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前日譚

前日譚5

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 ブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリ!

 俺は今、糞を漏らしている。
 標高九千メートルの霊峰。その頂で、”魔王”と呼ばれる巨大な白狼を前に、俺は糞を漏らしている。肛門からあふれ出る糞は止まりそうもない。


 思い返せば朝から腹の調子が悪かった。目覚めてテントから出た時、腹に違和感があった。だがまあ大丈夫だろうと軽く見た結果がこれである。魔王との戦闘が始まった時、俺はまだ何もされていないのに腹を押さえて倒れこんだ。仲間たちは、魔王の何かしらの技かと警戒したが、ただの腹痛である。”癒しの聖女”セリーナが回復魔法を使ってくれたが利くはずもない。

 魔王の動きはあまりにも速く、”神託の勇者”ヴィクターのライトニングブレイドは空をきり、”炎の魔女”レイラのファントムゴーレムは一撃も加えることができない。魔王が仲間たちに襲い掛かろうとするたびに俺はよろめきながらも飛燕真空斬を繰り出して奴の動きを牽制したが、それが限界である。

 そうこうしているうちにセリーナへ目掛けて大口を開けた魔王が突進し、俺は彼女の前へ跳躍して攻撃を剣で受けた。その衝撃が俺の肛門を決壊させることになった。

 ブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリ!
 モリモリモリモリモリモリモリモリモリモリモリモリモリモリモリモリモリ!

 人体の中にこんなにも糞があるのかという程の糞が俺の肛門から止めどなく出てくる。先程まで互いに掛け声をあげていた仲間たちが一斉に黙り込んだ。雪山で風の音だけが鳴り響いた。

 最初に声をあげたのはセリーナだった。

「ヒール!」

 彼女は俺の尻に向かって回復魔法を使っている。無駄だ。意味がない。だって、怪我じゃないんだもの。

 無意味なことにようやく気付いたセリーナは回復魔法をやめて黙り込んだ。再び沈黙が訪れる。

「魔王め! なんてスピードなんだ! 俺の攻撃が全く当たらない!」とヴィクターがいった。

 なんていい奴なんだろう。なかった事にしようとしてくれている。俺はこれまでの人生で彼ほどの聖人に出会ったことがない。流石、神に選ばれし勇者である。

 レイラもヴィクターに続く。

「こんな速さなら私のインフェルノもかわされるわ! 一体どうすればいいの!?」

 更にセリーナも続く。

「さすがは数多の魔物を統べる王。ここまでの強敵とは」

 なんだかんだ言ってみんないい奴らだ。糞を漏らした成人男性を前に、何事もなかったかのように振舞ってくれている。俺はみんなにただただ感謝した。

 その時、魔王が口を開いた。

「クサイ」

 するとヴィクターが驚愕の表情を浮かべる。

「こいつ! 人間の言葉を話せるのか!?」

 話した内容を完全にスルーしようとしている。流石、神に選ばれし勇者である。人格が完成されている。
 そんなヴィクターの気遣いを無下にするかのように、魔王は俺を見て再び口を開いた。

「オマエ、クサイ。ニンゲンナノニ、クソヲ……」

 俺は魔王に飛び掛かり、無我夢中で剣を突き刺し続けた。

「死ね!! さっさと死ね!! 死ね!! 死ねよ!! おらあああああああ!!」

 我を忘れた俺は剣技など一切使わず、純然たる暴力を振るい続けた。我に返った時には足元に魔王の死体があった。
 振り返ると、皆が一斉に俺から目をそらした。

「あははははは。おいらウンコ漏らしちゃったぜよ」と冗談っぽくいったが誰一人笑わないし返事もしない。こんなにスベることがあるのかというくらいスベっている。みんな俯いたままである。俺が泣いているせいだろうか。

「とりあえず、ズボンの中のそれをなんとかしなさいよ」というレイラに促され、俺は皆が見えない位置まで移動してズボンとパンツを脱いだ。そして山盛りの糞を始末して皆の元へも戻る。
 俺のズボンの後ろ部分は滲み出た糞汁のせいでまっ茶色である。

「なんでこんな時に限って白いズボンなのよ」とレイラがいう。

「いや、お洒落かなって……」

「このままでは下山できないですね……」とセリーナがいった。

 するとヴィクターが何やら考え始めて妙案を閃いてくれた。

「糞のシミの上に血を塗ればいいんだよ。返り血って事にして隠すんだ」

 彼の案にのった俺は魔王の死体から流れ出る血をズボンの尻部分に塗りたくった。

「血便みたいね」とレイラがいう。

「後ろだけだから駄目なんですよ。前にも塗ればいいんです」とセリーナが提案する。

 その通りにしたが今度は「血尿みたいね」とレイラにいわれた。

 結局、俺はズボンの全部に魔王の血を塗りたくった。まるで最初からこういうデザインのようである。これなら下山しても他の兵士たちに脱糞したことがバレずにすむと皆にいわれ、俺は下山を決意した。

 下山している最中、誰も口を開かなかった。長かった闘いが終わり、ようやく平和が訪れたというのにまるでお通夜みたいな雰囲気である。俺が泣いているせいだろうか。

「いつまでいじけてるのよ。魔王を倒したんだから胸を張りなさいよ」とレイラが励ましてくれた。でも全く元気など出しようもない。

「誰もあんたが糞を漏らした事に気づかないわよ。ただ真っ赤なズボンを履いてると思うだけよ」

「だけど……糞を漏らすところをみんなに見られた……」

「ヴィクターもセリーナも何とも思っちゃいないわ」

「お前はどうなんだよ」と聞かずにはいられなかった。

「私? 私たちは長い付き合いじゃない。あなたが格好悪いってことは誰よりも私が知ってるわ。初めて会ったその日からね。何を今更」

 元気づけるためにそういったのだろうが、その言葉は俺を深く傷つけた。服の内ポケットに忍ばせた真紅のブローチを肌で感じながら、それをレイラに渡すことを断念した。

 前を歩くヴィクターが振り返ってレイラとセリーナにいった。

「俺はあの事を決して誰にも言わない。お前たちも誰にも話すな。あんな事はなかった。いいな」

 俺の目にはヴィクターが神様のように見えた。この薄汚れたゴミみたいな世界で、こんな善人が存在するのか。流石、神に選ばれし勇者である。

 そんな彼の口調が脅すようなものにかわった。

「もし誰かに話してみろ。その時は俺が絶対に許さない。分かったか?」

 そう凄むヴィクターにレイラとセリーナは黙って頷いた。


 俺の糞を漏らしたという話が国中に広がったのは、その一ヵ月後である。
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