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人がいなくなると部屋の中は水を打ったように静かになってしまう
こんな所に一人で閉じこもっているくらいなら雨に濡れても外にいる方が数倍マシだった
一人でいたいが人の気配が無いと無音に押し潰されそうになる
「俺は………今更何言ってんだ……」
ずっと一人でやって来た、これからも一人なのは変わりないのに変な甘えが湧いて出てくる、パチンと頬に活を入れて水でも飲もうと重すぎる体に力を入れた
「痛てて………」
まだ立ち上がるにはコツがいる、体を捻って傷と反対側の腕で体重を支える、そろりと体を持ち上げようやく立ち上がると玄関先のインターフォンが鳴った
エントランスからじゃないならどうせ社員の誰かだ、どっちみち知らない訪問者なんて来る筈は無く、相手を確かめず迂闊にドアを開けた
「よう……」
ガツっと靴の先がドアの隙間に捩じ込まれ、取っ手を握った体ごとドアに持っていかれた
抑えたドアをこじ開け……入ってきたのは
長谷川だった
「何だよ雪斗、お前いいとこに住んでんな」
「………何しに来た」
「お前んとこの社員に体調を崩してるって聞いたんだ、お見舞いと現状報告ってとこ?」
長谷川は入っていいなんて一言も言って無いのにさっさと靴を脱ぎ上がり込んでしまった
「俺に用は無い筈だろ、おい、勝手に入るなよ」
「何今更な事言ってるんだ、お前と俺の仲じゃないか」
にゅっと長谷川から腕が伸び、反射で体が飛び退いた
嫌な塊が喉の奥につっかえて肥大して来ているような気がする
「おいおい……そんな身構える事無いだろう何もしないよ……渡辺弁護士様に散々脅されてるからな……」
「よく言うな……」
嫌な半笑いを浮かべてズカズカとリビングに入った長谷川は部屋の中を見回しソファの強度を確かめるように身体を落とした
一々乱暴に動き、わざと威嚇して面白がってる
「お前金持ってんだな、俺の部屋より豪華じゃないか」
「どうやってここを知った……」
「親切な女の子が暗証番号まで丁寧に教えてくれたよ、付いて来られそうだったから「また今度」誘うって電話番号を聞いてやったら帰ってくれたけどな」
ほらこれ、とピンクのメモをヒラヒラさせ、クシャッと握り潰して床に捨てた
「うちの社員が世話になったようだな」
「雪斗、そんなとこにいないでこっち来いよ、お前の部屋なんだろ」
「………水ぐらいは出してやるよ」
長谷川に指摘されるまで気付いていなかったが、体が勝手に拒否してドアの近くから離れなれないでいた
空気がどんどん重くなり、また苦しくなる前兆が喉元を圧迫する
付け入る隙を与えたくない、誤魔化す為キッチンに入ってコップを出した
「長谷川、冷たいのと熱いのどっちがいい?」
「どっちでもいいよ、どうせ飲まない」
「ならさっさと帰れ………渡辺に全部任せてるからあんたと話すことは何もない」
「渡辺………ね……」
長谷川はピクっと眉を上げ、取り繕った愛想笑いをやめて口調を変えた
「社長様ってな……」
「正確には社長代理だ」
「どうやった?」
「さあね……あんたにそんな事を教える義理は無い」
「どっかのじいさんでも誘惑して腹上死でもさせたのか?」
「それはそれで面白そうだな」
長谷川を刺激したくないのに思わずニヤリと笑ってしまった、この世で一番嫌いで怖い相手だがどこか自分と似ていると感じる時がある
「あの頃……」
「その話はやめろ」
昔の話なんてしたくないし聞きたくもないが長谷川は構わず話を続けた
「俺がお前の話を真面目に聞いていたら渡辺の席に俺がいたかもしれないな」
「何爺さんみたいな事を言ってる……どっちに転んでもあんたと一緒にいるなんてあり得ない」
「渡辺と……デキてるんだろ?」
思わず吹き出した
長谷川の頭の中は馬鹿みたいに世界が狭い
「あんたと組まなくて良かったよ、意外と馬鹿なんだな」
「俺はいい仕事するぞ?」
「調停は順調か?」
「いや、無理だろうな……勤務実態が殆どない、いくら俺でもじいさん達のご希望には添えないな」
「わかってるんならさっさと和解して二度と顔を見せるな、調停費用位ならこっちで持ってやるよ」
「お偉くなったもんだな」
金を持ってるやつを偉いと言う
なるほど無一文で家もない浮浪児など人にすら見えていなかったのだろう
物のように扱えたわけだ
「あんたは変わらないな」
「お前怪我をしたんだって?」
全く………誰だ……ペラペラと要らぬことを……
「どうって事はない…女に刺されただけだ」
「見せろよ……」
「は?何を言ってる」
「どんな傷か見せてみろ」
長谷川はソファから立ち上がってこっちに来いと手招きをした
緑川は携帯の画面を見つめ一人で唸っていた
取り引き先を回っている途中に、どうしても今すぐ見て欲しいPDFファイルを社長に送ったが見ているとは思えない、会社に戻るなら社長の部屋に寄ってくれないかと深川から電話を受けたが………行きたくない
雪斗があのマンションに社員を呼びつけている事は知っているが緑川は一人で完結出来る為呼ばれる事は無い
雪斗のマンションは色んな意味で敗北の象徴に思えて黒い感情が腹に貯まる
なるべく近寄りたく無かったが、実は新規で契約が取れた企業の社長が挨拶に来たいと言いだし、いつがいいかと返答を迫られていた
差し出される握手の手はどうせ渡辺に向くのかもしれないが嘘はつけない、社長と紹介する以上雪斗に同席してもらえなければその手は使えない
今の雪斗にいつ出社出来ますかとは聞けないが報告しなければ雪斗は絶対後で怒り出すに決まってる
どちらの案件も電話で済ませていい内容だが………
「………出ない……あの餓鬼……」
間違いなく手元に携帯を置いている筈なのに何度電話しても雪斗は出ない
マンションに着いたら煩くて手に取ってしまう着信音に設定変える決心をして電車を乗り換えた
エントランスのドアを開けるパスワードは0215、おそらくTOWAの中で一番最初に暗証番号を知った
エレベーター横にある階段を上がると雪斗の部屋はドアが薄く開いていた、無人の廊下で一つだけ口を開けていると誘い込む為の罠に見え、意味も無く不穏な印象を受ける
「鉄仮面がいる筈だよな………」
そろりとドアを開けると玄関には大きな革靴が一足あるだけで女物の靴は無い
インターフォンを押すか、このまま入っていいか迷っていると………
リビングの方からから争うような音とくぐもった叫び声が聞こえた
「何だよ……」
"またか"とは思ったが激しい衝突音と硝子が割れる音は尋常じゃない
鞄を投げ捨てリビングに飛び込むと
一番最初に目に入ったのはダークスーツを着た大柄な男と……
その影に壁に押し付けられ藻掻いている雪斗だった
片足が浮き上がりもう片方の爪先で何とか体重を支えてる、捲れたTシャツから白い腹が見えるた
覆いかぶさった男の手が中に入り込んでいる
「何をしてる!!」
思わず叫んた声にバッと振り返った瞬間、その男が小さな悲鳴を上げて床に転がった
クタクタと床に崩れ落ちた雪斗の首には赤い手形が付いている、腹を抑えた手には………これで見たのは3回目
今度は黄緑色の暗器を握っている
………倒れ込んだ床に引き擦られたような血の跡がズルリと伸びた
「社長………」
「やってくれるな……」
背後で低い声がしてギクリと振り返った
雪斗に気をとられ男の存在が飛んでいた
「誰だ…あんた……ここで何をしている」
「何って、別に何もしてない、仕事で来ただけだ」
誰だと聞いたがスーツの襟に付いている弁護士バッチが目に入り、佐鳥に聞いた噂の長谷川弁護士だとひと目でわかった
黒に近い紺色のスーツではよくわからないが雪斗の隠し武器には血が付いてる、切り付けたのは間違いない
「仕事じゃないですよね長谷川さん、話は聞いてます」
「お前誰だよ」
「誰でもいいでしょう、今この場所にそぐわないのはあなたの方です」
「何だよ……雪斗……色々飼ってるんだな………何人垂らし込んでるんだ?」
腕を抑えてのそっと立ち上がった長谷川は、ソファにドサッと腰を降ろし大業に足を組んだ、腕を抑える指の間から血を流しているのにニヤニヤと下品な薄笑いを隠さない
嫉妬と邪推で佐鳥がオーバーに話を盛っているのかと思っていたが長谷川は聞いていた通りの人物像だった
「社長、大丈夫ですか?」
社会人とは思えない下衆な会話に乗る気はない
床にうずくまり、喉を抑えて動けないでいる雪斗を覗き込むと吹き出した汗が頬を伝い落ち床を濡らしていた
荒い呼吸で肩が大きく揺れている
「正当防衛は間違いなさそうですね」
「見てなかったくせに何を言っている」
「不法侵入でしょう、社長があなたを部屋に招き入れるとは思えない」
「俺はちゃんとドアから入ったぜ、お前は俺達の仲を知らないだけだよ……なぁ?雪斗」
「ならそのドアからもう帰ってくれませんか?社長を休ませます」
抱き起こそうと回した腕の中でヒクッと雪斗の体が痙攣した
「社長?」
「あ……………ハァッ!」
破裂する様に息を吐き出した後ヒゥッと詰まった喉をガリガリと引っ掻き、引っ張ったTシャツの襟が首に食い込んでる
床にまで滴り落ちる吹き出した汗の量は尋常じゃなかった
「社長?どうしたんです?社長?!」
首を引っ掻く爪が新たな傷を生みそうでバタつく手足を抑えたが、大きく見開いた瞳は抗う事に必死で何も見えていない、振り上がった手を無理矢理押さえつけるしか無かった
「救急車……長谷川さん!救急車を呼んで下さい」
「またかよ…………救急車なんか必要ない、ただの過呼吸だ、放っときゃそのうち勝手に治る」
「過呼吸?これが?」
雪斗の過呼吸は佐鳥から話を聞いていたがこんなに苛烈なものだとは思わなかった
助けたいのにどうする事も出来ず、被さって自傷を抑えるしか出来ない
「本当に……このままで大丈夫なんですか?」
「放っておけって、死にゃしないよ、あ~あスーツを切りやがって……」
ふんっと白けた声を出した長谷川は、ジャケット脱いで傷口を確かめていた
薄いブルーのシャツに赤いシミが袖口に向かって筋を作り手の方まで血が流れている
本当に苦しみ藻掻く雪斗の事は気にもならないらしい
片手で傷口を縛ろうと巻き付けたハンカチがバラけて舌打ちをした
救急車を呼ぶ、その選択肢が無いなら緑川に出来る事は本当にひとつも無かった
「…ぐ…ハア…あ…」
「社長暴れないでください、怪我をする」
ガリガリと喉を掻く手は止まらない、呼吸が喉に詰まりだんだん意識朦朧として来た
薬が無いと言っても病院は何か手当のノウハウを持っている筈だ
せめて話しを聞くだけでもと電話をポケット探っていると玄関から怒鳴り声が聞こえた
ドタバタ走り込んで来る足音は靴を脱いでない、バァンと部屋が揺れる程の勢いで開いたドアから血相を変えた渡辺が飛び込んできた
「雪斗!!」
「渡辺さん!良かった……」
「雪斗っ!!雪斗は?!」
どこから走ってきたのか髪を乱し、捲り上がったネクタイが肩に乗って背中に回っていた
雪斗が怪我を押して仕事を続けるのは止めても止まらない、見ているとつい文句と小言が口を離れず、取り敢えずは黙認して皆巳に任かせていた
社長の不在中何かあってはとTOWAに詰めていると女子社員が社長への客を案内しておいた、と報告に来た
案内した客は弁護士?
皆巳は外出した?
嬉しそうに手柄を誇る女子社員の顔を殴りつけてやろうかと思った
取るものも取らず、タクシーを待つ暇も無かった
すれ違う人を掻き分け、全速力でマンションまで走ってきた
緑川がいてくれた事にホッとしたのも束の間、事態は最悪だった
長谷川の腕からは血が流れ、床には例の武器と床に伸びた血の跡……雪斗は意識を失いかけている
「長谷川!貴様!」
大股を広げ悠々とソファに座る長谷川に詰め寄ろうとするとジャケットの裾をグイッと引かれた
「渡辺さん!こっちが先だ、社長が!」
「息を吐かせろ!ゆっくり呼吸させてくれ」
「それだけですか?」
「待つしかないんだ、今タオルを絞るからもうちょっとだけ頼む」
クローゼットからタオルを取り出すと血のついたハンカチが丸まって足元にポンッと飛んできた
「大袈裟に騒ぐなよ、雪斗は慣れっこだよ、それより渡辺さん、俺の心配もしてくれ、ほら腕を刺されたんだぜ、傷害だろ、これ」
「あんたこそ雪斗に一体何をした」
「何もしちゃいないさ」
「そうは思えない」
長谷川のハンカチは無視して水に濡らしたタオルを緑川に渡した
雪斗はまだ荒い呼吸は治まっていないがピークは過ぎてる
「緑川君、悪いが雪斗を寝室に連れていってくれないか?」
「はい……」
緑川がどこまで何を知っているのかはわからないが、なにも聞かずに軽々と雪斗を抱き上げて寝室に連れて行ってくれた
「接近禁止命令が必要でしたか?近づくなとお願いしたはずですが」
「おいおい、被害者は俺だろう、お宅の社員がここに行けって案内してくれたんだ、俺はちゃんと渡辺さん、あんたに会いたいと言ったんだ」
「どうだかね……」
床に落ちていたハンカチを拾い、まだ血が止まらない長谷川の腕を、腐って千切れる事を願って思いっきり締め上げた
出血はするが小さな刃で出きた傷はどうせ大した怪我じゃない
「被害届を出すつもりですか?」
「どうするかな……」
「そうなさるのならこちらにも考えがありますよ」
長谷川は渡辺をからかうように見据え、ふんっと……鼻息で返事をした
そろそろと傷を庇いながら腕を通したジャケットは黒い染みになってはいるが外を歩けない程には目立たなかった
「帰るんですか?」
「用事もないからな、俺はあんたみたいに大口の顧客がいないから地味に忙しいんだ」
「帰る前に一筆書いてもらえませんかね」
棚から便箋を出してダイニングテーブルに置いた
「何だよ」
「この件を不問に伏す、口外しないと名前と日付、丁度いい具合に血もあるから母印を押してください」
「俺だって弁護士やってんだよ、そこまで説明してもらわなくてもわかる」
「書いて下さい」
便箋にペンを置いてズイッと押し出すと、長谷川はおどけたように目玉をグルンと回し、またニヤリと笑った
寝室のドアを閉めるとリビングの物音は綺麗に遮断された
豪華なのは見た目だけじゃない、物件の価格はこんな所にもはっきりした差が付いていた
おそらくリビングで繰り広げられている汚い争いが雪斗の耳に届かなければそれでいい
抱き抱えた雪斗をベッドに降ろし、そうっと腕を引き抜こうとすると縋るように腕が首に巻き付いた
「社長……大丈夫ですか?」
……声は届いている
返事の代わりに抱きついた腕にギュッと力が入ったが、意識があるのかないのか………閉じられた瞼のせいでわからない
静かな部屋の中、高い呼吸音が天上から跳ね返ってくる、耳にかかる息が少しずつ落ち着いて来るのをただ黙って待っていた
静まっていく呼吸音からトクトクと正確にリズムを刻む心臓の音が取って代わり、しがみついていた腕がハラリと解れた
「社長、落ち着きましたか?」
「気持ち……悪い……」
「水でも飲みますか?」
ゆっくりと動いた瞳が声の出所を探るように焦点を合わせると、上げかけていた雪斗の手がスッとすっと引いた
「……………緑川?」
「はい…落ち着きましたか?」
「佐鳥だと…………思ってた」
「…………それは……すいませんね」
意図せず組み伏せるような形のままさっさと体を起こさなかった事を後悔した
佐鳥の馬鹿な表現がちょっと理解できる
会話の途絶えた空白の間《ま》……潤んで赤くなった瞳でじっと見上げられると意味を含んでいるようで、なるほどと思ってしまった
佐鳥や松本じゃなくともこれは肉欲が湧く
あの二人程単純じゃないと自負しているが誘われていると勘違いしてしまう
「佐鳥を呼びましょうか?」
「…………仕事中だろう……邪魔出来ない……」
「連絡だけしておきますよ」
「しなくていい……どうせ馬鹿みたいに騒いでうるさいだけだ、緑川も……仕事に戻れ」
「渡辺さんが呼びに来たら帰ります」
気が付くと雪斗の手にはまだ血の付いた黄緑の輪っかが握られたままだった
そっと雪斗の手から取り上げタオルに包んだ
「今日……見た事は忘れろ」
「何かあったんですか?………俺は何も見てません」
「………それでいい」
目を閉じているが雪斗は眠ってはいない
出て行く事が出来ずベッドに横たわる雪斗を渡辺が呼びに来るまでずっと眺めていた
「緑川!これも持ってくれ!」
「もう一回往復したらいいだろう、そんないっぺんに運ばなくても……わっ乗せるな!」
両手に一つずつ抱えたボストンバッグの隙間に枕を押し込まれて持ち手が窮屈になった
日曜の朝早く───
ベッドの中で佐鳥からの電話に寝ぼけたままで有耶無耶な返事をしてしまった
今から行く、の意味を聞かなかったこっちも悪いが、出来ればちゃんとした説明をして了承を取って欲しかった
佐鳥を含め休日に同僚と会う事なんて殆ど無く、何だと思えば佐鳥は本当に荷物を纏めて緑川のマンションに転がり込んできた
「俺のマンションは狭いぞ」
「いい」
「いいかどうかは俺の台詞だ馬鹿、せめて泊めてくださいってお願いしろ」
「飲み屋で言っただろ」
「お前な……」
別に駄目だとは言わないが来いと言った覚えは無い、問答無用で手渡された荷物を素直に受け取ってしまい、こんなにも誰かに振り回されるキャラだったとは自分で驚いた
「本当にこれだけなのか?追加は受け付けないぞ」
会社のレクサスで乗り込んできた佐鳥の荷物はトランクひとつにボストンバッグ二個、後は小物を入れた紙袋とふとん一式だけ、後部座席に全部収まっていた
「備え付けの家具も多かったしな、どうしても捨てられないものは親父が借りたトランクルームに放り込んだ」
「佐鳥社長はどうするって?手伝う事無いのか?」
「あの人は短気だからな、もう全部一人で済ませてるらしい」
「そうだったな……」
「それにしてもいい場所に住んでんな、家賃高いだろう」
「それなりかな」
緑川の部屋は会社から二つ目の駅にあり、佐鳥の住んでいたマンション程ではないが立地がいい、一等地に違いないが男二人+荷物を運び込むと本当に狭かった
「心配すんな、世話賃含めて手数料も盛っとく」
「おい……」
遠慮の欠片も見せない佐鳥が妙に嬉しかった
春を思わせるポカポカ温かい日和も手伝って、いつの間にか修学旅行か合宿に行く学生のように浮かれてエレベーターの中からずっと笑い声が絶えなかった
「お前意外と几帳面だったんだな、ずっと一緒にいたのに知らなかった」
「え?そうか?普通だろ」
トランクを開けると、綺麗に折り畳まれた衣服がきっちり揃い、何がどこにあるのかひと目で分かる、そのまま中身を出さずに収納ボックスとして使えそうだった、スーツやコート用にハンガーまである
後は歯ブラシや小物を紙袋から出して………同棲を始めるみたいで何だか照れるが、洗面台に並べると布団以外は綺麗に片付いてしまった
「なんで荷物を減らしたくせにこんなもん持ってきてるんだよ」
必要最低限の生活必需品しか持ってこなかったくせにボストンバッグの底にはオセロが残っていた
「ああ、ちょっとな……夜にやろうぜ」
「飯は?どうする、どっかに食べに行くか?」
「いや、俺が作るよ、何が食べたい?」
「へ?……暁彦が?うわ……何か照れる、もし旨かったら結婚してやるよ」
ふざけた口調で笑いはしたが顔が赤くなったのは自覚出来ている…………悟られはしないかと佐鳥を見るともっと真っ赤になってポリポリと頭を掻いていた
デカい男が二人、ほぼベッドしかないワンルー厶の部屋でお互いに顔を赤くして座ってる構図は誰が見ても気色悪い
「な、な、何?何だよ気持ち悪いな」
「うん……あのな………」
「あー……後にしろ、車を置いとけ無いし足りない物まだあるだろ」
もごもご言い淀む佐鳥が何かを言い出す前に腕を引っ張って酒と食材の買い物に連れ出した
男同士でホームセンターに行くと絶対に脱線する、スリッパやタオルを買い足すだったのに結局夕方までそこで遊び回り、食材を買って帰り着くともう6時を過ぎていた
佐鳥の作ったハンバーグは鳥と豚肉のミンチを混ぜてデミグラスソースまでかかっている、温泉卵がふわりと乗ってかなり旨かったが………新婚初日かと突っ込みたくなるようなハート型には乾いた笑い声しか出て来なかった
「プロポーズした?!」
食べ終わった食器の片付けはオセロで決めようと、コマを捲りながら飲み始めていたビールが開いた口からボタボタ落ちた
「………う……うん……」
「社長に?」
「うん…」
「雪斗に?」
「だからそうだって」
口から漏れたビールが首を伝い、胸に入ってもぞ痒い、ボリボリ掻くとグレーの長Tが黄色くなった
「雪斗は……何て?……」
「その前に出て行けって渡辺さんに追い出された」
そりゃそうだろう、渡辺にとっては雪斗は息子に近い、才能溢れる雪斗にこんな変わり種の虫がつくなんて許容できる訳がない
「どうするつもりなんだ?」
「どうもしないよ、俺にとっての決意表明だ」
佐鳥がオセロの盤に駒を置いてパタパタと黒に変えた
「まあ……籍を入れれる訳じゃないしな」
「渡辺さんに言われたんだ……雪斗の中には誰もいないって……」
「どういう意味だ?」
「なんと言うか……前しか見ていないって言うか…周りの人間は雪斗に取って全員モブなんじゃないかな………」
「…………そうでもないぞ……」
「え?」
どうしようか迷ったがマンションであった出来事を簡単に話した
激昂されても困るので長谷川が明らかに雪斗を襲っていた事は伏せたが……
「俺を暁彦だと勘違いして抱きついてたよ」
「何でその時に言ってくれないんだよ」
佐鳥は既に腰を浮かせていた
「…………誰にも言うなって言われたからな……」
「俺……今から行ってきていいか?」
止める気なんてもう無い、行ってこいと手を振ると、佐鳥は取るものも取らず財布だけをポケットに詰め込んで走り出ていった
「今のってあなたの大事な大事なアキヒコ君じゃないの?」
佐鳥が開けたドアの影から梨央が覗いていた
ドアの外にいたにも関わらず佐鳥は梨央に気づかなかったらしい
「何しに来た」
皮肉が籠もった梨央の言い方が何となく気に触って声が低くなった
佐鳥の事など殆ど話していないのに勘のいい梨央には複雑な所有欲を見破られている
お互い様だが、分かりすぎるわかってしまい一緒にいてゾッとする相手だ
「何しにって、決まってるじゃない、食えないあんたと一緒に出来る事なんて一つしか無いじゃない」
「何かあったのか?」
「別に……随分ご無沙汰だからどうしてるのかなと思っただけよ」
梨央は長い髪を一つに括りメイクもしていない
ラフな服装は飾る気も取り繕う気も無く、どうでもいい相手を都合のいいように利用する事しか考えてない
それはそれでお互いに便利で付き合い易くもあった
「入ってもいい?」
「少しだけならな……」
「……相変わらず冷たいのね」
緑川は取り繕った表面の皮を剥ぐとすぐ不機嫌になる
取り込め無い相手なのは間違いないが、梨央にとって他のバカ男達と何も変わらず、考えてる事が手に取るようにわかり易い
ブスッと黙って開けたくれたドアの中にはスーツケースや、クローゼットに入り切らないスーツが壁に掛かっていた
「何よ、まさかアキヒコ君と一緒に暮らす気?」
「預かってるだけだ」
どうでもいい、と興味無さそうな答えに笑いそうになった、緑川は出て行くアキヒコ君をどんな目で見送っていたかまるで自覚してない
「どこ行ったのアキヒコ君」
「彼氏の所」
「へぇ……黙って行かせたんだ」
時々アキヒコの名前が出てくるようになってから緑川が変わった、表情が穏やかになり笑うようになった
その代わりに呼び出される頻度が極端に減った
「負けそうだったからな」
「何に?」
緑川は笑っただけで何も答えなかった
リビングのソファの上に、一方的に黒が勝ってるやりかけのオセロが、相手を無くして放置されていた
緑川のマンションは会社から二駅しか無いが快速は止まってくれない、ホームを素通りする車両をイライラと見送り、のんびりやって来た各駅停車に飛び乗った
駅から雪斗のマンションまでは2.5キロくらい、全速力で走れば5分くらいで着く
休日に賑わう繁華街でまた誰かにぶち当たったりしないよう、車道に出て走り出した
ある一線を越えると急に人出が減るビジネス街に出るとTOWA前の交差点を渡るラフなTシャツ姿が目に入った
「雪斗?」
まだ抜糸すら済んでいない
こんな所にいる筈はないと思ったが後を追った
日曜のビジネス街は明かりが消えて閑散としている、走る足音が無機質な壁に跳ね返り振り、音に気付いて返ったのはやっぱり雪斗だった
「佐鳥?」
もうコートが必要なくらい寒いのにTシャツに半パン、出会った真夏と同じような格好で、懐かしむような喜んでいるような……何とも言えない柔らかい笑顔が返ってきた
「なんでこんな所にいるんだ」
「別に……もうあの部屋に籠っているのに飽きただけだ」
雪斗に追いついた場所から朝に引き払ったばかりのマンションが見える
「俺に……会いに?」
「どうしてるかなって思って……」
雪斗は見られる事を拒むように顔を背け、自分の体を抱いてぶるっと震えた
「そんな格好で外に出る季節はもう終わってるよ」
「夜は寒いな……知らなかったよ……」
何か羽織るものでもあればいいが緑川の部屋でくつろいでいたトレーナーのまま飛び出してきた
暖めるものは腕と胸しかない、そっと頭を包むと雪斗は胸に頬をつけて心地良さそうに目を閉じた
こんな場所で……体もまだまだ無理がさせられない
だけど色んな思いが溢れて堪えきれなかった
顎を捕まえて持ち上げた
雪斗の手は抱き締め返してはくれないが顔を傾けて迎えるように上を向いた
重ねた唇は冷たい
髪も頬も冷えている
細い首に手を回して肌を擦り角度を変えると雪斗の方から唇を割って舌が入って来た
このまま雪斗を体に取り込みたい
要らぬ苦しみやトラウマから遠ざけて自分の中でぬくぬくと暖めて、どこにも誰にも傷つけさせない
思わず腰に回した手に力が入るとパンパンと雪斗の手が背中を叩いた
離れたくない
未練を残して吸った唇がチュッと伸びた
「駄目か?……」
「痛い……」
「え?あっ!ごめん、怪我をしてるって忘れてた……」
慌てて腕を緩めると困ったように眉を下げて片方の唇を釣り上げた、よく見る雪斗の表情………大概憎まれ口を叩く
「鳥頭………三歩歩いたら忘れられるんだからお前はいつでも平和なんだよ」
「馬鹿の次は鳥かよ」
弱っても口だけは相変わらずだ
「雪斗、マンションに帰ろう、俺の部屋はもう引き払ったんだ」
「入れないのか?」
「鍵は持ってるけどベッド以外何も無いぞ」
「エアコンは?」
「電気とか水道はまだ手続きしていないから使えるよ」
「じゃあいいじゃん」
スルリと腕の中から抜け出た雪斗はエントランスのパネルに暗証番号を打ち込んだ
こんなに色々あったのに、色んな関係を築いて来たのに………雪斗がそのパスワードを使ったのは番号を教えてから初めての事だった
「寒いな……」
「だから言ったろう」
エアコンをフル稼働して部屋を暖めてはいるが冷えた体からは中々冷気がとれない
かなり片付けて整理したと思っていたがクローゼットには夏の間雪斗がよく使っていたブランケットが残されていた
「俺何か暖かいものでも買ってこようか?」
「要らない」
雪斗にブランケットを巻き付けてベッドに座らせると膝を抱えて丸くなった
足を持ち上げるとまだ顔が歪む、普通ならまだ入院中の筈なのに外を彷徨き消耗してる
「でも………」
「佐鳥………落ち着けよ」
雪斗にトレーナーを引っ張られ、隣に座ると雪斗の頭がトンッと胸に乗った
「お前あったかい……」
「雪斗は冷たい」
グっと雪斗に押されてそのままベッドに倒れ込むと、腹筋を使ってしまったのか雪斗の口から小さい呻き声が漏れ出た
「無理ばっかりしてるから……そんなんじゃ治るものも治らないぞ」
「何の事だよ」
「長谷川が来たんだってな」
「緑川から聞いたのか………忘れろって言っといたのに……」
「俺は言って欲しかった……」
呼んで欲しかった……守りたかった、雪斗はある意味知っている誰より弱い
胸に乗った雪斗の頭に指を沈ませ髪を混ぜた
「お前には関係ないよ」
「関係なくない………昔……付き合ってたんだろ」
こんな事を聞きたい訳じゃない
聞くべきでもない
ただ雪斗への余りの扱いに我慢できなかった
「付き合ってない……ただ何も知らなかっただけだ」
「何も?……」
「もういいよ、あいつの話はしたくない…」
雪斗は胸から体をずらし脇の下に顔を埋めた
雪斗の眠りたいポーズだ
エアコンがモーター音を唸らせて全速で暖い風を送り出している
「ごめん……変なこと聞いて……」
雪斗は本当に嘘をつかない
だからと言って真実は話さない
こうして甘えてくるくせにいつまでたっても掴み所がない
「佐鳥……さっきのやって」
「さっきの?」
「頭………」
雪斗の頭を抱き寄せて髪に指を差し入れた
「気持ちいい………」
「それセックスしてる時に言って」
「しね……」
ガブッと変な所を噛まれたが痛くない
キスを落とした髪の生え際はもう暖かかった
こんな所に一人で閉じこもっているくらいなら雨に濡れても外にいる方が数倍マシだった
一人でいたいが人の気配が無いと無音に押し潰されそうになる
「俺は………今更何言ってんだ……」
ずっと一人でやって来た、これからも一人なのは変わりないのに変な甘えが湧いて出てくる、パチンと頬に活を入れて水でも飲もうと重すぎる体に力を入れた
「痛てて………」
まだ立ち上がるにはコツがいる、体を捻って傷と反対側の腕で体重を支える、そろりと体を持ち上げようやく立ち上がると玄関先のインターフォンが鳴った
エントランスからじゃないならどうせ社員の誰かだ、どっちみち知らない訪問者なんて来る筈は無く、相手を確かめず迂闊にドアを開けた
「よう……」
ガツっと靴の先がドアの隙間に捩じ込まれ、取っ手を握った体ごとドアに持っていかれた
抑えたドアをこじ開け……入ってきたのは
長谷川だった
「何だよ雪斗、お前いいとこに住んでんな」
「………何しに来た」
「お前んとこの社員に体調を崩してるって聞いたんだ、お見舞いと現状報告ってとこ?」
長谷川は入っていいなんて一言も言って無いのにさっさと靴を脱ぎ上がり込んでしまった
「俺に用は無い筈だろ、おい、勝手に入るなよ」
「何今更な事言ってるんだ、お前と俺の仲じゃないか」
にゅっと長谷川から腕が伸び、反射で体が飛び退いた
嫌な塊が喉の奥につっかえて肥大して来ているような気がする
「おいおい……そんな身構える事無いだろう何もしないよ……渡辺弁護士様に散々脅されてるからな……」
「よく言うな……」
嫌な半笑いを浮かべてズカズカとリビングに入った長谷川は部屋の中を見回しソファの強度を確かめるように身体を落とした
一々乱暴に動き、わざと威嚇して面白がってる
「お前金持ってんだな、俺の部屋より豪華じゃないか」
「どうやってここを知った……」
「親切な女の子が暗証番号まで丁寧に教えてくれたよ、付いて来られそうだったから「また今度」誘うって電話番号を聞いてやったら帰ってくれたけどな」
ほらこれ、とピンクのメモをヒラヒラさせ、クシャッと握り潰して床に捨てた
「うちの社員が世話になったようだな」
「雪斗、そんなとこにいないでこっち来いよ、お前の部屋なんだろ」
「………水ぐらいは出してやるよ」
長谷川に指摘されるまで気付いていなかったが、体が勝手に拒否してドアの近くから離れなれないでいた
空気がどんどん重くなり、また苦しくなる前兆が喉元を圧迫する
付け入る隙を与えたくない、誤魔化す為キッチンに入ってコップを出した
「長谷川、冷たいのと熱いのどっちがいい?」
「どっちでもいいよ、どうせ飲まない」
「ならさっさと帰れ………渡辺に全部任せてるからあんたと話すことは何もない」
「渡辺………ね……」
長谷川はピクっと眉を上げ、取り繕った愛想笑いをやめて口調を変えた
「社長様ってな……」
「正確には社長代理だ」
「どうやった?」
「さあね……あんたにそんな事を教える義理は無い」
「どっかのじいさんでも誘惑して腹上死でもさせたのか?」
「それはそれで面白そうだな」
長谷川を刺激したくないのに思わずニヤリと笑ってしまった、この世で一番嫌いで怖い相手だがどこか自分と似ていると感じる時がある
「あの頃……」
「その話はやめろ」
昔の話なんてしたくないし聞きたくもないが長谷川は構わず話を続けた
「俺がお前の話を真面目に聞いていたら渡辺の席に俺がいたかもしれないな」
「何爺さんみたいな事を言ってる……どっちに転んでもあんたと一緒にいるなんてあり得ない」
「渡辺と……デキてるんだろ?」
思わず吹き出した
長谷川の頭の中は馬鹿みたいに世界が狭い
「あんたと組まなくて良かったよ、意外と馬鹿なんだな」
「俺はいい仕事するぞ?」
「調停は順調か?」
「いや、無理だろうな……勤務実態が殆どない、いくら俺でもじいさん達のご希望には添えないな」
「わかってるんならさっさと和解して二度と顔を見せるな、調停費用位ならこっちで持ってやるよ」
「お偉くなったもんだな」
金を持ってるやつを偉いと言う
なるほど無一文で家もない浮浪児など人にすら見えていなかったのだろう
物のように扱えたわけだ
「あんたは変わらないな」
「お前怪我をしたんだって?」
全く………誰だ……ペラペラと要らぬことを……
「どうって事はない…女に刺されただけだ」
「見せろよ……」
「は?何を言ってる」
「どんな傷か見せてみろ」
長谷川はソファから立ち上がってこっちに来いと手招きをした
緑川は携帯の画面を見つめ一人で唸っていた
取り引き先を回っている途中に、どうしても今すぐ見て欲しいPDFファイルを社長に送ったが見ているとは思えない、会社に戻るなら社長の部屋に寄ってくれないかと深川から電話を受けたが………行きたくない
雪斗があのマンションに社員を呼びつけている事は知っているが緑川は一人で完結出来る為呼ばれる事は無い
雪斗のマンションは色んな意味で敗北の象徴に思えて黒い感情が腹に貯まる
なるべく近寄りたく無かったが、実は新規で契約が取れた企業の社長が挨拶に来たいと言いだし、いつがいいかと返答を迫られていた
差し出される握手の手はどうせ渡辺に向くのかもしれないが嘘はつけない、社長と紹介する以上雪斗に同席してもらえなければその手は使えない
今の雪斗にいつ出社出来ますかとは聞けないが報告しなければ雪斗は絶対後で怒り出すに決まってる
どちらの案件も電話で済ませていい内容だが………
「………出ない……あの餓鬼……」
間違いなく手元に携帯を置いている筈なのに何度電話しても雪斗は出ない
マンションに着いたら煩くて手に取ってしまう着信音に設定変える決心をして電車を乗り換えた
エントランスのドアを開けるパスワードは0215、おそらくTOWAの中で一番最初に暗証番号を知った
エレベーター横にある階段を上がると雪斗の部屋はドアが薄く開いていた、無人の廊下で一つだけ口を開けていると誘い込む為の罠に見え、意味も無く不穏な印象を受ける
「鉄仮面がいる筈だよな………」
そろりとドアを開けると玄関には大きな革靴が一足あるだけで女物の靴は無い
インターフォンを押すか、このまま入っていいか迷っていると………
リビングの方からから争うような音とくぐもった叫び声が聞こえた
「何だよ……」
"またか"とは思ったが激しい衝突音と硝子が割れる音は尋常じゃない
鞄を投げ捨てリビングに飛び込むと
一番最初に目に入ったのはダークスーツを着た大柄な男と……
その影に壁に押し付けられ藻掻いている雪斗だった
片足が浮き上がりもう片方の爪先で何とか体重を支えてる、捲れたTシャツから白い腹が見えるた
覆いかぶさった男の手が中に入り込んでいる
「何をしてる!!」
思わず叫んた声にバッと振り返った瞬間、その男が小さな悲鳴を上げて床に転がった
クタクタと床に崩れ落ちた雪斗の首には赤い手形が付いている、腹を抑えた手には………これで見たのは3回目
今度は黄緑色の暗器を握っている
………倒れ込んだ床に引き擦られたような血の跡がズルリと伸びた
「社長………」
「やってくれるな……」
背後で低い声がしてギクリと振り返った
雪斗に気をとられ男の存在が飛んでいた
「誰だ…あんた……ここで何をしている」
「何って、別に何もしてない、仕事で来ただけだ」
誰だと聞いたがスーツの襟に付いている弁護士バッチが目に入り、佐鳥に聞いた噂の長谷川弁護士だとひと目でわかった
黒に近い紺色のスーツではよくわからないが雪斗の隠し武器には血が付いてる、切り付けたのは間違いない
「仕事じゃないですよね長谷川さん、話は聞いてます」
「お前誰だよ」
「誰でもいいでしょう、今この場所にそぐわないのはあなたの方です」
「何だよ……雪斗……色々飼ってるんだな………何人垂らし込んでるんだ?」
腕を抑えてのそっと立ち上がった長谷川は、ソファにドサッと腰を降ろし大業に足を組んだ、腕を抑える指の間から血を流しているのにニヤニヤと下品な薄笑いを隠さない
嫉妬と邪推で佐鳥がオーバーに話を盛っているのかと思っていたが長谷川は聞いていた通りの人物像だった
「社長、大丈夫ですか?」
社会人とは思えない下衆な会話に乗る気はない
床にうずくまり、喉を抑えて動けないでいる雪斗を覗き込むと吹き出した汗が頬を伝い落ち床を濡らしていた
荒い呼吸で肩が大きく揺れている
「正当防衛は間違いなさそうですね」
「見てなかったくせに何を言っている」
「不法侵入でしょう、社長があなたを部屋に招き入れるとは思えない」
「俺はちゃんとドアから入ったぜ、お前は俺達の仲を知らないだけだよ……なぁ?雪斗」
「ならそのドアからもう帰ってくれませんか?社長を休ませます」
抱き起こそうと回した腕の中でヒクッと雪斗の体が痙攣した
「社長?」
「あ……………ハァッ!」
破裂する様に息を吐き出した後ヒゥッと詰まった喉をガリガリと引っ掻き、引っ張ったTシャツの襟が首に食い込んでる
床にまで滴り落ちる吹き出した汗の量は尋常じゃなかった
「社長?どうしたんです?社長?!」
首を引っ掻く爪が新たな傷を生みそうでバタつく手足を抑えたが、大きく見開いた瞳は抗う事に必死で何も見えていない、振り上がった手を無理矢理押さえつけるしか無かった
「救急車……長谷川さん!救急車を呼んで下さい」
「またかよ…………救急車なんか必要ない、ただの過呼吸だ、放っときゃそのうち勝手に治る」
「過呼吸?これが?」
雪斗の過呼吸は佐鳥から話を聞いていたがこんなに苛烈なものだとは思わなかった
助けたいのにどうする事も出来ず、被さって自傷を抑えるしか出来ない
「本当に……このままで大丈夫なんですか?」
「放っておけって、死にゃしないよ、あ~あスーツを切りやがって……」
ふんっと白けた声を出した長谷川は、ジャケット脱いで傷口を確かめていた
薄いブルーのシャツに赤いシミが袖口に向かって筋を作り手の方まで血が流れている
本当に苦しみ藻掻く雪斗の事は気にもならないらしい
片手で傷口を縛ろうと巻き付けたハンカチがバラけて舌打ちをした
救急車を呼ぶ、その選択肢が無いなら緑川に出来る事は本当にひとつも無かった
「…ぐ…ハア…あ…」
「社長暴れないでください、怪我をする」
ガリガリと喉を掻く手は止まらない、呼吸が喉に詰まりだんだん意識朦朧として来た
薬が無いと言っても病院は何か手当のノウハウを持っている筈だ
せめて話しを聞くだけでもと電話をポケット探っていると玄関から怒鳴り声が聞こえた
ドタバタ走り込んで来る足音は靴を脱いでない、バァンと部屋が揺れる程の勢いで開いたドアから血相を変えた渡辺が飛び込んできた
「雪斗!!」
「渡辺さん!良かった……」
「雪斗っ!!雪斗は?!」
どこから走ってきたのか髪を乱し、捲り上がったネクタイが肩に乗って背中に回っていた
雪斗が怪我を押して仕事を続けるのは止めても止まらない、見ているとつい文句と小言が口を離れず、取り敢えずは黙認して皆巳に任かせていた
社長の不在中何かあってはとTOWAに詰めていると女子社員が社長への客を案内しておいた、と報告に来た
案内した客は弁護士?
皆巳は外出した?
嬉しそうに手柄を誇る女子社員の顔を殴りつけてやろうかと思った
取るものも取らず、タクシーを待つ暇も無かった
すれ違う人を掻き分け、全速力でマンションまで走ってきた
緑川がいてくれた事にホッとしたのも束の間、事態は最悪だった
長谷川の腕からは血が流れ、床には例の武器と床に伸びた血の跡……雪斗は意識を失いかけている
「長谷川!貴様!」
大股を広げ悠々とソファに座る長谷川に詰め寄ろうとするとジャケットの裾をグイッと引かれた
「渡辺さん!こっちが先だ、社長が!」
「息を吐かせろ!ゆっくり呼吸させてくれ」
「それだけですか?」
「待つしかないんだ、今タオルを絞るからもうちょっとだけ頼む」
クローゼットからタオルを取り出すと血のついたハンカチが丸まって足元にポンッと飛んできた
「大袈裟に騒ぐなよ、雪斗は慣れっこだよ、それより渡辺さん、俺の心配もしてくれ、ほら腕を刺されたんだぜ、傷害だろ、これ」
「あんたこそ雪斗に一体何をした」
「何もしちゃいないさ」
「そうは思えない」
長谷川のハンカチは無視して水に濡らしたタオルを緑川に渡した
雪斗はまだ荒い呼吸は治まっていないがピークは過ぎてる
「緑川君、悪いが雪斗を寝室に連れていってくれないか?」
「はい……」
緑川がどこまで何を知っているのかはわからないが、なにも聞かずに軽々と雪斗を抱き上げて寝室に連れて行ってくれた
「接近禁止命令が必要でしたか?近づくなとお願いしたはずですが」
「おいおい、被害者は俺だろう、お宅の社員がここに行けって案内してくれたんだ、俺はちゃんと渡辺さん、あんたに会いたいと言ったんだ」
「どうだかね……」
床に落ちていたハンカチを拾い、まだ血が止まらない長谷川の腕を、腐って千切れる事を願って思いっきり締め上げた
出血はするが小さな刃で出きた傷はどうせ大した怪我じゃない
「被害届を出すつもりですか?」
「どうするかな……」
「そうなさるのならこちらにも考えがありますよ」
長谷川は渡辺をからかうように見据え、ふんっと……鼻息で返事をした
そろそろと傷を庇いながら腕を通したジャケットは黒い染みになってはいるが外を歩けない程には目立たなかった
「帰るんですか?」
「用事もないからな、俺はあんたみたいに大口の顧客がいないから地味に忙しいんだ」
「帰る前に一筆書いてもらえませんかね」
棚から便箋を出してダイニングテーブルに置いた
「何だよ」
「この件を不問に伏す、口外しないと名前と日付、丁度いい具合に血もあるから母印を押してください」
「俺だって弁護士やってんだよ、そこまで説明してもらわなくてもわかる」
「書いて下さい」
便箋にペンを置いてズイッと押し出すと、長谷川はおどけたように目玉をグルンと回し、またニヤリと笑った
寝室のドアを閉めるとリビングの物音は綺麗に遮断された
豪華なのは見た目だけじゃない、物件の価格はこんな所にもはっきりした差が付いていた
おそらくリビングで繰り広げられている汚い争いが雪斗の耳に届かなければそれでいい
抱き抱えた雪斗をベッドに降ろし、そうっと腕を引き抜こうとすると縋るように腕が首に巻き付いた
「社長……大丈夫ですか?」
……声は届いている
返事の代わりに抱きついた腕にギュッと力が入ったが、意識があるのかないのか………閉じられた瞼のせいでわからない
静かな部屋の中、高い呼吸音が天上から跳ね返ってくる、耳にかかる息が少しずつ落ち着いて来るのをただ黙って待っていた
静まっていく呼吸音からトクトクと正確にリズムを刻む心臓の音が取って代わり、しがみついていた腕がハラリと解れた
「社長、落ち着きましたか?」
「気持ち……悪い……」
「水でも飲みますか?」
ゆっくりと動いた瞳が声の出所を探るように焦点を合わせると、上げかけていた雪斗の手がスッとすっと引いた
「……………緑川?」
「はい…落ち着きましたか?」
「佐鳥だと…………思ってた」
「…………それは……すいませんね」
意図せず組み伏せるような形のままさっさと体を起こさなかった事を後悔した
佐鳥の馬鹿な表現がちょっと理解できる
会話の途絶えた空白の間《ま》……潤んで赤くなった瞳でじっと見上げられると意味を含んでいるようで、なるほどと思ってしまった
佐鳥や松本じゃなくともこれは肉欲が湧く
あの二人程単純じゃないと自負しているが誘われていると勘違いしてしまう
「佐鳥を呼びましょうか?」
「…………仕事中だろう……邪魔出来ない……」
「連絡だけしておきますよ」
「しなくていい……どうせ馬鹿みたいに騒いでうるさいだけだ、緑川も……仕事に戻れ」
「渡辺さんが呼びに来たら帰ります」
気が付くと雪斗の手にはまだ血の付いた黄緑の輪っかが握られたままだった
そっと雪斗の手から取り上げタオルに包んだ
「今日……見た事は忘れろ」
「何かあったんですか?………俺は何も見てません」
「………それでいい」
目を閉じているが雪斗は眠ってはいない
出て行く事が出来ずベッドに横たわる雪斗を渡辺が呼びに来るまでずっと眺めていた
「緑川!これも持ってくれ!」
「もう一回往復したらいいだろう、そんないっぺんに運ばなくても……わっ乗せるな!」
両手に一つずつ抱えたボストンバッグの隙間に枕を押し込まれて持ち手が窮屈になった
日曜の朝早く───
ベッドの中で佐鳥からの電話に寝ぼけたままで有耶無耶な返事をしてしまった
今から行く、の意味を聞かなかったこっちも悪いが、出来ればちゃんとした説明をして了承を取って欲しかった
佐鳥を含め休日に同僚と会う事なんて殆ど無く、何だと思えば佐鳥は本当に荷物を纏めて緑川のマンションに転がり込んできた
「俺のマンションは狭いぞ」
「いい」
「いいかどうかは俺の台詞だ馬鹿、せめて泊めてくださいってお願いしろ」
「飲み屋で言っただろ」
「お前な……」
別に駄目だとは言わないが来いと言った覚えは無い、問答無用で手渡された荷物を素直に受け取ってしまい、こんなにも誰かに振り回されるキャラだったとは自分で驚いた
「本当にこれだけなのか?追加は受け付けないぞ」
会社のレクサスで乗り込んできた佐鳥の荷物はトランクひとつにボストンバッグ二個、後は小物を入れた紙袋とふとん一式だけ、後部座席に全部収まっていた
「備え付けの家具も多かったしな、どうしても捨てられないものは親父が借りたトランクルームに放り込んだ」
「佐鳥社長はどうするって?手伝う事無いのか?」
「あの人は短気だからな、もう全部一人で済ませてるらしい」
「そうだったな……」
「それにしてもいい場所に住んでんな、家賃高いだろう」
「それなりかな」
緑川の部屋は会社から二つ目の駅にあり、佐鳥の住んでいたマンション程ではないが立地がいい、一等地に違いないが男二人+荷物を運び込むと本当に狭かった
「心配すんな、世話賃含めて手数料も盛っとく」
「おい……」
遠慮の欠片も見せない佐鳥が妙に嬉しかった
春を思わせるポカポカ温かい日和も手伝って、いつの間にか修学旅行か合宿に行く学生のように浮かれてエレベーターの中からずっと笑い声が絶えなかった
「お前意外と几帳面だったんだな、ずっと一緒にいたのに知らなかった」
「え?そうか?普通だろ」
トランクを開けると、綺麗に折り畳まれた衣服がきっちり揃い、何がどこにあるのかひと目で分かる、そのまま中身を出さずに収納ボックスとして使えそうだった、スーツやコート用にハンガーまである
後は歯ブラシや小物を紙袋から出して………同棲を始めるみたいで何だか照れるが、洗面台に並べると布団以外は綺麗に片付いてしまった
「なんで荷物を減らしたくせにこんなもん持ってきてるんだよ」
必要最低限の生活必需品しか持ってこなかったくせにボストンバッグの底にはオセロが残っていた
「ああ、ちょっとな……夜にやろうぜ」
「飯は?どうする、どっかに食べに行くか?」
「いや、俺が作るよ、何が食べたい?」
「へ?……暁彦が?うわ……何か照れる、もし旨かったら結婚してやるよ」
ふざけた口調で笑いはしたが顔が赤くなったのは自覚出来ている…………悟られはしないかと佐鳥を見るともっと真っ赤になってポリポリと頭を掻いていた
デカい男が二人、ほぼベッドしかないワンルー厶の部屋でお互いに顔を赤くして座ってる構図は誰が見ても気色悪い
「な、な、何?何だよ気持ち悪いな」
「うん……あのな………」
「あー……後にしろ、車を置いとけ無いし足りない物まだあるだろ」
もごもご言い淀む佐鳥が何かを言い出す前に腕を引っ張って酒と食材の買い物に連れ出した
男同士でホームセンターに行くと絶対に脱線する、スリッパやタオルを買い足すだったのに結局夕方までそこで遊び回り、食材を買って帰り着くともう6時を過ぎていた
佐鳥の作ったハンバーグは鳥と豚肉のミンチを混ぜてデミグラスソースまでかかっている、温泉卵がふわりと乗ってかなり旨かったが………新婚初日かと突っ込みたくなるようなハート型には乾いた笑い声しか出て来なかった
「プロポーズした?!」
食べ終わった食器の片付けはオセロで決めようと、コマを捲りながら飲み始めていたビールが開いた口からボタボタ落ちた
「………う……うん……」
「社長に?」
「うん…」
「雪斗に?」
「だからそうだって」
口から漏れたビールが首を伝い、胸に入ってもぞ痒い、ボリボリ掻くとグレーの長Tが黄色くなった
「雪斗は……何て?……」
「その前に出て行けって渡辺さんに追い出された」
そりゃそうだろう、渡辺にとっては雪斗は息子に近い、才能溢れる雪斗にこんな変わり種の虫がつくなんて許容できる訳がない
「どうするつもりなんだ?」
「どうもしないよ、俺にとっての決意表明だ」
佐鳥がオセロの盤に駒を置いてパタパタと黒に変えた
「まあ……籍を入れれる訳じゃないしな」
「渡辺さんに言われたんだ……雪斗の中には誰もいないって……」
「どういう意味だ?」
「なんと言うか……前しか見ていないって言うか…周りの人間は雪斗に取って全員モブなんじゃないかな………」
「…………そうでもないぞ……」
「え?」
どうしようか迷ったがマンションであった出来事を簡単に話した
激昂されても困るので長谷川が明らかに雪斗を襲っていた事は伏せたが……
「俺を暁彦だと勘違いして抱きついてたよ」
「何でその時に言ってくれないんだよ」
佐鳥は既に腰を浮かせていた
「…………誰にも言うなって言われたからな……」
「俺……今から行ってきていいか?」
止める気なんてもう無い、行ってこいと手を振ると、佐鳥は取るものも取らず財布だけをポケットに詰め込んで走り出ていった
「今のってあなたの大事な大事なアキヒコ君じゃないの?」
佐鳥が開けたドアの影から梨央が覗いていた
ドアの外にいたにも関わらず佐鳥は梨央に気づかなかったらしい
「何しに来た」
皮肉が籠もった梨央の言い方が何となく気に触って声が低くなった
佐鳥の事など殆ど話していないのに勘のいい梨央には複雑な所有欲を見破られている
お互い様だが、分かりすぎるわかってしまい一緒にいてゾッとする相手だ
「何しにって、決まってるじゃない、食えないあんたと一緒に出来る事なんて一つしか無いじゃない」
「何かあったのか?」
「別に……随分ご無沙汰だからどうしてるのかなと思っただけよ」
梨央は長い髪を一つに括りメイクもしていない
ラフな服装は飾る気も取り繕う気も無く、どうでもいい相手を都合のいいように利用する事しか考えてない
それはそれでお互いに便利で付き合い易くもあった
「入ってもいい?」
「少しだけならな……」
「……相変わらず冷たいのね」
緑川は取り繕った表面の皮を剥ぐとすぐ不機嫌になる
取り込め無い相手なのは間違いないが、梨央にとって他のバカ男達と何も変わらず、考えてる事が手に取るようにわかり易い
ブスッと黙って開けたくれたドアの中にはスーツケースや、クローゼットに入り切らないスーツが壁に掛かっていた
「何よ、まさかアキヒコ君と一緒に暮らす気?」
「預かってるだけだ」
どうでもいい、と興味無さそうな答えに笑いそうになった、緑川は出て行くアキヒコ君をどんな目で見送っていたかまるで自覚してない
「どこ行ったのアキヒコ君」
「彼氏の所」
「へぇ……黙って行かせたんだ」
時々アキヒコの名前が出てくるようになってから緑川が変わった、表情が穏やかになり笑うようになった
その代わりに呼び出される頻度が極端に減った
「負けそうだったからな」
「何に?」
緑川は笑っただけで何も答えなかった
リビングのソファの上に、一方的に黒が勝ってるやりかけのオセロが、相手を無くして放置されていた
緑川のマンションは会社から二駅しか無いが快速は止まってくれない、ホームを素通りする車両をイライラと見送り、のんびりやって来た各駅停車に飛び乗った
駅から雪斗のマンションまでは2.5キロくらい、全速力で走れば5分くらいで着く
休日に賑わう繁華街でまた誰かにぶち当たったりしないよう、車道に出て走り出した
ある一線を越えると急に人出が減るビジネス街に出るとTOWA前の交差点を渡るラフなTシャツ姿が目に入った
「雪斗?」
まだ抜糸すら済んでいない
こんな所にいる筈はないと思ったが後を追った
日曜のビジネス街は明かりが消えて閑散としている、走る足音が無機質な壁に跳ね返り振り、音に気付いて返ったのはやっぱり雪斗だった
「佐鳥?」
もうコートが必要なくらい寒いのにTシャツに半パン、出会った真夏と同じような格好で、懐かしむような喜んでいるような……何とも言えない柔らかい笑顔が返ってきた
「なんでこんな所にいるんだ」
「別に……もうあの部屋に籠っているのに飽きただけだ」
雪斗に追いついた場所から朝に引き払ったばかりのマンションが見える
「俺に……会いに?」
「どうしてるかなって思って……」
雪斗は見られる事を拒むように顔を背け、自分の体を抱いてぶるっと震えた
「そんな格好で外に出る季節はもう終わってるよ」
「夜は寒いな……知らなかったよ……」
何か羽織るものでもあればいいが緑川の部屋でくつろいでいたトレーナーのまま飛び出してきた
暖めるものは腕と胸しかない、そっと頭を包むと雪斗は胸に頬をつけて心地良さそうに目を閉じた
こんな場所で……体もまだまだ無理がさせられない
だけど色んな思いが溢れて堪えきれなかった
顎を捕まえて持ち上げた
雪斗の手は抱き締め返してはくれないが顔を傾けて迎えるように上を向いた
重ねた唇は冷たい
髪も頬も冷えている
細い首に手を回して肌を擦り角度を変えると雪斗の方から唇を割って舌が入って来た
このまま雪斗を体に取り込みたい
要らぬ苦しみやトラウマから遠ざけて自分の中でぬくぬくと暖めて、どこにも誰にも傷つけさせない
思わず腰に回した手に力が入るとパンパンと雪斗の手が背中を叩いた
離れたくない
未練を残して吸った唇がチュッと伸びた
「駄目か?……」
「痛い……」
「え?あっ!ごめん、怪我をしてるって忘れてた……」
慌てて腕を緩めると困ったように眉を下げて片方の唇を釣り上げた、よく見る雪斗の表情………大概憎まれ口を叩く
「鳥頭………三歩歩いたら忘れられるんだからお前はいつでも平和なんだよ」
「馬鹿の次は鳥かよ」
弱っても口だけは相変わらずだ
「雪斗、マンションに帰ろう、俺の部屋はもう引き払ったんだ」
「入れないのか?」
「鍵は持ってるけどベッド以外何も無いぞ」
「エアコンは?」
「電気とか水道はまだ手続きしていないから使えるよ」
「じゃあいいじゃん」
スルリと腕の中から抜け出た雪斗はエントランスのパネルに暗証番号を打ち込んだ
こんなに色々あったのに、色んな関係を築いて来たのに………雪斗がそのパスワードを使ったのは番号を教えてから初めての事だった
「寒いな……」
「だから言ったろう」
エアコンをフル稼働して部屋を暖めてはいるが冷えた体からは中々冷気がとれない
かなり片付けて整理したと思っていたがクローゼットには夏の間雪斗がよく使っていたブランケットが残されていた
「俺何か暖かいものでも買ってこようか?」
「要らない」
雪斗にブランケットを巻き付けてベッドに座らせると膝を抱えて丸くなった
足を持ち上げるとまだ顔が歪む、普通ならまだ入院中の筈なのに外を彷徨き消耗してる
「でも………」
「佐鳥………落ち着けよ」
雪斗にトレーナーを引っ張られ、隣に座ると雪斗の頭がトンッと胸に乗った
「お前あったかい……」
「雪斗は冷たい」
グっと雪斗に押されてそのままベッドに倒れ込むと、腹筋を使ってしまったのか雪斗の口から小さい呻き声が漏れ出た
「無理ばっかりしてるから……そんなんじゃ治るものも治らないぞ」
「何の事だよ」
「長谷川が来たんだってな」
「緑川から聞いたのか………忘れろって言っといたのに……」
「俺は言って欲しかった……」
呼んで欲しかった……守りたかった、雪斗はある意味知っている誰より弱い
胸に乗った雪斗の頭に指を沈ませ髪を混ぜた
「お前には関係ないよ」
「関係なくない………昔……付き合ってたんだろ」
こんな事を聞きたい訳じゃない
聞くべきでもない
ただ雪斗への余りの扱いに我慢できなかった
「付き合ってない……ただ何も知らなかっただけだ」
「何も?……」
「もういいよ、あいつの話はしたくない…」
雪斗は胸から体をずらし脇の下に顔を埋めた
雪斗の眠りたいポーズだ
エアコンがモーター音を唸らせて全速で暖い風を送り出している
「ごめん……変なこと聞いて……」
雪斗は本当に嘘をつかない
だからと言って真実は話さない
こうして甘えてくるくせにいつまでたっても掴み所がない
「佐鳥……さっきのやって」
「さっきの?」
「頭………」
雪斗の頭を抱き寄せて髪に指を差し入れた
「気持ちいい………」
「それセックスしてる時に言って」
「しね……」
ガブッと変な所を噛まれたが痛くない
キスを落とした髪の生え際はもう暖かかった
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