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「腹は?減ってないか?」
「減った」
「俺もペコペコ、朝から引っ張り出されて何も食ってないんだ」
命令されて参加したつまらない経済セミナーが引けた後、車を取りに帰って雪斗を拾った、昼食も取れていなかったせいで空腹は頂点だがちょっと面白い計画があった
雪斗とは毎日会っている
どこに連れて行っても新鮮な反応を見せ、相変わらず可愛いが外を連れ回すとちょっと違う側面も見えて来た
最初に話した印象では人付き合いを苦手にしている様には見えなかったが、人見知りとか引っ込み思案を通り越して無愛想で人嫌いに近い、知らない人が混ざると警戒を露わにして黙り込み、そのまま放って置くといなくなってしまう
特に女友達を苦手にしているようで話しかけられると返事もしないで背中に回って隠れてしまう
唯一気を許してくるのは嬉しいが面倒くさい性格の捻くれた猫を連れているようだった
「じゃあさ、服を買いに行こう」
「……今腹が減ったって話をしてなかったか?会話が変だぞ」
「ハハッそうだな、まあ俺に任せろよ」
アクセルを踏み込むとグンと小気味よく加速したツーシーターのメルセデスカブリオレは滑るように走る
コレクションの希少車もいいが今ディーラーに並んでいる現行車にはまた違った魅力がある
「何で今日はこんな普通の車なんだよ、ハイブリッドなんておっさんみたいで何だかつまんない」
「ん?ケースバイケース、TPOってもんがあるだろう」
「TPOって何?どこ行くの?」
「だから服屋、その後は秘密」
雪斗は食に興味が薄い、ともすれば食事をすっ飛ばそうとする傾向があり、気を付けなければ食べてなくても自己申告してくれない、一度、夕食に誘ったつもりで昼過ぎに待ち合わせて夜まで引っ張り回したが、よく聞いてみると朝から何も食べてない、なんて事もあった
会ったらまず腹具合を聞かないと落ち着かない、遠慮して腹が減ったと言えないって感じでも無いがそんな事で気を使って欲しくない
「だから何で服屋なんだよ、俺は服なんて何でもいいよ、どうせわかんない」
「いいから今から行く店で選んで貰え、自分で選んだ事ないんだろ?」
「無いけど……」
雪斗はいつもTシャツに短パンかジーンズしか履いて来ないがそれすら誰かが揃えた物らしい
服まで使用人が揃えているなんて今時大した深窓っぷりだがそれはそれで楽しい、ちょっと特別な服を選んで着せてみたかった
行きつけのセレクトショップには話を通し、服や靴のサイズは連絡してある
雪斗はハンガーラックに並んだスーツのラインナップを見て逃げ出そうとしたが強引に試着室に押し込み、コーディネートをプロに任せて放り出すと、不機嫌に口を尖らせ、拗ねている癖に言われるまま素直にせっせと着替える様子は思った通り面白い
そのうち試着室にも入らなくなり、店の真ん中でポイポイ脱ぎ散らかして子供みたいだ
「そんな顔をしてないで笑えよ、どれもよく似合ってるぞ」
「変な服ばっかり、暑い、キツイ、窮屈で気持ち悪い」
「お前だって立場上スーツを着た事くらいあるだろ、もうちょっと楽しめよ、女の子にこの演出をすると大喜びするぞ」
「……俺は女じゃない」
「ハハッそうだけど面白いじゃないか」
面白い?
確かに面白いが省吾が言ってる意味とは多分違う
こっちの意見は丸無視で店員と省吾の間で勝手に話が進んでしまう、今試着しているスーツは袖を通している事すら信じられないパールに光る白………鏡に写る
馬鹿みたいな奴が面白すぎて笑えない
爪が引っ掛かっただけで傷が付きそうな危うい生地は手を通すだけで気を使う、何よりも手足が細くて曲げ伸ばしが不自由だ、ボディラインも異様にフィットして見た目も着心地もスーツじゃない
元々首が閉まるビジネスシャツは大っ嫌いだ、何とかスーツから逃げ出せないか画策している所なのに仕事を離れてまでこんな物を着たくない
「こんな格好恥ずかしくて外を歩けない」
「歩かしてないだろ、ちゃんと車でエスコートしてるじゃないか」
「エスコートって何だよ、俺は女じゃないってって言ってるだろ」
「どっちでもいいじゃ無いか………それいいな」
省吾が店員にうんッと頷くと鋏が出て来て、何かと思うと色んな場所にぶら下がっているタグを切り始めた
ペロンとかざしたカードは店の奥に入ってしまった
買うなら買うで仕方ないとは思っていたがよりにも寄って白いスーツなんて冗談じゃない、しかも脱ぎ捨てるチャンスが無くなった
「おい!要らないぞこんな服」
「駄目、郷に入っては郷に従え、さっきみたいな服じゃ店に入れない」
「じゃあ入らない、ラーメンでいい、コンビニでいい、何なら食べなくていい」
「駄目ったら駄目、ちゃんと飯は食ってもらう、もう予約してあるから諦めろ」
「う………うぅ……」
服が決まると鏡の前に座らされ、奥から現れた釜っぽい男に髪を触られ目の上と眉毛に何か描かれた、
ニコニコしながらお似合いですとか素敵ですとか口から出まかせのおべんちゃらを耳元で聞かされて気持ち悪いを通り越してる
どんな事でも省吾に付き合うと決めてここにいる、虚構に満ちた無駄遣いも、何が楽しいのかわからない、くだらない暇潰しも、こんな服だって我慢するが……
今、どうしても気になって無視出来ない事が一つあった
「あの……すいませんがお店の電話を貸して貰えませんか?」
「え?」
今はどこで誰に頼んでも携帯を持ってない人種が信じられないのか同じ顔をする
釜男は一瞬意味が理解出来なかったのか助けを求めるように省吾の顔を見た
「ああ、その子は携帯持ってないんだ、今時無いだろ?買ってやるって言ってもいらないって言い張ってさ、ほら雪斗、俺の使えよ」
「やだよ、スマホは使いにくいから店に借りる」
携帯には番号が残ってしまう
今からかける番号を省吾に知られたく無い、目の前に置いてあった電話の子機を勝手に借りて省吾に背中を向けた
セレクトショップの前に止まっている黒い車……中に何が詰まっているかは見なくてもわかった
TOWAのレクサスが省吾と待合わせた場所からずっと付いて来ている
別に害が無ければ放っとくつもりだったがこんな格好を見られるなら別だ、後で何を言われるかわかったもんじゃ無い
「おい雪斗………電話番号をかけるって番号は?どうすんだ?」
「んなもん覚えてるよ馬鹿」
「……雪斗?」
佐鳥で頭がいっぱいになってつい素の口調が出てしまった、また同じ失敗を繰り返しそうになってる、ここにいるのは佐鳥であって佐鳥じゃない
目を丸めた省吾に誤魔化しの笑いを投げて口元を塞いだ
「…………はい?……」
「お前……そこで何をしている」
「雪斗か?」
「誰でもいい、これ以上付いてきたら許さないぞ」
「何かされたらどうするんだよ、見ているだけだ、そこに押し掛けてないだけでも誉めてくれよ」
「お前じゃあるまいし何もされない、切るぞ」
「雪………」
声が聞こえていなくとも話の雰囲気は意外と伝わってしまう、佐鳥が何か言いかけたが聞く気は無く、省吾に違和感を悟られる前にさっさと電話を叩き切った
緑川が抑えてくれると淡い期待をしていたが甘かった、後は佐鳥が大人しくしてくれる事を神様にお祈りするしか無いがもう変なスーツ姿を見られるのは覚悟した方がいい
どんな事があっても諦めたり出来ない
あの忌まわしい車が「佐鳥」の持ち物である事にはどうしても我慢出来ない、金銭での解決は出来そうもないと省吾と話してみて改めて実感している
佐鳥の余計な茶々は全部を簡単にぶち壊し、出来る事も出来なくなる
「雪斗?電話終わったのか?誰?」
「うん、ごめん、毎日家を出るなら連絡しろって言われてさ、ただの業務連絡、なあ、どうせ買うなら自分で払いたい」
「もうカード切った、いいよそんな高いもんじゃない」
「高くない………か?……」
スーツのジャケットは28万、パンツが12万、小物や靴はわからないがそれを安いと言われても苦笑いしか出て来ない
「よく似合ってるよ」
「動きにくいんだけど……」
「スポーツをする訳じゃないだろ、大人は走ったりしないもんなの、普通にしてれば動けるだろ」
「そうかな………」
スーツで走りまくっている奴を若干名知っている
今はストーキングに走っているが一応社会人の大人だ
ウインドーの外をチラリと横目で確かめるとそいつは………まだ居る
着替えた省吾と二人並んで鏡の前に立つと何だこの虚飾に満ちた馬鹿な姿は……切ない道化に見える、どうせ見られるなら早く済ませたかった
「なあ佐鳥、お腹空いたから早く行こう」
「もう車を取りに行ってもらってるから待ってろ、ちょっと動かないで……じっとしてろよ」
省吾がポケットから出した何かを耳に掛けられた、冷たい感触が気色悪くて何だか重い
プラプラと振れる耳を触ろうとすると店の前に銀のメルセデスが現れ、行こうと手を引かれた
我慢に我慢を重ねて一週間、どうしても雪斗の顔が見たくて噴水のある駅の周辺を張っていた
緑川の言った通り、身を隠す気の無い雪斗は簡単に見つかったが………またしても省吾に攫われてしまった
TOWAの車を出したのは……何かあった時の為って事にしておく
何もする気は無い、声をかけたりもしない……つもりだったが省吾の距離感が気になり過ぎてどうしようもない、雪斗を女子と間違えているのか歩く時、車に乗る時一々腰や肩に手を置く
"お前も松本も男に興味はなかっただろう?"
緑川の言葉が耳に付いて離れない
雪斗のビームは無意識にも発動する、省吾にその毛が無かったとしてもその気になる可能性はそんなに低く無い
もう一回言うが何もしないし、声もかけない
………が……素知らぬ顔で店に入っても雪斗は知らん顔をする筈だから邪魔にはならない……と思う
何故躊躇しているのかと言えば…………ショーウィンドウに並んだ商品の値札は思い切って買える額じゃない、この一般客を拒否している様な閉鎖的な店に入って果たして手ぶらで出ていいものか………
切れた電話を見つめてどうしようか迷っていると銀のベンツが店の前に横付けされた
「佐鳥!待ってよ靴が滑って歩けない」
名前を呼ばれてハッとした
思わずドアの取っ手に手をかけたが、雪斗が伸ばした手は自分じゃない佐鳥が受け取ってしまった
笑いかける視線ももう一人の佐鳥が独占してる
雪斗の声が佐鳥と呼んでいるのに違う男が返事をする………悔しくてムカついてギリッと噛み締めた歯が嫌な音を立てた
「何だよ……あの格好……」
店から出て来た雪斗は違う人みたいだった
ドレッシーな白いスーツにヘアアレンジされた髪、瞼に乗った黒いアイラインが目尻を持ち上げ、冷たい印象になってる
片方だけ耳に掛けた髪の下でキラキラ揺れているのは恐らくピアスだとか思う
いつも風呂は一分、髪を気にした事なんか一回も無く、あんまり酷い時にワックスを分けたりするが雪斗はどっちでもいいと、されるがまま知らん顔をしている
携帯も時計もすぐにどっかにやってしまい、身につける物をとにかく嫌う雪斗が大人しくピアスを付けているなんて………信じられない
省吾は雪斗の背中に手を置いてまるで自分のアクセサリーを連れ歩くようにピッタリ横に寄り添い、笑いかけている
隣を見上げて何かを話す雪斗の口元に省吾が耳を寄せた
このまま車を進めて高そうなメルセデスを引き潰してやろうかと思った
ツルーッと静かに走り出したベンツはあっと言う間に加速して幹線道路に乗った、省吾に気付かれないよう後ろを振り返るとレクサスは見えない
佐鳥に見られたくないのは変な服だけじゃない
嘘を付き、仮面を被った顔を見られるのは死にたくなるくらい情けなくて嫌だった
いつどうすると伝える事が出来れば佐鳥も大人しく待ってくれるかもしれないが……今の所宛は何も無い
はっきり言えば……ここまでは全くのノープランで、どうしたいのかさえわからないまま、ただ省吾の周りをウロウロしているだけだ
佐鳥の顔を見るだけで気が重くなり、くだらない事に囚われている自分が愚かだと自覚してしまう
「耳にかけているだけなんだからあんまり触ると落とすぞ」
「え?」
考え込んでいる間に無意識で重い耳を触っていた
なるほど揺れて頬に当たる付着物は耳に引っかかっているだけで引っ張ると簡単に取れた
いつ買ったのか知らないが目の前にぶら下げてよく見ると、銀のハンガーに繋がった細いチェーンの先にキラキラ光る石が揺れている
「これ……ダイヤ?何でこんなもん買ったんだよ、男がつけてもしょうがないだろ」
「こら、外すなよ、似合ってるからいいじゃないか、ほら貸せよ、付けてやる」
「何か……気持ち悪い」
せっかく上手く誤魔化し、ポケットにでも入れてやろうかと取ったのに信号で止まった隙にまた耳にぶら下げられてしまった
アクセサリーにお金を使うなんて、この先絶対に一度も無いと断言出来る、人の価値観は様々だがこれだけはどうしても理解出来ない
タレントがテレビで着ているような服も同じだった
「こんな服着てどこ行くんだよ、俺は何でも食べるからその辺でいい」
「きのこを食わないくせに何でも食べるって言うな、オーベルジュの予約が取れたんだ、きのこは入れるなってちゃんと連絡してある」
「………オーベルジュって何?」
「ん?……そっか知らないよな、オーベルジュはホテルレストラン……って感じかな、地下にクラブもあるから連れていってやろうかなと思って予約したんだ」
「ホテルの地下にクラブ?」
何だか耳馴染みが良くて外をよく見ると、よく知っている道をよく知っている場所に向かって走ってる
「それってもしかして胡蝶の事?」
「あれ?知ってる?」
知ってるも何もない、暫くの間毎日通った胡蝶はこの世で一番近寄れない場所と言っていい
「車止めて」
「え?」
「俺パス、ここで降ろしてくれ」
「パスって何だよ、どうした」
郊外にあるオーベルジュのラ.ベルエキップはコネも効かず中々予約が出来ない人気のあるレストランだった
半年先の予約なんて馬鹿らしくてやってられないがタイミングよく浮いた予約を友達に譲って貰い、どうせなら一泊してから遠出をしようと計画していた
クラブ胡蝶に連れて行こうと思ったのは女性を苦手にしている雪斗の反応が見たかったからだ
「俺は胡蝶には行けない」
「行けないって何で?クラブが嫌ならやめとくけど飯だけでも食べないか?腹も減ったし滅多に予約が取れない店なんだ、勿体無いだろ」
「無理、俺はあそこに近寄れない」
「だから何で?」
「……何でって……胡蝶のホステスとちょっとあったから」
「ホステス?」
胡蝶は安物のガールズバーやキャバクラじゃない
ホステスは厳重に守られ、店以外で会うとなればそれこそ両手分の札がいる、接待を仕事にしている高級ホステスはある意味芸能人より敷居が高く、プライベートで会うなんて不可能に近い
雪斗に女っ気があるとは思えず"ちょっとあった"の意味を測りかねた
この辺りには最寄りの駅は無くタクシーも簡単には捕まらない、こんな場所で降ろせと言われても放ってはおけ無い
ちゃんと事情を聞こうと路肩に車を止め、雪斗が飛び降りたりしないようにチャイルドロックをかけた
「ちょっとって何だよ、ちゃんと言え、何かで困ってるんなら俺が何とかしてやる」
「ん……ちょこっと刺されただけ、もう全部終わってるけど……あんま近寄りたくない」
「さ……刺された?」
ほらっとパンツから引き出したシャツを目繰り上げ、ペロリと腹を出した雪斗は、今まで見せた事が無い皮肉っぽい冷めた目をして片方の唇を上げた
車内は街灯の光が直接入り、白い腹は見えるが傷は見えない
シートを少し倒し、運転席から体を伸ばして雪斗の下腹を覗き込むとパンツの境目にまだ新しい傷痕が臍の横まで赤い線となって残っていた
プールでほぼ裸と言える水着姿を見ていたのに気付かなかった……ちょこっとって傷じゃない
「お前、何したらこんな事に……」
無惨に横たわる生々しい傷は触ったら裂けてしまいそうな程皮が薄い、これが本当に刺された傷ならきっと生死にも関わった筈…………
ちょこっとって何だ、手の中に収まっていると思っていた雪斗の背中に、突然知らない世界が広がって見え、まだ聞いてないプライベートにムラムラと汚い妬心《としん》が湧き上がって来た
ぐるぐる頭を巡る痛い邪推に傷口から目を離せないでいると………ふっと吹きかけられた雪斗の吐息で前髪が揺れた
「雪………」
思わず顔が近い
目の前に………"ちょこっと"進むだけで届く赤い唇があった
フロントガラスから直に差し込む街灯の光が、浮いた髪まで正確に象《かたど》った自分自身の影を作り、折り重なるように雪斗の顔に被さっている
見上げて来る少し潤んだ茶色い瞳は……切ないような、うっとりと蕩けているような何とも言えない表情を見せ…………
誘われているような気がした
………殆ど無意識に……窓に突っ張っていた腕の力を抜いた
ピタッと唇が着地したのは……
口を覆った雪斗の手の甲だった
「ん?」
「何をする気だ、そんなつもりなら二度と会わない」
「…あ………俺…………今何した?」
覆いかぶさって体の下にいる雪斗は窓とシートの間に頭を埋め、逃げる様に体をずらして背中で座っている
怒っているのかと思った顔には不敵な笑いが口の端に浮かび、揶揄うように尖らせた唇がチュッと音を立てた
「おい、ふざけるのはやめろよ」
「ふざけてるのはどっちだ、今キスしようとしたくせによく言うな」
「それは……」
ほんのさっきまでホステスと何かあったと聞かされても男と女の話じゃないと思っていた
今、見下ろしている雪斗は、知らない大人の世界に戸惑い、ビクついていた知ってる子供じゃない
いきなりそんな風に妙な色気を全開にされても全然ついていけてなかった
「そんなつもりはない……と思う、ごめん……つい」
「つい……って皆そう言うよな」
ボソッと呟いて首元のボタンを外す仕草は口調とは裏腹に意図的に誘われているようにも思える
男に興味はないが雪斗なら行ける、と思ってしまった
10も年下の相手……しかも男にまごまごするなんて情けないが確かに気圧されている
「皆ってどういう意味?こんな事がよくあるのか?」
「……あるよ、どいつもこいつも人の事を変な目で見やがって、ムカつく」
よくある?よくあって事は………
つまりはこんな経験が他にもあるっていう意味なのか………嫌がっている口調の割に平然としているなんて言葉と行動が真反対だ
もし逆の立場だったら今頃殴りつけている
「お前……女を知ってるのか?」
雪斗だって成人している男だ、女性と関係を持っていたとしても不思議じゃ無いが……どうしても違和感が拭えない
雪斗は真っ直ぐ見据えた視線を外さず、何も答えなかったが目が肯定している
それならばもう一つ……聞きにくいが、聞いておいた方がいいような気がした
「じゃあさ………男……は?」
やっぱり答えなかったが………ふいっと反らされた視線に確信した
知っていると……
スウッと……体の中で混ぜ返っていた欲の粒が腹の底に沈殿していくような気がする
なぜ初《うぶ》だと、世間知らずだと思い込んでいたのか……雪斗はそんな事一言も言ってない
胡蝶に出入りしていたなんてさすがに驚いたが、よく考えると金も暇もあるどっかの御曹司がそんな真っ白なままでいる訳なんか無い
よく懐いてくれる子供だと思っていた雪斗が別人に見え、正体の見えない何かに圧倒されて声も出なかった
緑川はH.W.Dの社屋で慣れないイラストレーターを使ってデザイナーに出す発注ラフを作っていた
ロゴを貼り付け、説明文を入れた見本のファイルを送っておくと見事にお洒落なデザインに作り直される
木嶋に見せるためにプリントアウトをクリアファイルに挟むとやっと一段落だ、パソコンを落とし帰る用意をしていると音を消した携帯がブルブル震えながら光っている
時間は既に11時を回ってる…………何となく出たくなかったがどうしても無視出来ない相手からだった
「帰れない、車が邪魔で……」
「………は?」
「………だから帰れないんだよ」
「暁彦……お前な……」
やっぱり無視すればよかった、ベロベロに酔って話にならない
「何言ってる」
「車が邪魔なんだ……俺は………」
携帯を耳から離し、画面を見詰めているとブツブツ話し続ける佐鳥の声が聞こえてくる
迎えに来いと言われているのはわかるがこのままじゃ埒が明かない、明日も早いし、もう間もなく電車も無くなる
「暁彦、何でもいいから要点を話せ、今どこにいる」
「ん?…………ばー」
ばー………って……どんな店にいるかじゃ無くて何処にあるか言ってくれ
丸一日働いてクタクタになってやっと開放された所にこれだ、もう酔っぱらいの要領を得ないテンポに付き合っていられない、佐鳥が使えないなら違う奴を使う
「ばーなら他に誰かいるだろう、電話を代われ」
「誰もいない」
「嘘つけ、顔を上げろ、目の前に誰が見える」
「……男」
「そいつに用があるから電話を代われ」
「………………」
ゴソゴソと電話が移動する衣擦れのような音が聞こえた
バーの店員に聞いた店の場所は省吾の家がある駅の近くにあった、歩道に乗り上げたTOWAのレクサスが止まっている
確かにタクシーを使わなければ来れない場所だが、飲み屋の真ん前に車を駐車するなんて度胸がある(ってか馬鹿)
どうやら佐鳥は約束を破り、雪斗の周りを彷徨いたらしい、その末のこの体たらくに呆れてしまう
「俺……幾ら持ってたっけ……」
独立した建物に入る店はバーというよりラウンジのような佇まいで妙に高給っぽい
高級住宅が集まる土地柄を考え、佐鳥が札を多く準備している期待なんて虚しく財布の中身を確かめると……嘘みたいだが二千円しか入って無い
パッと辺りを見回したがコンビニは見当たらず、どうしたものか考えていると、紫の一枚ガラスで出来た扉に各種のカードマークが見えてやっとドアを押した
高級感溢れるハイソサエティな匂いのする店の中は天井が高く、真っ暗だった
要所要所を青いライトが照らし、オブジェのように並んだグラスに青が写って海の底にいるようだ、空いている店内を見回すと、波型にぐにゃりと曲がった凝った形のカウンターに居崩れた佐鳥を見つけた
バーの店員に水を飲ませてくれと頼んだおかげか電話で話した時より幾分持ち直しているように見える
仕事に疲れて、馬鹿な酔っぱらいに振り回されてムカつくのに嬉しそうに笑われると………やっぱり和んでしまった
「暁彦……お前なあ、勘弁しろよ」
「悪い……車を忘れて飲んじゃって」
「車でここまで来たんだろう?」
「忘れてたんだ……」
「はいはいわかったよ」
苦笑いを浮かべるバーテンからお絞りを受け取り、本当ならビールを一気飲みしたいが運転手を請け負った廉《かど》で仕方無くソフトドリンクを注文した
「俺は忙しいんだ、お前も明日は仕事だろ、話はまた聞くから今日はもうこれで帰るぞ」
「雪斗が………佐鳥って呼んで笑いかけるんだ」
「だから……」
「死ぬほど嫌だった……」
忠告を聞く気は無いらしい
佐鳥は片手に水、片手に琥珀色の液体が入ったグラスを握り、止めた側から琥珀色を選んで口に持っていった
「おい、せめて水にしとけ」
「ニヤけ顔で雪斗に触って、変な服着せて……雪斗は佐鳥って呼んで……あいつに笑いかけて……」
言葉がグルグルと同じ所を回ってる、これ以上飲ませるとまた佐鳥に頭を抱かれて眠る事になる
もうあんな事は絶対に嫌だ、さっと酒のグラスを取り上げ水を持った手を持ち上げると……気付かずに飲んでる
どっちでもいいならもう水だけにしてもらう
ウイスキーの入ったグラスを抱き込み、肘をついて佐鳥から隠した
「つまりお前は…………見に行っただけじゃ無くて……まさか社長の後を付けたのか?」
「つけたよ、勘付かれたよ、帰れって言われたよ、雪斗も雪斗だ、どうして……あんな奴に笑ったり……笑ったり……佐鳥って呼んで笑ったり……嫌で悔しくて何で俺を頼ってくれないんだ、悔しい……」
「………暁彦……」
実は佐鳥が心の中を見せる事はあんまり無い
雪斗が逃げたと落ちていた時もノロケはたっぷり聞かされたが後は表面的な状況報告だった
何も言わなくても外にポロポロ漏れ出て、どうせ丸わかりなんだから言ってくれたらいいのにすぐ内に籠もって一人で落ち込む
気持ちのベクトルが円になって絶対に向き合う事は無いが、頼って欲しい気持ちはよくわかる
すぐ帰るつもりで浅く腰掛けていた椅子に深く座り直してちゃんと聞いてやる事にした
「佐鳥って………そう言えばあっちも佐鳥だよな……社長がその気になれば本当に凄腕だな」
「渡辺さんに雪斗の中には誰もいない、そのうち分かるって言われたんだ」
「渡辺さんの言う意味は俺にもわかるよ、でも誰もいないって事は無いと思うけどな」
佐鳥は雪斗の近くに居すぎて見えていないのだ
何故雪斗が姿を隠したか……あんな風にちょこちょこ待ち合わせをして遊ぶだけなら何も家を出る必要はない、わざわざ一人になったのは佐鳥に迷惑をかけたくないから、心配させたくないから一人になった
佐鳥の横にいつも当たり前に並ぶ雪斗の中にはちゃんと佐鳥がいる、少し悔しいが二人のバランスはいい
「俺さあ……一回雪斗の前でお前とのキョーレツなチューでもして見せてやろうかなって思ったよ」
「は?」
「あいつ……どんな顔するかなって……」
「どんな顔……」
雪斗の顔を想像する前に俺の顔を今見てみろ……
ムカついて握った拳が佐鳥の頬に飛んでしまった
「いきなり何すんだよ」
「この前の仕返し」
「しかもお前酒を飲んでるじゃないか、車はどうするんだよ、誰が運転すんだ」
「…………あ……」
………しまった………言われるまで気付かなかったが佐鳥から取り上げたウイスキーのグラスが知らない間に空いていた
もう終電はとっくに走り去り……後はタクシーか代行運転しか無い
間抜けだなとヘラヘラ笑う佐鳥はどうやって帰るかなんて心配して無い、細かい事にばかり目端が利く自分も嫌だがおおらか過ぎる佐鳥も佐鳥だ
カップルバランスを言ったらこっちだって絶対に負けてない
「変な嫉妬アイテムに俺を使うな」
「これ……嫉妬……なのかな……」
「嫉妬だろ、それ以外に何がある」
「俺は……ただ……どうして何も言ってくれないのか……俺を頼ってくれないのか……それが悔しくて」
「それはわかったよ、後もうちょっとだけ様子を見て今度は二人で話を聞きに行こう、社長だって手詰まりになってるよ、お前の天然パワーを頼ってくれるかもしれないぞ」
「緑川なら……もし緑川が同じ状況に陥ったら俺を頼る?」
「暁彦はわかってないけど………俺はもう随分頼ってる、いつも助かってるよ」
バーテンにグラスを返して無言でお代わりを即すと片耳で聞いていたのだろう
既に用意されていた新しいグラスが音もなくカウンターを滑ってきた
夢を見てしまった……
朝ベッドから飛び起きて隣を確認するとそこには誰もいる筈ないのにまだ人の気配が生々しく残ってる
省吾は広い実家に今も暮らしていた
同居している両親と顔を会わす事は滅多に無く、家を出る必要性を感じていなかった
女を連れ込んだりは出来ないが場所は便利だし、何よりも車を全部保管するには実家でなくては出来ない
誰にも遠慮する必要は無いがダラけるのは嫌いだった、さっさとシャワーでも浴びようとシーツの中で伸びをすると、ツンッと悪寒に似た刺激が背中に走った…………手を置くと信じられないが下半身が持ち上がってる
夢の中の雪斗は女だった
最初は男だったが服を脱がせた時点で体が女にすりかわって下半身を濡らしていた
あんな顔…あんな声…………あまりにリアルで本当にヤってしまった実感しかない
雪斗は男だ……しかもまだ子供と言える
手を出すなんてただの淫行にも思えてくるが、それは雪斗の見た目が年よりも若く見えるからだ、男女で考えると10くらいの年の差なんてありふれている
車の中で見せたあの目、あの顔付きは隠されていた素顔なのか、無自覚なのか……無茶苦茶煽られたが、笑った雪斗の瞳の中には強い拒否が浮かんでいた
遊び慣れた女のように無し崩しには許してくれそうも無く、無理強いなんか出来ないが……合意さえあれば自分の物にしてみたいなんて、どうしょうもない欲求が生まれてしまった
「無理じゃないよな……」
経験があるなら障壁は低いと考えてもいい
信頼は得ていると思う、好かれているとも思う、決して勝てない勝負じゃない
「…俺は…何を逸《はや》ってんだ、情けないな」
30にもなって朝勃ちなんてみっともない、もう長いことマスターベーションなどした事が無いが放っておくにはゴロゴロ邪魔になる……夢の中では挿入してすぐだったが………自分を手で包むともう射精寸前まで昇っていた
いつもなら起きた途端現実世界が雪崩込み、夢の内容はあっという間に薄れて消えていくがまだ雪斗が側にいて離れない
目に……手に……体に残る、勝手に作り上げた雪斗の痴態を抱いて手を動かし、無意識に溜めてしまった欲の塊を吐き出した
雪斗は携帯を持って無い、一つ契約して持たそうとしたが嫌だと拒否された
毎日会っているのによく考えたらどこに住んでいるのか、どこの会社を継いだのか、名前以外何も知らないままだった
ずっと口約束だけで繋いで来たが、もしうっかり切れてしまうと連絡が出来ない、今日こそは家まで送ってちゃんと地を固めたかった
雪斗の家は相当厳しいような気がする
何かの理由で(普通に考えれば急逝したと考えていい)リタイヤした父親に代わって会社を継いだと言っていたが、両親の目が緩むまで厳しく管理され箱に入っていたのは本当だと思う、普通なら学校の帰りにでも経験しそうな事も何もしてない、スタバに行ってもティースタンドのシステムすら知らなかった
クラブ胡蝶は初めて会ったプールバーのように気が向いたからと言って簡単に入れる場所じゃない、稚拙な推測だが………つまり誰かに連れられ、そこで女遊びを教えられたとしか考えられない
男遊びは………胡蝶に連れて行った奴が手を出したのか………
押し込められて閉じ籠もっていた狭い世界が突然開け、何も知らず戸惑う雪斗を無神経に荒らされたような気がして腹が立つ
こんな経験は初めてだが……これは多分嫉妬だ
とにかく、家に挨拶をして名乗りを上げる、自分の名前に自信はあるが、年寄ウケの悪い騒がしいスポーツカーでは胡散臭い印象を残すだけで、一つ間違えば交際を禁じられてしまうかもしれない
数あるコレクションの中で一番品のいい車を選んで家を出た
その日はどうしても外せないビジネススクールとグループの定期会合に顔を出さなければならず、夜になるまで一日が酷く長かった
ホテルの会議室で軽食は出たが雪斗はきっと何も食べずに待ってる、水だけを飲んで退屈な報告を聞き終わった途端ホテルを飛び出した
古い車のレスポンスは意外と悪く無いがヘッドライトが暗くて頼りない、夜に走ると前を照らす範囲が狭くて周りが見えにくかった
ロータリーに入る手前の歩道で待っている筈の雪斗を見逃さないようにスピードを落として走っていると、歩道の上にポツンと浮き上がる、人恋しげに道路を見つめるワンコのような短パンが地面に座り込んでいた
「雪斗!」
名前を呼ぶと犬のように嬉しそうに駆け寄ってくるのはいつもの事だった
男が男にキスを迫ったのに拘っている様子は一切見せず、さらっと流してもう無かった事になってる
雪斗が持つ別の世界は、深いのか出合い頭なのかもうわからないが、無邪気な無警戒は危ない事を自ら呼び寄せているように思える
知らない所であんな顔を誰か他の奴に見せたのかと思うと、堪らない独占欲が湧いて返す笑顔が引き攣ってしまった
「何でそんな顔してんの?学校は退屈だった?」
「何でもない、ご飯まだだろ?昼は?ちゃんと食ったか?」
「うん、パンを噛じった」
「またそんなんか……お前は一人で放っておくとホントに生活力無いな、今日これから行く場所はあんまり店とか無くて辺鄙なんだ、その辺で食ってから行くけどそれでいい?」
「毎回言うけど俺は何でもいい、佐鳥が好きなもんでいいよ………変な服を着ろって言わない限りだけどな」
「もう言わねえよ」
少なくとも雪斗に物を買い与えても喜ば無いと分かった、それなら片っ端から何でも見せて回る
まずは評判のいい場所、まるで高校生みたいだが…………人気《ひとけ》の無い静かなデートスポットに雪斗を連れ出そうとしていた
山の中にある空間アートの美術館は夜になると幻想的で美しいライトアップが庭園に広がっている
暗闇も多くTwitterの投稿には隅の方で屋外エッチをしたなんて書き込みもあった
そんな盛った犬のような真似をする程飢えてないが、いい雰囲気になれる事は間違いない
「辺鄙ってどこ?言っとくけど海は嫌いだからな」
「海じゃない、ちょっとロンマチックな美術館、結構いいらしいぞ肌寒いかもしれないから後で羽織るもん買ってやるよ」
「おい……また変な事企んでるだろ、羽織るもんって何だよ、この前だって飯を食うだけなのに漫才師みたいな格好させられたんだ、今度は仮装でもやる気か?猫の耳とか出てきたら俺は帰るぞ」
「猫の耳……は……ぜひ今度見たいけど………なあ……帰るってお前どこに住んでるんだ?帰りが遅くなるかもしれないから聞いときたい、そしたらこんな所で待ち合わせしなくても迎えにも行けるだろ」
「どこでもいいじゃん、呼んでくれたら俺はこうして出てくるし不便ないだろ」
「じゃあ継いだお父さんの会社ってどこ?」
「…ちっちゃい中小企業…言ったって佐鳥は知らないよ、何?何だよ今日は変だぞ、そんな事聞いてどうすんだよ」
「そうだけど……」
ハッと気付けば打算が漏れ出ている欲深い女のような口調で問い詰めていた
何故雪斗がはっきり答えないのかはよくわかる、自分だって26を過ぎた辺りから決まった相手と付き合って来なかったのは、すぐに結婚を意識され、年収だとか資産だとかをそれとなく探られたからだ
身の上は隠しようが無く、ある程度は我慢するがいつも辟易としていた
回り回って辿り着いたのが男なんて笑えるが……少なくとも雪斗に変な打算は無い
むしろ打算を持ってくれた方が手っ取り早いのに、誰が幾ら持ってるかなんて興味が無いのか、歳とか家の事とか基本的な事まで何も聞いて来ない
何も考えてないのか、一時的な遊び相手と思われているのか……気になるが焦っても仕方がない、まずは説得して携帯を持たす所からゆっくり始めればいい
「ごめん、それは今度でいい、ほら、車に乗れよ、何か食べに行こう、お腹空いてるだろ」
「う………ん……空いたけど……」
ドクン、ドクン、と重い鼓動で体が揺れて、視界が二重、三重にぶれていた
省吾と話す間、動揺を見破られないかと冷や汗が湧いて握った手の平が湿っぽい
駅のロータリーは夜でも明るい街灯に照らされ、姿を見咎められやすい、佐鳥に跡をつけられてから改札口の正面で待ち合わせするのは止めた
駅前の道路は交通量の割に二車線もある、歩道も路肩も広く街灯の裏に回れば観察する側に回れる
ロータリー前の交差点に向かって流れる車列を眺めていると明るいLEDのヘッドライトに混じり、一際薄暗い丸目玉が見えた時には息が詰まった
実はそんなに覚えていない、車を見る角度が違うのか写真を見てもボヤッとフォルムが浮かんだだけだった
今………目の前にするとその古いメスセデスには確かに目覚えがある
ベージュ色の革で出来たシート、青味がかった窓のガラス、どうしても外から開ける事が出来なかったドアの取っ手……運転席には父がハンドルに頭を乗せて項垂れていた
隣の母は崩れ落ちて見えない、縁は……きちんと足を揃え、座ったまま眠っていた
省吾がドアを開けて乗り込むのを待っている
何食わぬ顔をして乗ればいい………黒光りしている体は今、息を潜めて鎮座しているだけのただの物だ、図体はデカイが口を開けたそいつは取って食ったりしない
行きたいのに、笑いたいのに………踏み出そうとする足はぬかるんだ泥に絡まってように地面から離れてくれない
「雪斗?」
……景気のいい返事をしようと頑張ったが気道が縮んで声が出ない
笑っていた省吾の顔に疑いが生まれ、様子が変だと気付かれてしまった
「どうした?調子悪いのか?」
「な………」
身体中の力を振り絞って笑おうとしたのに掠れた雑音しか出てこなかった
空気が重い、粘ついて肺に入って来ない
もうこんな思いは嫌だ、殆ど覚えがない筈の物にいつまで捕われ動揺するなんて馬鹿みたいだ
何も入ってない筈の胃から苦い汁が競り上がり、吐いてしまわないようにグッと胸を抑えて足に力を入れた
「ごめん……佐鳥……ちょっと家の用事を忘れてた、俺は電車で帰るから悪いけどご飯は一人で食べてくれ」
「用って……嘘付くなよ、具合が悪いんだろ?とにかく車に乗れよ、酷いなら病院に行ってやる、ほら手を貸せ」
「嘘じゃない、俺に触るな」
「横になれるとこに行くか?あっちにホテルもあるし何なら俺ん家でもいい、すぐ休ませてやるから乗れよ」
「乗りたくない!離せ!」
「雪斗?」
出した腕を振り払った反動だけで雪斗の足が縺れてフラフラと後退った
こんなに余裕の無い雪斗はプールバーで居眠りをして以来だが今度は明らかに体調を崩してる
雪斗を見つけた時は普通に見えたのに話すうちに呼吸が大きくなり、触った手は冷たく冷えていた
いつも白い肌が陶器のように青白く血の気を無くし、急病と言うより何かの発作に見えた
「おい、大丈夫か?」
立っている事さえ辛そうで蹌踉《よろ》めいた身体を追ってビルの壁際で受け止めた
「さ……わんな……」
「抱いてなきゃ倒れるだろ、えづいていた癖に何を突っ張ってるんだ、吐きたければ吐いていい、俺は迷惑なんて全然思ってないぞ、変な警戒すんなよ何もしないから」
「そうじゃ無い……違う……あんたなんか……怖くない」
「雪……」
無意識に飲んだ生唾がコクンと喉を鳴らした
駄目なのに、そんなつもりじゃ無いのに不意に抱き締めてしまった体が熱い……湧き出た欲情が下半身に溜まっていく
………何だこの男でも無い、女でも無い謎の色気は……
濡れた瞳で見上げ、汗をかいた額に皺を刻んで無理矢理笑った顔は体が引ける程色っぽい
何もしないと言った口はまだ乾いてない
体調を崩して苦しんでいるのはわかっているのに腰に添えた腕に力が入りぐっと引き寄せた
反応している下半身を押し付ける形になったが………
ここは言葉の無い告白と受け取ってくれる事を願う
路上駐車をしていたレクサスの横を通り過ぎ、目の前に停車したベンツはひと目見て"例の車"だとわかった
もうストーカーでも何でもいい、緑川に全部ぶち撒けて何か吹っ切れた
毎回車で走り去る二人を見て地団駄踏んでるくらいなら、跡をつけないまでも毎日様子を見るぐらいはする
すると決めて、歩きでも車でも省吾が必ず通る道で張っていたが、歩道を歩いてこっちに向かって来る雪斗を見つけた時には気付かれないかハラハラした
今車の外で話してる二人までの距離は多分50ヤード、走れば6秒で着ける
両目2.0の視力は雪斗の笑い顔までよく見える
省吾が車のドアを開けた……ってつまり移動する気だ、つけたりしない、そう決めた
でも計算外だったが同じ車線にいる、ツルッとくっついて行っても違和感なく行き先を探れるが……つけないって決めた
「ああ?!!」
くだらない事で自分の心と戦っていると雪斗が省吾と揉めている、嫌がって手を振り払っているのに………
抗う雪斗に抱き付いて壁に押し付け………嘘だろ………
省吾の頭が沈んだ
「おいおいおい!あいつ………」
邪魔すんな?見守れ?うるさい黙れ緑川!!
もう車《ベンツ》なんてどうでもいい!雪斗を取返して連れ戻す!
車から飛び出して全速力で走った
何を見たのか一瞬わからなかった
水を買いに行くと駅に走っていった省吾と入れ違いに、目の前を水平に飛んできた黒くデカい塊が横切りビュッと風を切って通り過ぎて行った
そのまま飛び去るのかと思えば、当然だが地面に落ちてスライディングしていく………のは………
「佐鳥っ!?」
「雪斗!帰るぞ!」
「…………」
引く……真面目に引く
顎から血も出てるのに擦りむけた手を出されても怖くて、手を出すどころか声も出ない
どうしてこんな所で空《から》タックルしているのか知らないが、地面に擦れたスーツが破れてボロボロになってる
喉に詰まって呼吸の邪魔をしていた塊がびっくりし過ぎて引っ込んでしまった
「な……何してんだ……俺は……」
「もう我慢出来ない!黙って見てられるか!あいつしっかり自覚してお前に手を出してるじゃないか!」
「は?見てたのか?」
「見てたよ!無理矢理何された?どこ触られた?チュー?」
「馬鹿言うな」
どうしてこう短絡的なのだろうか、誰も彼も自分基準で考えてる、確かに瞼にチューをされたが省吾にはそんなつもりは無い(多分)
今気付いたが佐鳥は佐鳥に飛びかかってきたらしい、タイミングよく避けて、何も知らないまま走って行ってくれたのは助かったが駅の自動販売機まで距離は無い、すぐ帰ってきてしまう
「雪斗……まさかお前……あいつが好きだなんて言い出さないよな」
「はあ?いつもいつもお前は馬鹿じゃないのか?!そんな筈ないだろう!帰れ!」
「もういいだろ!あんな車放っておけよ!無理して笑ってるお前なんて見てられるか!」
佐鳥が指差した先にある忌まわしい箱
あんなものに振り回されている自分にも嫌気が差していた所にイラつかせてくれる
「お前にはわからない、あの車があるだけで、呼吸していると思うだけでどんな気持ちになるか……お前には……お前にはわからない!!」
「わかるよ!」
「わかるわけないだろう!!」
外から中を覗くと顔色を無くした縁が……父が、母が横たわるベージュのシートが見えた、変だった、呼んでも呼んでも誰も返事をしてくれない
温まった空気が膨れ、内圧が高くなったドアは子供の力では開かなかった、もし取っ手のボタンが押せていたら助かっていたかもしれない
その厳めしい図体の中に家族を取り込まれ、食われたみたいだった
「嫌なんだよ!堪らないんだ!あの車がこの世にあるだけで我慢出来ない!!」
「あの車が無くなればそれでいいのか?」
「そうだよ!どうにもならないなら燃やしてやるつもりで家を出た!俺に構わないでくれ!」
あの世に送り付けたい、息をして欲しく無い、届けてやるからまたそこで好きに乗り回せばいい
遠い所から話しかけられているようで……
呼ばれているようで……迎えを用意されているようで、メルセデスの現存を知ってから毎日思い出す度に鳥肌が立つ
「雪斗!もっかい聞く、あれが無くなれば帰ってくるんだな?!」
「放って置いてくれ……頼むから……」
「そこで待ってろ、動くなよ」
「佐鳥?……」
諦めてくれたなんて楽観はしない、いつからそこにいたのか、佐鳥が走っていった黒い車はTOWAのレクサスだ、車体は見えないが*108《とうわ》って調子に乗った番号を付けたナンバープレートが見える
乗れと言われても帰る気はない
道路から距離を取って歩道の奥に座り込んだ
あの車が無くなれば雪斗は帰ってくる
なら、やる事はひとつだ
レクサスのエンジンをかけてアクセルペダルを思いっきり踏み込んだ
アクセル全開なんてやった事無いが背中を撲りつけたような急発進にタイヤが悲鳴を上げてグンっと身体を引かれた
さすがは無駄な5000ccのエンジン、出だし3秒でレクサスの本気が見えた
白い煙を巻き上げたタイヤを唸らせレクサスが突進してくる
歩道に寄り過ぎた車体が縁石を擦り火花が出ていた
「佐鳥っっ?!!」
レクサスは方向を変え無い
佐鳥が何をしようとしているか気付いたがもう止められない
思わず身体を丸めて頭を抱えた
「佐……わっっ!!!」
耳を覆いたくなる程の衝撃音
勢いそのまま衝突したレクサスはベンツのリアをふっ飛ばし、金属とガラスの破壊音を轟かせた
鼓膜の振動は限界を超え、音が衝撃となってビルのガラスがビリビリと揺れてる
軋むタイヤがザーッとアスファルトを引っ掻き、車道の真ん中に吹き飛ばされていったレクサスは大きく首を振って傾き、タイヤの黒い痕を地面に引いて壊れて取れたバンパーを引きずりながらギギギっと動きを止めた
一拍遅れて……ベンツのフェンダーが外れて道路の真ん中に転がって行く
チャリンチャリンと細かい部品が散らばる音が静まると一瞬辺りが無音になった
駅前にコンビニは無いが自動販売機はある、小銭の持ち合わせが無くて駅で両替をしてから水を買った
「持病でもあるのかな……」
そう言えば幾ら家が厳しいと言っても少し過保護に育てられ過ぎているとは思っていた
プッチリと理性の糸が切れてコンな路上で欲情してしまったが雪斗の症状はどんどん悪くなってそれどころじゃなくなった
車に乗りたくないなら本当にホテルでも取って泊まればいい、落ち着いたら食事を取って、話を聞いて………それから………
いや、雪斗は体調を崩してる、そんな真似は出来ないが……もし出来たら?
外泊は出来ないなんて雪斗は言わないが、何だかんだといつもきちんと帰っていく、こんな機会がすぐに訪れるとは思えない
「いきなり男としろったって……」
いや……雪斗とならデキる、デキてしまう
「……って俺は何考えてんだ馬鹿……早く水を……って何だあれ……え?…え?…?!!」
急発進した車に目を引かれギョッとした
スピードを上げて……突進して来る先には大事なベンツがある
声を出す暇もなかった
爆音と共に派手に衝突して勢いが止まらない黒い高級車が、ビュッと真横を通り過ぎ、道路のセンターに跳ね飛ばされ首を振ってドリフトして行く
「な…………」
信じられなかった
どれくらい呆然としていたのかわからないがすぐに沸き起こったサイレンの音が聞こえて我に返った、嘘みたいだが………これは現実だ
人が集まってきて数分もしないうちに遠くからサイレンが響いて来た
レクサスは助手席側が大破してエアバッグが膨れてしまい身動きがとれないが、不思議な事に体への衝撃はあまりなかった
無事だったバックミラーに写るベンツはトランクがへしゃげて大きく膨れ、ドアは取れかかっている、道路側のサイドは派手に凹んで青みがかったガラスが細かく割れ、飛び散っていた
それでもレクサスよりはまだましだった
両方廃車は間違いない
事故を見ていた通行人が手を貸そうと救助に集まって来ていた、ついでにもう既に緊急車両が灯す赤色灯も見える
のんびりと車に挟まっている場合じゃなかった
「大丈夫ですか?!」
ひん曲がった扉を押し退けて中年男性が二人驚いた顔をして覗き込んできた、脚を抜こうにもエアバッグに邪魔されて動けない
手を貸して貰おうと腕を伸ばした
「すいません、ちょっとだけ手を貸してください」
「怪我は?もうすぐ救急車が来る頑張れ!」
「怪我は無いです、いいから手を引いてください」
大人二人の手を借りて、狭くなった足元から体を引き抜き、立ってみるとやっぱり体は何とも無い
簡単にお礼を言ってすぐ雪斗の方に向かって引き返した
赤い………
気が付いたら赤い光に取り囲まれていた
後ろに一台、その横にもう一台……前からもクルクルと赤色灯を回してけたたましいサイレンが怒ったようにわめき散らしている
段々視界が狭く縮んで、見えない手が喉を締め付ける
持っていかれたくない、引かれたくない
黒い車は風に煽られ、取れかけたドアが揺れている
まだ生きて、呼吸しているようだった
吸っても吸っても酸素が足りない、苦しくて何かを掴みたくて爪を立てたが冷たいアスファルトを掻くだけだ
サイレンはうるさいのにどんどん音が消え嫌な静寂が襲いかかってきた
落ち着け……サイレンだろうか誰かの緊迫した怒鳴り声だろうか音はそこにある、日常に溢れこの先だって避けられない
めを閉じて大きく息を吐き出すと、耳に戻った微かな音に混じって知っている声が聞こえ、ハッと顔を上げた
力を振り絞って目を凝らすとよく知っている長い体が目に写った
フラフラとベンツの残骸に近付いて行くと雪斗の叫び声が聞こえた
名前を呼んでる
「そうだ………雪斗………雪斗は……」
こんな時に車の心配をしているなんてどうかしてる
雪斗はメルセデスの直ぐ側にいた
怪我をしているかもしれない、何故一番に思い至らなかったのか……体調を崩して休んでいる所に目の前で、ほんの二メートルの鼻先でこの大事故だ
ショックを受けているに決まっている
「雪斗…………雪斗!!どこだ!!」
「佐鳥!!!」
へしゃげた車からもうもうと立ち上がる白い煙と、きな臭い匂いの空気を割って雪斗が飛び出てきた
どうやら大きな怪我は無いようだが見た目だけじゃわからない
「雪斗っ!!大丈夫か?」
「佐鳥!!」
飛び込んで来る雪斗を受け止めようと広げた両手は……捕まえようとした瞬間、スルリと避けた雪斗が肩が触れるすぐ横を通り過ぎた
「雪………」
反射的に後ろを振り返ると雪斗は走ってきた背の高い男にジャンプして飛び付いた
「雪斗?!」
パニックに陥った雪斗が人違いをして知らない男に抱きついてる、ちょっと面白いが笑ってる場合じゃない
すぐに受け取ってやらなければまた慌ててしまう
「すいま………」
「雪斗、大丈夫か?」
「………………は?」
何故雪斗の名前を知っている、しかもどさくさに紛れてちゃっかり腕を回して雪斗の腰と背中を抱きしめてる
佐鳥は俺だ
「ちょっとすいません、その子はパニックになって人違いをしているんです、世話になってるのに悪いけどその手を離してください、俺が代わります」
「間違ってませんよ」
「間違ってるよ、名前を呼んだだろ、離れてください」
「呼ばれたのは俺です」
「…………何言ってる、あんた雪斗の名前を知っていたな、何のつもりだ……ってか雪斗を離せ!お前誰だ」
「俺は佐鳥です、佐鳥暁彦です、雪斗が呼んだ佐鳥は俺の事です」
「違うよ馬鹿、何を思い上がって……」
「すいません、あのレクサスを運転していたのは俺です」
「はあ?!………………」
佐鳥省吾は見かけによらず大人だった
逆上しかけた自分を抑え、上げた拳をぐっと握り締めて収めてくれた
「どういう事だ」
「言ったままです、雪斗は俺とわかって抱きついてる、それにあのレクサスはうちの会社の車です」
省吾と真面目に話すのは辛かった
何でって…………雪斗が胸に噛み付いてる
両手と片足を巻き付け張り付いたまま、抱き留めた瞬間からずっと噛んでる
続々と数を増やす緊急車両はパトカーに救急車、消防車まで顔を揃えた、まだ鳴り止まないサイレンは空気を震わせ、緊迫した雰囲気がピリピリと肌に伝わってくる
目を塞いでも多分雪斗は感じてる
例え食いちぎられても体を離す事は出来ない
「あんたの言ってる事が理解出来ない、何でもいいから雪斗を離せ、雪斗は間違えてるだけだ」
「だから間違って……」
まだ状況が理解出来ないでいる省吾にもっとはっきり言ってやろうかと思ったが、集まっていた警官達からわっと上がった声に掻き消されてしまった
「退避!!ガソリンに引火した!退避!野次馬を退けろ!!」
転がるように散った野次馬と警官の後を追うようにベンツのフロントからボワッと火が上がった
少し遅れて着いた消防車からガラガラと引き出されたホースは白い泡が吹き出し大騒ぎになっている
「佐鳥………今のうちに逃げよう……」
胸の痛みが無くなったと思ったら腕の中から顔も上げずにボソリと雪斗が呟いた
「それは出来ない……俺には事故処理の責任がある、渡辺さんを呼ぶから……」
「渡辺を呼んだら怒られる」
「じゃあ緑川にする?」
「……佐鳥が逃げないなら…俺もここにいる」
雪斗はいまいちわかってないが正義感とか道義的責任の話じゃ無い、運転者として事情を話さなければ当て逃げになってしまう、下手すると飲酒を疑われてややこしさ倍増だ
「そう言う事じゃないんだ、雪斗は今関係ない、誰か呼ぶから先に帰って待ってろ、どうする?緑川にする?」
「…………する…」
「うん……じゃあ呼ぶけど………ちょっとしただけ顔を上げられないか?あいつが燃えている」
ピクリと雪斗の頭が動いたが顔を挙げようとはせずに……またガブリと噛み付いた
ゆっくり死んでいくメルセデスは泡と茶色い粉に塗れ、最後の断末魔を上げる事も出来ずに鎮まっていく
「おい……何喋ってんだ……」
話し声が聞こえたのか省吾が睨みを効かせて向き直った
「あなたに関係無い話です」
「お前はもういい、雪斗!こっちに来い!」
「触らないでください、勘違いしているのはあなたです、雪斗の中の佐鳥は俺だけだ」
「お前なっ!」
省吾が伸した腕を叩き落とすと保っていた自制心が崩れてしまったのか握り締めた拳を振り上げた
「そこまでです」
本当に振り下ろすつもりだったのかもう自分でもわからないが、後ろから誰かにガッシリ腕を掴まれ止められた
「な………何だよ……」
腕を取られたまま振り返ると背の高い男が冷たい目をして見下ろしていた
身長にコンプレックスは無いが雪斗が抱きついている男もこいつにも見下《みおろ》されてムカつく
「誰だあんた、関係ないだろ、俺を誰だと思ってる」
「誰でもいいです、実力行使の前に引いてくださると助かります」
「はあ?偉そうに……」
「後にしてください………佐鳥大丈夫なのか?」
「俺は!」
「緑川……何でここにいるんだ、今電話しようと思ってたけどまだしてない……」
「虫の知らせ」
「………は?……佐鳥って……」
佐鳥?佐鳥って何だ、腕を掴んでる男が佐鳥と呼びかけたのはやっぱり自分じゃない
いない事は無いが「佐鳥」の苗字はそんなにポピュラーじゃ無い、親戚以外には会った事がなく、同い年くらいに見える目の前のデカい男に見覚えは無かった
人の車を大破しておいて謝罪の一言も無い、スーツが破れ、ガラスで切ったのか薄い血が額から垂れているのに動揺しているようにも見えず、事故の結果を当然のように捉えてる
雪斗を囲い込むこの知らない男達にからかわれているのか何だかもうわからなくなった
駅を出てすぐ騒然としている道路を見て嫌な予感がした、辺りを包む空気がガソリン臭く、夜なのに空に向かって立ち上る黒い煙が見えた
どうしてるか、突っ走ってないかが気になって佐鳥に電話をしても出なかった、松本にかけ直すと車で出ていったと聞いて、佐鳥のお馬鹿さんっぷりがやっぱり発動している事を知った
どうせ潜む場所は決まってる、見つかるかどうかもわからないが来てみると事故現場に遭遇した、道路で潰れているレクサスは間違いなくTOWAの車だ
燃えているのはメルセデス………古い車は硬く、最近の車は柔らかい、形を保っているメルセデスに比べグシャグシャにひしゃげたレクサスを見て総毛立った
とても中身が無事だとは思えない、救急車は待機したまま動いてない
まさか動かす事も出来ずに救急処置が施されているのではないかと野次馬を割って事故現場に飛び込むと、雪斗を抱いた佐鳥に向かってもう一人の佐鳥が腕を振り上げていた
服が破れてボロボロだが無事な姿を見て死ぬ程ほっとした
「……これはどうしたんだ、……何があった、お前らが関係しているのか?」
「雪斗は関係ない、俺がやった」
「何を…やったか言え」
「それはまた今度だ、雪斗を連れて先に帰ってくれないか?今は堪えているけどここにいたらもう無理だ、そのうちに発作を起こすかもしれない」
「いいけど……お前怪我はないのか?」
「怪我は無いけど多分もうすぐ怪我をする、心配してくれ」
「してるよ馬鹿!どういう事だ、何を言ってる、ちゃんと説明しろ!」
「今雪斗が噛み付いてる」
「…………………」
だから何でこんな時に笑いを取ろうとする
ここ……と指で指されてもどうしてやる事も出来ない
出来てもアホらしくてしない
雪斗を佐鳥から引き剥がすと本当に噛み付いていたらしい
離れたくない、とか雪斗が言う訳無いが、しつこくシャツを噛んで伸びた布地がブチっと尖った
雪斗は甘えたりふざけたりしている訳じゃない、寸止めされている過呼吸の発作は佐鳥がいたからこそ止まってる
預かる以上、やっぱり無理でした、なんて訳には行かない
ちょっと遠慮しているのか額を置いているだけの雪斗を胸にぎゅっと押し付け肩に腕を回した
「社長を家に連れ帰ったら戻ってくるから連絡をくれ」
「いや、雪斗についててくれ」
「でも……」
「早く行け、雪斗は多分もう限界だと思う」
「限界って何が?社長ってどこの会社だよ」
ずっと考え込むように黙って事故現場を見つめていた省吾が"社長"にピクリと反応して顔を上げた
「音羽はTOWA製薬の社長です、そこに居る佐鳥は社員で私も以前在席してました、社長にはちょっとした事情があるんです、あなたには関係ないですがね」
「TOWA製薬?雪斗はやっぱり社長なのか?」
「そうですよ、大株主でもある、TOWAは正真正銘音羽の会社です」
未だ現場処理に忙しい警官達はまだ事故当事者に話が出来ないでいるが直に始まる、どうせ保険はTOWAの名義だ、今隠しても意味は無い
「雪斗は父親の会社を継いだって聞いたんだけどそうなのか?」
「間違いないですよ」
「どこにある」
「それは後でわかるでしょう、今は急ぎますから、失礼します」
襲うなよ……と帰り際に佐鳥に笑いながら睨まれたが多分…………結構本気は伝わった
雪斗の精神状態は今最高潮に危うく、前と似たような状況になりそうだがそれは絶対に……絶対しない
もうあんな事はごめんだ
こうやって一番信頼されている心地いいポジションは何があっても死守する
メルセデスから上がっていた火はもう見えないが揮発したガソリンがどこかに溜まって居る可能性もある、爆発する危険はまだまだ高く、どんどん広がる規制線はもう反対車線にまで及んでいた
行き場を無くしたタクシーが数台連なり、通行止めになった道路の反対側は空いていた
遠回りになるが帰れるならいい、一言も話さない雪斗を先に乗せて隣に乗り込むと、雪斗は走り出したタクシーの窓に張り付いて、饗宴の残骸から立ち昇る煙の先を追って見えなくなるまで動かなかった
事故の事情聴取を終えて家に帰るともう朝方だった
同じ事を何度も聞かれ疲れ果てた、ふらふらになって手が震え、鍵穴に鍵《キイ》を差し込むのも大変だった
窓からはシャンデリアの明かりが漏れている
重いドアを開けるとソファに座ってうつらうつらしていた緑川が気配に気付いてすぐに顔を上げた
「おかえり」
「待っててくれたんだな、色々悪かった、ごめん」
「俺の運命だからいいよ、お前体は何とも無いのか?事故の直後は気づいて無くても後から来る怪我もあるし、血も出てたろ」
「ああ、病院に行って見てもらったけど擦り傷くらいかな、明日になれば筋肉痛が凄いぞって笑われた」
「何で筋肉痛の話が出るんだよ」
「みんなそうなんだって」
衝撃に備えた体は驚くほど全身の筋肉を総動員して守ろうとする、その結果頬から指の先まで筋肉痛になるらしい、その威力は猛烈で人によっては体に異常が出たと勘違いして病院に駆け込む人もいるから気を付けるように言われた
実はもう既に来てる、指を動かすだけで腕が軋んだ
「その服はどうした?ピーポくん付けて広報活動でも任されたか?」
「ああ、これはイベント用のジャンパーを貸してくれたんだ、スーツが破れてあんまり酷いから通報されては迷惑だって言われてさ、それより雪斗は?」
「例の部屋、一人のベッドは嫌だってさ、本当にお前ら二人共ちょっとは遠慮しろよ、何で俺が新婚カップルのお邪魔虫みたいになってんだよ」
「ハハ、ごめん、俺はちょっと見てくるから緑川は2階に行って寝てこいよ、階段上がって二番目の部屋に使ってないベッドがある」
「そうする」
手を出した緑川を引っ張り上げて階段に向かって押し出し、怠そうに足を運ぶ緑川を見送って背の低いドアから狭い通路を覗き込んだ
明かりはついているが音はしない
そうっと中に入るとラグの上に丸まった毛布の塊がちょこんと乗っていた
どこに頭があるのか、起こさないように端を捲るとゴソゴソと動いてクシャクシャになった髪が現れた
「雪斗………」
髪の隙間から薄く開けた目がちょっとだけ微笑み………また目を閉じてそのまま動かなくなった
「おかえり………」
雪斗がいなくなって約二週間
短い家出はこれで終わった
馬鹿な事を仕出かした佐鳥には、出社するな、クビを飛ばすぞ、何なら絞め殺すと脅して自宅待機をしてもらってる
どっちみち午後から事故現場の検証に行かなければならない為丁度よかった
雪斗は………口を尖らせ黙り込み、決して目を合わそうとはせずに今目の前でソファに座っている
「黙ってないでいい加減言い訳でもしたらどうなんです、私に報告する事があるでしょう」
「何も無い……渡辺が聞いた通りだ」
「まだ何にも聞いてません、緑川さんから電話を貰って掻い摘んだ話を聞かされただけです」
「十分だろ」
「足りませんよ!私が万能だと勘違いしているんじゃ無いですか?」
朝から一体何件電話を掛けたかもうわからない、交通事故の民事なんて完全な専門外だ
朝一番に保険会社から連絡が入り、簡単には済みそうもない問題が持ち上がっていた
随分派手にやってくれたが事故自体はただの物損事故だ、奇跡的に他の車や人を巻き込んだりもしていない
日本の自動車保険は運転者に都合よく、全ての事故処理を引き受けてくれるが"問題"は相手方の車だった、アドバイスを貰った友人によるとこれはよくある問題らしいが、減価償却分を引かれた保険屋の査定額では全損してしまった同クラスの車を買い直す事は出来ない
今回の古いを通り越したメルセデスのセダンは事故の免責ゼロでも査定は0円から出ても5万、例え市場価格が一千万を越えていようがそれが保険屋の規定だった
当然被害者は納得してくれない
佐鳥は運転ミスだと言い張り、今の所警察にも余計な事は言ってないが、ブレーキ痕の場所がおかしいと、どんな状況だったか同じ事を繰り返し聞かれたと言っていた
もし故意にぶつけたとバレたら道路交通法では無く刑法で裁かれる事になる
動機の追求をまぬがれる事は無く、ベンツに纏わる因縁に話が及ぶと雪斗も共犯になりかねない
表面上雪斗は事故に関係してないがレクサスはTOWAの社用車で佐鳥はTOWAの社員だ、そこで何をしていたかと言う話になる
ベンツその物が狙いだったとか痴情のもつれだったとか……どっちに話が転んでも表に出せないややこしい話だった
「どうして私に相談してくれなかったんです」
「万能じゃ無いって今自分で言っただろ、佐鳥は幾ら積まれてもあの車を手放したりしない、渡辺に言ってもどうにもならなかった、佐鳥がやらなきゃ俺がやってたよ」
「ややこしいですね……、佐鳥、佐鳥」
その事には心底ホッとした
佐鳥が雪斗の目的、所在を知っていながら黙っていた事、最悪の方法で片付けてしまった事は許せないが、もし雪斗が何かしていたらそれこそ刑法に引っかかる、下手したら禁固刑だってあり得た
「あっちの車は俺が弁償する、それでいいだろう」
「壊した車の弁償はTOWAがします」
「元から俺がぶっ潰してやろうと思ってたんだ、金でカタが着くならそれが一番いい、俺が金を持ってても使い道なんて無い」
「あなたは引っ込んでてください、佐鳥省吾が社長に会いたがってますけど……まさか妙な関係を……持ったりしてないでしょうね」
「さあね………まあもう関係無い、俺は前に出なくていいんだろ?」
「そうですね、あなたに会う気が無いんなら私だけで十分です」
雪斗に言われるまでもなく、佐鳥省吾には代理人を通して話すように申し入れはしたが、事故とは無関係に雪斗と会わせてくれとしつこく迫られていた
雪斗を前に出す訳にもいかない
事の最発端になっている故佐鳥元専務は佐鳥省吾の祖父の従兄弟に当たる関係だった、ほぼ他人に近いが雪斗にとって「佐鳥」の名前その物が今回の事件がに関係していたかはわからないが切っても切っても切れない縁になってる
出来るならもうこれ以上"佐鳥"に関わって欲しくない
雪斗が姿を消していた間に何をしていたのか……考えたくも無くてさっさと頭の中から削除した
多少の紆余曲折はあったが事故は不注意による物損で方が付いた
雪斗は最初から何も無かった様にもう省吾の事も車の事も何も言わない
イベントの準備は淡々と進み、仕事は忙しいがTOWAは何も変わりがない
もう全てが終わったと思っていたが、冬の空風が吹き出した晴れた寒い日に省吾から会って欲しいと携帯に電話が入った
事故の夜に番号を交換したが警察署で別れたっきり後は渡辺が全部対応して省吾とは顔を合わせてない
電話番号の向こうから聞こえる声は穏やかで、身構えていた力が抜け、佐鳥くん、佐鳥さんの呼び合いにお互いに吹き出してしまった
「……暁彦くん……って呼んでいいか?」
「そうですね省吾さん、会うのはいいんですけど………雪斗には会わせませんよ」
「それでいい、暁彦くんに話があるんだ」
何があっても、何を言われても個人的に話をするなとしつこいくらい渡辺から注意を受けていたが実はこっちにも話したい事があった
まだ時々夢に魘される雪斗の為に夜は一刻も早く帰りたい、昼なら会えると伝え、待ち合わせは絶対に雪斗が偶然にも来ない騒がしい街の騒がしいスイーツカフェを指定した
渡辺には省吾と会うなんて言えないが、何となく雪斗に黙っているのも卑怯な気がして一応一言断ってから会社を出た
少し遅れて店に入るとケタケタと笑い転げる行儀の悪い女子の中で、居心地悪そうに背中を丸めた省吾が難しい顔をしてコーヒーを飲んでいた
「お待たせしてすいません」
「酷い店を指定してくれたな、わざとだろ」
「勿論嫌がらせです、目立つ外観ですぐにわかったでしょう?」
飲みかけていたコーヒーカップを持つ省吾の手がピクリと揺れて止まり、何か言いたそうに顔を上げたがムッと眉を寄せただけで「まずい」とコーヒーを置いた
ふっと頬を緩めた省吾は落ち着いてよく見ると女子からモテそうな魅力的な目をしている
潤沢な資金を元手に遊び呆けているチャラい男だと、敵愾心が作り上げた勝手な印象を持っていたが、落ち着いた話し方をする大人っぽい男だった
「何か飲むだろ、セルフだから取って来いよ、言っとくが不味いぞ」
「待ってください、最初に…まず謝罪させてください、示談を受け入れて頂いてありがとうございます、色々変な事に巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」
「やっぱり……俺は……巻き込まれたのか……」
「はい、元々あなたには関係無いんです」
「関係無いって言われてもな……………それこそ今関係ないけど雪斗は今年26になるんだって?」
「年末の誕生日が来たら26ですね」
「スキルが高すぎるとは思ったけど………そうか……ギリ20歳……もしかしたら歳を誤魔化してるかもって思ってたけど逆だとは思ってなかったな」
プッと吹き出し、参ったと白旗を上げるように手のひらを見せた省吾は懐かしそうに天井を見上げてポリポリと頭を掻いた
何が言いたいのかはよくわかる、雪斗の第一印象と中身のギャップは誰でも驚く
「どんな「スキル」をご覧になったのかは聞きませんがあなたも殴られたくないなら何も言わない方が身の為ですよ」
「………暁彦君は……その………あのさ……」
言いにくそうに言葉を濁す省吾の聞きたい事はわかっている、そこを宣言してはっきりさせる為に会いに来たと言っていい
「半年くらい前から雪斗と一緒に暮らしてます」
「…………そうか……」
「はい」
「俺はたったの二週間……、それだけなのにな……しかも男相手……」
「嵌ってましたね」
「夢中だったよ、久々のマジ惚れだった……暁彦くんは元々そっちの人?」
「違います、男とか女じゃ無くて雪斗が好きなんです、きっかけは………多分ご存知でしょう」
"じゃあ「つい」って言ったのかな"って笑った省吾をやっぱり殴ってやろうかと思ったが……気持ちがわかり過ぎてやめた
「これ、預かって来ました」
返してくれと雪斗に頼まれていたダイヤのピアスをテーブルに出すと省吾は困ったように眉を寄せ吹き出した
「いらねえよそんなもん、渡したプレゼントを別れた後に返せって言う程小さくない」
「変な言い方しないでください、付き合ってないんだから別れてません、言っておきますが雪斗は300万の時計でも捨てますよ、携帯もしょっちゅう無くしたって言って捨ててます、それでもこれはずっと持ってた」
高い物だから捨てられないなんて価値観は雪斗の中に絶対無いと言い切れるが何故かいつも持ち歩いていた、雪斗が省吾に心を残しているなんて疑ってないが、省吾がいらないと言うならもう持って帰るつもりは無い、雪斗に返さず捨てる
テーブルに乗ったピアスを見つめて動かない省吾を見ていると「つい」の前に何があったか問いただしてしまいそうになり食べ放題のケーキを取りに席を立った
「…………暁彦くん………それ全部食べる気か?」
「昼飯の代わりです、何か?」
こんな店に来る事は多分もう一生無い、伸びたパスタも並んでいたがどうせならと、皿一杯に盛り付けたスイーツの山を物珍しい料理でも見るように目を丸めて覗き込んだ省吾は、小さな欠片を指で摘んで不味そうに顔を顰めた
「暁彦くんは人目が気にならないんだな、まあ気にする必要も無いか……、君はモテるだろ、ムカつくくらい背も高いしその顔……何で選んだ相手が男なんだ」
「その言葉……まんまお返しします」
「………暁彦君は……佐鳥の名前を担いでよく雪斗の側にいられるな」
「調べたんですね」
「ああ、丸一月かかったよ、何も知らずに俺は………雪斗にあのメルセデスに乗れって言ったんだ………君は知ってたんだろう?よく乗り越えたな、俺には無理だ……もう近寄れない」
「あなたが思うよりももっと……もっとずっと大変でしたよ」
「そうか………そうだろうな」
省吾は、それならもういい、と困ったように笑って席を立った、いらないと言っていたピアスは大丈夫そうにハンカチに包みポケットに収まっている
「帰るんですか?俺が食べ終わるまで付き合ってください、さすがに一人だと恥ずかしい」
「こんな店で俺を一人で待たせた仕返しだ、精々女子に笑われろ、それからもう一つ言っとく………」
お前は世界中のメルセメスファンから狙われてる、背中に気を付けて歩けと脅しを残し、省吾は笑いながら帰っていった
大量のスイーツは咳込むほど甘く、夕方になっても消化する気配を見せず重い胃もたれと切ない後悔が残った
「減った」
「俺もペコペコ、朝から引っ張り出されて何も食ってないんだ」
命令されて参加したつまらない経済セミナーが引けた後、車を取りに帰って雪斗を拾った、昼食も取れていなかったせいで空腹は頂点だがちょっと面白い計画があった
雪斗とは毎日会っている
どこに連れて行っても新鮮な反応を見せ、相変わらず可愛いが外を連れ回すとちょっと違う側面も見えて来た
最初に話した印象では人付き合いを苦手にしている様には見えなかったが、人見知りとか引っ込み思案を通り越して無愛想で人嫌いに近い、知らない人が混ざると警戒を露わにして黙り込み、そのまま放って置くといなくなってしまう
特に女友達を苦手にしているようで話しかけられると返事もしないで背中に回って隠れてしまう
唯一気を許してくるのは嬉しいが面倒くさい性格の捻くれた猫を連れているようだった
「じゃあさ、服を買いに行こう」
「……今腹が減ったって話をしてなかったか?会話が変だぞ」
「ハハッそうだな、まあ俺に任せろよ」
アクセルを踏み込むとグンと小気味よく加速したツーシーターのメルセデスカブリオレは滑るように走る
コレクションの希少車もいいが今ディーラーに並んでいる現行車にはまた違った魅力がある
「何で今日はこんな普通の車なんだよ、ハイブリッドなんておっさんみたいで何だかつまんない」
「ん?ケースバイケース、TPOってもんがあるだろう」
「TPOって何?どこ行くの?」
「だから服屋、その後は秘密」
雪斗は食に興味が薄い、ともすれば食事をすっ飛ばそうとする傾向があり、気を付けなければ食べてなくても自己申告してくれない、一度、夕食に誘ったつもりで昼過ぎに待ち合わせて夜まで引っ張り回したが、よく聞いてみると朝から何も食べてない、なんて事もあった
会ったらまず腹具合を聞かないと落ち着かない、遠慮して腹が減ったと言えないって感じでも無いがそんな事で気を使って欲しくない
「だから何で服屋なんだよ、俺は服なんて何でもいいよ、どうせわかんない」
「いいから今から行く店で選んで貰え、自分で選んだ事ないんだろ?」
「無いけど……」
雪斗はいつもTシャツに短パンかジーンズしか履いて来ないがそれすら誰かが揃えた物らしい
服まで使用人が揃えているなんて今時大した深窓っぷりだがそれはそれで楽しい、ちょっと特別な服を選んで着せてみたかった
行きつけのセレクトショップには話を通し、服や靴のサイズは連絡してある
雪斗はハンガーラックに並んだスーツのラインナップを見て逃げ出そうとしたが強引に試着室に押し込み、コーディネートをプロに任せて放り出すと、不機嫌に口を尖らせ、拗ねている癖に言われるまま素直にせっせと着替える様子は思った通り面白い
そのうち試着室にも入らなくなり、店の真ん中でポイポイ脱ぎ散らかして子供みたいだ
「そんな顔をしてないで笑えよ、どれもよく似合ってるぞ」
「変な服ばっかり、暑い、キツイ、窮屈で気持ち悪い」
「お前だって立場上スーツを着た事くらいあるだろ、もうちょっと楽しめよ、女の子にこの演出をすると大喜びするぞ」
「……俺は女じゃない」
「ハハッそうだけど面白いじゃないか」
面白い?
確かに面白いが省吾が言ってる意味とは多分違う
こっちの意見は丸無視で店員と省吾の間で勝手に話が進んでしまう、今試着しているスーツは袖を通している事すら信じられないパールに光る白………鏡に写る
馬鹿みたいな奴が面白すぎて笑えない
爪が引っ掛かっただけで傷が付きそうな危うい生地は手を通すだけで気を使う、何よりも手足が細くて曲げ伸ばしが不自由だ、ボディラインも異様にフィットして見た目も着心地もスーツじゃない
元々首が閉まるビジネスシャツは大っ嫌いだ、何とかスーツから逃げ出せないか画策している所なのに仕事を離れてまでこんな物を着たくない
「こんな格好恥ずかしくて外を歩けない」
「歩かしてないだろ、ちゃんと車でエスコートしてるじゃないか」
「エスコートって何だよ、俺は女じゃないってって言ってるだろ」
「どっちでもいいじゃ無いか………それいいな」
省吾が店員にうんッと頷くと鋏が出て来て、何かと思うと色んな場所にぶら下がっているタグを切り始めた
ペロンとかざしたカードは店の奥に入ってしまった
買うなら買うで仕方ないとは思っていたがよりにも寄って白いスーツなんて冗談じゃない、しかも脱ぎ捨てるチャンスが無くなった
「おい!要らないぞこんな服」
「駄目、郷に入っては郷に従え、さっきみたいな服じゃ店に入れない」
「じゃあ入らない、ラーメンでいい、コンビニでいい、何なら食べなくていい」
「駄目ったら駄目、ちゃんと飯は食ってもらう、もう予約してあるから諦めろ」
「う………うぅ……」
服が決まると鏡の前に座らされ、奥から現れた釜っぽい男に髪を触られ目の上と眉毛に何か描かれた、
ニコニコしながらお似合いですとか素敵ですとか口から出まかせのおべんちゃらを耳元で聞かされて気持ち悪いを通り越してる
どんな事でも省吾に付き合うと決めてここにいる、虚構に満ちた無駄遣いも、何が楽しいのかわからない、くだらない暇潰しも、こんな服だって我慢するが……
今、どうしても気になって無視出来ない事が一つあった
「あの……すいませんがお店の電話を貸して貰えませんか?」
「え?」
今はどこで誰に頼んでも携帯を持ってない人種が信じられないのか同じ顔をする
釜男は一瞬意味が理解出来なかったのか助けを求めるように省吾の顔を見た
「ああ、その子は携帯持ってないんだ、今時無いだろ?買ってやるって言ってもいらないって言い張ってさ、ほら雪斗、俺の使えよ」
「やだよ、スマホは使いにくいから店に借りる」
携帯には番号が残ってしまう
今からかける番号を省吾に知られたく無い、目の前に置いてあった電話の子機を勝手に借りて省吾に背中を向けた
セレクトショップの前に止まっている黒い車……中に何が詰まっているかは見なくてもわかった
TOWAのレクサスが省吾と待合わせた場所からずっと付いて来ている
別に害が無ければ放っとくつもりだったがこんな格好を見られるなら別だ、後で何を言われるかわかったもんじゃ無い
「おい雪斗………電話番号をかけるって番号は?どうすんだ?」
「んなもん覚えてるよ馬鹿」
「……雪斗?」
佐鳥で頭がいっぱいになってつい素の口調が出てしまった、また同じ失敗を繰り返しそうになってる、ここにいるのは佐鳥であって佐鳥じゃない
目を丸めた省吾に誤魔化しの笑いを投げて口元を塞いだ
「…………はい?……」
「お前……そこで何をしている」
「雪斗か?」
「誰でもいい、これ以上付いてきたら許さないぞ」
「何かされたらどうするんだよ、見ているだけだ、そこに押し掛けてないだけでも誉めてくれよ」
「お前じゃあるまいし何もされない、切るぞ」
「雪………」
声が聞こえていなくとも話の雰囲気は意外と伝わってしまう、佐鳥が何か言いかけたが聞く気は無く、省吾に違和感を悟られる前にさっさと電話を叩き切った
緑川が抑えてくれると淡い期待をしていたが甘かった、後は佐鳥が大人しくしてくれる事を神様にお祈りするしか無いがもう変なスーツ姿を見られるのは覚悟した方がいい
どんな事があっても諦めたり出来ない
あの忌まわしい車が「佐鳥」の持ち物である事にはどうしても我慢出来ない、金銭での解決は出来そうもないと省吾と話してみて改めて実感している
佐鳥の余計な茶々は全部を簡単にぶち壊し、出来る事も出来なくなる
「雪斗?電話終わったのか?誰?」
「うん、ごめん、毎日家を出るなら連絡しろって言われてさ、ただの業務連絡、なあ、どうせ買うなら自分で払いたい」
「もうカード切った、いいよそんな高いもんじゃない」
「高くない………か?……」
スーツのジャケットは28万、パンツが12万、小物や靴はわからないがそれを安いと言われても苦笑いしか出て来ない
「よく似合ってるよ」
「動きにくいんだけど……」
「スポーツをする訳じゃないだろ、大人は走ったりしないもんなの、普通にしてれば動けるだろ」
「そうかな………」
スーツで走りまくっている奴を若干名知っている
今はストーキングに走っているが一応社会人の大人だ
ウインドーの外をチラリと横目で確かめるとそいつは………まだ居る
着替えた省吾と二人並んで鏡の前に立つと何だこの虚飾に満ちた馬鹿な姿は……切ない道化に見える、どうせ見られるなら早く済ませたかった
「なあ佐鳥、お腹空いたから早く行こう」
「もう車を取りに行ってもらってるから待ってろ、ちょっと動かないで……じっとしてろよ」
省吾がポケットから出した何かを耳に掛けられた、冷たい感触が気色悪くて何だか重い
プラプラと振れる耳を触ろうとすると店の前に銀のメルセデスが現れ、行こうと手を引かれた
我慢に我慢を重ねて一週間、どうしても雪斗の顔が見たくて噴水のある駅の周辺を張っていた
緑川の言った通り、身を隠す気の無い雪斗は簡単に見つかったが………またしても省吾に攫われてしまった
TOWAの車を出したのは……何かあった時の為って事にしておく
何もする気は無い、声をかけたりもしない……つもりだったが省吾の距離感が気になり過ぎてどうしようもない、雪斗を女子と間違えているのか歩く時、車に乗る時一々腰や肩に手を置く
"お前も松本も男に興味はなかっただろう?"
緑川の言葉が耳に付いて離れない
雪斗のビームは無意識にも発動する、省吾にその毛が無かったとしてもその気になる可能性はそんなに低く無い
もう一回言うが何もしないし、声もかけない
………が……素知らぬ顔で店に入っても雪斗は知らん顔をする筈だから邪魔にはならない……と思う
何故躊躇しているのかと言えば…………ショーウィンドウに並んだ商品の値札は思い切って買える額じゃない、この一般客を拒否している様な閉鎖的な店に入って果たして手ぶらで出ていいものか………
切れた電話を見つめてどうしようか迷っていると銀のベンツが店の前に横付けされた
「佐鳥!待ってよ靴が滑って歩けない」
名前を呼ばれてハッとした
思わずドアの取っ手に手をかけたが、雪斗が伸ばした手は自分じゃない佐鳥が受け取ってしまった
笑いかける視線ももう一人の佐鳥が独占してる
雪斗の声が佐鳥と呼んでいるのに違う男が返事をする………悔しくてムカついてギリッと噛み締めた歯が嫌な音を立てた
「何だよ……あの格好……」
店から出て来た雪斗は違う人みたいだった
ドレッシーな白いスーツにヘアアレンジされた髪、瞼に乗った黒いアイラインが目尻を持ち上げ、冷たい印象になってる
片方だけ耳に掛けた髪の下でキラキラ揺れているのは恐らくピアスだとか思う
いつも風呂は一分、髪を気にした事なんか一回も無く、あんまり酷い時にワックスを分けたりするが雪斗はどっちでもいいと、されるがまま知らん顔をしている
携帯も時計もすぐにどっかにやってしまい、身につける物をとにかく嫌う雪斗が大人しくピアスを付けているなんて………信じられない
省吾は雪斗の背中に手を置いてまるで自分のアクセサリーを連れ歩くようにピッタリ横に寄り添い、笑いかけている
隣を見上げて何かを話す雪斗の口元に省吾が耳を寄せた
このまま車を進めて高そうなメルセデスを引き潰してやろうかと思った
ツルーッと静かに走り出したベンツはあっと言う間に加速して幹線道路に乗った、省吾に気付かれないよう後ろを振り返るとレクサスは見えない
佐鳥に見られたくないのは変な服だけじゃない
嘘を付き、仮面を被った顔を見られるのは死にたくなるくらい情けなくて嫌だった
いつどうすると伝える事が出来れば佐鳥も大人しく待ってくれるかもしれないが……今の所宛は何も無い
はっきり言えば……ここまでは全くのノープランで、どうしたいのかさえわからないまま、ただ省吾の周りをウロウロしているだけだ
佐鳥の顔を見るだけで気が重くなり、くだらない事に囚われている自分が愚かだと自覚してしまう
「耳にかけているだけなんだからあんまり触ると落とすぞ」
「え?」
考え込んでいる間に無意識で重い耳を触っていた
なるほど揺れて頬に当たる付着物は耳に引っかかっているだけで引っ張ると簡単に取れた
いつ買ったのか知らないが目の前にぶら下げてよく見ると、銀のハンガーに繋がった細いチェーンの先にキラキラ光る石が揺れている
「これ……ダイヤ?何でこんなもん買ったんだよ、男がつけてもしょうがないだろ」
「こら、外すなよ、似合ってるからいいじゃないか、ほら貸せよ、付けてやる」
「何か……気持ち悪い」
せっかく上手く誤魔化し、ポケットにでも入れてやろうかと取ったのに信号で止まった隙にまた耳にぶら下げられてしまった
アクセサリーにお金を使うなんて、この先絶対に一度も無いと断言出来る、人の価値観は様々だがこれだけはどうしても理解出来ない
タレントがテレビで着ているような服も同じだった
「こんな服着てどこ行くんだよ、俺は何でも食べるからその辺でいい」
「きのこを食わないくせに何でも食べるって言うな、オーベルジュの予約が取れたんだ、きのこは入れるなってちゃんと連絡してある」
「………オーベルジュって何?」
「ん?……そっか知らないよな、オーベルジュはホテルレストラン……って感じかな、地下にクラブもあるから連れていってやろうかなと思って予約したんだ」
「ホテルの地下にクラブ?」
何だか耳馴染みが良くて外をよく見ると、よく知っている道をよく知っている場所に向かって走ってる
「それってもしかして胡蝶の事?」
「あれ?知ってる?」
知ってるも何もない、暫くの間毎日通った胡蝶はこの世で一番近寄れない場所と言っていい
「車止めて」
「え?」
「俺パス、ここで降ろしてくれ」
「パスって何だよ、どうした」
郊外にあるオーベルジュのラ.ベルエキップはコネも効かず中々予約が出来ない人気のあるレストランだった
半年先の予約なんて馬鹿らしくてやってられないがタイミングよく浮いた予約を友達に譲って貰い、どうせなら一泊してから遠出をしようと計画していた
クラブ胡蝶に連れて行こうと思ったのは女性を苦手にしている雪斗の反応が見たかったからだ
「俺は胡蝶には行けない」
「行けないって何で?クラブが嫌ならやめとくけど飯だけでも食べないか?腹も減ったし滅多に予約が取れない店なんだ、勿体無いだろ」
「無理、俺はあそこに近寄れない」
「だから何で?」
「……何でって……胡蝶のホステスとちょっとあったから」
「ホステス?」
胡蝶は安物のガールズバーやキャバクラじゃない
ホステスは厳重に守られ、店以外で会うとなればそれこそ両手分の札がいる、接待を仕事にしている高級ホステスはある意味芸能人より敷居が高く、プライベートで会うなんて不可能に近い
雪斗に女っ気があるとは思えず"ちょっとあった"の意味を測りかねた
この辺りには最寄りの駅は無くタクシーも簡単には捕まらない、こんな場所で降ろせと言われても放ってはおけ無い
ちゃんと事情を聞こうと路肩に車を止め、雪斗が飛び降りたりしないようにチャイルドロックをかけた
「ちょっとって何だよ、ちゃんと言え、何かで困ってるんなら俺が何とかしてやる」
「ん……ちょこっと刺されただけ、もう全部終わってるけど……あんま近寄りたくない」
「さ……刺された?」
ほらっとパンツから引き出したシャツを目繰り上げ、ペロリと腹を出した雪斗は、今まで見せた事が無い皮肉っぽい冷めた目をして片方の唇を上げた
車内は街灯の光が直接入り、白い腹は見えるが傷は見えない
シートを少し倒し、運転席から体を伸ばして雪斗の下腹を覗き込むとパンツの境目にまだ新しい傷痕が臍の横まで赤い線となって残っていた
プールでほぼ裸と言える水着姿を見ていたのに気付かなかった……ちょこっとって傷じゃない
「お前、何したらこんな事に……」
無惨に横たわる生々しい傷は触ったら裂けてしまいそうな程皮が薄い、これが本当に刺された傷ならきっと生死にも関わった筈…………
ちょこっとって何だ、手の中に収まっていると思っていた雪斗の背中に、突然知らない世界が広がって見え、まだ聞いてないプライベートにムラムラと汚い妬心《としん》が湧き上がって来た
ぐるぐる頭を巡る痛い邪推に傷口から目を離せないでいると………ふっと吹きかけられた雪斗の吐息で前髪が揺れた
「雪………」
思わず顔が近い
目の前に………"ちょこっと"進むだけで届く赤い唇があった
フロントガラスから直に差し込む街灯の光が、浮いた髪まで正確に象《かたど》った自分自身の影を作り、折り重なるように雪斗の顔に被さっている
見上げて来る少し潤んだ茶色い瞳は……切ないような、うっとりと蕩けているような何とも言えない表情を見せ…………
誘われているような気がした
………殆ど無意識に……窓に突っ張っていた腕の力を抜いた
ピタッと唇が着地したのは……
口を覆った雪斗の手の甲だった
「ん?」
「何をする気だ、そんなつもりなら二度と会わない」
「…あ………俺…………今何した?」
覆いかぶさって体の下にいる雪斗は窓とシートの間に頭を埋め、逃げる様に体をずらして背中で座っている
怒っているのかと思った顔には不敵な笑いが口の端に浮かび、揶揄うように尖らせた唇がチュッと音を立てた
「おい、ふざけるのはやめろよ」
「ふざけてるのはどっちだ、今キスしようとしたくせによく言うな」
「それは……」
ほんのさっきまでホステスと何かあったと聞かされても男と女の話じゃないと思っていた
今、見下ろしている雪斗は、知らない大人の世界に戸惑い、ビクついていた知ってる子供じゃない
いきなりそんな風に妙な色気を全開にされても全然ついていけてなかった
「そんなつもりはない……と思う、ごめん……つい」
「つい……って皆そう言うよな」
ボソッと呟いて首元のボタンを外す仕草は口調とは裏腹に意図的に誘われているようにも思える
男に興味はないが雪斗なら行ける、と思ってしまった
10も年下の相手……しかも男にまごまごするなんて情けないが確かに気圧されている
「皆ってどういう意味?こんな事がよくあるのか?」
「……あるよ、どいつもこいつも人の事を変な目で見やがって、ムカつく」
よくある?よくあって事は………
つまりはこんな経験が他にもあるっていう意味なのか………嫌がっている口調の割に平然としているなんて言葉と行動が真反対だ
もし逆の立場だったら今頃殴りつけている
「お前……女を知ってるのか?」
雪斗だって成人している男だ、女性と関係を持っていたとしても不思議じゃ無いが……どうしても違和感が拭えない
雪斗は真っ直ぐ見据えた視線を外さず、何も答えなかったが目が肯定している
それならばもう一つ……聞きにくいが、聞いておいた方がいいような気がした
「じゃあさ………男……は?」
やっぱり答えなかったが………ふいっと反らされた視線に確信した
知っていると……
スウッと……体の中で混ぜ返っていた欲の粒が腹の底に沈殿していくような気がする
なぜ初《うぶ》だと、世間知らずだと思い込んでいたのか……雪斗はそんな事一言も言ってない
胡蝶に出入りしていたなんてさすがに驚いたが、よく考えると金も暇もあるどっかの御曹司がそんな真っ白なままでいる訳なんか無い
よく懐いてくれる子供だと思っていた雪斗が別人に見え、正体の見えない何かに圧倒されて声も出なかった
緑川はH.W.Dの社屋で慣れないイラストレーターを使ってデザイナーに出す発注ラフを作っていた
ロゴを貼り付け、説明文を入れた見本のファイルを送っておくと見事にお洒落なデザインに作り直される
木嶋に見せるためにプリントアウトをクリアファイルに挟むとやっと一段落だ、パソコンを落とし帰る用意をしていると音を消した携帯がブルブル震えながら光っている
時間は既に11時を回ってる…………何となく出たくなかったがどうしても無視出来ない相手からだった
「帰れない、車が邪魔で……」
「………は?」
「………だから帰れないんだよ」
「暁彦……お前な……」
やっぱり無視すればよかった、ベロベロに酔って話にならない
「何言ってる」
「車が邪魔なんだ……俺は………」
携帯を耳から離し、画面を見詰めているとブツブツ話し続ける佐鳥の声が聞こえてくる
迎えに来いと言われているのはわかるがこのままじゃ埒が明かない、明日も早いし、もう間もなく電車も無くなる
「暁彦、何でもいいから要点を話せ、今どこにいる」
「ん?…………ばー」
ばー………って……どんな店にいるかじゃ無くて何処にあるか言ってくれ
丸一日働いてクタクタになってやっと開放された所にこれだ、もう酔っぱらいの要領を得ないテンポに付き合っていられない、佐鳥が使えないなら違う奴を使う
「ばーなら他に誰かいるだろう、電話を代われ」
「誰もいない」
「嘘つけ、顔を上げろ、目の前に誰が見える」
「……男」
「そいつに用があるから電話を代われ」
「………………」
ゴソゴソと電話が移動する衣擦れのような音が聞こえた
バーの店員に聞いた店の場所は省吾の家がある駅の近くにあった、歩道に乗り上げたTOWAのレクサスが止まっている
確かにタクシーを使わなければ来れない場所だが、飲み屋の真ん前に車を駐車するなんて度胸がある(ってか馬鹿)
どうやら佐鳥は約束を破り、雪斗の周りを彷徨いたらしい、その末のこの体たらくに呆れてしまう
「俺……幾ら持ってたっけ……」
独立した建物に入る店はバーというよりラウンジのような佇まいで妙に高給っぽい
高級住宅が集まる土地柄を考え、佐鳥が札を多く準備している期待なんて虚しく財布の中身を確かめると……嘘みたいだが二千円しか入って無い
パッと辺りを見回したがコンビニは見当たらず、どうしたものか考えていると、紫の一枚ガラスで出来た扉に各種のカードマークが見えてやっとドアを押した
高級感溢れるハイソサエティな匂いのする店の中は天井が高く、真っ暗だった
要所要所を青いライトが照らし、オブジェのように並んだグラスに青が写って海の底にいるようだ、空いている店内を見回すと、波型にぐにゃりと曲がった凝った形のカウンターに居崩れた佐鳥を見つけた
バーの店員に水を飲ませてくれと頼んだおかげか電話で話した時より幾分持ち直しているように見える
仕事に疲れて、馬鹿な酔っぱらいに振り回されてムカつくのに嬉しそうに笑われると………やっぱり和んでしまった
「暁彦……お前なあ、勘弁しろよ」
「悪い……車を忘れて飲んじゃって」
「車でここまで来たんだろう?」
「忘れてたんだ……」
「はいはいわかったよ」
苦笑いを浮かべるバーテンからお絞りを受け取り、本当ならビールを一気飲みしたいが運転手を請け負った廉《かど》で仕方無くソフトドリンクを注文した
「俺は忙しいんだ、お前も明日は仕事だろ、話はまた聞くから今日はもうこれで帰るぞ」
「雪斗が………佐鳥って呼んで笑いかけるんだ」
「だから……」
「死ぬほど嫌だった……」
忠告を聞く気は無いらしい
佐鳥は片手に水、片手に琥珀色の液体が入ったグラスを握り、止めた側から琥珀色を選んで口に持っていった
「おい、せめて水にしとけ」
「ニヤけ顔で雪斗に触って、変な服着せて……雪斗は佐鳥って呼んで……あいつに笑いかけて……」
言葉がグルグルと同じ所を回ってる、これ以上飲ませるとまた佐鳥に頭を抱かれて眠る事になる
もうあんな事は絶対に嫌だ、さっと酒のグラスを取り上げ水を持った手を持ち上げると……気付かずに飲んでる
どっちでもいいならもう水だけにしてもらう
ウイスキーの入ったグラスを抱き込み、肘をついて佐鳥から隠した
「つまりお前は…………見に行っただけじゃ無くて……まさか社長の後を付けたのか?」
「つけたよ、勘付かれたよ、帰れって言われたよ、雪斗も雪斗だ、どうして……あんな奴に笑ったり……笑ったり……佐鳥って呼んで笑ったり……嫌で悔しくて何で俺を頼ってくれないんだ、悔しい……」
「………暁彦……」
実は佐鳥が心の中を見せる事はあんまり無い
雪斗が逃げたと落ちていた時もノロケはたっぷり聞かされたが後は表面的な状況報告だった
何も言わなくても外にポロポロ漏れ出て、どうせ丸わかりなんだから言ってくれたらいいのにすぐ内に籠もって一人で落ち込む
気持ちのベクトルが円になって絶対に向き合う事は無いが、頼って欲しい気持ちはよくわかる
すぐ帰るつもりで浅く腰掛けていた椅子に深く座り直してちゃんと聞いてやる事にした
「佐鳥って………そう言えばあっちも佐鳥だよな……社長がその気になれば本当に凄腕だな」
「渡辺さんに雪斗の中には誰もいない、そのうち分かるって言われたんだ」
「渡辺さんの言う意味は俺にもわかるよ、でも誰もいないって事は無いと思うけどな」
佐鳥は雪斗の近くに居すぎて見えていないのだ
何故雪斗が姿を隠したか……あんな風にちょこちょこ待ち合わせをして遊ぶだけなら何も家を出る必要はない、わざわざ一人になったのは佐鳥に迷惑をかけたくないから、心配させたくないから一人になった
佐鳥の横にいつも当たり前に並ぶ雪斗の中にはちゃんと佐鳥がいる、少し悔しいが二人のバランスはいい
「俺さあ……一回雪斗の前でお前とのキョーレツなチューでもして見せてやろうかなって思ったよ」
「は?」
「あいつ……どんな顔するかなって……」
「どんな顔……」
雪斗の顔を想像する前に俺の顔を今見てみろ……
ムカついて握った拳が佐鳥の頬に飛んでしまった
「いきなり何すんだよ」
「この前の仕返し」
「しかもお前酒を飲んでるじゃないか、車はどうするんだよ、誰が運転すんだ」
「…………あ……」
………しまった………言われるまで気付かなかったが佐鳥から取り上げたウイスキーのグラスが知らない間に空いていた
もう終電はとっくに走り去り……後はタクシーか代行運転しか無い
間抜けだなとヘラヘラ笑う佐鳥はどうやって帰るかなんて心配して無い、細かい事にばかり目端が利く自分も嫌だがおおらか過ぎる佐鳥も佐鳥だ
カップルバランスを言ったらこっちだって絶対に負けてない
「変な嫉妬アイテムに俺を使うな」
「これ……嫉妬……なのかな……」
「嫉妬だろ、それ以外に何がある」
「俺は……ただ……どうして何も言ってくれないのか……俺を頼ってくれないのか……それが悔しくて」
「それはわかったよ、後もうちょっとだけ様子を見て今度は二人で話を聞きに行こう、社長だって手詰まりになってるよ、お前の天然パワーを頼ってくれるかもしれないぞ」
「緑川なら……もし緑川が同じ状況に陥ったら俺を頼る?」
「暁彦はわかってないけど………俺はもう随分頼ってる、いつも助かってるよ」
バーテンにグラスを返して無言でお代わりを即すと片耳で聞いていたのだろう
既に用意されていた新しいグラスが音もなくカウンターを滑ってきた
夢を見てしまった……
朝ベッドから飛び起きて隣を確認するとそこには誰もいる筈ないのにまだ人の気配が生々しく残ってる
省吾は広い実家に今も暮らしていた
同居している両親と顔を会わす事は滅多に無く、家を出る必要性を感じていなかった
女を連れ込んだりは出来ないが場所は便利だし、何よりも車を全部保管するには実家でなくては出来ない
誰にも遠慮する必要は無いがダラけるのは嫌いだった、さっさとシャワーでも浴びようとシーツの中で伸びをすると、ツンッと悪寒に似た刺激が背中に走った…………手を置くと信じられないが下半身が持ち上がってる
夢の中の雪斗は女だった
最初は男だったが服を脱がせた時点で体が女にすりかわって下半身を濡らしていた
あんな顔…あんな声…………あまりにリアルで本当にヤってしまった実感しかない
雪斗は男だ……しかもまだ子供と言える
手を出すなんてただの淫行にも思えてくるが、それは雪斗の見た目が年よりも若く見えるからだ、男女で考えると10くらいの年の差なんてありふれている
車の中で見せたあの目、あの顔付きは隠されていた素顔なのか、無自覚なのか……無茶苦茶煽られたが、笑った雪斗の瞳の中には強い拒否が浮かんでいた
遊び慣れた女のように無し崩しには許してくれそうも無く、無理強いなんか出来ないが……合意さえあれば自分の物にしてみたいなんて、どうしょうもない欲求が生まれてしまった
「無理じゃないよな……」
経験があるなら障壁は低いと考えてもいい
信頼は得ていると思う、好かれているとも思う、決して勝てない勝負じゃない
「…俺は…何を逸《はや》ってんだ、情けないな」
30にもなって朝勃ちなんてみっともない、もう長いことマスターベーションなどした事が無いが放っておくにはゴロゴロ邪魔になる……夢の中では挿入してすぐだったが………自分を手で包むともう射精寸前まで昇っていた
いつもなら起きた途端現実世界が雪崩込み、夢の内容はあっという間に薄れて消えていくがまだ雪斗が側にいて離れない
目に……手に……体に残る、勝手に作り上げた雪斗の痴態を抱いて手を動かし、無意識に溜めてしまった欲の塊を吐き出した
雪斗は携帯を持って無い、一つ契約して持たそうとしたが嫌だと拒否された
毎日会っているのによく考えたらどこに住んでいるのか、どこの会社を継いだのか、名前以外何も知らないままだった
ずっと口約束だけで繋いで来たが、もしうっかり切れてしまうと連絡が出来ない、今日こそは家まで送ってちゃんと地を固めたかった
雪斗の家は相当厳しいような気がする
何かの理由で(普通に考えれば急逝したと考えていい)リタイヤした父親に代わって会社を継いだと言っていたが、両親の目が緩むまで厳しく管理され箱に入っていたのは本当だと思う、普通なら学校の帰りにでも経験しそうな事も何もしてない、スタバに行ってもティースタンドのシステムすら知らなかった
クラブ胡蝶は初めて会ったプールバーのように気が向いたからと言って簡単に入れる場所じゃない、稚拙な推測だが………つまり誰かに連れられ、そこで女遊びを教えられたとしか考えられない
男遊びは………胡蝶に連れて行った奴が手を出したのか………
押し込められて閉じ籠もっていた狭い世界が突然開け、何も知らず戸惑う雪斗を無神経に荒らされたような気がして腹が立つ
こんな経験は初めてだが……これは多分嫉妬だ
とにかく、家に挨拶をして名乗りを上げる、自分の名前に自信はあるが、年寄ウケの悪い騒がしいスポーツカーでは胡散臭い印象を残すだけで、一つ間違えば交際を禁じられてしまうかもしれない
数あるコレクションの中で一番品のいい車を選んで家を出た
その日はどうしても外せないビジネススクールとグループの定期会合に顔を出さなければならず、夜になるまで一日が酷く長かった
ホテルの会議室で軽食は出たが雪斗はきっと何も食べずに待ってる、水だけを飲んで退屈な報告を聞き終わった途端ホテルを飛び出した
古い車のレスポンスは意外と悪く無いがヘッドライトが暗くて頼りない、夜に走ると前を照らす範囲が狭くて周りが見えにくかった
ロータリーに入る手前の歩道で待っている筈の雪斗を見逃さないようにスピードを落として走っていると、歩道の上にポツンと浮き上がる、人恋しげに道路を見つめるワンコのような短パンが地面に座り込んでいた
「雪斗!」
名前を呼ぶと犬のように嬉しそうに駆け寄ってくるのはいつもの事だった
男が男にキスを迫ったのに拘っている様子は一切見せず、さらっと流してもう無かった事になってる
雪斗が持つ別の世界は、深いのか出合い頭なのかもうわからないが、無邪気な無警戒は危ない事を自ら呼び寄せているように思える
知らない所であんな顔を誰か他の奴に見せたのかと思うと、堪らない独占欲が湧いて返す笑顔が引き攣ってしまった
「何でそんな顔してんの?学校は退屈だった?」
「何でもない、ご飯まだだろ?昼は?ちゃんと食ったか?」
「うん、パンを噛じった」
「またそんなんか……お前は一人で放っておくとホントに生活力無いな、今日これから行く場所はあんまり店とか無くて辺鄙なんだ、その辺で食ってから行くけどそれでいい?」
「毎回言うけど俺は何でもいい、佐鳥が好きなもんでいいよ………変な服を着ろって言わない限りだけどな」
「もう言わねえよ」
少なくとも雪斗に物を買い与えても喜ば無いと分かった、それなら片っ端から何でも見せて回る
まずは評判のいい場所、まるで高校生みたいだが…………人気《ひとけ》の無い静かなデートスポットに雪斗を連れ出そうとしていた
山の中にある空間アートの美術館は夜になると幻想的で美しいライトアップが庭園に広がっている
暗闇も多くTwitterの投稿には隅の方で屋外エッチをしたなんて書き込みもあった
そんな盛った犬のような真似をする程飢えてないが、いい雰囲気になれる事は間違いない
「辺鄙ってどこ?言っとくけど海は嫌いだからな」
「海じゃない、ちょっとロンマチックな美術館、結構いいらしいぞ肌寒いかもしれないから後で羽織るもん買ってやるよ」
「おい……また変な事企んでるだろ、羽織るもんって何だよ、この前だって飯を食うだけなのに漫才師みたいな格好させられたんだ、今度は仮装でもやる気か?猫の耳とか出てきたら俺は帰るぞ」
「猫の耳……は……ぜひ今度見たいけど………なあ……帰るってお前どこに住んでるんだ?帰りが遅くなるかもしれないから聞いときたい、そしたらこんな所で待ち合わせしなくても迎えにも行けるだろ」
「どこでもいいじゃん、呼んでくれたら俺はこうして出てくるし不便ないだろ」
「じゃあ継いだお父さんの会社ってどこ?」
「…ちっちゃい中小企業…言ったって佐鳥は知らないよ、何?何だよ今日は変だぞ、そんな事聞いてどうすんだよ」
「そうだけど……」
ハッと気付けば打算が漏れ出ている欲深い女のような口調で問い詰めていた
何故雪斗がはっきり答えないのかはよくわかる、自分だって26を過ぎた辺りから決まった相手と付き合って来なかったのは、すぐに結婚を意識され、年収だとか資産だとかをそれとなく探られたからだ
身の上は隠しようが無く、ある程度は我慢するがいつも辟易としていた
回り回って辿り着いたのが男なんて笑えるが……少なくとも雪斗に変な打算は無い
むしろ打算を持ってくれた方が手っ取り早いのに、誰が幾ら持ってるかなんて興味が無いのか、歳とか家の事とか基本的な事まで何も聞いて来ない
何も考えてないのか、一時的な遊び相手と思われているのか……気になるが焦っても仕方がない、まずは説得して携帯を持たす所からゆっくり始めればいい
「ごめん、それは今度でいい、ほら、車に乗れよ、何か食べに行こう、お腹空いてるだろ」
「う………ん……空いたけど……」
ドクン、ドクン、と重い鼓動で体が揺れて、視界が二重、三重にぶれていた
省吾と話す間、動揺を見破られないかと冷や汗が湧いて握った手の平が湿っぽい
駅のロータリーは夜でも明るい街灯に照らされ、姿を見咎められやすい、佐鳥に跡をつけられてから改札口の正面で待ち合わせするのは止めた
駅前の道路は交通量の割に二車線もある、歩道も路肩も広く街灯の裏に回れば観察する側に回れる
ロータリー前の交差点に向かって流れる車列を眺めていると明るいLEDのヘッドライトに混じり、一際薄暗い丸目玉が見えた時には息が詰まった
実はそんなに覚えていない、車を見る角度が違うのか写真を見てもボヤッとフォルムが浮かんだだけだった
今………目の前にするとその古いメスセデスには確かに目覚えがある
ベージュ色の革で出来たシート、青味がかった窓のガラス、どうしても外から開ける事が出来なかったドアの取っ手……運転席には父がハンドルに頭を乗せて項垂れていた
隣の母は崩れ落ちて見えない、縁は……きちんと足を揃え、座ったまま眠っていた
省吾がドアを開けて乗り込むのを待っている
何食わぬ顔をして乗ればいい………黒光りしている体は今、息を潜めて鎮座しているだけのただの物だ、図体はデカイが口を開けたそいつは取って食ったりしない
行きたいのに、笑いたいのに………踏み出そうとする足はぬかるんだ泥に絡まってように地面から離れてくれない
「雪斗?」
……景気のいい返事をしようと頑張ったが気道が縮んで声が出ない
笑っていた省吾の顔に疑いが生まれ、様子が変だと気付かれてしまった
「どうした?調子悪いのか?」
「な………」
身体中の力を振り絞って笑おうとしたのに掠れた雑音しか出てこなかった
空気が重い、粘ついて肺に入って来ない
もうこんな思いは嫌だ、殆ど覚えがない筈の物にいつまで捕われ動揺するなんて馬鹿みたいだ
何も入ってない筈の胃から苦い汁が競り上がり、吐いてしまわないようにグッと胸を抑えて足に力を入れた
「ごめん……佐鳥……ちょっと家の用事を忘れてた、俺は電車で帰るから悪いけどご飯は一人で食べてくれ」
「用って……嘘付くなよ、具合が悪いんだろ?とにかく車に乗れよ、酷いなら病院に行ってやる、ほら手を貸せ」
「嘘じゃない、俺に触るな」
「横になれるとこに行くか?あっちにホテルもあるし何なら俺ん家でもいい、すぐ休ませてやるから乗れよ」
「乗りたくない!離せ!」
「雪斗?」
出した腕を振り払った反動だけで雪斗の足が縺れてフラフラと後退った
こんなに余裕の無い雪斗はプールバーで居眠りをして以来だが今度は明らかに体調を崩してる
雪斗を見つけた時は普通に見えたのに話すうちに呼吸が大きくなり、触った手は冷たく冷えていた
いつも白い肌が陶器のように青白く血の気を無くし、急病と言うより何かの発作に見えた
「おい、大丈夫か?」
立っている事さえ辛そうで蹌踉《よろ》めいた身体を追ってビルの壁際で受け止めた
「さ……わんな……」
「抱いてなきゃ倒れるだろ、えづいていた癖に何を突っ張ってるんだ、吐きたければ吐いていい、俺は迷惑なんて全然思ってないぞ、変な警戒すんなよ何もしないから」
「そうじゃ無い……違う……あんたなんか……怖くない」
「雪……」
無意識に飲んだ生唾がコクンと喉を鳴らした
駄目なのに、そんなつもりじゃ無いのに不意に抱き締めてしまった体が熱い……湧き出た欲情が下半身に溜まっていく
………何だこの男でも無い、女でも無い謎の色気は……
濡れた瞳で見上げ、汗をかいた額に皺を刻んで無理矢理笑った顔は体が引ける程色っぽい
何もしないと言った口はまだ乾いてない
体調を崩して苦しんでいるのはわかっているのに腰に添えた腕に力が入りぐっと引き寄せた
反応している下半身を押し付ける形になったが………
ここは言葉の無い告白と受け取ってくれる事を願う
路上駐車をしていたレクサスの横を通り過ぎ、目の前に停車したベンツはひと目見て"例の車"だとわかった
もうストーカーでも何でもいい、緑川に全部ぶち撒けて何か吹っ切れた
毎回車で走り去る二人を見て地団駄踏んでるくらいなら、跡をつけないまでも毎日様子を見るぐらいはする
すると決めて、歩きでも車でも省吾が必ず通る道で張っていたが、歩道を歩いてこっちに向かって来る雪斗を見つけた時には気付かれないかハラハラした
今車の外で話してる二人までの距離は多分50ヤード、走れば6秒で着ける
両目2.0の視力は雪斗の笑い顔までよく見える
省吾が車のドアを開けた……ってつまり移動する気だ、つけたりしない、そう決めた
でも計算外だったが同じ車線にいる、ツルッとくっついて行っても違和感なく行き先を探れるが……つけないって決めた
「ああ?!!」
くだらない事で自分の心と戦っていると雪斗が省吾と揉めている、嫌がって手を振り払っているのに………
抗う雪斗に抱き付いて壁に押し付け………嘘だろ………
省吾の頭が沈んだ
「おいおいおい!あいつ………」
邪魔すんな?見守れ?うるさい黙れ緑川!!
もう車《ベンツ》なんてどうでもいい!雪斗を取返して連れ戻す!
車から飛び出して全速力で走った
何を見たのか一瞬わからなかった
水を買いに行くと駅に走っていった省吾と入れ違いに、目の前を水平に飛んできた黒くデカい塊が横切りビュッと風を切って通り過ぎて行った
そのまま飛び去るのかと思えば、当然だが地面に落ちてスライディングしていく………のは………
「佐鳥っ!?」
「雪斗!帰るぞ!」
「…………」
引く……真面目に引く
顎から血も出てるのに擦りむけた手を出されても怖くて、手を出すどころか声も出ない
どうしてこんな所で空《から》タックルしているのか知らないが、地面に擦れたスーツが破れてボロボロになってる
喉に詰まって呼吸の邪魔をしていた塊がびっくりし過ぎて引っ込んでしまった
「な……何してんだ……俺は……」
「もう我慢出来ない!黙って見てられるか!あいつしっかり自覚してお前に手を出してるじゃないか!」
「は?見てたのか?」
「見てたよ!無理矢理何された?どこ触られた?チュー?」
「馬鹿言うな」
どうしてこう短絡的なのだろうか、誰も彼も自分基準で考えてる、確かに瞼にチューをされたが省吾にはそんなつもりは無い(多分)
今気付いたが佐鳥は佐鳥に飛びかかってきたらしい、タイミングよく避けて、何も知らないまま走って行ってくれたのは助かったが駅の自動販売機まで距離は無い、すぐ帰ってきてしまう
「雪斗……まさかお前……あいつが好きだなんて言い出さないよな」
「はあ?いつもいつもお前は馬鹿じゃないのか?!そんな筈ないだろう!帰れ!」
「もういいだろ!あんな車放っておけよ!無理して笑ってるお前なんて見てられるか!」
佐鳥が指差した先にある忌まわしい箱
あんなものに振り回されている自分にも嫌気が差していた所にイラつかせてくれる
「お前にはわからない、あの車があるだけで、呼吸していると思うだけでどんな気持ちになるか……お前には……お前にはわからない!!」
「わかるよ!」
「わかるわけないだろう!!」
外から中を覗くと顔色を無くした縁が……父が、母が横たわるベージュのシートが見えた、変だった、呼んでも呼んでも誰も返事をしてくれない
温まった空気が膨れ、内圧が高くなったドアは子供の力では開かなかった、もし取っ手のボタンが押せていたら助かっていたかもしれない
その厳めしい図体の中に家族を取り込まれ、食われたみたいだった
「嫌なんだよ!堪らないんだ!あの車がこの世にあるだけで我慢出来ない!!」
「あの車が無くなればそれでいいのか?」
「そうだよ!どうにもならないなら燃やしてやるつもりで家を出た!俺に構わないでくれ!」
あの世に送り付けたい、息をして欲しく無い、届けてやるからまたそこで好きに乗り回せばいい
遠い所から話しかけられているようで……
呼ばれているようで……迎えを用意されているようで、メルセデスの現存を知ってから毎日思い出す度に鳥肌が立つ
「雪斗!もっかい聞く、あれが無くなれば帰ってくるんだな?!」
「放って置いてくれ……頼むから……」
「そこで待ってろ、動くなよ」
「佐鳥?……」
諦めてくれたなんて楽観はしない、いつからそこにいたのか、佐鳥が走っていった黒い車はTOWAのレクサスだ、車体は見えないが*108《とうわ》って調子に乗った番号を付けたナンバープレートが見える
乗れと言われても帰る気はない
道路から距離を取って歩道の奥に座り込んだ
あの車が無くなれば雪斗は帰ってくる
なら、やる事はひとつだ
レクサスのエンジンをかけてアクセルペダルを思いっきり踏み込んだ
アクセル全開なんてやった事無いが背中を撲りつけたような急発進にタイヤが悲鳴を上げてグンっと身体を引かれた
さすがは無駄な5000ccのエンジン、出だし3秒でレクサスの本気が見えた
白い煙を巻き上げたタイヤを唸らせレクサスが突進してくる
歩道に寄り過ぎた車体が縁石を擦り火花が出ていた
「佐鳥っっ?!!」
レクサスは方向を変え無い
佐鳥が何をしようとしているか気付いたがもう止められない
思わず身体を丸めて頭を抱えた
「佐……わっっ!!!」
耳を覆いたくなる程の衝撃音
勢いそのまま衝突したレクサスはベンツのリアをふっ飛ばし、金属とガラスの破壊音を轟かせた
鼓膜の振動は限界を超え、音が衝撃となってビルのガラスがビリビリと揺れてる
軋むタイヤがザーッとアスファルトを引っ掻き、車道の真ん中に吹き飛ばされていったレクサスは大きく首を振って傾き、タイヤの黒い痕を地面に引いて壊れて取れたバンパーを引きずりながらギギギっと動きを止めた
一拍遅れて……ベンツのフェンダーが外れて道路の真ん中に転がって行く
チャリンチャリンと細かい部品が散らばる音が静まると一瞬辺りが無音になった
駅前にコンビニは無いが自動販売機はある、小銭の持ち合わせが無くて駅で両替をしてから水を買った
「持病でもあるのかな……」
そう言えば幾ら家が厳しいと言っても少し過保護に育てられ過ぎているとは思っていた
プッチリと理性の糸が切れてコンな路上で欲情してしまったが雪斗の症状はどんどん悪くなってそれどころじゃなくなった
車に乗りたくないなら本当にホテルでも取って泊まればいい、落ち着いたら食事を取って、話を聞いて………それから………
いや、雪斗は体調を崩してる、そんな真似は出来ないが……もし出来たら?
外泊は出来ないなんて雪斗は言わないが、何だかんだといつもきちんと帰っていく、こんな機会がすぐに訪れるとは思えない
「いきなり男としろったって……」
いや……雪斗とならデキる、デキてしまう
「……って俺は何考えてんだ馬鹿……早く水を……って何だあれ……え?…え?…?!!」
急発進した車に目を引かれギョッとした
スピードを上げて……突進して来る先には大事なベンツがある
声を出す暇もなかった
爆音と共に派手に衝突して勢いが止まらない黒い高級車が、ビュッと真横を通り過ぎ、道路のセンターに跳ね飛ばされ首を振ってドリフトして行く
「な…………」
信じられなかった
どれくらい呆然としていたのかわからないがすぐに沸き起こったサイレンの音が聞こえて我に返った、嘘みたいだが………これは現実だ
人が集まってきて数分もしないうちに遠くからサイレンが響いて来た
レクサスは助手席側が大破してエアバッグが膨れてしまい身動きがとれないが、不思議な事に体への衝撃はあまりなかった
無事だったバックミラーに写るベンツはトランクがへしゃげて大きく膨れ、ドアは取れかかっている、道路側のサイドは派手に凹んで青みがかったガラスが細かく割れ、飛び散っていた
それでもレクサスよりはまだましだった
両方廃車は間違いない
事故を見ていた通行人が手を貸そうと救助に集まって来ていた、ついでにもう既に緊急車両が灯す赤色灯も見える
のんびりと車に挟まっている場合じゃなかった
「大丈夫ですか?!」
ひん曲がった扉を押し退けて中年男性が二人驚いた顔をして覗き込んできた、脚を抜こうにもエアバッグに邪魔されて動けない
手を貸して貰おうと腕を伸ばした
「すいません、ちょっとだけ手を貸してください」
「怪我は?もうすぐ救急車が来る頑張れ!」
「怪我は無いです、いいから手を引いてください」
大人二人の手を借りて、狭くなった足元から体を引き抜き、立ってみるとやっぱり体は何とも無い
簡単にお礼を言ってすぐ雪斗の方に向かって引き返した
赤い………
気が付いたら赤い光に取り囲まれていた
後ろに一台、その横にもう一台……前からもクルクルと赤色灯を回してけたたましいサイレンが怒ったようにわめき散らしている
段々視界が狭く縮んで、見えない手が喉を締め付ける
持っていかれたくない、引かれたくない
黒い車は風に煽られ、取れかけたドアが揺れている
まだ生きて、呼吸しているようだった
吸っても吸っても酸素が足りない、苦しくて何かを掴みたくて爪を立てたが冷たいアスファルトを掻くだけだ
サイレンはうるさいのにどんどん音が消え嫌な静寂が襲いかかってきた
落ち着け……サイレンだろうか誰かの緊迫した怒鳴り声だろうか音はそこにある、日常に溢れこの先だって避けられない
めを閉じて大きく息を吐き出すと、耳に戻った微かな音に混じって知っている声が聞こえ、ハッと顔を上げた
力を振り絞って目を凝らすとよく知っている長い体が目に写った
フラフラとベンツの残骸に近付いて行くと雪斗の叫び声が聞こえた
名前を呼んでる
「そうだ………雪斗………雪斗は……」
こんな時に車の心配をしているなんてどうかしてる
雪斗はメルセデスの直ぐ側にいた
怪我をしているかもしれない、何故一番に思い至らなかったのか……体調を崩して休んでいる所に目の前で、ほんの二メートルの鼻先でこの大事故だ
ショックを受けているに決まっている
「雪斗…………雪斗!!どこだ!!」
「佐鳥!!!」
へしゃげた車からもうもうと立ち上がる白い煙と、きな臭い匂いの空気を割って雪斗が飛び出てきた
どうやら大きな怪我は無いようだが見た目だけじゃわからない
「雪斗っ!!大丈夫か?」
「佐鳥!!」
飛び込んで来る雪斗を受け止めようと広げた両手は……捕まえようとした瞬間、スルリと避けた雪斗が肩が触れるすぐ横を通り過ぎた
「雪………」
反射的に後ろを振り返ると雪斗は走ってきた背の高い男にジャンプして飛び付いた
「雪斗?!」
パニックに陥った雪斗が人違いをして知らない男に抱きついてる、ちょっと面白いが笑ってる場合じゃない
すぐに受け取ってやらなければまた慌ててしまう
「すいま………」
「雪斗、大丈夫か?」
「………………は?」
何故雪斗の名前を知っている、しかもどさくさに紛れてちゃっかり腕を回して雪斗の腰と背中を抱きしめてる
佐鳥は俺だ
「ちょっとすいません、その子はパニックになって人違いをしているんです、世話になってるのに悪いけどその手を離してください、俺が代わります」
「間違ってませんよ」
「間違ってるよ、名前を呼んだだろ、離れてください」
「呼ばれたのは俺です」
「…………何言ってる、あんた雪斗の名前を知っていたな、何のつもりだ……ってか雪斗を離せ!お前誰だ」
「俺は佐鳥です、佐鳥暁彦です、雪斗が呼んだ佐鳥は俺の事です」
「違うよ馬鹿、何を思い上がって……」
「すいません、あのレクサスを運転していたのは俺です」
「はあ?!………………」
佐鳥省吾は見かけによらず大人だった
逆上しかけた自分を抑え、上げた拳をぐっと握り締めて収めてくれた
「どういう事だ」
「言ったままです、雪斗は俺とわかって抱きついてる、それにあのレクサスはうちの会社の車です」
省吾と真面目に話すのは辛かった
何でって…………雪斗が胸に噛み付いてる
両手と片足を巻き付け張り付いたまま、抱き留めた瞬間からずっと噛んでる
続々と数を増やす緊急車両はパトカーに救急車、消防車まで顔を揃えた、まだ鳴り止まないサイレンは空気を震わせ、緊迫した雰囲気がピリピリと肌に伝わってくる
目を塞いでも多分雪斗は感じてる
例え食いちぎられても体を離す事は出来ない
「あんたの言ってる事が理解出来ない、何でもいいから雪斗を離せ、雪斗は間違えてるだけだ」
「だから間違って……」
まだ状況が理解出来ないでいる省吾にもっとはっきり言ってやろうかと思ったが、集まっていた警官達からわっと上がった声に掻き消されてしまった
「退避!!ガソリンに引火した!退避!野次馬を退けろ!!」
転がるように散った野次馬と警官の後を追うようにベンツのフロントからボワッと火が上がった
少し遅れて着いた消防車からガラガラと引き出されたホースは白い泡が吹き出し大騒ぎになっている
「佐鳥………今のうちに逃げよう……」
胸の痛みが無くなったと思ったら腕の中から顔も上げずにボソリと雪斗が呟いた
「それは出来ない……俺には事故処理の責任がある、渡辺さんを呼ぶから……」
「渡辺を呼んだら怒られる」
「じゃあ緑川にする?」
「……佐鳥が逃げないなら…俺もここにいる」
雪斗はいまいちわかってないが正義感とか道義的責任の話じゃ無い、運転者として事情を話さなければ当て逃げになってしまう、下手すると飲酒を疑われてややこしさ倍増だ
「そう言う事じゃないんだ、雪斗は今関係ない、誰か呼ぶから先に帰って待ってろ、どうする?緑川にする?」
「…………する…」
「うん……じゃあ呼ぶけど………ちょっとしただけ顔を上げられないか?あいつが燃えている」
ピクリと雪斗の頭が動いたが顔を挙げようとはせずに……またガブリと噛み付いた
ゆっくり死んでいくメルセデスは泡と茶色い粉に塗れ、最後の断末魔を上げる事も出来ずに鎮まっていく
「おい……何喋ってんだ……」
話し声が聞こえたのか省吾が睨みを効かせて向き直った
「あなたに関係無い話です」
「お前はもういい、雪斗!こっちに来い!」
「触らないでください、勘違いしているのはあなたです、雪斗の中の佐鳥は俺だけだ」
「お前なっ!」
省吾が伸した腕を叩き落とすと保っていた自制心が崩れてしまったのか握り締めた拳を振り上げた
「そこまでです」
本当に振り下ろすつもりだったのかもう自分でもわからないが、後ろから誰かにガッシリ腕を掴まれ止められた
「な………何だよ……」
腕を取られたまま振り返ると背の高い男が冷たい目をして見下ろしていた
身長にコンプレックスは無いが雪斗が抱きついている男もこいつにも見下《みおろ》されてムカつく
「誰だあんた、関係ないだろ、俺を誰だと思ってる」
「誰でもいいです、実力行使の前に引いてくださると助かります」
「はあ?偉そうに……」
「後にしてください………佐鳥大丈夫なのか?」
「俺は!」
「緑川……何でここにいるんだ、今電話しようと思ってたけどまだしてない……」
「虫の知らせ」
「………は?……佐鳥って……」
佐鳥?佐鳥って何だ、腕を掴んでる男が佐鳥と呼びかけたのはやっぱり自分じゃない
いない事は無いが「佐鳥」の苗字はそんなにポピュラーじゃ無い、親戚以外には会った事がなく、同い年くらいに見える目の前のデカい男に見覚えは無かった
人の車を大破しておいて謝罪の一言も無い、スーツが破れ、ガラスで切ったのか薄い血が額から垂れているのに動揺しているようにも見えず、事故の結果を当然のように捉えてる
雪斗を囲い込むこの知らない男達にからかわれているのか何だかもうわからなくなった
駅を出てすぐ騒然としている道路を見て嫌な予感がした、辺りを包む空気がガソリン臭く、夜なのに空に向かって立ち上る黒い煙が見えた
どうしてるか、突っ走ってないかが気になって佐鳥に電話をしても出なかった、松本にかけ直すと車で出ていったと聞いて、佐鳥のお馬鹿さんっぷりがやっぱり発動している事を知った
どうせ潜む場所は決まってる、見つかるかどうかもわからないが来てみると事故現場に遭遇した、道路で潰れているレクサスは間違いなくTOWAの車だ
燃えているのはメルセデス………古い車は硬く、最近の車は柔らかい、形を保っているメルセデスに比べグシャグシャにひしゃげたレクサスを見て総毛立った
とても中身が無事だとは思えない、救急車は待機したまま動いてない
まさか動かす事も出来ずに救急処置が施されているのではないかと野次馬を割って事故現場に飛び込むと、雪斗を抱いた佐鳥に向かってもう一人の佐鳥が腕を振り上げていた
服が破れてボロボロだが無事な姿を見て死ぬ程ほっとした
「……これはどうしたんだ、……何があった、お前らが関係しているのか?」
「雪斗は関係ない、俺がやった」
「何を…やったか言え」
「それはまた今度だ、雪斗を連れて先に帰ってくれないか?今は堪えているけどここにいたらもう無理だ、そのうちに発作を起こすかもしれない」
「いいけど……お前怪我はないのか?」
「怪我は無いけど多分もうすぐ怪我をする、心配してくれ」
「してるよ馬鹿!どういう事だ、何を言ってる、ちゃんと説明しろ!」
「今雪斗が噛み付いてる」
「…………………」
だから何でこんな時に笑いを取ろうとする
ここ……と指で指されてもどうしてやる事も出来ない
出来てもアホらしくてしない
雪斗を佐鳥から引き剥がすと本当に噛み付いていたらしい
離れたくない、とか雪斗が言う訳無いが、しつこくシャツを噛んで伸びた布地がブチっと尖った
雪斗は甘えたりふざけたりしている訳じゃない、寸止めされている過呼吸の発作は佐鳥がいたからこそ止まってる
預かる以上、やっぱり無理でした、なんて訳には行かない
ちょっと遠慮しているのか額を置いているだけの雪斗を胸にぎゅっと押し付け肩に腕を回した
「社長を家に連れ帰ったら戻ってくるから連絡をくれ」
「いや、雪斗についててくれ」
「でも……」
「早く行け、雪斗は多分もう限界だと思う」
「限界って何が?社長ってどこの会社だよ」
ずっと考え込むように黙って事故現場を見つめていた省吾が"社長"にピクリと反応して顔を上げた
「音羽はTOWA製薬の社長です、そこに居る佐鳥は社員で私も以前在席してました、社長にはちょっとした事情があるんです、あなたには関係ないですがね」
「TOWA製薬?雪斗はやっぱり社長なのか?」
「そうですよ、大株主でもある、TOWAは正真正銘音羽の会社です」
未だ現場処理に忙しい警官達はまだ事故当事者に話が出来ないでいるが直に始まる、どうせ保険はTOWAの名義だ、今隠しても意味は無い
「雪斗は父親の会社を継いだって聞いたんだけどそうなのか?」
「間違いないですよ」
「どこにある」
「それは後でわかるでしょう、今は急ぎますから、失礼します」
襲うなよ……と帰り際に佐鳥に笑いながら睨まれたが多分…………結構本気は伝わった
雪斗の精神状態は今最高潮に危うく、前と似たような状況になりそうだがそれは絶対に……絶対しない
もうあんな事はごめんだ
こうやって一番信頼されている心地いいポジションは何があっても死守する
メルセデスから上がっていた火はもう見えないが揮発したガソリンがどこかに溜まって居る可能性もある、爆発する危険はまだまだ高く、どんどん広がる規制線はもう反対車線にまで及んでいた
行き場を無くしたタクシーが数台連なり、通行止めになった道路の反対側は空いていた
遠回りになるが帰れるならいい、一言も話さない雪斗を先に乗せて隣に乗り込むと、雪斗は走り出したタクシーの窓に張り付いて、饗宴の残骸から立ち昇る煙の先を追って見えなくなるまで動かなかった
事故の事情聴取を終えて家に帰るともう朝方だった
同じ事を何度も聞かれ疲れ果てた、ふらふらになって手が震え、鍵穴に鍵《キイ》を差し込むのも大変だった
窓からはシャンデリアの明かりが漏れている
重いドアを開けるとソファに座ってうつらうつらしていた緑川が気配に気付いてすぐに顔を上げた
「おかえり」
「待っててくれたんだな、色々悪かった、ごめん」
「俺の運命だからいいよ、お前体は何とも無いのか?事故の直後は気づいて無くても後から来る怪我もあるし、血も出てたろ」
「ああ、病院に行って見てもらったけど擦り傷くらいかな、明日になれば筋肉痛が凄いぞって笑われた」
「何で筋肉痛の話が出るんだよ」
「みんなそうなんだって」
衝撃に備えた体は驚くほど全身の筋肉を総動員して守ろうとする、その結果頬から指の先まで筋肉痛になるらしい、その威力は猛烈で人によっては体に異常が出たと勘違いして病院に駆け込む人もいるから気を付けるように言われた
実はもう既に来てる、指を動かすだけで腕が軋んだ
「その服はどうした?ピーポくん付けて広報活動でも任されたか?」
「ああ、これはイベント用のジャンパーを貸してくれたんだ、スーツが破れてあんまり酷いから通報されては迷惑だって言われてさ、それより雪斗は?」
「例の部屋、一人のベッドは嫌だってさ、本当にお前ら二人共ちょっとは遠慮しろよ、何で俺が新婚カップルのお邪魔虫みたいになってんだよ」
「ハハ、ごめん、俺はちょっと見てくるから緑川は2階に行って寝てこいよ、階段上がって二番目の部屋に使ってないベッドがある」
「そうする」
手を出した緑川を引っ張り上げて階段に向かって押し出し、怠そうに足を運ぶ緑川を見送って背の低いドアから狭い通路を覗き込んだ
明かりはついているが音はしない
そうっと中に入るとラグの上に丸まった毛布の塊がちょこんと乗っていた
どこに頭があるのか、起こさないように端を捲るとゴソゴソと動いてクシャクシャになった髪が現れた
「雪斗………」
髪の隙間から薄く開けた目がちょっとだけ微笑み………また目を閉じてそのまま動かなくなった
「おかえり………」
雪斗がいなくなって約二週間
短い家出はこれで終わった
馬鹿な事を仕出かした佐鳥には、出社するな、クビを飛ばすぞ、何なら絞め殺すと脅して自宅待機をしてもらってる
どっちみち午後から事故現場の検証に行かなければならない為丁度よかった
雪斗は………口を尖らせ黙り込み、決して目を合わそうとはせずに今目の前でソファに座っている
「黙ってないでいい加減言い訳でもしたらどうなんです、私に報告する事があるでしょう」
「何も無い……渡辺が聞いた通りだ」
「まだ何にも聞いてません、緑川さんから電話を貰って掻い摘んだ話を聞かされただけです」
「十分だろ」
「足りませんよ!私が万能だと勘違いしているんじゃ無いですか?」
朝から一体何件電話を掛けたかもうわからない、交通事故の民事なんて完全な専門外だ
朝一番に保険会社から連絡が入り、簡単には済みそうもない問題が持ち上がっていた
随分派手にやってくれたが事故自体はただの物損事故だ、奇跡的に他の車や人を巻き込んだりもしていない
日本の自動車保険は運転者に都合よく、全ての事故処理を引き受けてくれるが"問題"は相手方の車だった、アドバイスを貰った友人によるとこれはよくある問題らしいが、減価償却分を引かれた保険屋の査定額では全損してしまった同クラスの車を買い直す事は出来ない
今回の古いを通り越したメルセデスのセダンは事故の免責ゼロでも査定は0円から出ても5万、例え市場価格が一千万を越えていようがそれが保険屋の規定だった
当然被害者は納得してくれない
佐鳥は運転ミスだと言い張り、今の所警察にも余計な事は言ってないが、ブレーキ痕の場所がおかしいと、どんな状況だったか同じ事を繰り返し聞かれたと言っていた
もし故意にぶつけたとバレたら道路交通法では無く刑法で裁かれる事になる
動機の追求をまぬがれる事は無く、ベンツに纏わる因縁に話が及ぶと雪斗も共犯になりかねない
表面上雪斗は事故に関係してないがレクサスはTOWAの社用車で佐鳥はTOWAの社員だ、そこで何をしていたかと言う話になる
ベンツその物が狙いだったとか痴情のもつれだったとか……どっちに話が転んでも表に出せないややこしい話だった
「どうして私に相談してくれなかったんです」
「万能じゃ無いって今自分で言っただろ、佐鳥は幾ら積まれてもあの車を手放したりしない、渡辺に言ってもどうにもならなかった、佐鳥がやらなきゃ俺がやってたよ」
「ややこしいですね……、佐鳥、佐鳥」
その事には心底ホッとした
佐鳥が雪斗の目的、所在を知っていながら黙っていた事、最悪の方法で片付けてしまった事は許せないが、もし雪斗が何かしていたらそれこそ刑法に引っかかる、下手したら禁固刑だってあり得た
「あっちの車は俺が弁償する、それでいいだろう」
「壊した車の弁償はTOWAがします」
「元から俺がぶっ潰してやろうと思ってたんだ、金でカタが着くならそれが一番いい、俺が金を持ってても使い道なんて無い」
「あなたは引っ込んでてください、佐鳥省吾が社長に会いたがってますけど……まさか妙な関係を……持ったりしてないでしょうね」
「さあね………まあもう関係無い、俺は前に出なくていいんだろ?」
「そうですね、あなたに会う気が無いんなら私だけで十分です」
雪斗に言われるまでもなく、佐鳥省吾には代理人を通して話すように申し入れはしたが、事故とは無関係に雪斗と会わせてくれとしつこく迫られていた
雪斗を前に出す訳にもいかない
事の最発端になっている故佐鳥元専務は佐鳥省吾の祖父の従兄弟に当たる関係だった、ほぼ他人に近いが雪斗にとって「佐鳥」の名前その物が今回の事件がに関係していたかはわからないが切っても切っても切れない縁になってる
出来るならもうこれ以上"佐鳥"に関わって欲しくない
雪斗が姿を消していた間に何をしていたのか……考えたくも無くてさっさと頭の中から削除した
多少の紆余曲折はあったが事故は不注意による物損で方が付いた
雪斗は最初から何も無かった様にもう省吾の事も車の事も何も言わない
イベントの準備は淡々と進み、仕事は忙しいがTOWAは何も変わりがない
もう全てが終わったと思っていたが、冬の空風が吹き出した晴れた寒い日に省吾から会って欲しいと携帯に電話が入った
事故の夜に番号を交換したが警察署で別れたっきり後は渡辺が全部対応して省吾とは顔を合わせてない
電話番号の向こうから聞こえる声は穏やかで、身構えていた力が抜け、佐鳥くん、佐鳥さんの呼び合いにお互いに吹き出してしまった
「……暁彦くん……って呼んでいいか?」
「そうですね省吾さん、会うのはいいんですけど………雪斗には会わせませんよ」
「それでいい、暁彦くんに話があるんだ」
何があっても、何を言われても個人的に話をするなとしつこいくらい渡辺から注意を受けていたが実はこっちにも話したい事があった
まだ時々夢に魘される雪斗の為に夜は一刻も早く帰りたい、昼なら会えると伝え、待ち合わせは絶対に雪斗が偶然にも来ない騒がしい街の騒がしいスイーツカフェを指定した
渡辺には省吾と会うなんて言えないが、何となく雪斗に黙っているのも卑怯な気がして一応一言断ってから会社を出た
少し遅れて店に入るとケタケタと笑い転げる行儀の悪い女子の中で、居心地悪そうに背中を丸めた省吾が難しい顔をしてコーヒーを飲んでいた
「お待たせしてすいません」
「酷い店を指定してくれたな、わざとだろ」
「勿論嫌がらせです、目立つ外観ですぐにわかったでしょう?」
飲みかけていたコーヒーカップを持つ省吾の手がピクリと揺れて止まり、何か言いたそうに顔を上げたがムッと眉を寄せただけで「まずい」とコーヒーを置いた
ふっと頬を緩めた省吾は落ち着いてよく見ると女子からモテそうな魅力的な目をしている
潤沢な資金を元手に遊び呆けているチャラい男だと、敵愾心が作り上げた勝手な印象を持っていたが、落ち着いた話し方をする大人っぽい男だった
「何か飲むだろ、セルフだから取って来いよ、言っとくが不味いぞ」
「待ってください、最初に…まず謝罪させてください、示談を受け入れて頂いてありがとうございます、色々変な事に巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」
「やっぱり……俺は……巻き込まれたのか……」
「はい、元々あなたには関係無いんです」
「関係無いって言われてもな……………それこそ今関係ないけど雪斗は今年26になるんだって?」
「年末の誕生日が来たら26ですね」
「スキルが高すぎるとは思ったけど………そうか……ギリ20歳……もしかしたら歳を誤魔化してるかもって思ってたけど逆だとは思ってなかったな」
プッと吹き出し、参ったと白旗を上げるように手のひらを見せた省吾は懐かしそうに天井を見上げてポリポリと頭を掻いた
何が言いたいのかはよくわかる、雪斗の第一印象と中身のギャップは誰でも驚く
「どんな「スキル」をご覧になったのかは聞きませんがあなたも殴られたくないなら何も言わない方が身の為ですよ」
「………暁彦君は……その………あのさ……」
言いにくそうに言葉を濁す省吾の聞きたい事はわかっている、そこを宣言してはっきりさせる為に会いに来たと言っていい
「半年くらい前から雪斗と一緒に暮らしてます」
「…………そうか……」
「はい」
「俺はたったの二週間……、それだけなのにな……しかも男相手……」
「嵌ってましたね」
「夢中だったよ、久々のマジ惚れだった……暁彦くんは元々そっちの人?」
「違います、男とか女じゃ無くて雪斗が好きなんです、きっかけは………多分ご存知でしょう」
"じゃあ「つい」って言ったのかな"って笑った省吾をやっぱり殴ってやろうかと思ったが……気持ちがわかり過ぎてやめた
「これ、預かって来ました」
返してくれと雪斗に頼まれていたダイヤのピアスをテーブルに出すと省吾は困ったように眉を寄せ吹き出した
「いらねえよそんなもん、渡したプレゼントを別れた後に返せって言う程小さくない」
「変な言い方しないでください、付き合ってないんだから別れてません、言っておきますが雪斗は300万の時計でも捨てますよ、携帯もしょっちゅう無くしたって言って捨ててます、それでもこれはずっと持ってた」
高い物だから捨てられないなんて価値観は雪斗の中に絶対無いと言い切れるが何故かいつも持ち歩いていた、雪斗が省吾に心を残しているなんて疑ってないが、省吾がいらないと言うならもう持って帰るつもりは無い、雪斗に返さず捨てる
テーブルに乗ったピアスを見つめて動かない省吾を見ていると「つい」の前に何があったか問いただしてしまいそうになり食べ放題のケーキを取りに席を立った
「…………暁彦くん………それ全部食べる気か?」
「昼飯の代わりです、何か?」
こんな店に来る事は多分もう一生無い、伸びたパスタも並んでいたがどうせならと、皿一杯に盛り付けたスイーツの山を物珍しい料理でも見るように目を丸めて覗き込んだ省吾は、小さな欠片を指で摘んで不味そうに顔を顰めた
「暁彦くんは人目が気にならないんだな、まあ気にする必要も無いか……、君はモテるだろ、ムカつくくらい背も高いしその顔……何で選んだ相手が男なんだ」
「その言葉……まんまお返しします」
「………暁彦君は……佐鳥の名前を担いでよく雪斗の側にいられるな」
「調べたんですね」
「ああ、丸一月かかったよ、何も知らずに俺は………雪斗にあのメルセデスに乗れって言ったんだ………君は知ってたんだろう?よく乗り越えたな、俺には無理だ……もう近寄れない」
「あなたが思うよりももっと……もっとずっと大変でしたよ」
「そうか………そうだろうな」
省吾は、それならもういい、と困ったように笑って席を立った、いらないと言っていたピアスは大丈夫そうにハンカチに包みポケットに収まっている
「帰るんですか?俺が食べ終わるまで付き合ってください、さすがに一人だと恥ずかしい」
「こんな店で俺を一人で待たせた仕返しだ、精々女子に笑われろ、それからもう一つ言っとく………」
お前は世界中のメルセメスファンから狙われてる、背中に気を付けて歩けと脅しを残し、省吾は笑いながら帰っていった
大量のスイーツは咳込むほど甘く、夕方になっても消化する気配を見せず重い胃もたれと切ない後悔が残った
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