじられ消される命など、腐る程この京にはあるさ」


晴明は舌打ちをし、門をくぐった。


内裏の中は物々しい空気に満ちて普段は顔色を窺ってばかりの武士が色めき立ち、威張り腐っている公卿が色を失っている。
夜更けにあるまじき喧騒だった。



皆、落雷など気にもとめていない。
いや、そもそも落雷などなかったのかも知れない。

ひさしをゆったりと歩いていると、強く瞳に焔を灯している満仲と出くわした。 


彼は晴明の姿を見つけるなり、気まずそうにスッと視線を反らし、踵を返した。
晴明は後を追いかけるわけでもなく、ただその闇に染まった背を見つめていた。

ふと猫の鈴が鳴り、背後から声をかけられた。


「……晴明、懲りもせずその猫をまだ連れてるのか」

「……おう、久しぶりだな」


その言葉に兼家は焦点の合わない瞳を緩ませる。
しばらく見ることの出来なかった、どこか頼りない、人の良さげな瞳。


「……本当に久しぶりだな、晴明……」

「……珍しいな。
あの女はどこへ行ったんだ?」 

「……女とは……?」


不安気に眉を寄せる兼家に、晴明は柔らかに笑いかけた。


「何でもない、こっちの話だ。
それよりこの騒ぎ、大変だな」

「……俺にも何がなんだかわからぬがどうやら謀反が起きたらしい。
気付いたら内裏で満仲から報告を受けていた。
最近記憶が良く飛ぶのだ。
なぁ晴明、俺には何か良からぬものが憑いているのではなかろうか」

「……兼家。
今なら救ってやれる。
苦しいがじっとしてろ」


兼家が答えるより早く、晴明は指を兼家の額から鼻、口へと滑らせて胸の中心で止め、彼には珍しくハッキリと呪を唱え印を組んだ。

途端に兼家は頭を抱え込み、苦悶の表情を浮かべ始めた。
尋常ではない汗が全身から吹き出ているが、晴明は印を結ぶ手を止めない。 


「うぐ…ッ……晴…明……!!」

「もう少しだ兼家……、耐えてくれ………」


最後の呪を結び、フッと息を吹く。
胸に当てていた指がズブズブと体の中に入っていく。

強い風が兼家の体から吹き、あの風音のような、不気味な啼き声が聞こえた。
その悲鳴のような啼き声はもはや言葉として解さない。
叫び声を上げる口からは泡が吹き出し、体は痙攣してのたうち回っている。 


「……今更抵抗しても遅い。
油断して兼家の体を離れ、満仲の元に行っていたお前が悪いんだ」


晴明の口角が不敵に歪む。

断末魔の悲鳴が轟き、晴明は一気に指を引き抜くと辺りに無数の黒と金の毛が舞った。
掌には、小さな脈打つ心の臓。
握り潰すように力を込めると、それは焔を上げて一瞬の内に燃え尽きた。 

兼家が足元に崩れおちた。
その顔色は青く、意識はない。
首筋に触れてみると微かにふれる脈。

晴明は目を閉じ、安堵のため息を吐いた。


「……運が良かった」



人形を袂から出し、息を吹き込むと紙はみるみる内に真紅の髪を持つ童へと姿を変えた。 
ポリ、と頭を掻き、赤毛の童が呟く。


『……晴明、
こんな事に俺を使うなよな』

「……朱雀。
俺の命令は絶対、だろう?」

『……仕方ねぇなぁ』


ため息をつき、自分の身丈よりも大きな兼家をひょいと運び、夜空に消えた。
内裏にひしめく者は誰一人として空を跳ねる影には気付かなかった。 

晴明はそのまま高欄に寄りかかり忙しなく動く人を見やった。

ここで今起こった事を誰も気にとめない。
皆、ここぞとばかりに手柄を立てようと躍起になっている。


「川の支流が一つ留められたかといって全体の流れは変わらないものだな……」


晴明は武装した兵が内裏を行列して出ていくのを見送った後、兼家の屋敷に向かった。 


兼家は昏睡状態のまま日を過ごした。
昼も夜も、とうとうと。

ようやく萎びた瞼が開いたのは月が揚々と顔を覗かせた頃だった。
ゆっくりと状況を見定めるように瞳が動いた。


「……ここはあの世か……?」

「お前はついに己の屋敷も忘れるほど呆けたのか?」


衝立から晴明が顔をひょいと出した。


「……晴明……」 

「体は動くか?」


白湯を入れた器を兼家の口に付け、飲ませるとごくりと音をたて飲み干した。


「動かせるが、自分の体ではないみたいだ」

「まぁ大分巣食われてたからな。
しばらく寝てればいいさ、事は既にカタがついた」

「事とは……あの満仲の報告か?」 


晴明は口角を上げ、肯定した。


「しかし信じられぬ。
あの穏やかな源高明殿が今の東宮(皇太子)を廃して、為平親王を掲げ東国で兵を挙げるなどと……。
大体前帝が崩御して既に時が経ちすぎていると言うのに……」


「理由は何でも良いのさ。
兼家、よく聞けよ、お前には女が憑いてた。
元は人間だったが、鬼に魅入られてしまっていた。
……ひたむきな女だった」


兼家の眼尻が疑問を投げ掛ける。 


「昔、女と満仲の父は恋仲だった。
捨てられてもなお、慕っていた。
鵺となってまで、探し続けるほどに。
その思いは面影を遺す息子に移り、力になりたいと願うようになり、お前を介して近付いた」


兼家は黙って耳を傾けている。


「どちらからかはわからないが、提案したんだろう。
満仲にとって邪魔な者を排除しようと」

「……そういえば謀反人の中に藤原千晴が入っていたな。
あの男は武門の出で満仲殿より優位にたっている」 

「……千晴の主は誰だ?」


低く尋ねると、兼家はあ、と声をもらし、目を見開いた。


「……源高明殿だ。
為平親王の後見人……。
……だからか」

兼家は今度は頻りに頷き始めた。


「これで繋がっただろ?
まぁ結果的にお前にも良かったんじゃないか?」 


兼家は晴明の言葉の意味を解さなかったらしく、晴明はため息をついた。


「全く鈍いヤツだな。
今回の変で処罰されたのは公卿で源高明、橘繁延、源連、武家では藤原千晴とその息子の久頼だ。
お前等、藤原北家以外はあらかた一層されただろ?」


先ほどより大きな声が上がった。


「なるほど!
素晴らしいなそれは!
俺もとり憑かれた甲斐があったな!」

「笑い事じゃない。
お前あのままだったらいずれ喰い尽くされてたぞ?」

「おぉそうか……それは恐ろしいな」


肩をすくめ、眉を寄せたと思ったらすぐに笑みを称えた。


「でも晴明が救ってくれた。
ありがとうな」

「……おう」


一瞬、晴明は目を丸くし、むず痒そうに少しだけ口許を綻ばせると、兼家がふと晴明の後ろの几帳に目をやり微笑んだ。


「晴明、もう一つ良い事があったぞ」

「ん、何だ?」

「どうやら俺にも妖が見えるようになったらしい。
これで目に見えぬものに怯えなくて済むな」

「……なぜわかる?」

「あそこにお前と良く似た狐の女性が見える」


晴明が首を傾げると兼家は鉛のような指を震わせながら几帳を指した。
晴明は振り向き見るが何もない。


「お前のその髪と眼の色は陰陽師だからだと思っていたが、狐の血が入っているためだったのだな。
優しそうな母君だ」


フフ、と何とも可笑しそうに笑う兼家。
晴明は珍しく眉を僅かばかり下げた。 


「人ではないと……軽蔑するか……?」


じっと見る瞳の睫毛が微かに震えていた。


「なぜ軽蔑する必要があるのだ?
晴明は晴明だろう」


兼家の言葉に晴明は目を見開いた後、笑った。


「しかし俺にも見えぬものを兼家が見るとはなぁ」

「あまりに近過ぎて見えぬのではないか?
そう全てが見えてしまっては面白くない」 

「……それもそうか」


穏やかに笑いながら晴明は腰を上げ、蔀戸しとみどを開けると締め切られていた部屋に、初春の風が吹き込んできた。
冬の涼やかさと、春の華やかさを纏った香り。

草木は目覚め、息吹き始める。



ふわり、



晴明の頬を撫でるように暖かな白銀の光が満月に消えた。 
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