赤くヒカル夜光虫

ろくろくろく

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本物の雪斗

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プレゼン本番の日がやって来た
現地調査までした中東にある小国の視察団は待ちに待ったクライアント(予定)日本での視察日程を終えた後の時間をキープしていた

日本人が相手のアポイントメントじゃない、気まぐれに早くなったり遅くなったり正確な時間は期待出来ず、不測の事態に対応できるよう丸一日ホテルの会議室を押さえ待機していた


「2時って14時の約束ですよね……」

「夜中じゃないことだけは確かだな」

時計は5時をとうに回ってじきに6時になる

「ご一行様はどこに行ったって?」

「秋葉原」


木下と松本は敷き詰められたフロアマットに直接坐り込み対戦アプリのゲームをしながら時計を見つめていた

「佐鳥さん大人しいですね」

二人が佐鳥の方を見ると瞑想しているように背筋を伸ばしたまま椅子に座り目を閉じて動かない

「この前みたいに突然抱きついて来たりしなければ何でもいいけどな」

佐鳥は黙って仕事をしていればしゅっとした出来る奴なのだが時々見せる抜けた行動が佐鳥と木下との不和の原因である

どこの社長だって自分の会社をちんけ呼ばわりされれば気を悪くするだろう



「ねえ……木下さん、佐鳥さん寝てませんか?」

「え?」

木下がよくよく佐鳥を見るとすうすうと静かな寝息を立てて……確かに寝てる、背筋が伸びたままなので気が付かなかった

「呑気な奴だな」

「起こした方がよくないですか?」

突然動き出さなければならないかもしれないこの状況に寝起きで頭が動いてないとマズい

ただでも約束の時間はとっくに過ぎているのだ

「佐鳥さん……」

松本がちょんと腕を触ると佐鳥はビクッと体を揺らして驚いたように目を開けた

「何呑気に寝てるんだよ」

「え?……あれ?………」


………確かに雪斗が隣にいた筈なのにいない………

現実と夢とごっちゃ混ぜになってすぐに返事ができなかった

キョロキョロ周りを見回すと松本が笑った

「そんなに深く眠ってたんですか?」

「いや……寝てないぞ」

「寝てたじゃないか」

木下と松本が声を揃えて苦笑した


まだ耳元にかかる寝息の感触が残っている、………眠っているつもりは無かったが雪斗の気配が頭から消えずどっちが夢かわからなくなった



海からの帰り、高速に入ると雪斗はすぐにうとうと首を揺らした、車に乗るとすぐ眠くなるのは小さな子供のようだ

会社の駐車場に着いてもパソコンを胸に抱いて平和な寝息を立てる雪斗を起こしたり出来きずに暫くの間寝顔を見ていた

雪斗の寝顔は起きている時より更にベビーフェイス……

寝息に揺れる髪にそっと触れるとバッと飛び起きた


「何で起こさないんだよ!」

「だって良く寝てたから………」

ちっと舌打ちしてドアから出て行こうとする腕を慌てて掴んだ

「どこに行くんだよ、何怒ってんの?」

「別に怒ってない」


怒りなんかより動揺の方が大きい
雪斗にとって熟睡は物凄く怖い事だった

ましてや車に乗って眠ってしまうなんてどこに連れていかれるかわからない

外を走っていた筈なのに見知らぬ屋内にいつの間にか連れ込まれ冷や汗が出た

「マンションに来るだろ?」

最近佐鳥の前ではうっかり眠ってしまうことがあり先に目を覚まされているなんて最悪な事が時たまある

この数年、そんな事は一度も無かった

自分の中で佐鳥の事を無害認定してしまったらしい




「…………何もしないと約束するなら行く」

「守る自信がない約束は……」
「じゃあな」


「するから!約束する!」

からかっているだけなのに必死なところが間抜けで笑える、本当に無害だなと思うが下半身は有害……マンションに着くと「何もしない」の定義について激論になった

「ちょっと触るくらいは「何もしない」に入らない」

「何もしないって言葉の通り触るの禁止」

「何を言ってる、入れなければ痴漢で入れたら強姦だ、大きく違うだろ、迷惑防止条令と刑法違反は違いすぎる」

「何の話だよ」

「何の話だっけ?」

「お前が振って来たんだろ」

雪斗は夜食に買った冷し中華の椎茸をチマチマと蓋に乗せて前に押しやり、残ってないかを厳重に確認してからやっと麺を吊り下げた


「ちょっと肩が当たっても駄目なのかよ?」

「そんな事言ってない………」

「手が当たる事もあれば口が偶然…………」

「お前なぁ!何なら手で抜いてやろうか?」

「止まれない自信がある」

「威張って言うな……」



散々議論を交わした後、結局その日雪斗はベッドで一緒に眠る事だけ承服した
しかも頭を反対に向けて………

耳に当たるこそばゆい感触に目を覚ますといつの間にか雪斗が同じ方向に向き直り耳元で寝息を立てていた

起こしてしまわないようにそっと頭を抱き寄せ、すうすう眠る健やかな音を一晩中聞いていた



「……今度は目を開けたまま眠ってますよ」

「無の境地だな」

木下と松本が笑った

「え?…………あ………」


自覚がなかったが暫く止まっていたらしい

雪斗雪斗雪斗と自分でも呆れる
もう、心から体まで雪斗塗れで肌から滲み出てポロポロ溢れ出ている

誤魔化しと気を引き締める為にそのまま三人で談笑していると、一行が帰ってきたら連絡をくれるようフロントに頼んでいた会議室の内線が鳴った


三人の視線が一つになりグッと頷き合った、2ヶ月かけ準備をして来た集大成はもう目の前、失敗は許されない

「俺と木下で迎えに行ってくるから松本はここでドアを開けて待っててくれ」

仕事モードに入った佐鳥はキビキビと指示を出し、頼りになるチームのリーダー役をきっちりこなす

木下もこの佐鳥には一目置いていた


今回のクライアントは海に面した国土のおかげで比較的豊かな国だが、他の中東諸国と同じく水がコーラよりも高い

開発が出来ず放置されている海岸線の断崖は海水を汲み上げる浄水施設の設置には最適だった、現地の写真に3D画像を乗せた施工予想図まで用意している


三人はそれぞれの役割をこなし一時間程で商品の紹介、メリットデメリットを丁寧に説明して価格や工期など具体的な話も出来ていい感触を得た

次の日のアポも取れた時点で取り敢えずはプレゼンが成功したと言える、後は契約書にサインさせればいいだけだ


会社に戻るまではそう思っていた………


三人揃って会社のエレベーターを降りると野島部長と緑川がドアの前で待っていた

口を開こうとした緑川を野島が抑えて頷き………

取り付けた筈のアポがキャンセルされたと告げられた


「え?!どうして?どうしてなんですか?」

「ちょっ………佐鳥!待てよ!俺が説明する」

野島部長に掴み掛かりそうになった所を緑川に押さえ付けられた
意味がわからない、つまり部長の告げた内容は契約に失敗したと言う事?

後は頼んだと緑川の肩を叩き、苦虫を噛み潰したような顔で笑った野島は社長室に入っていった


「どういう事だ……明日サインすると言質は取ったのに……何か失敗でも……」

「もう契約が済んだから会っても仕方がないだろうって言われたよ」

「契約が済んだ?」

「ああ……H電子と契約したらしい」

「そんな………」


日本の一部の有名企業は外国ではブランド化している

今回のクライアントは日本ツアーの日程がタイトな為、TOWA以外アポは取れていないはずだったがそのブランド名でTOWAの後に約束を押込みその場で契約を攫われてしまった

商品ではなく戦いようがないくらいのネームバリューに負けた


「社長は?」

「もう知ってる、今回は仕方がないよ、社長もわかってる」

「今回も……だ」

ははっと自嘲の笑いが込み上げた

「報告書は明日にして今日は飲みに行こう……付き合うから」


そうだな……そうするか、と木下が資料の入った鞄をデスクに投げ出した


「俺は……報告書を書くよ」

「佐鳥……今更急いだってしょうがないだろ打ち上げに行こう」

木下の誘いは有り難いが首を振った

どうせ社長は時間をくれたりしない、朝一番に報告書を要求し待ち構えているに決まってる、付け焼き刃で許してくれるとは思えない


「緑川…二人を頼む」

「佐鳥さんが行かないなら俺も行けません、報告書……俺も手伝います」

「やめろ……松本………」

机から椅子を引き出した松本を緑川が止めてくれた、一人になりたいと言わなくてもわかってくれるのは緑川だって何度も同じ思いを経験しているからだろう、木下もそれ以上誘って来なかった




「暁彦、メールするから連絡先して来い」

「ああ」


三人の乗ったエレベーターのドアが閉まった

パソコンに目を移すと…………画面にはシャットダウンした時に落としていなかったプレゼンの資料が画面一杯に開かれている


「くそっっ!!!」

今日の資料を投げつけるとバサッと画面から跳ね、クリップで止められていたコピーの束がバラけてデスク回りに広がって落ちていった

まだ残っている社員も多く遠巻きに見られていたが構わなかった、木下と松本には見せられないが後はどうでもいい

目についたコピーを丸めゴミ箱に投げ入れたが縁に当たって床に転がった、拾う代わりに思いっきり蹴飛ばすとプラスチックのゴミ箱はガランガランっと床を転がりパーテーションにぶつかって中身をぶち撒けた



「………佐鳥さん怖いね」

藤岡が水谷にこそっと話しかけると聞こえていたのだろう他の女子も寄ってきてコーヒーでも持っていく方がいいのかどうかの話になり……

穏やかな佐鳥がいいか
今日のような男っぽい佐鳥がいいか

はては緑川とどっちがいいかの大議論になった




きゃあきゃあ騒がしい声が佐鳥の耳にも届いて呑気そうに仕事をしている他の社員が羨ましく思えた

最前線にいたいがこんな日はのんびりお茶汲みでもしながら伝票の入力作業でもしたかった

やった事がないからそっちの苦労はわからないが……


ぽつりぽつりと人が引き始め、殆どの社員が帰ってしまいシンとする頃にやっと報告書が
纏まった

見回すとフロアがやけに広く感じる



携帯が不在着信を知らせる明かりをピカピカ光らせていたがリターンする気にはなれなかった

多分相手は緑川だろう、今は説教も元気付けも食らいたくない

時間を見ると十時を回っている
雪斗がどうしているか気になったがこれだけは後回しに出来ない仕事だった



いつものベンチに雪斗の姿はなかった

もしかしていつかのようにマンションの前で座り込んでいるかもしれない


走って道路に出ると繁華街へ向かう道路の交差点を渡る雑踏に、大きな鞄を肩から揺らしているよく知っている背中が見えた

「雪斗?!」

マンションとは反対方向に歩いていく


ダッシュして後を追った


長い信号にイライラしながら見失わないように目で追いかけて青に変わった途端人混みを押し退けて後ろ姿に追い付いた


「雪斗!」


「佐鳥……」


まるで隠れ潜んでいた所を見つかったようにギクッと肩をあげて雪斗が振り返った


「こんな時間からどこに…………いや、それはいい、飲みに行かないか?飯食ってないだろ?」

どこに行く気だったのか聞きたかったがどうせ言わない、それならこちらのペースに巻き込んだ方がいい

「行くとこがあるから、行かない」

「奢るから!」

佐鳥の独断で週末に余計な金を使わせてしまったのだ、今日は何がなんでも奢らせてもらう

「いらない」

「一杯だけ!な?」

「ちょっ……佐鳥……」

雪斗に反撃の機会を与える前に強引に引っ張って路地裏の大衆居酒屋に連れ込んだ

そこは建っているのが不思議なくらいボロい外観だがビールがジョッキ一杯250円で飲める、メニューも190円くらいから並んで安い

「何回も言うけどな、俺には遊びに使える金はないんだって」

「だから奢るって…やなことがあって聞いて欲しいんだよ、ビールでいいか?」

「知るか!」

店に入っても中々座ろうとしない雪斗を無視して勝手に注文をするとクソっと毒付き狭い席にドカリと腰を落とした

雪斗の「用事」は多分嘘だ、ここまで言っても払ってもらうのを嫌がってる

早い安いがこの店の売り、注文から間髪置かずに出て来たビールを手に握らせると渋々と受け取った

「もういいだろ、ほら乾杯しよ」

「うるさい、何だそれ」

差し出したジョッキを無視してチビッと舐めた雪斗の手元に一方的に当て一人で乾杯した




「だいたい世界に冠たる大企業の前で俺達みたいなのがどうやって戦えって言うんだよ」

「知らないよ、ライバル会社にハッキングでもしたら?」

「逆にされてるんじゃないかと疑ったわ」

せまい店舗は有り得ないくらい席と席の間が狭く、背中合わせの席に座る学生がうるさい、遠慮なく愚痴を言え今日一日の鬱憤を雪斗相手にぶち撒けた

「でかいくせに姑息でやり方が卑怯なんだよ」

「でかいくせに馬鹿でやり方が稚拙……それ自分の事じゃん」

「え?………俺そんなに駄目?…」

「は?」

「ヤリ方………」

ガンッと結構な勢いでテーブルに置いた手に握り箸が振り下ろされた

「あっぶねぇ!今の避けなきゃ本当に刺さってたぞ」

「惜しかったな」

小悪魔っぽくにっこり笑った雪斗は握り箸のまま唐揚げを突き刺して口に運んだ

雪斗のジョッキは珍しく殆ど中身がない

飲ませたらちょっとは柔らかくなるかもしれないと、変な期待と妄想でおかわりを注文した

鳥の唐揚げにゲソの醤油焼き 、しし唐、 揚げ出し豆腐………ビールを入れてもおそらくまだ二千円行ってない



「どんなに頑張っても結果がすべてなんだ」

「お前が頑張るってしれてるだろ、馬鹿だし走ってもオセロしても弱いじゃん」

「馬鹿言うな雪斗が俺の働いてる姿を見ると惚れ直すぞ」

「元より惚れてない」

「じゃあ今から惚れろ」

「それこそ馬鹿言うな」


最後に残った唐揚げを口に運ぼうとすると雪斗が摘んだ箸から叩き落とし自分の口に運んだ


「………それにしても……情けない………」

がっかりしたメンバーの顔が浮かぶ、何よりも木下と松本の評価が下がったりしないか心配だった

「…………見てる奴は見てるさ」

「ははっ………何だよ急に……」

「お前さ……俺なんかじゃなくてもっとまともな奴に話せよ、そんな話………」

「………雪斗がいいんだよ………」

馬鹿、馬鹿と枕詞のように馬鹿が付いていたが、言っても仕方がないつまらない愚痴に雪斗は延々と付き合ってくれた


笑い合いながら二人で調子良く飲み食いして、酒が回る頃気が付けば一人で喋り続けていた、企画立案から掛かった経費をどう回収するか……

その時は黙って聞いてくれているとばかり思っていた



後の席でわあっと歓声が上がった
大きな笑い声で一瞬何も聞こなくなり話が途中でかき消えた

ケタケタ笑い転げて人に当たるのも構わずアクションが大きい、笑いながら仰け反った背中が雪斗にドンっと当たり手に持ったビールジョッキの中身がタプンっと揺れた


「雪斗?」

何の前触れもなくが急にぬっと立ち上がった雪斗は手に持ったビールジョッキを……

後の客の頭でひっくり返した

「雪斗っっ?!」

ガチャン!っとテーブルの真ん中に空になったジョッキを投げ込み、テーブルをひっくり返したような食器の破壊音に店中が何事かと動きを止めた

溢れたビールがテーブルからポタポタと垂れ落ち古くなった畳にシミを作っていく、学生達は何が起こったのか把握出来ずに呆然としていた


「狭いんだからもっと周りに注意を払え」

雪斗はビールで濡れた男の胸ぐらを掴み上げて低い声で言ったかと思うと、ぽいっと投げ捨ててそのまま出口に向かってしまった


顔色は全く変わってないが気のせいか目が座ってる


「雪斗!!」

我に返ってザワザワし始めた学生達に一斉に見られても………こっちだってビックリしてる

飲ませ過ぎたらしい、雪斗に酒乱のケがあるとは思わなかった

「ごめん、酔ってるんだよ」

不穏な空気になる前にさっさと席を立って雪斗を追った





新崎卓也は面白味の無いいつものメンバーといつのも場所でぶらついていた

二浪しても志望校には合格出来ず、仕方なしに入った名前も知られていない新設の大学はつまらない授業同様に友達もつまらない奴ばっかりだった

親は年間100万以上かかるのだから真面目にやれと言うがどうせ親の金だ、どうでもいい


つるんでいる弘人と淳も同じようなもので、似た者同士が集まっても面白い事は何もなく、する事もない

「腹へったな、そこの安い居酒屋で何か食っていこう」

「安いだけが取り柄だな、ああ~焼き肉が食いてぇ」

「ハハッ金持って来いよ」

卓也がボロい扉を開けると丁度タイミングよく飛び出してきた若い男に肩がぶつかった


反動でバサリと落ちた数枚重なった札束は重そうな音を立て、少なくとも十万以上はあるように見える

そいつは怠そうに体を折って金を拾い、そのままポケットに突っ込んでフラフラと酔った足取りで店を出ていった


卓也は連れの二人に目で合図して居酒屋の扉を閉めた





飲み食いした品目が一つ一つ手動でレジに打ち込まれていく、アルバイト店員は慣れてないのかやたら遅い

雪斗は酔っ払っていても奢らせてはくれず伝票無しでレジカウンターに一万円札を投げ出していた

「早くしてください」

「今計算しますから待ってください」

お釣りなんか構うんじゃなかった、雪斗に上手いこと言って後で一万円そのまま返せばよかったんだ、モタモタしている間に雪斗の後を追えば………

あんな事にはならなかった………





「お兄ちゃんお金「貸して」くれよ」

理想的なカモを逃げられないよう三人で囲み、人気のない路地にあるビルとビルの間の暗い隙間に押し込んだ


「何もお兄ちゃんが持ってる金を全部くれなんて言ってない、絶対"返す"からさ」

「卓也、一人一万ずつで許してやれよ」

弘人と淳も出口をふさいでニヤニヤしていた、場所とタイミングは熟知している


「俺達ちょっと手持ちが足りないんだよ、「友達」だろ?」

お遊びの範疇だ、将来に関わる犯罪を犯す気は毛頭ない、相手の体には決して触れないように気をつけながらあくまでもお願いしているのだ

「友達」に………


卓也を見上げるカモの顔は虚勢を張っているのか酔ってよく分かっていないのか、何の表情も浮かべていなかった

だが大概これで落ちる

「貸せってお願いしてるんだよ!!」

顔の横にバンッと手を叩きつけて耳元で凄んだ


「っっっ!!!」


何が起こったのかわからなかった

トンッと足に何かが当たった思ったら太腿に激痛が走った

「うあ?!!あぁぁっっ!!」


「卓也?!!」
 

突然叫び声を上げた卓也になまっ白い男が何かしたようには見えなかった、抵抗するどころか声も挙げずに腕はダランと垂らしたままだ

体を折った卓也の腕をヒョイとくぐり細い体がユラリと向き直った



「おい?………卓也?」

卓也はそのままゴミが散らかった地面に崩れ落ち呻いている

そいつは雑踏をかけ分けるような仕草で何事もなかったように隙間を塞いでいた体を押しのけて道路に出ようとした

「おい!待てよ!お前何をした!」

細い肩を掴むと振り返ったその顔は何の表情もない

ドンと弘人の太腿に腕が当たったかと思うとペンチで肉を摘まれネジを回したように捻られた

「ああっ!!うわ!うわあ!」

「おい……な………あっ!」

チラリと目を向けられ淳は慌てて出口を塞いでいた体を避けた

目が合ったのはそれが初めてだった

卓也と弘人の足からはみるみるうちに赤黒いシミが広がって抑えた手の間から血が溢れポタポタと落ちていく


何が何だか分からない

細っこい弱そうな男は一人で……しかも酔っていた
いつもなら絶好のカモだった筈………

何のリアクションもなしにいきなり何かで反撃された

呻きながら足を押さえて蹲《うずくま》る二人と、店を出た時と変わらない足取りで歩いていく後ろ姿を見比べて顔から血の気が引いていくのがわかった




お釣りは7480円

雪斗にとっても自分にとっても安くはないがのんびり釣り銭を数えている場合じゃなかった

お金を受け取り店を飛び出たが雪斗の姿はもうどこにも見えない


「ちくしょう………どっちだ……」

右に行ったのか左に言ったのか酔ってフラフラしていた背中をキョロキョロ探していると暗い路地の奥から言い争うような声が聞こえてきた


「…………雪斗?」

雪斗の声じゃないが……嫌な予感に見に行こうとすると、悶絶するような叫び声がして………

…………雪斗がぶらっとビルの間から出てきた



「どうしたんだよ……何が………」

雪斗は目を合わせようとはせず、目の前にポイッと何かを放り投げた

アスファルトに跳ねてにコロンと転がっていったのは、いつか雪斗のポケットに入っていたプラスチックで出来た黄色い輪っかだった

………血に染まっている

雪斗の手もポタッと地面に落ちるほど血に濡れていた


「け………怪我をしたのか?雪………」

違う………雪斗の血じゃない………何となく分かって言葉に詰まった
何も言わない雪斗の目はゾッとする程冷たい……

どうしたんだと聞きたかったが言葉が出てこなかった

ふいッと顔を逸らせ背中を向けた雪斗は無言のまま道路に出ていった



雪斗の後を追えなかった

投げ捨てられた黄色い輪っかを拾ってよく見ると内側で小さなトリガーが立ち上がり、握るとカッターナイフの刃に似た小さな鋭器が頭を上げる


そう言えば初めてマンションに来た日、雪斗の右手はずっとポケットに差し入れられていた


これを握り締めて状況を伺っていたのだろう




やらなければやられる世界


雪斗のいる街は平和な顔を見せるいつもの街とは全く違う


わかっているつもりだったがわかっていなかった
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