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雪斗に電話が繋がる確率は今の所20%前後、先日までに比べたら希望があるだけマシだが今朝はすんなり繋がった
迎えに行くと伝えると、気持ち悪いくらい素直に返事をして、マンションのエントランスで待っていた
「おはようございます、ちゃんと待ってるなんて関心ですね」
「渡辺………昨日は駅前のホテルに泊まったんだろ?この距離をタクシーで移動するなんて贅沢すんなよ、迎えになんか来なくていい」
「あなたが信用出来ればこんな事はしませんよ」
「俺はやる事はやっている」
「そんな事を言ってるんじゃありません」
雪斗が進むべき道を逸れたり見失う事は無いと十々わかっているが、振り回される方の身にもなって欲しい
連絡が取れず行方不明に慌てふためき、困り果てた頃に飄々と姿を表す、一言でいいから連絡を寄越せと何度も怒鳴りそうになった
雪斗のマンションから車で5分、確かに贅沢だが安心料としては安いものだった
会社のエレベーターから雪斗を連れて降りると、朝の用意にザワザワしていたフロアがシンと静まり険しい視線を一斉に浴びた
思った以上に砂鳥社長の信望は厚く、話をした数人の社員はみんな棘を隠さなかった
隣を歩く雪斗をチラリと目で追うと、どんな視線にも動じる事なく眉一つ動かさない
雪斗にとって昨日は長くて辛い一日だった筈、帰り際には精魂尽き果ていつも纏っている凛とした透明なオーラが消えていた
………今日はまた違う色をしている
10年一緒にいるがこの雪斗を見るのは初めてだった
何枚カードを持っているのかは未だにわからない
社長室に入るともう石川が来て仕事を始めていた、石川は頭の回転が早く気も利くが、どこか集中力が散漫なところがある、そのせいか勉強不足かわからなが今の所司法試験には合格出来てない
石川は依頼人に必要以上の感情移入しない冷静さを持ち合わせている、出来れば司法試験に合格しても渡辺事務所を支えて欲しいと思っていた
「早いな石川、社長のデスク俺が使っていいか?」
「その為に開けているんですよ、俺はこっちでいいんですが皆巳さんが困るなら小さい机を入れてもいいんですけど、どうしますか?」
「私は大丈夫です、元々秘書の机は飾りなのでお好きにお使いください」
「そうですか………」
最初から何の感情も見せず淡々と手伝う皆巳は渡辺と石川にとっても謎の人物だった
社長の個人秘書という微妙な立場上、使いにくいければ一般職に配置換えしてもいいと思ったが予想に反して良くやってくれる
「進捗は?」
「口で言うより見た方が早いでしょう、雪斗さんも目を通してください」
「石川!ここでは社長と呼べ」
ただでも見た目のハンデを背負っているのに身内で格下げしていてはどうしようもない、石川はペロッと舌を出し悪びれることも無く資料を差し出した
「別にいいよ、そんな取り繕ったって仕方ないだろ、今日明日で俺達を信用しろったって無理だろ」
「そうですけど……」
雪斗は渡辺の座った社長の机に腰を下ろしベタッと寝そべって渡辺のパソコンを覗いていた
その態度も何とかして欲しい、小言を言いたいが……チラリと皆巳の表情を伺うと気を利かしてくれたのかコーヒーをお持ちしますと社長室を出ていった
「今の所トラブルが無くて助かるな」
「そう言えば"社長"……あの女性はどうしたんです?」
「女性?………誰の事?」
「惚けないで下さい、胡蝶のホステスですよ」
「……ああ美菜子さん?」
雪斗はちょっと考えてから懐かしむように笑った
「ちゃんとお礼を渡しただろ」
「え?」
石川がパソコンから目を離し驚いた声をあげた
「別れたんですか?」
「別れたって……別に付き合ってない」
「あんなにラブラブだったのに?………勿体無い……」
石川はあわよくばこの週末にでも雪斗の彼女から色々綺麗な女性(できれば胡蝶原産)を紹介してもらおうと企んでいた
胡蝶へ足を運んだのは何も女性をナンパしに行った訳じゃない
TOWAの株を買い集める過程で最後の数%がどうしても市場に出てこなかった
今時安定した配当のある株を簡単に売り払ったりしない
総会で手に入れた株の保有者をあたって2%にも及ぶ大株主である事、会社保有で思い入れがない事を考慮して東條社長に狙いを付けた
胡蝶では東條社長がトイレに立ったタイミングに合わせ、渡辺と石川が組んで簡単な情報を耳に入れた
もうすぐTOWAの株が半値になると………
駄目元だったが東條は簡単に乗った
つまり美菜子は計画外の副産物でこの仕事に関わった事に乾杯する程感謝していた所だった
「あんな美人を………信じられない」
「石川……やめなさい、今そんな事………」
「そんな事って何ですか、渡辺さんだって……」
「社長!昨日のうちにこれを預かりました、目を通してください」
コホンっと意味の無い咳払いで取り繕った渡辺はバサリと数通の封書をばら撒いた
表書きには辞表と辞職願が混ざっている
「何人辞めるって?」
「部長格がほとんど………」
「ふうん」
渡辺は1ヶ月頑張った禁煙を止め煙草に火を着けた
何か灰皿になるもの……と周りを探しているとコーヒーを持って入って来た皆巳が灰皿を差し出した
因みに社長室の机と応接セットに禁煙と書かれた札が立っている
「全員"佐鳥"の親戚筋ですよ、あっちの会社に戻るそうです」
「業務に支障が出るのはある程度覚悟してるから別にいい、今日の昼前に社員の面接するからその時に話を聞いとく」
「いなければいないで勝手に回るもんです、それにしてもキッパリしてますね、そんな簡単なものかな……」
佐鳥社長が"佐鳥家"への婿養子であり、経営も資本も無関係だが亡くなった奥さんの実家側から大量の派遣や出向、コネ入社を請け負っている事は分かっていた
追い出される前に、と思ったのか経営が変わった事を伝えてすぐ、口裏を合わせたように退職を願い出た
「昨日罷免した取締役も全員佐鳥からの預かりものですよね」
「そうらしいな」
雪斗は興味無さそうに封書を見つめ中身を見る事なくゴミ箱のなかに全部放り込んだ
………朝?
今何時だ………
って言うか……ここはどこだ?
大きな窓から差し込む眩しい光に目を細め、覚えの無い豪勢な部屋を見回した、人の気配はなく無個性なモデルルームのように生活感を感じない
急に頭が覚醒してガバッと体を起こした
「ここは…………」
そうだ、雪斗のマンションだ
昨夜の記憶が途切れ途切れに繋がってサァっと血の気が引くのがわかった
殆ど強姦寸前だった
やめろと暴れる雪斗を押さえ込み体を押し付け無理矢理犯そうとした………
「嘘だろ……何してんだ……俺……」
部屋の中はシンと静まり返り雪斗の姿はない
夢でも妄想でもない、壁には擦り付けたような血の跡が残ってる、体の上にはさらっとした手触りの高そうなシルクのブランケットが掛けられていた
時間は……携帯を探して明かりを灯すと……
「9時?!!」
………既に遅刻している
「やっば………」
慌てて手近な扉を開けると……クローゼット、隣の扉は……住めそうなトイレ
「無駄に広いな………」
やっと見つけたバスルームに飛び込むと大きな鏡に写った自分の姿を見てドキンと心臓が跳ねた
シャツが真っ赤に染まり血が変色してカペカペになっている
鏡を覗き込むと下唇が切れて血が固まり、口を開けるとパリッと傷口が開いてしまいそうだった
「結構切れてるな……」
切り傷の周りは血豆も出来ている、外から目立つが今の問題はそこじゃない
シャツの血は簡単に洗って落ちる限度を超えている、つまり使用不能……
雪斗の服が着れるとは思えないがTシャツなら入るかもしれない、ジャケット着て会社まで行けば緑川がトラブルに備えてシャツとネクタイを常備している筈だ
何よりも時間が惜しい、シャワーを借りてバスルームから出るとリビングテーブルの上に綺麗に折り畳まれた白いシャツが置いてあった
広げて見るとどうやらサイズは合いそうだが雪斗のシャツにしては大きい、勝手に借りていいものが迷ったが仕方がない
会社まで全速で走っておよそ5分、身だしなみを整え部屋を飛び出た
朝からエレベーターが動く度に横開きの金属扉を見つめていた
何度電話しても繋らない、イライラと待ち続け待望(?)の佐鳥が吐き出された時に思わず大声を出していた
「暁彦!お前何やってんだ!遅れるなら連絡くらいしろよ!何回電話したと思ってんだ!」
「ごめん緑川……ただの寝坊なんだ」
「何だ……お前……帰ってないのか?」
佐鳥には几帳面な所がある、4本のネクタイをきっちり順に回し曜日が決まった取引先への訪問に重ならないよう気を使ってる
佐鳥の服装まで熟知している自分も怖いが少なくとも2日続けて同じネクタイをしてくる事はない、シャツも首周りが大きく恐らく佐鳥の持ち物じゃない
「うん……まあな………」
「唇……どうしたんだ、血豆が出来てるぞ」
「酔って転んだんだよ」
「どおりで酒臭いです」
松本がパタパタと手で仰ぐ振りをして鼻を摘まんだ
営業は全員外出を控え電話対応に追われていた、決済をする人物が引き継ぎもせず挨拶すら無いまま消えてしまい、社内の混乱に拍車をかけていた
全員が不安に顔を曇らせアタフタと浮足立っている
社長から説明を一任されたが、雪斗が社員に伝えた事以上話す事は何もない、雪斗と社長の間でかわされた無言に近い会話はもしかしてたら佐鳥にも関係がある因縁かもしれず、漏らす訳にはいかない
ただでも……知られてはいけない、絶対誰にも言えない雪斗との特別な因縁を自ら作ってる
「雪斗は?来てる?」
「…………佐鳥……新しい"社長"!な……」
「俺……ちょっと行ってくるわ」
佐鳥が言外の意味を汲んでくれたかどうかは………希望的な観測値を足しても10%………
だが昨日のように精気のない目をしていない
「どうする気なんですか?まさか辞めないですよね?」
「やめろよ……松本……」
心配そうな声を出した松本の頭に木下がコンっと拳を下ろした
佐鳥にとっては家族の問題でもある、父親は会社を追い出され佐鳥自身も約束された未来を取り上げられた
実際の話佐鳥に辞められると困る事が山程あるが後は佐鳥自信が決めることだ
「……自重しろよ……」
「さっぱりしてくる」
「………社長…画面が見えません……」
ペタンと頬を置いてデスクに寝転んだ雪斗がパソコンに並んだ数字をじっと目で追っていた、自分が見やすいようにモニターを勝手に傾け液晶が見えにくい
こんな風にちょっと甘える事は稀だが、知らん顔をしているといつの間にか寄ってくる、構うと嫌そうに離れていく………雪斗は何かと邪魔をしてくる無愛想な猫みたいだなと、時々思う
「………見たいならプリントアウトしますから机に寝るのはやめてください」
「紙の無駄だ」
「邪魔です、それに社員に見られると益々子供だと馬鹿にされますよ」
「子供じゃない、俺はもうすぐ30に……」
「サバを読まないでください、後5年程かかるでしょう」
「え?………」
早くも空気になりきっている皆巳は雪斗の歳を聞いてやはり驚いたのか、珍しく無表情を崩し片眉をピクンと釣り上げた
「ビックリしました?」
石川が面白そうに尋ねると、いっさい雑談には応じていなかった皆巳がもうちょっとで口を開いてくれそうだったのに、答える前にコンコンっとドアをノックする音がした
「あ……もう~…………どうぞ」
あっと思ったが止めるのが遅れた
ドアに近い席に座った石川に先に返事をされてしまい、雪斗に注意する前にドアが開いた
部屋に入って来たのは…………処遇に悩む社長の息子だった
「失礼します」
「……何だよ」
ムクッと身体を起こした雪斗が出した低い声音にギクリとした
雪斗がどこまで出来るか、そこは未知のままでここまで来たがほぼ完璧にやり遂げていた
対等な立場でもぎ取った権限を行使しただけだが、佐鳥の息子には道義的に責めたり恨まれたりしても仕方がないと思っていた
どう扱うか……悩んでいた取り扱いに注意が必要な相手に突然やさぐれた返事をした雪斗に石川も驚いて顔を上げた
「いや、あの……昨日は……」
「早く言え、俺は忙しいんだ」
机に座ったまま、ドンッとわざとらしい音を立てて背中に手を付き、大袈裟に足を組んだ雪斗は渡辺が手に持っていた吸いかけの煙草を指の間から抜き取り口に持っていった
雪斗が煙草を吸う所を見た事はあるが普段は常用していない、計算済みの行動ならいいが、どうやら違う………眉の間に深い皺を刻み、口に咥えた煙草を深く吸い込んで、当てつけるようにポカッと白い煙を吐き出した
「社長……やめなさい」
「渡辺は黙ってろ」
「でも……」
あんまり"個性"を暴露して欲しくない、慣れた仕草で指に挟んだ煙草をピンっと弾き………床に落ちた灰を目で追った砂鳥の眉がピクリと釣り上がった
「雪斗………お前何してんだ……」
「お前は俺の事なんて何にも知らない、何にもわかってない」
「そんな事はない……」
「そうなんだよ!!退職願を書いてさっさと辞めろ!」
「そんな事はないっ!!」
ヅカヅカと部屋を横断して雪斗に掴み掛かった佐鳥に渡辺も石川も驚いて腰を上げた
緑川さん…そんな所で盗み聞きですか?」
水谷に声をかけられ口に指を当てた、盗み聞きには違いない
木下が言った通り佐鳥の去就は佐鳥自信が決める事、止めたいが口出しはしないつもりだった
それでも気になって社長室のドアに張り付いていると突然中から怒号が湧いた
冷静だとは思ってなかったがまさか中に入っていきなり怒鳴り出すなんてさすがに予想してない
「暁彦?!!」
社長室に飛び込んであ然とした、佐鳥と雪斗がオロオロしている渡辺の前で取っ組み合いをしている
「暁彦!!何して……こら!やめろ!」
雪斗と元からの知り合いだと悟られるな……ともっとはっきり言っておくべきだった
どっちしろ佐鳥は周りが吹っ飛び、雪斗も雪斗で昨日までのクールさはどこにもない、取り合ってるのは手?………違う……火のついた煙草?何でもいいが佐鳥の立場で雪斗に手を挙げるなんてとんでも無い
「暁彦!…っっ!」
胸に肘鉄を食らって息が止まった
「普段そんなもの吸ってないだろ!やめろよ!」
「お前が知らないだけだ!離せよ馬鹿!!」
「知ってるよ!!」
「やめろ!!……馬鹿!やめろよ!暁彦っ!!」
「馬鹿馬鹿言うな!」
もう誰に何を言われているかさえわかってない
「いい加減に……しろ!」
解雇の理由にされてしまうかもしれない
とばっちり覚悟で飛び付いて抑え込むと、同時に渡辺も雪斗の腕を掴み、机の上で揉み合う二人を引き剥がすと佐鳥はバッと腕を振り払い、まだ煙が出ている煙草をぐちゃっと握り潰して床に捨てた
「何すんだよ!」
「わざとらしい事すんな!」
「わざとだよ!!全部な!チンピラ刺したのもお前があんまり能天気で馬鹿だから本当の俺を見せてやっただけだ」
「石川!」
傍目には子供の喧嘩だがとてもじゃないが社員に聞かせられる内容じゃない、開いたままになっていた扉を閉めろと腕を振ると皆巳がさっと動いて密封してくれた
雪斗と佐鳥は肩で息をしながらハァハァ言ってる
「何が"本当の俺"だ、滅茶苦茶酔ってた癖に偉そうに言うな!」
「酔って……たけどそれが何だ、お前と俺では生きる場所が違う」
「あの居酒屋でした俺の話を覚えてるか?」
「ああ!忘れるもんか!馬鹿みたいに経費使って一銭も回収してない赤字事業だからな!その話は後できっちり聞かしてもらう覚悟しとけ!」
「じゃあ言わなくてもわかるだろ!俺は浄水売るまで辞めたくてもやめれない、それだけ言いに来ただけだ」
言ってる事はかっこいいがやってる事はただの暴行に近い
佐鳥は本当にそれだけ言って社長室をドカドカ出ていった
「あいつ……手に火傷してるんじゃないかな……」
「小さな火傷くらいどうってことない、それよりも緑川さん……」
トーンの変わった雪斗の声にハッと身を締めた
馬鹿らしい喧嘩に気を取られている場合じゃない、雪斗を舐めてかかるとどんな弱味(主に佐鳥関係)を武器にされるかわからない
「…何ですか?」
「どうして今頃会社にいるんですか?」
どうしてと言われても当然だろう、発注書は停滞、配送の手配も出来て無い、朝出勤してから初めて社内の混乱知った社員もいる
足元が不安定なまま、馬鹿正直に仕事をしていつの間にか席がないなんて道化になる気は無かった
「今日の予定はキャンセルして社内の調整に回ってます」
「通常通りとお伝えたしたはずです」
「佐鳥の件がハッキリしたし言われなくてもこれから出ます」
「ならさっさと行ってください、私があなた達に求めている事はそう難しくはない筈です」
「………わかりました、それでは失礼します」
雪斗に正しい事を正しく言われるのは無性に悔しい
煙草の火を消すには多すぎる………皆巳が何故水の入ったバケツを持っているのかが物凄く気になったが、立ち上がった姿勢のまま呆然としている渡辺と石川に頭を下げてさっさと社長室を後にした
「………雪斗………何をムキになってる」
緑川が出て行くと渡辺はふうっと息を付き雪斗が暴れたせいで曲がったモニターの向きを直した
「別にムキになってない」
「佐鳥の息子と何かあったんですか?」
最初からずっと"佐鳥"関係の人間は全員追い出すように勧めたが雪斗は経営陣以外の社員人事に手を付ける事は許さない
大方は勝手に辞めてくれたが一番厄介な息子に期待していた退職願は出てこなかった
「何でそんな事を聞く、お前に関係ないだろう」
「後で障害になっても困るでしょう」
「………何もない………何回か泊めてもらっただけだ」
ピクッと渡辺の眉が動いた
「泊まった?」
「ああ」
言葉を継ぎかけたが石川と皆巳がいたので止めた
男にモテる……という言い方は上品すぎるだろう
狙われると言った方がしっくり来る
雪斗にはそのトラブルが常に付き纏っていた
最初に訪ねた悪徳弁護士を筆頭に、一度は公園のベンチで眠っていた所を酔っ払いオヤジに吸い付かれ小さなカッターで太股を刺した
その時は少年への淫行を盾に取り、たっぷり脅して黙らせたが、拉致されるようにホテルに連れ込まれ危うい所で助け出した事もある
華奢で透明な容姿を持つ雪斗はその筋の男には格好の餌に見えるのだろうが…………本当に心配なのはそこじゃない
雪斗のやらかす派手なしっぺ返しは雪斗自身の将来まで潰しかねない
顧問と言っても最初の五年は雪斗のトラブル処理にばかり走り回っていた
「あんまり特定の一社員に乱暴な言葉使いをしない方がいいですよ」
「わかってるよ…もうそろそろ俺も遊んでいられない、変な心配するな…」
雪斗がフロアに現れると部長格が消え去っててんやわんやになっていた社員が一斉に手を止めざわっと波打った
改めて雪斗を見るととても企業を乗っとり経営を掠め取ってしまうような人物には見えない
「この中でパソコンとネットワーク関係に一番詳しいと思える人、会議室まで来てもらえませんか?」
「うちのパソコンは関係はリース会社に全部任せてるんです、詳しいと言っても………」
庶務の塚下がそう言いながらも事業部の机をチラリと見た
数人集まれば専門的な事は分からずとも必ずトラブルが起きた時に声がかかる人物がいる
塚下の視線を追った雪斗は小さく頷いただけで何も言わずに会議室に入っていった
事業部の江川は数人から背中を押し出され嫌々席を立った、普段なら断るが「社長」に特定された以上仕方がない
詳しいとは言っても趣味の範囲でしかない、スマホの使い方やパソコンの簡単な設定など時々小さなトラブルに手を貸していただけで別に大した知識がある訳じゃない
経営が変わったと聞いたが元の社長とも殆ど話した事もなく、その息子、営業の佐鳥とも挨拶くらいしかしない
クビになったりしないなら関係ないと思っていた
毎日5時になるのを心待ちにするだけで、仕事は地味な事務をこなすだけ………
背が高くてイケメン……しかも次期社長の佐鳥が緑川と一緒にいるとキラキラしすぎて世界が違う、名前すら知らないんじゃないと疑っているが見るからに華やかな営業部とは無縁だと割り切っていた
座れと言われて座っているが雪斗は何も言わずパタパタとパソコンを触っている
何を聞かれるのか………パソコンの事もネットワークの事もわかるのは簡単な設定くらいでリース契約の中身も知らない
準備出来る事は何も無く、目の前に座る「新しい社長」を眺めていた
昨日はいつもの通り5時きっかりに席を立ち、何があったか聞いたのは朝出社してからだった、音羽社長は若い若いと連呼されていたがこうして見ると予想以上に若い、もっとはっきり言えば高校生みたい……
どうやら金を持っていたか何か目的があるのか、この新社長は思惑がある大人に担ぎ上げられただけに見えた
「江川さん」
名乗った覚えはないのに名前を呼ばれて角のへしゃげたノートパソコンが目の前に押し出された
画面はポピュラーな検索サイトだ
「?……これが何か?」
「このパソコンは私の私物です」
私……と来た……まるで配役のミスでセリフが浮いたドラマみたいだった
「はい…………それが?…………」
「言っている意味がわかりませんか?」
そんな勿体ぶる前にさっさと要点を言ってくれれば早く済むのに、じっと目を見つめら逃げられない無言の問い掛けは、能力や適正を確かめられているとしても検索窓に文字は打ち込まれておらずヒントは何もない
居心地が悪くてもぞもぞと尻を置き直した
ここにある物はノートパソコンだけ、角が凹んでいるなと最初に思ったが、よく見るとあちこち傷だらけで結構ボロボロだが機種は最新、今時10万切る物も多い中30万を越える上位機種だ
「………あ………」
呼ばれた理由が突然わかった
「…………Wi-Fi?」
「そうです、私はパスワードを聞いてませんが今のこの時間で簡単に繋げる事が出来ました」
「え?……」
「あまりにも雑で腋が甘い、何ですかTOWA123って、誰でも一番最初に入力してみるパスワードです、デフォルトのままにしておいた方が余程安全だ」
「はあ……」
それはそうだが誰がそんな真似をする……次々と携帯を変える女子社員に入力が面倒だと言われ江川自身がパスワードを変えた、しかも予定表のホワイトボードに書いている
「ですが俺は別に担当じゃないし……そんな事を言われても……」
「担当してください」
「え?でも専門的な事はわかりません」
「江川さんは指示を出すだけでけでいい、セキュリティ会社をあなたが選んで管理してください、詳細は任せます」
「俺が?」
「はい」
「取り敢えずWi-Fiのパスワードを変えてください、サーバーはセキュリティの会社と相談してもっと工夫が必要です」
「サーバー?」
雪斗は突然乗り込んで来て経営を奪った
株式を買い占めるという一番単純な方法だが、闇雲に何億費やしても様々な情報無しでは無駄に終わる確率の方が高い
特にTOWAは親族経営の個人商店に近く、市場に出ている株を買い集めても経営陣が残りを握っていれば望みは無い
「まさか………」
言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ
サーバーに侵入するなんて海外ドラマのような真似が本当に出来るものなのか
じっと目を捉えて外れない視線が………
そうだよ…………と言ってる
「わかりました……俺…私に出来る範囲で良ければやります」
「今手持ちの仕事は暫くの間誰かに引き継いでください、落ち着いたら共有出来るでしょう」
ニコリと笑った顔からは目の中に浮かんでいた謀略ありげな油断出来ない光はもう消えてなくなってる
脇の下に冷たい汗が吹き出てきた
世の中の勝ち組は多分みんなこんな奴、見た目にそぐわぬ不気味な相手に背筋が寒くなった
「塚下さん、音羽社長が会議室に来いって呼んでます」
「え?どうして私が?」
「さぁ……俺が出る時に言われました、待ってるから速く行った方がいいですよ」
油断するな……と言ってやりたいがあの見た目ではそれぞれが感じるまで口で言っても無理だろう、正体不明の小僧は塚下の名前も、一番の古参だとも知っていた
……昨日の今日で……
「ねえ、何を聞かれたの?あの人経営なんて出来るのかな?」
忙しいのに、とぶつぶつ言いながら会議室に入っていく塚下を見送り、席に戻ろうとすると、いつもなら空気のように無視する水谷がゴシップと勘違いしているのかニヤニヤしながら寄ってきた
「音羽社長を舐めない方がいいと思いますよ」
「え?どういう意味?」
「そのうちわかりますよ、俺はちょっと忙しいんです、聞きたい事があるなら直接社長に聞いてください」
構うのが面倒くさい
オフィス ネットワーク セキュリティ
思いつくキーワードを打ち込むと続々と様々な会社が軒を連ねた、セキュリティソフトでは甘いと言われたも同じ、しかし例え非常に厳重でもコストが高過ぎてはTOWAにそぐわない
水谷がごちゃごちゃ言っている声が遠い
「結構大変だな……指示だけしろったって勉強しなきゃ言いなりになる………」
責任者として何かを任されるのは初めてだった
TOWAでの仕事にはスピードが必要だった
ひっくり返される心配は殆ど無いが、気が付いてない盲点に食い付かれ逆襲される可能性はゼロでは無い
一週間は掛り切りになりたかったが正木法律事務所からの仕事も無視は出来ない為、石川と一緒に一旦TOWAを離れ夕方に戻って来ると雪斗がソファに座ってグッタリしていた
「遅くなってすいません、夕飯は?どうせ食べてないですよね、どうします?食べに行きますか
「俺は自分で何か買ってくる、渡辺は好きにしろ」
「駄目です」
雪斗の言う「何か」はどうせメロンパン辺りの可能性が高い、食べさせればそれなりの量を食べるが、普段から食事を疎かにする事が多く、いつまでも少年のように見えるのは管理し切れてなかった自分のせいであるような気がしていた
「ちゃんとした物を食べてもらいますからね、もう出れますか?」
「何でもいいんだよ……飯なんて……それにまだやる事があるから行かない」
「まだ一日目ですよ、そんなに焦らないでゆっくりやったらどうなんですか」
雪斗は社内を把握する為に各部署の要所々と面接して丸一日話を聞くことに費やしていた
弁護士の資格を駆使して必要な情報はかき集めたが雪斗には独自の視点がある
例えばTOWAに巣食っていた佐鳥の縁戚社員をどうやって知ったか……、苗字も違い社員名簿ではわからない事を最初から掴んでいた
もし違法な手段を使って手に入れていたらと思うと聞けないし、どうせ聞いても答えない
法律的な手続きは全面的に任せてくれるがそれ以外は全部一人でやってしまう
止めても無駄だとわかっていた
「後どれくらい残っているんですか?」
「営業部………5時を目安に帰って来いって伝えたけどまだ全然揃ってない」
「営業は全員から話しを聞くんですか?もう七時を過ぎてます、明日に延せばいいでしょう」
「同じだろ………あいつらは個別に動いてるから一人に話を聞いても意味ないしな」
ふうっと疲れた息を吐きソファの上に膝を抱え上げた雪斗の頭がトンッと肩に乗った
「気を張り過ぎなんじゃないですか?そんな疲れた顔をして……この先どうするんですか」
「俺は働いた事が無いんだからあたりまえだろ」
雪斗がこうして側に寄ってくるのは珍しかった
ちょっとでも動けばたちまち離れてしまうのはわかっていたが、鬱陶しそうに掻き上げた前髪の隙間から額に出来た真新しい傷が見え思わず手を伸ばした
届く前にパッと手を払われたのは予想通り、いたずらが見つかった子供のようにソファから立ち上がり背中を向けてもうこっちを見ない
「それ……どうしたんです」
雪斗の怪我イコールトラブルだ
大概他人が関わっている
「打っただけだ…」
「打ったのは見たらわかります」
「何でもない、すぐに消えるよ」
怪我の具合を聞きたいんじゃない、無意識なのか雪斗が手を当てた首もよく見れば赤くなっている
元々無口で必要な事意外話そうとしないがここ最近益々口をきかなくなって何を考えているかわからない
精神的に追い込まれているようで危うく、もっと頼って欲しいが決して"中"には立ち入れない
「これ以上待っても無駄だな……さっさと終わらしてくる」
「程々にお願いします」
「わかってるよ、あいつら次第だけどな」
……10年経ってもそれは変わらない
雪斗は分厚い営業報告書を手に取り、話題から逃げるように部屋を出ていってしまった
営業部長の野島は胸のポケットに入った煙草の箱をチラリと覗いて小さく舌打ちをした
仕事をしながらフロアで吸えた昔が懐かしい
ビル全体が禁煙になって久しく、今は駐車場の入口に有志で据えた私設の灰皿まで行くしか手はない
吸いたいのを我慢して2時間……灰皿まで行きたいのは山々だが昨日突然乗り込んできた若造に営業は全員会議室に呼ばれていて席を外せない
5時を目処にと言われたが営業は相手もある、遅れるのは想定済みだが七時になってもまだ揃っていなかった
「あのクソガキ……」
心の声がうっかり声に出た………5時きっちりに帰っていた緑川がパソコンからチラリと顔を上げ、聞かれたのかと思ったら違った
「野島部長……もうそろそろいいですか?」
後ろから突然声がしてギクリと振り返るといつの間にか雪斗が隣に立っていた
見た目もか細いくせに気配を消されるとまるで目に入らない…………
「まだ帰ってない奴もいますがそれでいいですか?」
「構いません……追々帰って来るでしょう」
「わかりました」
営業は全員タイミングを読むのが上手い、声をかけるより前にパラパラと立ち上がった
「さて……何をお聞きになりたいんですか?」
営業部のメンバーはまだ帰ってない佐鳥、松本、柳川を除く野島と深川、緑川、木下、後は決まった取引先を往復するだけの出世を諦めた中年営業保阪、井上の五人だった
営業課長の江藤は、佐鳥家懇意のコネ入社だった為か優遇の見込みが無くなったTOWAに見切りをつけ、部下に挨拶もせずさっさと辞めてもういない
実は野島も佐鳥の紹介で入社したが、もし社内で不遇な目に合ってもそれはそれでその時に考えればいい、仕事も責任も途中で投げ捨てるなんて真似は出来なかった
椅子に座った雪斗は面接に来た学生のように生っ白い顔をしているが緊張する気配すら見せずふてぶてしい
「何の話をしたいですか?」
「?……どういう事です」
「言いたいことがあるでしょう」
どういうつもりなのか………他の部所は業務内容や不満を聞かれただけだと言っていたが話が違う
「聞きたいことなら山程ありますがね、聞いてもいいんですか?」
「どうぞ」
野島がチラリと緑川の顔を伺うとこくんと頷いた
一番の疑問点は明白、朝からずっと二人でその事を話し合っていた
「……資金はどこから?」
「……直球ですね」
「聞け、と社長が仰ったんです」
「お小遣いを貯めました」
質問を予想していたのか雪斗は笑いも怒りもせずサラッと目を見て答えた
「真面目に答える気がないんなら質問を受けないでください」
「真面目に答えてますが?」
「何だと?」
緑川から雪斗の話は聞いていた
家にも帰らずずっと外でうろうろしていた事や、どうやらTOWAの様子を伺っていたらしい事も
株価を考えても必要だった資金は10億を軽く越える筈………頑張って揃えられる額ではない上、個人的にTOWAを狙っても得られるメリットが見えてこない
裏に誰かいる
野島と緑川二人の結論だった
「ふざけるなら……」
「では言い方を変えましょう、はっきりお聞ききします、誰の差金ですか?」
まんまと雪斗の煽りに乗りそうになった野島に代わり緑川が口を挟んだ
元々野島部長は営業から叩き上がった佐鳥社長が直属の上司だったと聞いている、普段から尊敬と畏怖を隠しておらず今回の事にはかなり動揺していた
冷静さを失えば絶対勝てない
佐鳥は何らかの方法で利用された
本当は色仕掛けだがそこは勿論野島には言ってない
もしかしたら雪斗自身も利用されている可能性だってある
フッと雪斗が頬を緩め下を向いて笑った
「本当にはっきりしてますね、私には正直に答える義務はありませんが言ってる事は嘘じゃない、全部自己資金です」
「そうですか……では何でTOWAなんですか?」
「……それは……」
一瞬……ほんの一瞬だが雪斗の目が揺らいだ、薄ら笑いを忘れ真顔になった雪斗が口を開きかけた時…………
ガチャリとタイミング悪く会議室の扉が開きドヤドヤと佐鳥と松本が部屋に入ってきた
抱えているダンボール箱の表面に玉ねぎと書いてあるが食べ物の匂いがぷんぷんしている
「遅れてすいません……」
「何だそれは?」
「仕出し弁当です、渡辺さんから持って行くように言われました」
「………佐鳥…………」
間が悪すぎる……
和ませ上手(?)な佐鳥らしいが最悪のタイミング、せっかく雪斗が隙を見せたのに張り詰めた緊張の糸が一気に緩んで霧散してしまった
「食べながらでいいだろうって言われました、配りますね」
「有り難いが……」
野島部長も同じ事を考えていたのだろう、口の中で小さく馬鹿、と呟いた
会議室には予定人数の椅子しか出てない、気持ちは分かるがみんな距離を置いて雪斗がいる上座から離れて座り、開いた席は雪斗の前しか無かった
松本と二人で弁当を配り終え、席に着こうと椅子を引くと雪斗がギロッと横目で睨んだ
………当たり前だがまだ怒ってる
「佐鳥、これは誰の支払いになってる」
「え?……さあ……そこまで聞いてません」
「そんなつまらない事が気になるようでしたら後で明細をお持ちしますよ、経費で落とすなり野島部長が支払うなりしてください」
「音羽さんの世話になってなきゃ何でもいい」
「では勝手に用意した渡辺につけとけばいいと?」
「違……」
「部長………脳味噌の糖分が足りてません、取り敢えず食べて下さい、あなたが食べないとみんな手を付けにくいでしょう」
急に会話の質が落ちた会議室の中で、食べにくいと言いつつさっさと箸を割り既に食べ始めていた深川が腰が浮きかけた野島の前に弁当を押し出した
佐鳥にとって野島部長は父親にくっついて古い屋敷に生え茂る庭木の剪定を手伝ったりするただの物好きなおじさんだった、小さい頃は父親を真似て「野島」と呼び捨てにしたり好き放題だったが、大人になってみるとその頃の野島はおそらく今の自分の歳とそう変わらない
営業職の理念や向き合い方が父親と似てはいるがたまに直情的な所が真反対、ムスッと口を結びやっと弁当に手を付けた野島は昔のままだった
野島を片付けたら今度は雪斗………渡辺に絶対食べさせてくれと頼まれていた
手を付けようとしない弁当の蓋を勝手に開けて割り箸を置いた
「食べてくださいね」
フィッとわざとらしく横を向いたがペットボトルのお茶を弁当の隣に置くとチラッと見た目が弁当に吸い寄せられ一点を凝視した
蓋の開いた弁当の中身をよく見ると高野豆腐にでっかい椎茸が張り付いている
キノコの中でも椎茸はとりわけ香りが強い
黙って弁当の蓋を差し出すと爆発物を取り扱うようにちまっと椎茸の端を摘み投げ入れた
何をやってる…………
誰かに見られていないかハラハラして息をするのを忘れていた
一部始終を見ていた緑川は箸で摘んでいた卵焼きが机に転がった事に気付いて慌てて拾った
いつ何時でも佐鳥に振り回され、とうとう社内にまで侵食してきた、弁当なんか喉を通らず箸を置いてお茶を飲み干した
「食べながらでいいですから聞いてください、時間も押しています、柳川さんがまだ帰ってきませんが本題に入っていいですか?」
「さっきの続きですか?」
「本題です、あの話はもう終わりました」
こめかみに青筋を立てた野島がニッと笑うと雪斗もニヤリと応酬した、言外の乱闘は続いていたがこれ以上話しても前に進まないとお互いわかっている
「本題ね………お聞きしましょう」
「とりあえず営業報告書を読ませて頂きましたが今の状況を把握している方はいらっしゃいますか?」
「うちの売上に問題ないでしょう?営業は着実に業績を伸ばしています、前年比からもアップしてる」
最近佐鳥に抜かれはしたが安定した売上を誇る深川が文句をつけられる覚えはないと口一杯に白飯を含んでモゴモゴと反論した
「うちは資金力が安定しているからあんたらが掻き混ぜるくらいじゃそう揺るぎません」
「資金力が安定していたのは株価に会社の実態にそぐわぬ高値がついていたからです」
「どういう意味ですか?」
「意味なんかどうでもいい、株価の急落が予想される上に纏まった退職金の出費で呑気に弁当を食べている場合じゃない」
「それはあんたのせいでしょう」
深川も遠慮ない、普通なら野島が注意しそうなものだが、言いたい事を躊躇なく代弁してくれる深川を応援するように満足そうにニンマリしてる
「そうですね、倒産しても構わないなら私にはどうでもいい」
「どうでもいいって事はないでしょう、今倒産したらあんただって破産だ」
ニッコリ笑顔で返事をした雪斗は本当にどうでもいいと思っているのかフンッと鼻を鳴らし営業報告書に目を戻した
これは浄水施設の事を突っ込まれる……
木下は言い訳が出来ない失敗を槍玉にあげられるだろうと覚悟していた
保阪と井上は緑川の三分の一にも満たない売り上げ数字では出る幕もない、縮こまってなるべく雪斗の目に止まらないようにしていた
「緑川さん、ちょっとお聞きしたいんですが、あなたらしくないこの変な発注はなんですか?」
雪斗がピラピラさせているプリントは2ヶ月以上前、佐鳥から引き継いだ塗料の少量単発発注だった、開発費が上乗せされ収支が2000円を切っている
「別に赤字じゃない」
「責めているんじゃないんです、私には何もわからないので異彩に見えたこの取引の事が聞きたいだけです」
「それは緑川じゃなくて俺が受けた仕事です」
佐鳥が口を開くと雪斗は途端口を噤んでプリントアウトを書類の束に戻してしまった
「…………次に行きます」
「無視すんなよ、これは会社の営業会議でお前は社長だろう」
突然佐鳥が同僚にでも話すような軽い口調に変え、全員ギョッとした、深川は特別なのだ、上手く相手の懐に飛び込みラフな話し方を武器にする、佐鳥にそこまでの技術は無いし今の社内で一番不安定な立場と言える
「佐鳥さん……マズいです」
前のめりになった佐鳥を松本が抑えた
「無視じゃない、聞きたい事がもう無いだけです」
「無視しただろ」
「………余計な口を出すからです」
「余計じゃない、緑川は俺の仕事を引き継いだだけだ、責めるんなら俺を責めろよ」
「責めてない、それならそれでいいです」
「あの……」
「何だよ」
「何ですか」
雪斗と佐鳥の声が揃い松本が目を丸くした
「お二人は知り合いなんですか?」
仕出し弁当から取り出された椎茸を黙って食べたやり取りは無言の会話に見えた
「雪斗は……」
「関係ない」
「暁彦っっ!!!!」
三人が同時に声を上げたが緑川が一番大きかった
「俺が俺の責任でやった仕事です、佐鳥は黙ってろ、もう一回言うぞ、"黙って"ろ」
頼むから自重して欲しい……
佐鳥と雪斗が親しいなんて知られたら、最悪二人で組んでやったクーデターか計画倒産でも画策しているのかと疑われかねない
会社を乗っ取った側と乗っ取られた側として喧嘩モードはもっと険悪にしてもらわないと今の二人はまるで痴話喧嘩中だ
まさか二人に肉体関係があるなんて疑う奴はいないが親しいと知られるだけでも困る
ひとしきり営業の報告をして営業の社長面接は終わったがハラハラし通しだった
雪斗は終わった途端席を立って会議室を出ていったが佐鳥は馬鹿みたいにその背中を目で追っていた
「松本、悪いけど会議室の片付けを頼んでいいか?」
何を言われるか戦々恐々とピリピリしていた野島部長は、現状の把握を言い渡されただけで、どうやら通常通りで行けそうだとわかってから機嫌を直しニコニコしていた
「新米は俺一人ですからね、言われなくてもやります、それより来年ちゃんと新入社員入れてくださいよ」
「会社がまたちゃんとあったらな」
「え?」
ドンッと背中を叩かれて胃の中の弁当が出て来そうになった、会社が無くなるなんて考えもしなかったが……言われてみれば今まで通り働ける保証は何も無い
「痛ったいな……強いんだよ………」
いつもなら皆巳が一人で片付けてしまうが、もう帰ったのか今日はいなかった
一応みんな端っこに集めてくれていたが緑川と佐鳥、雪斗は半分以上中身が残っている
「佐鳥さん………大丈夫かな………」
緑川の小さな案件を取り上げたのに営業部が抱える最大且つ孤高の赤字、浄水施設に一切触れなかった事に違和感を覚えていた
まさかとは思うが……
クビにする正当な理由を持っていないが旧経営陣に関係が深い佐鳥が邪魔なのは当たり前に思える
手っ取り早く赤字の全責任を被せ、追い出すつもりかもしれない
……そんな事して欲しくない
音羽社長に佐鳥が必要な人材だとわかって欲しい
心配と不安に居ても立っても居られず社長室の扉をノックした
「どうぞ……」
一拍置いて部屋の中から雪斗の声がした
何を言うつもりなのか整理する前に勢いだけで来てしまい、恐る恐るドアを開けると社長室には雪斗一人しかいない
ソファに深く身体を沈め、眠りかけていたのか、驚く程素の顔で膝に乗ったパソコンを隣に置き直した雪斗は…………こうして見てもやはり年下にしか見えない
「何ですか?」
「あの……佐鳥さんの事でお話があります」
佐鳥の名前を出すとやっぱり雪斗の顔が曇った
「話って…………痴漢でもされたか?」
「………………………は?」
「あの…今何て……」
「何でもない……佐鳥さんが何か?」
「あの………佐鳥さんはうちの会社に必要なんです、浄水施設の契約もこの前は取れませんでしたがあれは佐鳥さんのせいじゃない」
「………だから?」
「営業手腕も凄腕だし……会社にとっていてもらった方が得だと思うんです、よく働くし今出てる売上数字はここ数ヶ月だけで叩き出したものでホント凄いんです、あの………佐鳥さんが辞めてしまったら困るのは俺達で……」
「…………ふうん」
肺活量全部を使って、一気に喋り倒したが小さな相槌以外何も帰ってこない
前を見れず自分の靴先にしか聞こえていなかったのか心配になり、そっと顔を上げてドキンと心臓が跳ねた
想像していた表情と違う
皮肉に口を歪め、野島とやり合っていた顔とも違う
泣いていたように赤く充血した瞳が憧れのスターでも眺めるような視線でうっとりと見詰めていた
視線を外したいのに目が離せない
色白の滑らかな肌にやけに赤い唇が目立ち、襟元で緩めたネクタイの隙間から見える鎖骨の下……
違うと思うけど……考え過ぎだとか思うけど
キスマークが付いてるように見える
何と言えばいいのか…………妙に艶かしくて速度を上げた胸の振動はスーツを突き破って中身が出てきそうだった
言葉の続きを待っているのか、続く無言に窒息しそうになっているとやっと雪斗が奪い取っていた目線の自由を返してくれた
「わかった、それだけ?」
「え?!あ……は、はい、それだけです」
やっと出た声は我ながらひっくり返って共同不審……慌てて頭を下げ、逃げるように社長室を出た
ドアノブにかけた掌はジットリ汗に湿って、初めて痴漢を目論んだ愚か者のように濡れていた
迎えに行くと伝えると、気持ち悪いくらい素直に返事をして、マンションのエントランスで待っていた
「おはようございます、ちゃんと待ってるなんて関心ですね」
「渡辺………昨日は駅前のホテルに泊まったんだろ?この距離をタクシーで移動するなんて贅沢すんなよ、迎えになんか来なくていい」
「あなたが信用出来ればこんな事はしませんよ」
「俺はやる事はやっている」
「そんな事を言ってるんじゃありません」
雪斗が進むべき道を逸れたり見失う事は無いと十々わかっているが、振り回される方の身にもなって欲しい
連絡が取れず行方不明に慌てふためき、困り果てた頃に飄々と姿を表す、一言でいいから連絡を寄越せと何度も怒鳴りそうになった
雪斗のマンションから車で5分、確かに贅沢だが安心料としては安いものだった
会社のエレベーターから雪斗を連れて降りると、朝の用意にザワザワしていたフロアがシンと静まり険しい視線を一斉に浴びた
思った以上に砂鳥社長の信望は厚く、話をした数人の社員はみんな棘を隠さなかった
隣を歩く雪斗をチラリと目で追うと、どんな視線にも動じる事なく眉一つ動かさない
雪斗にとって昨日は長くて辛い一日だった筈、帰り際には精魂尽き果ていつも纏っている凛とした透明なオーラが消えていた
………今日はまた違う色をしている
10年一緒にいるがこの雪斗を見るのは初めてだった
何枚カードを持っているのかは未だにわからない
社長室に入るともう石川が来て仕事を始めていた、石川は頭の回転が早く気も利くが、どこか集中力が散漫なところがある、そのせいか勉強不足かわからなが今の所司法試験には合格出来てない
石川は依頼人に必要以上の感情移入しない冷静さを持ち合わせている、出来れば司法試験に合格しても渡辺事務所を支えて欲しいと思っていた
「早いな石川、社長のデスク俺が使っていいか?」
「その為に開けているんですよ、俺はこっちでいいんですが皆巳さんが困るなら小さい机を入れてもいいんですけど、どうしますか?」
「私は大丈夫です、元々秘書の机は飾りなのでお好きにお使いください」
「そうですか………」
最初から何の感情も見せず淡々と手伝う皆巳は渡辺と石川にとっても謎の人物だった
社長の個人秘書という微妙な立場上、使いにくいければ一般職に配置換えしてもいいと思ったが予想に反して良くやってくれる
「進捗は?」
「口で言うより見た方が早いでしょう、雪斗さんも目を通してください」
「石川!ここでは社長と呼べ」
ただでも見た目のハンデを背負っているのに身内で格下げしていてはどうしようもない、石川はペロッと舌を出し悪びれることも無く資料を差し出した
「別にいいよ、そんな取り繕ったって仕方ないだろ、今日明日で俺達を信用しろったって無理だろ」
「そうですけど……」
雪斗は渡辺の座った社長の机に腰を下ろしベタッと寝そべって渡辺のパソコンを覗いていた
その態度も何とかして欲しい、小言を言いたいが……チラリと皆巳の表情を伺うと気を利かしてくれたのかコーヒーをお持ちしますと社長室を出ていった
「今の所トラブルが無くて助かるな」
「そう言えば"社長"……あの女性はどうしたんです?」
「女性?………誰の事?」
「惚けないで下さい、胡蝶のホステスですよ」
「……ああ美菜子さん?」
雪斗はちょっと考えてから懐かしむように笑った
「ちゃんとお礼を渡しただろ」
「え?」
石川がパソコンから目を離し驚いた声をあげた
「別れたんですか?」
「別れたって……別に付き合ってない」
「あんなにラブラブだったのに?………勿体無い……」
石川はあわよくばこの週末にでも雪斗の彼女から色々綺麗な女性(できれば胡蝶原産)を紹介してもらおうと企んでいた
胡蝶へ足を運んだのは何も女性をナンパしに行った訳じゃない
TOWAの株を買い集める過程で最後の数%がどうしても市場に出てこなかった
今時安定した配当のある株を簡単に売り払ったりしない
総会で手に入れた株の保有者をあたって2%にも及ぶ大株主である事、会社保有で思い入れがない事を考慮して東條社長に狙いを付けた
胡蝶では東條社長がトイレに立ったタイミングに合わせ、渡辺と石川が組んで簡単な情報を耳に入れた
もうすぐTOWAの株が半値になると………
駄目元だったが東條は簡単に乗った
つまり美菜子は計画外の副産物でこの仕事に関わった事に乾杯する程感謝していた所だった
「あんな美人を………信じられない」
「石川……やめなさい、今そんな事………」
「そんな事って何ですか、渡辺さんだって……」
「社長!昨日のうちにこれを預かりました、目を通してください」
コホンっと意味の無い咳払いで取り繕った渡辺はバサリと数通の封書をばら撒いた
表書きには辞表と辞職願が混ざっている
「何人辞めるって?」
「部長格がほとんど………」
「ふうん」
渡辺は1ヶ月頑張った禁煙を止め煙草に火を着けた
何か灰皿になるもの……と周りを探しているとコーヒーを持って入って来た皆巳が灰皿を差し出した
因みに社長室の机と応接セットに禁煙と書かれた札が立っている
「全員"佐鳥"の親戚筋ですよ、あっちの会社に戻るそうです」
「業務に支障が出るのはある程度覚悟してるから別にいい、今日の昼前に社員の面接するからその時に話を聞いとく」
「いなければいないで勝手に回るもんです、それにしてもキッパリしてますね、そんな簡単なものかな……」
佐鳥社長が"佐鳥家"への婿養子であり、経営も資本も無関係だが亡くなった奥さんの実家側から大量の派遣や出向、コネ入社を請け負っている事は分かっていた
追い出される前に、と思ったのか経営が変わった事を伝えてすぐ、口裏を合わせたように退職を願い出た
「昨日罷免した取締役も全員佐鳥からの預かりものですよね」
「そうらしいな」
雪斗は興味無さそうに封書を見つめ中身を見る事なくゴミ箱のなかに全部放り込んだ
………朝?
今何時だ………
って言うか……ここはどこだ?
大きな窓から差し込む眩しい光に目を細め、覚えの無い豪勢な部屋を見回した、人の気配はなく無個性なモデルルームのように生活感を感じない
急に頭が覚醒してガバッと体を起こした
「ここは…………」
そうだ、雪斗のマンションだ
昨夜の記憶が途切れ途切れに繋がってサァっと血の気が引くのがわかった
殆ど強姦寸前だった
やめろと暴れる雪斗を押さえ込み体を押し付け無理矢理犯そうとした………
「嘘だろ……何してんだ……俺……」
部屋の中はシンと静まり返り雪斗の姿はない
夢でも妄想でもない、壁には擦り付けたような血の跡が残ってる、体の上にはさらっとした手触りの高そうなシルクのブランケットが掛けられていた
時間は……携帯を探して明かりを灯すと……
「9時?!!」
………既に遅刻している
「やっば………」
慌てて手近な扉を開けると……クローゼット、隣の扉は……住めそうなトイレ
「無駄に広いな………」
やっと見つけたバスルームに飛び込むと大きな鏡に写った自分の姿を見てドキンと心臓が跳ねた
シャツが真っ赤に染まり血が変色してカペカペになっている
鏡を覗き込むと下唇が切れて血が固まり、口を開けるとパリッと傷口が開いてしまいそうだった
「結構切れてるな……」
切り傷の周りは血豆も出来ている、外から目立つが今の問題はそこじゃない
シャツの血は簡単に洗って落ちる限度を超えている、つまり使用不能……
雪斗の服が着れるとは思えないがTシャツなら入るかもしれない、ジャケット着て会社まで行けば緑川がトラブルに備えてシャツとネクタイを常備している筈だ
何よりも時間が惜しい、シャワーを借りてバスルームから出るとリビングテーブルの上に綺麗に折り畳まれた白いシャツが置いてあった
広げて見るとどうやらサイズは合いそうだが雪斗のシャツにしては大きい、勝手に借りていいものが迷ったが仕方がない
会社まで全速で走っておよそ5分、身だしなみを整え部屋を飛び出た
朝からエレベーターが動く度に横開きの金属扉を見つめていた
何度電話しても繋らない、イライラと待ち続け待望(?)の佐鳥が吐き出された時に思わず大声を出していた
「暁彦!お前何やってんだ!遅れるなら連絡くらいしろよ!何回電話したと思ってんだ!」
「ごめん緑川……ただの寝坊なんだ」
「何だ……お前……帰ってないのか?」
佐鳥には几帳面な所がある、4本のネクタイをきっちり順に回し曜日が決まった取引先への訪問に重ならないよう気を使ってる
佐鳥の服装まで熟知している自分も怖いが少なくとも2日続けて同じネクタイをしてくる事はない、シャツも首周りが大きく恐らく佐鳥の持ち物じゃない
「うん……まあな………」
「唇……どうしたんだ、血豆が出来てるぞ」
「酔って転んだんだよ」
「どおりで酒臭いです」
松本がパタパタと手で仰ぐ振りをして鼻を摘まんだ
営業は全員外出を控え電話対応に追われていた、決済をする人物が引き継ぎもせず挨拶すら無いまま消えてしまい、社内の混乱に拍車をかけていた
全員が不安に顔を曇らせアタフタと浮足立っている
社長から説明を一任されたが、雪斗が社員に伝えた事以上話す事は何もない、雪斗と社長の間でかわされた無言に近い会話はもしかしてたら佐鳥にも関係がある因縁かもしれず、漏らす訳にはいかない
ただでも……知られてはいけない、絶対誰にも言えない雪斗との特別な因縁を自ら作ってる
「雪斗は?来てる?」
「…………佐鳥……新しい"社長"!な……」
「俺……ちょっと行ってくるわ」
佐鳥が言外の意味を汲んでくれたかどうかは………希望的な観測値を足しても10%………
だが昨日のように精気のない目をしていない
「どうする気なんですか?まさか辞めないですよね?」
「やめろよ……松本……」
心配そうな声を出した松本の頭に木下がコンっと拳を下ろした
佐鳥にとっては家族の問題でもある、父親は会社を追い出され佐鳥自身も約束された未来を取り上げられた
実際の話佐鳥に辞められると困る事が山程あるが後は佐鳥自信が決めることだ
「……自重しろよ……」
「さっぱりしてくる」
「………社長…画面が見えません……」
ペタンと頬を置いてデスクに寝転んだ雪斗がパソコンに並んだ数字をじっと目で追っていた、自分が見やすいようにモニターを勝手に傾け液晶が見えにくい
こんな風にちょっと甘える事は稀だが、知らん顔をしているといつの間にか寄ってくる、構うと嫌そうに離れていく………雪斗は何かと邪魔をしてくる無愛想な猫みたいだなと、時々思う
「………見たいならプリントアウトしますから机に寝るのはやめてください」
「紙の無駄だ」
「邪魔です、それに社員に見られると益々子供だと馬鹿にされますよ」
「子供じゃない、俺はもうすぐ30に……」
「サバを読まないでください、後5年程かかるでしょう」
「え?………」
早くも空気になりきっている皆巳は雪斗の歳を聞いてやはり驚いたのか、珍しく無表情を崩し片眉をピクンと釣り上げた
「ビックリしました?」
石川が面白そうに尋ねると、いっさい雑談には応じていなかった皆巳がもうちょっとで口を開いてくれそうだったのに、答える前にコンコンっとドアをノックする音がした
「あ……もう~…………どうぞ」
あっと思ったが止めるのが遅れた
ドアに近い席に座った石川に先に返事をされてしまい、雪斗に注意する前にドアが開いた
部屋に入って来たのは…………処遇に悩む社長の息子だった
「失礼します」
「……何だよ」
ムクッと身体を起こした雪斗が出した低い声音にギクリとした
雪斗がどこまで出来るか、そこは未知のままでここまで来たがほぼ完璧にやり遂げていた
対等な立場でもぎ取った権限を行使しただけだが、佐鳥の息子には道義的に責めたり恨まれたりしても仕方がないと思っていた
どう扱うか……悩んでいた取り扱いに注意が必要な相手に突然やさぐれた返事をした雪斗に石川も驚いて顔を上げた
「いや、あの……昨日は……」
「早く言え、俺は忙しいんだ」
机に座ったまま、ドンッとわざとらしい音を立てて背中に手を付き、大袈裟に足を組んだ雪斗は渡辺が手に持っていた吸いかけの煙草を指の間から抜き取り口に持っていった
雪斗が煙草を吸う所を見た事はあるが普段は常用していない、計算済みの行動ならいいが、どうやら違う………眉の間に深い皺を刻み、口に咥えた煙草を深く吸い込んで、当てつけるようにポカッと白い煙を吐き出した
「社長……やめなさい」
「渡辺は黙ってろ」
「でも……」
あんまり"個性"を暴露して欲しくない、慣れた仕草で指に挟んだ煙草をピンっと弾き………床に落ちた灰を目で追った砂鳥の眉がピクリと釣り上がった
「雪斗………お前何してんだ……」
「お前は俺の事なんて何にも知らない、何にもわかってない」
「そんな事はない……」
「そうなんだよ!!退職願を書いてさっさと辞めろ!」
「そんな事はないっ!!」
ヅカヅカと部屋を横断して雪斗に掴み掛かった佐鳥に渡辺も石川も驚いて腰を上げた
緑川さん…そんな所で盗み聞きですか?」
水谷に声をかけられ口に指を当てた、盗み聞きには違いない
木下が言った通り佐鳥の去就は佐鳥自信が決める事、止めたいが口出しはしないつもりだった
それでも気になって社長室のドアに張り付いていると突然中から怒号が湧いた
冷静だとは思ってなかったがまさか中に入っていきなり怒鳴り出すなんてさすがに予想してない
「暁彦?!!」
社長室に飛び込んであ然とした、佐鳥と雪斗がオロオロしている渡辺の前で取っ組み合いをしている
「暁彦!!何して……こら!やめろ!」
雪斗と元からの知り合いだと悟られるな……ともっとはっきり言っておくべきだった
どっちしろ佐鳥は周りが吹っ飛び、雪斗も雪斗で昨日までのクールさはどこにもない、取り合ってるのは手?………違う……火のついた煙草?何でもいいが佐鳥の立場で雪斗に手を挙げるなんてとんでも無い
「暁彦!…っっ!」
胸に肘鉄を食らって息が止まった
「普段そんなもの吸ってないだろ!やめろよ!」
「お前が知らないだけだ!離せよ馬鹿!!」
「知ってるよ!!」
「やめろ!!……馬鹿!やめろよ!暁彦っ!!」
「馬鹿馬鹿言うな!」
もう誰に何を言われているかさえわかってない
「いい加減に……しろ!」
解雇の理由にされてしまうかもしれない
とばっちり覚悟で飛び付いて抑え込むと、同時に渡辺も雪斗の腕を掴み、机の上で揉み合う二人を引き剥がすと佐鳥はバッと腕を振り払い、まだ煙が出ている煙草をぐちゃっと握り潰して床に捨てた
「何すんだよ!」
「わざとらしい事すんな!」
「わざとだよ!!全部な!チンピラ刺したのもお前があんまり能天気で馬鹿だから本当の俺を見せてやっただけだ」
「石川!」
傍目には子供の喧嘩だがとてもじゃないが社員に聞かせられる内容じゃない、開いたままになっていた扉を閉めろと腕を振ると皆巳がさっと動いて密封してくれた
雪斗と佐鳥は肩で息をしながらハァハァ言ってる
「何が"本当の俺"だ、滅茶苦茶酔ってた癖に偉そうに言うな!」
「酔って……たけどそれが何だ、お前と俺では生きる場所が違う」
「あの居酒屋でした俺の話を覚えてるか?」
「ああ!忘れるもんか!馬鹿みたいに経費使って一銭も回収してない赤字事業だからな!その話は後できっちり聞かしてもらう覚悟しとけ!」
「じゃあ言わなくてもわかるだろ!俺は浄水売るまで辞めたくてもやめれない、それだけ言いに来ただけだ」
言ってる事はかっこいいがやってる事はただの暴行に近い
佐鳥は本当にそれだけ言って社長室をドカドカ出ていった
「あいつ……手に火傷してるんじゃないかな……」
「小さな火傷くらいどうってことない、それよりも緑川さん……」
トーンの変わった雪斗の声にハッと身を締めた
馬鹿らしい喧嘩に気を取られている場合じゃない、雪斗を舐めてかかるとどんな弱味(主に佐鳥関係)を武器にされるかわからない
「…何ですか?」
「どうして今頃会社にいるんですか?」
どうしてと言われても当然だろう、発注書は停滞、配送の手配も出来て無い、朝出勤してから初めて社内の混乱知った社員もいる
足元が不安定なまま、馬鹿正直に仕事をしていつの間にか席がないなんて道化になる気は無かった
「今日の予定はキャンセルして社内の調整に回ってます」
「通常通りとお伝えたしたはずです」
「佐鳥の件がハッキリしたし言われなくてもこれから出ます」
「ならさっさと行ってください、私があなた達に求めている事はそう難しくはない筈です」
「………わかりました、それでは失礼します」
雪斗に正しい事を正しく言われるのは無性に悔しい
煙草の火を消すには多すぎる………皆巳が何故水の入ったバケツを持っているのかが物凄く気になったが、立ち上がった姿勢のまま呆然としている渡辺と石川に頭を下げてさっさと社長室を後にした
「………雪斗………何をムキになってる」
緑川が出て行くと渡辺はふうっと息を付き雪斗が暴れたせいで曲がったモニターの向きを直した
「別にムキになってない」
「佐鳥の息子と何かあったんですか?」
最初からずっと"佐鳥"関係の人間は全員追い出すように勧めたが雪斗は経営陣以外の社員人事に手を付ける事は許さない
大方は勝手に辞めてくれたが一番厄介な息子に期待していた退職願は出てこなかった
「何でそんな事を聞く、お前に関係ないだろう」
「後で障害になっても困るでしょう」
「………何もない………何回か泊めてもらっただけだ」
ピクッと渡辺の眉が動いた
「泊まった?」
「ああ」
言葉を継ぎかけたが石川と皆巳がいたので止めた
男にモテる……という言い方は上品すぎるだろう
狙われると言った方がしっくり来る
雪斗にはそのトラブルが常に付き纏っていた
最初に訪ねた悪徳弁護士を筆頭に、一度は公園のベンチで眠っていた所を酔っ払いオヤジに吸い付かれ小さなカッターで太股を刺した
その時は少年への淫行を盾に取り、たっぷり脅して黙らせたが、拉致されるようにホテルに連れ込まれ危うい所で助け出した事もある
華奢で透明な容姿を持つ雪斗はその筋の男には格好の餌に見えるのだろうが…………本当に心配なのはそこじゃない
雪斗のやらかす派手なしっぺ返しは雪斗自身の将来まで潰しかねない
顧問と言っても最初の五年は雪斗のトラブル処理にばかり走り回っていた
「あんまり特定の一社員に乱暴な言葉使いをしない方がいいですよ」
「わかってるよ…もうそろそろ俺も遊んでいられない、変な心配するな…」
雪斗がフロアに現れると部長格が消え去っててんやわんやになっていた社員が一斉に手を止めざわっと波打った
改めて雪斗を見るととても企業を乗っとり経営を掠め取ってしまうような人物には見えない
「この中でパソコンとネットワーク関係に一番詳しいと思える人、会議室まで来てもらえませんか?」
「うちのパソコンは関係はリース会社に全部任せてるんです、詳しいと言っても………」
庶務の塚下がそう言いながらも事業部の机をチラリと見た
数人集まれば専門的な事は分からずとも必ずトラブルが起きた時に声がかかる人物がいる
塚下の視線を追った雪斗は小さく頷いただけで何も言わずに会議室に入っていった
事業部の江川は数人から背中を押し出され嫌々席を立った、普段なら断るが「社長」に特定された以上仕方がない
詳しいとは言っても趣味の範囲でしかない、スマホの使い方やパソコンの簡単な設定など時々小さなトラブルに手を貸していただけで別に大した知識がある訳じゃない
経営が変わったと聞いたが元の社長とも殆ど話した事もなく、その息子、営業の佐鳥とも挨拶くらいしかしない
クビになったりしないなら関係ないと思っていた
毎日5時になるのを心待ちにするだけで、仕事は地味な事務をこなすだけ………
背が高くてイケメン……しかも次期社長の佐鳥が緑川と一緒にいるとキラキラしすぎて世界が違う、名前すら知らないんじゃないと疑っているが見るからに華やかな営業部とは無縁だと割り切っていた
座れと言われて座っているが雪斗は何も言わずパタパタとパソコンを触っている
何を聞かれるのか………パソコンの事もネットワークの事もわかるのは簡単な設定くらいでリース契約の中身も知らない
準備出来る事は何も無く、目の前に座る「新しい社長」を眺めていた
昨日はいつもの通り5時きっかりに席を立ち、何があったか聞いたのは朝出社してからだった、音羽社長は若い若いと連呼されていたがこうして見ると予想以上に若い、もっとはっきり言えば高校生みたい……
どうやら金を持っていたか何か目的があるのか、この新社長は思惑がある大人に担ぎ上げられただけに見えた
「江川さん」
名乗った覚えはないのに名前を呼ばれて角のへしゃげたノートパソコンが目の前に押し出された
画面はポピュラーな検索サイトだ
「?……これが何か?」
「このパソコンは私の私物です」
私……と来た……まるで配役のミスでセリフが浮いたドラマみたいだった
「はい…………それが?…………」
「言っている意味がわかりませんか?」
そんな勿体ぶる前にさっさと要点を言ってくれれば早く済むのに、じっと目を見つめら逃げられない無言の問い掛けは、能力や適正を確かめられているとしても検索窓に文字は打ち込まれておらずヒントは何もない
居心地が悪くてもぞもぞと尻を置き直した
ここにある物はノートパソコンだけ、角が凹んでいるなと最初に思ったが、よく見るとあちこち傷だらけで結構ボロボロだが機種は最新、今時10万切る物も多い中30万を越える上位機種だ
「………あ………」
呼ばれた理由が突然わかった
「…………Wi-Fi?」
「そうです、私はパスワードを聞いてませんが今のこの時間で簡単に繋げる事が出来ました」
「え?……」
「あまりにも雑で腋が甘い、何ですかTOWA123って、誰でも一番最初に入力してみるパスワードです、デフォルトのままにしておいた方が余程安全だ」
「はあ……」
それはそうだが誰がそんな真似をする……次々と携帯を変える女子社員に入力が面倒だと言われ江川自身がパスワードを変えた、しかも予定表のホワイトボードに書いている
「ですが俺は別に担当じゃないし……そんな事を言われても……」
「担当してください」
「え?でも専門的な事はわかりません」
「江川さんは指示を出すだけでけでいい、セキュリティ会社をあなたが選んで管理してください、詳細は任せます」
「俺が?」
「はい」
「取り敢えずWi-Fiのパスワードを変えてください、サーバーはセキュリティの会社と相談してもっと工夫が必要です」
「サーバー?」
雪斗は突然乗り込んで来て経営を奪った
株式を買い占めるという一番単純な方法だが、闇雲に何億費やしても様々な情報無しでは無駄に終わる確率の方が高い
特にTOWAは親族経営の個人商店に近く、市場に出ている株を買い集めても経営陣が残りを握っていれば望みは無い
「まさか………」
言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ
サーバーに侵入するなんて海外ドラマのような真似が本当に出来るものなのか
じっと目を捉えて外れない視線が………
そうだよ…………と言ってる
「わかりました……俺…私に出来る範囲で良ければやります」
「今手持ちの仕事は暫くの間誰かに引き継いでください、落ち着いたら共有出来るでしょう」
ニコリと笑った顔からは目の中に浮かんでいた謀略ありげな油断出来ない光はもう消えてなくなってる
脇の下に冷たい汗が吹き出てきた
世の中の勝ち組は多分みんなこんな奴、見た目にそぐわぬ不気味な相手に背筋が寒くなった
「塚下さん、音羽社長が会議室に来いって呼んでます」
「え?どうして私が?」
「さぁ……俺が出る時に言われました、待ってるから速く行った方がいいですよ」
油断するな……と言ってやりたいがあの見た目ではそれぞれが感じるまで口で言っても無理だろう、正体不明の小僧は塚下の名前も、一番の古参だとも知っていた
……昨日の今日で……
「ねえ、何を聞かれたの?あの人経営なんて出来るのかな?」
忙しいのに、とぶつぶつ言いながら会議室に入っていく塚下を見送り、席に戻ろうとすると、いつもなら空気のように無視する水谷がゴシップと勘違いしているのかニヤニヤしながら寄ってきた
「音羽社長を舐めない方がいいと思いますよ」
「え?どういう意味?」
「そのうちわかりますよ、俺はちょっと忙しいんです、聞きたい事があるなら直接社長に聞いてください」
構うのが面倒くさい
オフィス ネットワーク セキュリティ
思いつくキーワードを打ち込むと続々と様々な会社が軒を連ねた、セキュリティソフトでは甘いと言われたも同じ、しかし例え非常に厳重でもコストが高過ぎてはTOWAにそぐわない
水谷がごちゃごちゃ言っている声が遠い
「結構大変だな……指示だけしろったって勉強しなきゃ言いなりになる………」
責任者として何かを任されるのは初めてだった
TOWAでの仕事にはスピードが必要だった
ひっくり返される心配は殆ど無いが、気が付いてない盲点に食い付かれ逆襲される可能性はゼロでは無い
一週間は掛り切りになりたかったが正木法律事務所からの仕事も無視は出来ない為、石川と一緒に一旦TOWAを離れ夕方に戻って来ると雪斗がソファに座ってグッタリしていた
「遅くなってすいません、夕飯は?どうせ食べてないですよね、どうします?食べに行きますか
「俺は自分で何か買ってくる、渡辺は好きにしろ」
「駄目です」
雪斗の言う「何か」はどうせメロンパン辺りの可能性が高い、食べさせればそれなりの量を食べるが、普段から食事を疎かにする事が多く、いつまでも少年のように見えるのは管理し切れてなかった自分のせいであるような気がしていた
「ちゃんとした物を食べてもらいますからね、もう出れますか?」
「何でもいいんだよ……飯なんて……それにまだやる事があるから行かない」
「まだ一日目ですよ、そんなに焦らないでゆっくりやったらどうなんですか」
雪斗は社内を把握する為に各部署の要所々と面接して丸一日話を聞くことに費やしていた
弁護士の資格を駆使して必要な情報はかき集めたが雪斗には独自の視点がある
例えばTOWAに巣食っていた佐鳥の縁戚社員をどうやって知ったか……、苗字も違い社員名簿ではわからない事を最初から掴んでいた
もし違法な手段を使って手に入れていたらと思うと聞けないし、どうせ聞いても答えない
法律的な手続きは全面的に任せてくれるがそれ以外は全部一人でやってしまう
止めても無駄だとわかっていた
「後どれくらい残っているんですか?」
「営業部………5時を目安に帰って来いって伝えたけどまだ全然揃ってない」
「営業は全員から話しを聞くんですか?もう七時を過ぎてます、明日に延せばいいでしょう」
「同じだろ………あいつらは個別に動いてるから一人に話を聞いても意味ないしな」
ふうっと疲れた息を吐きソファの上に膝を抱え上げた雪斗の頭がトンッと肩に乗った
「気を張り過ぎなんじゃないですか?そんな疲れた顔をして……この先どうするんですか」
「俺は働いた事が無いんだからあたりまえだろ」
雪斗がこうして側に寄ってくるのは珍しかった
ちょっとでも動けばたちまち離れてしまうのはわかっていたが、鬱陶しそうに掻き上げた前髪の隙間から額に出来た真新しい傷が見え思わず手を伸ばした
届く前にパッと手を払われたのは予想通り、いたずらが見つかった子供のようにソファから立ち上がり背中を向けてもうこっちを見ない
「それ……どうしたんです」
雪斗の怪我イコールトラブルだ
大概他人が関わっている
「打っただけだ…」
「打ったのは見たらわかります」
「何でもない、すぐに消えるよ」
怪我の具合を聞きたいんじゃない、無意識なのか雪斗が手を当てた首もよく見れば赤くなっている
元々無口で必要な事意外話そうとしないがここ最近益々口をきかなくなって何を考えているかわからない
精神的に追い込まれているようで危うく、もっと頼って欲しいが決して"中"には立ち入れない
「これ以上待っても無駄だな……さっさと終わらしてくる」
「程々にお願いします」
「わかってるよ、あいつら次第だけどな」
……10年経ってもそれは変わらない
雪斗は分厚い営業報告書を手に取り、話題から逃げるように部屋を出ていってしまった
営業部長の野島は胸のポケットに入った煙草の箱をチラリと覗いて小さく舌打ちをした
仕事をしながらフロアで吸えた昔が懐かしい
ビル全体が禁煙になって久しく、今は駐車場の入口に有志で据えた私設の灰皿まで行くしか手はない
吸いたいのを我慢して2時間……灰皿まで行きたいのは山々だが昨日突然乗り込んできた若造に営業は全員会議室に呼ばれていて席を外せない
5時を目処にと言われたが営業は相手もある、遅れるのは想定済みだが七時になってもまだ揃っていなかった
「あのクソガキ……」
心の声がうっかり声に出た………5時きっちりに帰っていた緑川がパソコンからチラリと顔を上げ、聞かれたのかと思ったら違った
「野島部長……もうそろそろいいですか?」
後ろから突然声がしてギクリと振り返るといつの間にか雪斗が隣に立っていた
見た目もか細いくせに気配を消されるとまるで目に入らない…………
「まだ帰ってない奴もいますがそれでいいですか?」
「構いません……追々帰って来るでしょう」
「わかりました」
営業は全員タイミングを読むのが上手い、声をかけるより前にパラパラと立ち上がった
「さて……何をお聞きになりたいんですか?」
営業部のメンバーはまだ帰ってない佐鳥、松本、柳川を除く野島と深川、緑川、木下、後は決まった取引先を往復するだけの出世を諦めた中年営業保阪、井上の五人だった
営業課長の江藤は、佐鳥家懇意のコネ入社だった為か優遇の見込みが無くなったTOWAに見切りをつけ、部下に挨拶もせずさっさと辞めてもういない
実は野島も佐鳥の紹介で入社したが、もし社内で不遇な目に合ってもそれはそれでその時に考えればいい、仕事も責任も途中で投げ捨てるなんて真似は出来なかった
椅子に座った雪斗は面接に来た学生のように生っ白い顔をしているが緊張する気配すら見せずふてぶてしい
「何の話をしたいですか?」
「?……どういう事です」
「言いたいことがあるでしょう」
どういうつもりなのか………他の部所は業務内容や不満を聞かれただけだと言っていたが話が違う
「聞きたいことなら山程ありますがね、聞いてもいいんですか?」
「どうぞ」
野島がチラリと緑川の顔を伺うとこくんと頷いた
一番の疑問点は明白、朝からずっと二人でその事を話し合っていた
「……資金はどこから?」
「……直球ですね」
「聞け、と社長が仰ったんです」
「お小遣いを貯めました」
質問を予想していたのか雪斗は笑いも怒りもせずサラッと目を見て答えた
「真面目に答える気がないんなら質問を受けないでください」
「真面目に答えてますが?」
「何だと?」
緑川から雪斗の話は聞いていた
家にも帰らずずっと外でうろうろしていた事や、どうやらTOWAの様子を伺っていたらしい事も
株価を考えても必要だった資金は10億を軽く越える筈………頑張って揃えられる額ではない上、個人的にTOWAを狙っても得られるメリットが見えてこない
裏に誰かいる
野島と緑川二人の結論だった
「ふざけるなら……」
「では言い方を変えましょう、はっきりお聞ききします、誰の差金ですか?」
まんまと雪斗の煽りに乗りそうになった野島に代わり緑川が口を挟んだ
元々野島部長は営業から叩き上がった佐鳥社長が直属の上司だったと聞いている、普段から尊敬と畏怖を隠しておらず今回の事にはかなり動揺していた
冷静さを失えば絶対勝てない
佐鳥は何らかの方法で利用された
本当は色仕掛けだがそこは勿論野島には言ってない
もしかしたら雪斗自身も利用されている可能性だってある
フッと雪斗が頬を緩め下を向いて笑った
「本当にはっきりしてますね、私には正直に答える義務はありませんが言ってる事は嘘じゃない、全部自己資金です」
「そうですか……では何でTOWAなんですか?」
「……それは……」
一瞬……ほんの一瞬だが雪斗の目が揺らいだ、薄ら笑いを忘れ真顔になった雪斗が口を開きかけた時…………
ガチャリとタイミング悪く会議室の扉が開きドヤドヤと佐鳥と松本が部屋に入ってきた
抱えているダンボール箱の表面に玉ねぎと書いてあるが食べ物の匂いがぷんぷんしている
「遅れてすいません……」
「何だそれは?」
「仕出し弁当です、渡辺さんから持って行くように言われました」
「………佐鳥…………」
間が悪すぎる……
和ませ上手(?)な佐鳥らしいが最悪のタイミング、せっかく雪斗が隙を見せたのに張り詰めた緊張の糸が一気に緩んで霧散してしまった
「食べながらでいいだろうって言われました、配りますね」
「有り難いが……」
野島部長も同じ事を考えていたのだろう、口の中で小さく馬鹿、と呟いた
会議室には予定人数の椅子しか出てない、気持ちは分かるがみんな距離を置いて雪斗がいる上座から離れて座り、開いた席は雪斗の前しか無かった
松本と二人で弁当を配り終え、席に着こうと椅子を引くと雪斗がギロッと横目で睨んだ
………当たり前だがまだ怒ってる
「佐鳥、これは誰の支払いになってる」
「え?……さあ……そこまで聞いてません」
「そんなつまらない事が気になるようでしたら後で明細をお持ちしますよ、経費で落とすなり野島部長が支払うなりしてください」
「音羽さんの世話になってなきゃ何でもいい」
「では勝手に用意した渡辺につけとけばいいと?」
「違……」
「部長………脳味噌の糖分が足りてません、取り敢えず食べて下さい、あなたが食べないとみんな手を付けにくいでしょう」
急に会話の質が落ちた会議室の中で、食べにくいと言いつつさっさと箸を割り既に食べ始めていた深川が腰が浮きかけた野島の前に弁当を押し出した
佐鳥にとって野島部長は父親にくっついて古い屋敷に生え茂る庭木の剪定を手伝ったりするただの物好きなおじさんだった、小さい頃は父親を真似て「野島」と呼び捨てにしたり好き放題だったが、大人になってみるとその頃の野島はおそらく今の自分の歳とそう変わらない
営業職の理念や向き合い方が父親と似てはいるがたまに直情的な所が真反対、ムスッと口を結びやっと弁当に手を付けた野島は昔のままだった
野島を片付けたら今度は雪斗………渡辺に絶対食べさせてくれと頼まれていた
手を付けようとしない弁当の蓋を勝手に開けて割り箸を置いた
「食べてくださいね」
フィッとわざとらしく横を向いたがペットボトルのお茶を弁当の隣に置くとチラッと見た目が弁当に吸い寄せられ一点を凝視した
蓋の開いた弁当の中身をよく見ると高野豆腐にでっかい椎茸が張り付いている
キノコの中でも椎茸はとりわけ香りが強い
黙って弁当の蓋を差し出すと爆発物を取り扱うようにちまっと椎茸の端を摘み投げ入れた
何をやってる…………
誰かに見られていないかハラハラして息をするのを忘れていた
一部始終を見ていた緑川は箸で摘んでいた卵焼きが机に転がった事に気付いて慌てて拾った
いつ何時でも佐鳥に振り回され、とうとう社内にまで侵食してきた、弁当なんか喉を通らず箸を置いてお茶を飲み干した
「食べながらでいいですから聞いてください、時間も押しています、柳川さんがまだ帰ってきませんが本題に入っていいですか?」
「さっきの続きですか?」
「本題です、あの話はもう終わりました」
こめかみに青筋を立てた野島がニッと笑うと雪斗もニヤリと応酬した、言外の乱闘は続いていたがこれ以上話しても前に進まないとお互いわかっている
「本題ね………お聞きしましょう」
「とりあえず営業報告書を読ませて頂きましたが今の状況を把握している方はいらっしゃいますか?」
「うちの売上に問題ないでしょう?営業は着実に業績を伸ばしています、前年比からもアップしてる」
最近佐鳥に抜かれはしたが安定した売上を誇る深川が文句をつけられる覚えはないと口一杯に白飯を含んでモゴモゴと反論した
「うちは資金力が安定しているからあんたらが掻き混ぜるくらいじゃそう揺るぎません」
「資金力が安定していたのは株価に会社の実態にそぐわぬ高値がついていたからです」
「どういう意味ですか?」
「意味なんかどうでもいい、株価の急落が予想される上に纏まった退職金の出費で呑気に弁当を食べている場合じゃない」
「それはあんたのせいでしょう」
深川も遠慮ない、普通なら野島が注意しそうなものだが、言いたい事を躊躇なく代弁してくれる深川を応援するように満足そうにニンマリしてる
「そうですね、倒産しても構わないなら私にはどうでもいい」
「どうでもいいって事はないでしょう、今倒産したらあんただって破産だ」
ニッコリ笑顔で返事をした雪斗は本当にどうでもいいと思っているのかフンッと鼻を鳴らし営業報告書に目を戻した
これは浄水施設の事を突っ込まれる……
木下は言い訳が出来ない失敗を槍玉にあげられるだろうと覚悟していた
保阪と井上は緑川の三分の一にも満たない売り上げ数字では出る幕もない、縮こまってなるべく雪斗の目に止まらないようにしていた
「緑川さん、ちょっとお聞きしたいんですが、あなたらしくないこの変な発注はなんですか?」
雪斗がピラピラさせているプリントは2ヶ月以上前、佐鳥から引き継いだ塗料の少量単発発注だった、開発費が上乗せされ収支が2000円を切っている
「別に赤字じゃない」
「責めているんじゃないんです、私には何もわからないので異彩に見えたこの取引の事が聞きたいだけです」
「それは緑川じゃなくて俺が受けた仕事です」
佐鳥が口を開くと雪斗は途端口を噤んでプリントアウトを書類の束に戻してしまった
「…………次に行きます」
「無視すんなよ、これは会社の営業会議でお前は社長だろう」
突然佐鳥が同僚にでも話すような軽い口調に変え、全員ギョッとした、深川は特別なのだ、上手く相手の懐に飛び込みラフな話し方を武器にする、佐鳥にそこまでの技術は無いし今の社内で一番不安定な立場と言える
「佐鳥さん……マズいです」
前のめりになった佐鳥を松本が抑えた
「無視じゃない、聞きたい事がもう無いだけです」
「無視しただろ」
「………余計な口を出すからです」
「余計じゃない、緑川は俺の仕事を引き継いだだけだ、責めるんなら俺を責めろよ」
「責めてない、それならそれでいいです」
「あの……」
「何だよ」
「何ですか」
雪斗と佐鳥の声が揃い松本が目を丸くした
「お二人は知り合いなんですか?」
仕出し弁当から取り出された椎茸を黙って食べたやり取りは無言の会話に見えた
「雪斗は……」
「関係ない」
「暁彦っっ!!!!」
三人が同時に声を上げたが緑川が一番大きかった
「俺が俺の責任でやった仕事です、佐鳥は黙ってろ、もう一回言うぞ、"黙って"ろ」
頼むから自重して欲しい……
佐鳥と雪斗が親しいなんて知られたら、最悪二人で組んでやったクーデターか計画倒産でも画策しているのかと疑われかねない
会社を乗っ取った側と乗っ取られた側として喧嘩モードはもっと険悪にしてもらわないと今の二人はまるで痴話喧嘩中だ
まさか二人に肉体関係があるなんて疑う奴はいないが親しいと知られるだけでも困る
ひとしきり営業の報告をして営業の社長面接は終わったがハラハラし通しだった
雪斗は終わった途端席を立って会議室を出ていったが佐鳥は馬鹿みたいにその背中を目で追っていた
「松本、悪いけど会議室の片付けを頼んでいいか?」
何を言われるか戦々恐々とピリピリしていた野島部長は、現状の把握を言い渡されただけで、どうやら通常通りで行けそうだとわかってから機嫌を直しニコニコしていた
「新米は俺一人ですからね、言われなくてもやります、それより来年ちゃんと新入社員入れてくださいよ」
「会社がまたちゃんとあったらな」
「え?」
ドンッと背中を叩かれて胃の中の弁当が出て来そうになった、会社が無くなるなんて考えもしなかったが……言われてみれば今まで通り働ける保証は何も無い
「痛ったいな……強いんだよ………」
いつもなら皆巳が一人で片付けてしまうが、もう帰ったのか今日はいなかった
一応みんな端っこに集めてくれていたが緑川と佐鳥、雪斗は半分以上中身が残っている
「佐鳥さん………大丈夫かな………」
緑川の小さな案件を取り上げたのに営業部が抱える最大且つ孤高の赤字、浄水施設に一切触れなかった事に違和感を覚えていた
まさかとは思うが……
クビにする正当な理由を持っていないが旧経営陣に関係が深い佐鳥が邪魔なのは当たり前に思える
手っ取り早く赤字の全責任を被せ、追い出すつもりかもしれない
……そんな事して欲しくない
音羽社長に佐鳥が必要な人材だとわかって欲しい
心配と不安に居ても立っても居られず社長室の扉をノックした
「どうぞ……」
一拍置いて部屋の中から雪斗の声がした
何を言うつもりなのか整理する前に勢いだけで来てしまい、恐る恐るドアを開けると社長室には雪斗一人しかいない
ソファに深く身体を沈め、眠りかけていたのか、驚く程素の顔で膝に乗ったパソコンを隣に置き直した雪斗は…………こうして見てもやはり年下にしか見えない
「何ですか?」
「あの……佐鳥さんの事でお話があります」
佐鳥の名前を出すとやっぱり雪斗の顔が曇った
「話って…………痴漢でもされたか?」
「………………………は?」
「あの…今何て……」
「何でもない……佐鳥さんが何か?」
「あの………佐鳥さんはうちの会社に必要なんです、浄水施設の契約もこの前は取れませんでしたがあれは佐鳥さんのせいじゃない」
「………だから?」
「営業手腕も凄腕だし……会社にとっていてもらった方が得だと思うんです、よく働くし今出てる売上数字はここ数ヶ月だけで叩き出したものでホント凄いんです、あの………佐鳥さんが辞めてしまったら困るのは俺達で……」
「…………ふうん」
肺活量全部を使って、一気に喋り倒したが小さな相槌以外何も帰ってこない
前を見れず自分の靴先にしか聞こえていなかったのか心配になり、そっと顔を上げてドキンと心臓が跳ねた
想像していた表情と違う
皮肉に口を歪め、野島とやり合っていた顔とも違う
泣いていたように赤く充血した瞳が憧れのスターでも眺めるような視線でうっとりと見詰めていた
視線を外したいのに目が離せない
色白の滑らかな肌にやけに赤い唇が目立ち、襟元で緩めたネクタイの隙間から見える鎖骨の下……
違うと思うけど……考え過ぎだとか思うけど
キスマークが付いてるように見える
何と言えばいいのか…………妙に艶かしくて速度を上げた胸の振動はスーツを突き破って中身が出てきそうだった
言葉の続きを待っているのか、続く無言に窒息しそうになっているとやっと雪斗が奪い取っていた目線の自由を返してくれた
「わかった、それだけ?」
「え?!あ……は、はい、それだけです」
やっと出た声は我ながらひっくり返って共同不審……慌てて頭を下げ、逃げるように社長室を出た
ドアノブにかけた掌はジットリ汗に湿って、初めて痴漢を目論んだ愚か者のように濡れていた
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