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悪役令嬢は悪徳商人に娶られる
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『――ヴィンス』
深窓の令嬢がそう呼んで美しく微笑む。
ヴィンセントは不意に訪れたこの僥倖を深く神に感謝した。
「こちらが王家からの注文一覧です」
「なるほど。まだ新しい婚約も締結できていないくせに、王子も気の早いことだな」
レアード商会の元には次々と新しい依頼が舞い込んでいた。すべて第一王子の新しい婚約者に関わるものだ。
新しいドレスに新しい宝飾品、お披露目パーティーに向けて必要な食材や物資の調達。中にはウェディングドレスの発注依頼もあった。この国の伝統技術をふんだんに取り入れた豪奢で古典的なデザイン。
それは直接レアード商会に注文されたものもあれば、職人に個別に依頼されたものもある。
けれど職人たちの多くがヴィンセントの取り仕切る商業組合に参加しており、そもそも商品を売るのがレアード商会なら、職人たちに材料を卸すのもレアード商会だ。王都の金は必ず一度はヴィンセントの手中を通る。情報はすべてヴィンセントの元に集まっていた。
「たくさん依頼が入るのはありがたいことだ。せいぜいたっぷり金を遣ってもらおう」
王家が派手に金を落とせば落とすほど、貴族も準じて金を使い、巡りめぐって豊かになった平民たちがまた金を使う。さあ忙しくなるぞ、と商会の人間は笑いが止まらなくなる。ヴィンセントもそうだ。気合を入れる。
「ご令嬢のレース編みの店、いけるんじゃないですか?このタイミングで露出すれば確実に流行ると思いますよ」
ヴィンセントの腹心であり、副会頭でもあるラニーが言う。メイヴェルが下町にやって来て数ヶ月。レース編みの店は毎日少しずつ客が増えている。
「いや、それは難しいと思う」
「なぜですか?」
デスクで書類に視線を落としたまま、ヴィンセントは年下の令嬢を思い出し、ふっと口の端を上げた。
「あのお姫様は高貴すぎる」
メイヴェルは侯爵令嬢の上、長年王妃教育を受けてきた第一王子の元婚約者だ。そんな逸材を王家がただで放り出すとも思えない。
下手に悪目立ちすれば、どんな沙汰を下してくるか。ろくでもないものに決まっている。
ヴィンセントの意見にラニーは「なるほど、一理ありますね」と顔を顰めた。ラニーもメイヴェルの背景は聞き及んでいる。
「…そろそろ頃合いかもな」
黒い商人はそう言って煌めくライトグリーンの瞳を宙に向けた。静かな横顔はしかし野心に満ちていて、まるで野生の獣のようだった。
―――レアード商会は、ヴィンセントがまだ子供の頃に興した商売がきっかけになっている。
10年程ですっかり市場を独占するようになったのも、すべてヴィンセントの手腕によるところ。彼を認め庇護下に入った者にとっては頼もしいが、そうでない者からすれば空恐ろしいばかり。内から外からすべてを思い通りに動かす様に、畏怖と畏敬の念を込めて悪徳商人とも評された。
いつか国すら手に入れるのでは、と慄く者もいると――本人ももちろん知っている。ヴィンセントは欲しいものは必ず手に入れる男だ。
***
「メル、少し話がある」
「あらヴィンス。どうかしたの?」
その日もヴィンセントはメイヴェルの店を訪れた。
繊細な硝子細工のようなアイスブルーの瞳が黒い商人を捉えてうれしそうに輝く。それを見て、ヴィンセントも柔らかく頬を緩めた。
「少し出ないか?」
その日、店にいたのはマヤだった。
ヴィンセントが視線を向けるとマヤは頷いて了承する。
メイヴェルはヴィンセントの手によって顔が隠れるようストールですっぽりと覆われてしまった。白金色の髪も丁寧に中に仕舞い込まれる。
それからキャメル色のコートを肩にかけられた。それはマヤの持ち物で、平民がよく身につけている定番のデザインだった。
「行こう」
「え、え?」
ヴィンセントに促されるままメイヴェルは店を出る。ちらりと後ろを振り返るとマヤが笑顔で手を振っていた。
「ちょっと、ねえ、どこに行くの?」
ヴィンセントに手を引かれるまま足を進める。足元は室内履きにしていた踵の低いパンプスで、細い足首が無防備に覗く。
連れてこられたのは近くの教会だった。
礼拝の時間と大きくずれているため人の気配はない。二人は礼拝堂の椅子に横並びで座った。
「ヴィンス?どうしたの?」
長い睫毛を瞬かせて問うメイヴェルに、ヴィンセントは正面の神像を見つめたまま言った。
「メル。本気でメイヴェル嬢の名を捨てる気はありませんか」
「え?」
「あなたは以前、何者でもない自分になりたいとおっしゃっていた。それは理解します。けれどこのまま店を続けていたら、あなたが本当はメイヴェル・バーネット侯爵令嬢だということが隠しきれなくなる。侯爵様にはきちんと報告をしているわけですし」
メイヴェルは息を飲む。
わかっていた。ずっといまのままではいられないことくらい。
「ありがたいことにレース編みの店は順調です。しかしそれだけ注目されているということで、あの店が貴族や王族の知ることになる日も遠くはないと思われます」
「そう、かしら…?」
ストールの下で美しい顔が青褪めていく。ヴィンセントはそれを認めながら静かに頷いた。
「それからこれは私の憶測ですが、あなたの存在は、王家にとって不都合なものなのではないでしょうか?」
第一王子の婚約者として長年に渡り王妃教育を施されたご令嬢だ。立ち居振舞いはもちろん、一国の政治的な考え方や国内外の有力者との付き合い方、王家内部の人間関係など。おいそれと放逐するには知り過ぎてしまっている可能性がある。
それでもメイヴェルが侯爵家の令嬢として、ひいては王家の駒として、国内で適当な相手へ嫁ぐのであればまだましだったろう。――監視はつくだろうが。
しかし平民街で無防備にふらふらしていれば、危険因子と見なされるはずだ。大事に至る前に『処分』されてしまう可能性もある。
「もしあなたがメイヴェル・バーネットという名に未練がないのであれば、本当にメイヴィス・ジーンとして生きてみませんか」
「わた、わたくし、は…」
メイヴェルは可哀相なくらい顔色を白くさせ、震える指先を口許に添える。ヴィンセントはそんなメイヴェルに向き直り真摯に告げた。
「私ならあなたを生まれ変わらせることができる。そして」
メイヴェルの白い手を包むように両の手で握り込み。
「私の側にいてほしい」
「え…?」
メイヴェルは驚きに目を見開いた。
「こんなことをいまあなたに告げるのは卑怯だとわかっている。だが言わせてほしい。私の側にいてほしい。私にあなたを守らせてほしい」
「ヴィンス」
「私にあなたを愛させてほしい」
ヴィンセントの手は大きくて、メイヴェルの手なんて簡単に包まれてしまう。なのにぎゅうと痛くない程度に力が込められて、メイヴェルはどきんと心臓が跳ねた。まるで離さないといわんばかり。
メイヴェルはかあっと白い頬に朱を走らせた。
深窓の令嬢がそう呼んで美しく微笑む。
ヴィンセントは不意に訪れたこの僥倖を深く神に感謝した。
「こちらが王家からの注文一覧です」
「なるほど。まだ新しい婚約も締結できていないくせに、王子も気の早いことだな」
レアード商会の元には次々と新しい依頼が舞い込んでいた。すべて第一王子の新しい婚約者に関わるものだ。
新しいドレスに新しい宝飾品、お披露目パーティーに向けて必要な食材や物資の調達。中にはウェディングドレスの発注依頼もあった。この国の伝統技術をふんだんに取り入れた豪奢で古典的なデザイン。
それは直接レアード商会に注文されたものもあれば、職人に個別に依頼されたものもある。
けれど職人たちの多くがヴィンセントの取り仕切る商業組合に参加しており、そもそも商品を売るのがレアード商会なら、職人たちに材料を卸すのもレアード商会だ。王都の金は必ず一度はヴィンセントの手中を通る。情報はすべてヴィンセントの元に集まっていた。
「たくさん依頼が入るのはありがたいことだ。せいぜいたっぷり金を遣ってもらおう」
王家が派手に金を落とせば落とすほど、貴族も準じて金を使い、巡りめぐって豊かになった平民たちがまた金を使う。さあ忙しくなるぞ、と商会の人間は笑いが止まらなくなる。ヴィンセントもそうだ。気合を入れる。
「ご令嬢のレース編みの店、いけるんじゃないですか?このタイミングで露出すれば確実に流行ると思いますよ」
ヴィンセントの腹心であり、副会頭でもあるラニーが言う。メイヴェルが下町にやって来て数ヶ月。レース編みの店は毎日少しずつ客が増えている。
「いや、それは難しいと思う」
「なぜですか?」
デスクで書類に視線を落としたまま、ヴィンセントは年下の令嬢を思い出し、ふっと口の端を上げた。
「あのお姫様は高貴すぎる」
メイヴェルは侯爵令嬢の上、長年王妃教育を受けてきた第一王子の元婚約者だ。そんな逸材を王家がただで放り出すとも思えない。
下手に悪目立ちすれば、どんな沙汰を下してくるか。ろくでもないものに決まっている。
ヴィンセントの意見にラニーは「なるほど、一理ありますね」と顔を顰めた。ラニーもメイヴェルの背景は聞き及んでいる。
「…そろそろ頃合いかもな」
黒い商人はそう言って煌めくライトグリーンの瞳を宙に向けた。静かな横顔はしかし野心に満ちていて、まるで野生の獣のようだった。
―――レアード商会は、ヴィンセントがまだ子供の頃に興した商売がきっかけになっている。
10年程ですっかり市場を独占するようになったのも、すべてヴィンセントの手腕によるところ。彼を認め庇護下に入った者にとっては頼もしいが、そうでない者からすれば空恐ろしいばかり。内から外からすべてを思い通りに動かす様に、畏怖と畏敬の念を込めて悪徳商人とも評された。
いつか国すら手に入れるのでは、と慄く者もいると――本人ももちろん知っている。ヴィンセントは欲しいものは必ず手に入れる男だ。
***
「メル、少し話がある」
「あらヴィンス。どうかしたの?」
その日もヴィンセントはメイヴェルの店を訪れた。
繊細な硝子細工のようなアイスブルーの瞳が黒い商人を捉えてうれしそうに輝く。それを見て、ヴィンセントも柔らかく頬を緩めた。
「少し出ないか?」
その日、店にいたのはマヤだった。
ヴィンセントが視線を向けるとマヤは頷いて了承する。
メイヴェルはヴィンセントの手によって顔が隠れるようストールですっぽりと覆われてしまった。白金色の髪も丁寧に中に仕舞い込まれる。
それからキャメル色のコートを肩にかけられた。それはマヤの持ち物で、平民がよく身につけている定番のデザインだった。
「行こう」
「え、え?」
ヴィンセントに促されるままメイヴェルは店を出る。ちらりと後ろを振り返るとマヤが笑顔で手を振っていた。
「ちょっと、ねえ、どこに行くの?」
ヴィンセントに手を引かれるまま足を進める。足元は室内履きにしていた踵の低いパンプスで、細い足首が無防備に覗く。
連れてこられたのは近くの教会だった。
礼拝の時間と大きくずれているため人の気配はない。二人は礼拝堂の椅子に横並びで座った。
「ヴィンス?どうしたの?」
長い睫毛を瞬かせて問うメイヴェルに、ヴィンセントは正面の神像を見つめたまま言った。
「メル。本気でメイヴェル嬢の名を捨てる気はありませんか」
「え?」
「あなたは以前、何者でもない自分になりたいとおっしゃっていた。それは理解します。けれどこのまま店を続けていたら、あなたが本当はメイヴェル・バーネット侯爵令嬢だということが隠しきれなくなる。侯爵様にはきちんと報告をしているわけですし」
メイヴェルは息を飲む。
わかっていた。ずっといまのままではいられないことくらい。
「ありがたいことにレース編みの店は順調です。しかしそれだけ注目されているということで、あの店が貴族や王族の知ることになる日も遠くはないと思われます」
「そう、かしら…?」
ストールの下で美しい顔が青褪めていく。ヴィンセントはそれを認めながら静かに頷いた。
「それからこれは私の憶測ですが、あなたの存在は、王家にとって不都合なものなのではないでしょうか?」
第一王子の婚約者として長年に渡り王妃教育を施されたご令嬢だ。立ち居振舞いはもちろん、一国の政治的な考え方や国内外の有力者との付き合い方、王家内部の人間関係など。おいそれと放逐するには知り過ぎてしまっている可能性がある。
それでもメイヴェルが侯爵家の令嬢として、ひいては王家の駒として、国内で適当な相手へ嫁ぐのであればまだましだったろう。――監視はつくだろうが。
しかし平民街で無防備にふらふらしていれば、危険因子と見なされるはずだ。大事に至る前に『処分』されてしまう可能性もある。
「もしあなたがメイヴェル・バーネットという名に未練がないのであれば、本当にメイヴィス・ジーンとして生きてみませんか」
「わた、わたくし、は…」
メイヴェルは可哀相なくらい顔色を白くさせ、震える指先を口許に添える。ヴィンセントはそんなメイヴェルに向き直り真摯に告げた。
「私ならあなたを生まれ変わらせることができる。そして」
メイヴェルの白い手を包むように両の手で握り込み。
「私の側にいてほしい」
「え…?」
メイヴェルは驚きに目を見開いた。
「こんなことをいまあなたに告げるのは卑怯だとわかっている。だが言わせてほしい。私の側にいてほしい。私にあなたを守らせてほしい」
「ヴィンス」
「私にあなたを愛させてほしい」
ヴィンセントの手は大きくて、メイヴェルの手なんて簡単に包まれてしまう。なのにぎゅうと痛くない程度に力が込められて、メイヴェルはどきんと心臓が跳ねた。まるで離さないといわんばかり。
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