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第九章:影の子
二話
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身体がよろめき、咄嗟に壁に手を着く。大きな音と振動で、高い位置に掛けてあった時計が外れ、床に落ちた。その拍子にガラス面が割れ、二枚の破片が転がった。
突然の出来事に、窓際にいた兵士が振り返る。
「少佐──…」
「寄るな」
少し焦った声を聞き、ローガス少佐は鋭く言った。
「構わなくていい。つまずいただけだ」
壁掛け時計を拾いながら、続けて口にした。ガラスの破片に触れた際に、指先を浅く切ったが、上着の裾に押し当ててごまかす。詮索をされたくはない。周りの人間で気付いた者もいるが、徐々に薄れていく視力は、まだ隠し通していたい。
医師は、年内が限りだと診断を下した。
当たり前だが、それを信じたくはなかった。
「……時間だな」
「お気を付けて。時計、直しておきます」
姿勢のよい兵士に見送られ、部屋を後にした。
ケウレスから近い国立病院に、患者は運ばれた。生命に別状はなく、銃撃を受けた直後に暴れたため、失血で意識を失っていた。まだ死なせるわけにはいかない。外部の接触を遮断し、治療が施された。
後の容体を診た看護師が、治療室から姿を現す。
入れ替わりに、眼鏡を装着したローガス少佐が、部屋へと立ち入る。
──寝台に横になっていた女が、視線だけをこちらに向けた。
不思議と、懐かしさは微塵も起こらなかった。ただそこにあるのは、互いの間に残る事実だけだ。ノーディスの女──ユーレンは、八年前に彼らを裏切った。ただ、それだけ。
「外せ。また呼ぶ」
萎縮するように佇んでいた、初老の医師に告げた。
彼は微かにほっとして、治療室を出ていった。
「手荒な真似、すみませんね。参謀」
ローガス少佐はまず、謝罪の言葉を口にした。そして、相手の反応を窺った。
残念ながら、ユーレンは無表情のままだ。
相変わらず、頑なな女だ。──ローガス少佐は、心の内で毒づく。
「あなたは頭が切れるから、自決なんてばかな真似、しないでしょうね」
自力で舌を嚙み切れば、苦痛は長引くだろうが、いずれ死を呼ぶことができる。例え手足が思うように動かなくとも、手早く生命を堕とすことができる術だ。それを敢えて持ち出し、牽制した。
「分かっているとは思うが、あなたと一緒にいた……」
「脅しのつもりでしょうけれど」
唐突に、ユーレンが口を開いた。
「ノーディスには、効かないわ。残念ね……」
まだ麻酔が残っているはずだ。それでも彼女は、平然とした表情でいた。
「あの子どもは、見棄てる気ですか?」
「ああ見えて、猟兵の端くれよ」
「身柄は、こちらが預かっているんでね。あなたの態度次第では、どうにでもなる」
そう告げたが、はったりだ。ケウレスでの銃撃後、逃げた少年の行方を追ったが、見失ったと報告を受けた。
始末しろ、とフュレには命じていた。しかし、しくじった。残酷になり切れない彼女が、初めは庇っているのかとも考えたが、その後の捜索でも発見できなかった。
海に落ちて、くたばったか。運よく逃れ、隠れたか。
惜しいことをした──と、ローガス少佐は悔やんだ。生け捕りにできれば、優位な交渉ができたはずだ。ただ、いつまでも固執することはできず、嘘の情報を与えることにした。
──しかし、驚いたことに、ユーレンはくすりと笑った。
「何がおかしい」
「ふふ、せっかく身に付けた言葉遣いが、戻っているわよ」
「……煽って楽しいか? あんた、捕虜なんだぞ」
怒りは湧いてきたが、ローガス少佐は堪えた。
上層部からの指示で、殺してはならない。銃弾を三発も撃ち込んだことについても、彼は叱責されていた。
「少尉、あなたは……」
露わにされている苛立ちにも、特に気にする素振りは見せず、ユーレンはまっすぐな瞳を向けた。
「ガラハン公国のために、生命を捧げられるかしら?」
「なんだと?」
「あなたは、わたしたちに一度負けている。いくら繰り返しても、同じことよ。それでも、北ガラハン軍はあなたに、先陣を切ってノーディスに立ち向かえ、と言うでしょうね。……なぜだか分かるかしら」
「……知った風な口、利くな」
ローガス少佐は、押し殺したような声で抵抗した。虫唾が走ったのは、相手が彼を哀れんでいるからだ。敵に情けを掛けられているようで、嫌気が差した。
ユーレンとジャックスは、どこか似ている。それも、最悪な点だ。
「わたしも、同じだったから……」
「は?」
聞こえるか聞こえないかほどの一言に、ローガス少佐は問い返す。
しかしユーレンは、穏やかな顔色で天井を眺めた。まるで、話は終わりだ、とでも言うように。
「あんたがそんな態度でもな、捕虜だってことに変わりはない。続けてみろ。目の前で、あのガキを殺してやる」
「わたしは、口を割る気はないわ」
「今度は、ノーディスを裏切るんだ。ジャックスが知ったら、さぞ驚くだろうな」
「……そうね」
ローガス少佐は、歯を嚙み締めた。そして次の瞬間──ユーレンの肩近くを強く掴んだ。まだ傷の深い、塞がっていない銃痕だ。
ユーレンは悲鳴さえ上げなかったが、激痛に表情を歪める。
「すましていられるのも、今のうちだ」
乱暴な台詞を吐き、ローガス少佐は彼女に背を向けた。
焦りは身を滅ぼす。──そう分かっていても、余裕など生まれてこない。
彼には時間がないのだ。現実が、心の焦りへとつながっていた──
突然の出来事に、窓際にいた兵士が振り返る。
「少佐──…」
「寄るな」
少し焦った声を聞き、ローガス少佐は鋭く言った。
「構わなくていい。つまずいただけだ」
壁掛け時計を拾いながら、続けて口にした。ガラスの破片に触れた際に、指先を浅く切ったが、上着の裾に押し当ててごまかす。詮索をされたくはない。周りの人間で気付いた者もいるが、徐々に薄れていく視力は、まだ隠し通していたい。
医師は、年内が限りだと診断を下した。
当たり前だが、それを信じたくはなかった。
「……時間だな」
「お気を付けて。時計、直しておきます」
姿勢のよい兵士に見送られ、部屋を後にした。
ケウレスから近い国立病院に、患者は運ばれた。生命に別状はなく、銃撃を受けた直後に暴れたため、失血で意識を失っていた。まだ死なせるわけにはいかない。外部の接触を遮断し、治療が施された。
後の容体を診た看護師が、治療室から姿を現す。
入れ替わりに、眼鏡を装着したローガス少佐が、部屋へと立ち入る。
──寝台に横になっていた女が、視線だけをこちらに向けた。
不思議と、懐かしさは微塵も起こらなかった。ただそこにあるのは、互いの間に残る事実だけだ。ノーディスの女──ユーレンは、八年前に彼らを裏切った。ただ、それだけ。
「外せ。また呼ぶ」
萎縮するように佇んでいた、初老の医師に告げた。
彼は微かにほっとして、治療室を出ていった。
「手荒な真似、すみませんね。参謀」
ローガス少佐はまず、謝罪の言葉を口にした。そして、相手の反応を窺った。
残念ながら、ユーレンは無表情のままだ。
相変わらず、頑なな女だ。──ローガス少佐は、心の内で毒づく。
「あなたは頭が切れるから、自決なんてばかな真似、しないでしょうね」
自力で舌を嚙み切れば、苦痛は長引くだろうが、いずれ死を呼ぶことができる。例え手足が思うように動かなくとも、手早く生命を堕とすことができる術だ。それを敢えて持ち出し、牽制した。
「分かっているとは思うが、あなたと一緒にいた……」
「脅しのつもりでしょうけれど」
唐突に、ユーレンが口を開いた。
「ノーディスには、効かないわ。残念ね……」
まだ麻酔が残っているはずだ。それでも彼女は、平然とした表情でいた。
「あの子どもは、見棄てる気ですか?」
「ああ見えて、猟兵の端くれよ」
「身柄は、こちらが預かっているんでね。あなたの態度次第では、どうにでもなる」
そう告げたが、はったりだ。ケウレスでの銃撃後、逃げた少年の行方を追ったが、見失ったと報告を受けた。
始末しろ、とフュレには命じていた。しかし、しくじった。残酷になり切れない彼女が、初めは庇っているのかとも考えたが、その後の捜索でも発見できなかった。
海に落ちて、くたばったか。運よく逃れ、隠れたか。
惜しいことをした──と、ローガス少佐は悔やんだ。生け捕りにできれば、優位な交渉ができたはずだ。ただ、いつまでも固執することはできず、嘘の情報を与えることにした。
──しかし、驚いたことに、ユーレンはくすりと笑った。
「何がおかしい」
「ふふ、せっかく身に付けた言葉遣いが、戻っているわよ」
「……煽って楽しいか? あんた、捕虜なんだぞ」
怒りは湧いてきたが、ローガス少佐は堪えた。
上層部からの指示で、殺してはならない。銃弾を三発も撃ち込んだことについても、彼は叱責されていた。
「少尉、あなたは……」
露わにされている苛立ちにも、特に気にする素振りは見せず、ユーレンはまっすぐな瞳を向けた。
「ガラハン公国のために、生命を捧げられるかしら?」
「なんだと?」
「あなたは、わたしたちに一度負けている。いくら繰り返しても、同じことよ。それでも、北ガラハン軍はあなたに、先陣を切ってノーディスに立ち向かえ、と言うでしょうね。……なぜだか分かるかしら」
「……知った風な口、利くな」
ローガス少佐は、押し殺したような声で抵抗した。虫唾が走ったのは、相手が彼を哀れんでいるからだ。敵に情けを掛けられているようで、嫌気が差した。
ユーレンとジャックスは、どこか似ている。それも、最悪な点だ。
「わたしも、同じだったから……」
「は?」
聞こえるか聞こえないかほどの一言に、ローガス少佐は問い返す。
しかしユーレンは、穏やかな顔色で天井を眺めた。まるで、話は終わりだ、とでも言うように。
「あんたがそんな態度でもな、捕虜だってことに変わりはない。続けてみろ。目の前で、あのガキを殺してやる」
「わたしは、口を割る気はないわ」
「今度は、ノーディスを裏切るんだ。ジャックスが知ったら、さぞ驚くだろうな」
「……そうね」
ローガス少佐は、歯を嚙み締めた。そして次の瞬間──ユーレンの肩近くを強く掴んだ。まだ傷の深い、塞がっていない銃痕だ。
ユーレンは悲鳴さえ上げなかったが、激痛に表情を歪める。
「すましていられるのも、今のうちだ」
乱暴な台詞を吐き、ローガス少佐は彼女に背を向けた。
焦りは身を滅ぼす。──そう分かっていても、余裕など生まれてこない。
彼には時間がないのだ。現実が、心の焦りへとつながっていた──
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