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4.地獄に墜ちた月が掴むのは

32話

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 がちゃん、と大きめの物音で目が覚めた。

 重たい瞼を上げれば、未だ夜が世界を覆っている。
 暗い室内で、ベッドから体を起こせば、隣に誰もいないことに気がついた。シーツにも温もりは残っていない。

 明かりをつけようとした手を止めて、息を殺して足音を消す。

 ドアに耳を当てて確認するが人の気配はない。
 耳が痛くなる静寂に耐えきれずに、冷たいドアノブを慎重に握って、押し開いた。

 リビングも同様、闇に飲まれていた。
 鼻に届く、薔薇の香りは変わらない。

 だがそれは安心には繋がらず、月音の心はざわつき、むくむくと不安が首をもたげる。
 頼りなく白のワンピースの裾を握った。
 自分の呼吸音と鼓動がやけに大きく聞こえて、焦燥感を煽る。

 静かにしなければ。でなければ。

 短く息を吐き、詰まるような空気から逃げるよう足を動かす。

 リビングから台所へ。
 ついこの間取り出したばかりの、お守りであり唯一の拠り所であるナイフを求める。

 明かりをつけるのも憚れて手探りで、棚へ。


「嬢ちゃん、ようやく見つけた」


 ――瞬間、月音の体は予備動作なく、攻撃へと移行した。


 咄嗟に握ったカトラリーを振り向きざまに、後ろへ薙ぎ払った。正体不明のそれが息を呑むのが伝わるが、手応えは全くない。
 染み付いた動きは思考よりも早く、次なる一手を繰り出す。

 両手で握り、全体重を乗せて振り下ろそうとした、が。

「ッ!」
「この……ッ大人しくしろ!」

 手首を打ち付けられ、カトラリーが地面に落ちる。

 地を蹴って距離を取れば、闇夜に慣れた目がその姿を捉えた。

 がっしりした体躯、薄手のワイシャツに身を包んだ男。
 手には長物が握られていた。

「くそ、面倒だな……テメェには大人しくついてきて貰わなきゃなんねぇんだよ」

 しゃがれた、鋭い声ともに何かが地面を叩きつける攻撃的な音がする。がらがらと引きずる金属音も、全てが威嚇として月音を正確に追い詰めた。

 月音は顔も判別つかぬ視界の悪さに、ぐっと目を凝らした。しかし全貌はわからない。
 ただ放たれる悪意は、紛れもない真実だ。

 そこでようやく思考が追いつき、回転を始める。

 何故ここに、見知らぬ男が入り込み、攻撃してくる?
 考えれる原因が多すぎて判断がつかない。
 一番の有力候補は。

「とら、ざわ……?」

 真っ先に思い浮かぶ。

 だが、だとしても。何故ここに入れた?

 疑問で壁にぶつかり、それ以上の答えは出てこない。
 そればかりに、気をやるわけにはいかない。

 月音は考えを振り払い、目の前の敵に集中した。

 硬直状態に、互いに瞬きすらしない。
 ちょうど背中がシンクにあたり、後ろ手で包丁を探し当てる。 

 とてもじゃないが、不意打ちも望めない状況で勝機は見いだせない。どうにか逃げ出す隙を。

 そのときだった。

「おい、まだ捕まえてねぇのか。女一匹に何手こずってやがる」

 玄関が開く音が、した。
 建付けは悪くないはずなのに、ぎぃと軋むような不快そのものが、辺りに広がる。
 同時にむわりと臭いが滑り込み、たちまち充満して支配した。嗅ぎなれた、異臭。

 鉄のようなそれ。

 目は勝手にそちらへと動く。
 暗闇でもわかる、床に転がる物体を中心に広がる液体。
 色の判別はつかずとも脳は勝手に導き出す。

 血、それも致死量をこえた。

 死体、いや、まさか。彼なわけが。

「っしま、」

 一瞬の油断、それを見過ごすほど男は愚かではなかった。

 凍りついた月音が我に返ったが、一秒、遅い。
 顔を男に戻したとき、視界に飛び込んだのは振り下ろされる金属バットの影。

 がつん。

 頭部に激しい衝撃。
 火花が散って、思考も動きも意識も全てを奪われる。
 
 為すすべもなく、冷たい地面に叩きつけられ、ぼやける。
 近場の包丁は手放さなかったものの、突き立てる力は残されていない。

 どろりと額から伝う何かが、目に入って痛む。
 こみ上げる吐き気、ぐわんぐわんと揺れる世界。

「ぐ、……ぅ……!」

 死ぬわけにいかない。
 生きなければならない。
 こんなものに、殺されてたまるものか。
 殺さなければ、死ぬ気で、生きなければ。

 目が回るような感覚が一斉に襲いかかってもなお、月音は男を、よく見えない闇そのものになったそれを、射殺さんばかりに睥睨した。
 
 唇を噛み締め、地に爪をたてて、ぎらぎらと鋭利な刃物のごとく、瞳を光らせる。
 獣と同じく荒々しい息遣いが体を震わし、痛みを倍増させようと、殺意を裂けんばかりに膨らませて相手にぶつける。

 闇が気圧されたのか息をのむ。

 が、それもすぐに炎のごとく苛烈な怒りへと変貌した。

「おら、とっとと寝てろッ!」

 風を切り裂く音。
 直前、耳が拾ったのは酷く冷静な言葉だった。

「やはり――月花の」

 それを最後に、月音の意識は昏い底へと突き落とされた。
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